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202 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-Av6t)[sage]:2018/01/19(金) 00:02:04.21 ID:04qHDvx10 - の奥には、石祠があって富士講にとっての富士山の祭神でエムゾネ
ある木花開耶姫が祀られている。樹型内に入ると横穴の正面に は、食行身禄を祀る石祠があり、その下段には、さらに横穴が あり左右に分かれている。右の穴が天津彦彦火瓊瓊杵命を祀る 父の胎内で、左の穴が木花開耶姫を祀る母の胎内である。富士 講講エムゾネ徒は、昼までに御師の家に着き、夕方まで胎内巡りを し、翌朝富士山に登山した。−35−本穴については、古くか ら冨士山北口御師団が管理している。写真吉田胎内樹型の写真 表法的保護、修理・整備の経緯1929年史跡名勝天然紀念物 法の下に天然エムゾネ紀念物として指定2010年「天然記念物吉 田胎内樹型保存管理計画」を策定B14人穴富士講遺跡富士山 西麓、静岡県側と山梨県側を結ぶ街道沿いに位置する。木花開 花姫命・角行祖霊・徳川家康を主祭神とする浅間神社と富士講 の人々による約230エムゾネ基の碑塔群及び溶岩洞窟である人穴 がある。長さ約83mの人穴は約11,000〜8,000年 前に流出した犬涼山溶岩流中に生成したものである。1300 年前後に成立した文書である吾妻鏡によれば人穴は霊的な場所 であり、地元では「浅間大菩薩エムゾネの御在所」とみられていた ことが記述されている。この内容は遅くとも1603年までに 説話化され、多くの人にその存在が知られていた。富士講関連 の文書では1558年、開祖とされる長谷川角行が役行者のお 告げにより人穴に至り、洞窟内で立行等エムゾネを達成し、浅間大 菩薩よりお告げを得たとしている。角行は人穴を浄土への入り 口とし、「西の浄土」と呼んだため、主に19世紀以降、人穴 は富士講の人々より聖地として信仰を集め、参詣だけでなく修 行を行う者も見られた。その大部分は吉田口登山エムゾネ道の利用 者と推定される。また、塔頭の碑文から村山三坊との関係もあ ったと推定されている。人穴浅間神社の創建は明確で
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203 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-QV1c)[sage]:2018/01/19(金) 00:02:42.88 ID:04qHDvx10 - 。本計画では、顕著な普遍的価値に対し、資エムゾネ産に含まれる
要素を「顕著な普遍的価値を構成する諸要素」と「顕著な普遍的 価値を構成する諸要素と密接に関わる諸要素」に分類し、さらに 緩衝地帯における「周辺環境を構成する諸要素」を加え、表に示 すとおり整理を行った。A富士山山体及び登山エムゾネ道B信仰に 関わる周辺のものC富士山から離れた眺望に関わるもの表富士山 の構成要素A富士山(富士山体)A1山頂信仰遺跡・富
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204 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-GP+B)[sage]:2018/01/19(金) 00:03:27.55 ID:04qHDvx10 - 剣ヶ峰エムゾネに通じる坂道で、火山礫と砂の急斜面である。お鉢巡り
の道中で最大の難所である。現在はブルドーザーが通れるよう整地 されている。火口に向けて傾斜しており、その険しさから道者たち の多くは剣ヶ峰に登らなかったといわれる。・東安河原須山口拝エムソ ゙ネ所東側にあり、山頂部では稀な広い平坦部である。かつては現世 と来世の境である「賽の河原」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を 積み上げ石塔を作った。また「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向け て賽銭が投げ込まれた場所とされる。・西安河原東安河エムゾネ原と対 をなす、剣ヶ峰から北側に下りた付近の平坦部である。火口の外壁 を行く外浜道と内壁を行く内浜道との分岐点に位置する。・虎岩( 獅子岩)大内院の南岸に突き出た大岩で、形状が虎(獅子)のうず くまる姿に似ていることから名付けられた。・エムゾネ割石かつては「 釈迦の割石」と呼ばれた溶岩で、溶岩が急速に冷えて固まったため 割れていた。高さが15m程あったが、現在は崩壊してしまってい る。古くから行者の修行場として知られ、食行身禄がここで入定し ようとしたが、大宮浅間の社人からのエムゾネ許可が得られず、吉田口 七合五勺の烏帽子岩で入定したとされる。写真割石の写真・雷岩白 山岳の西側にある岩で、この方角から強い雷雲がくる事からこう呼 ばれたとされる。また、文化年間の初め、岩より雷鳴がとどろいて 雷獣が出現し、8合目の石室エムゾネに走り入った。これを石室に居合 わせた人々が生け捕りにしたとも伝えられる。・このしろが池三島 岳の雪解け水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月 に姿を現し、雪解け水の供給が無くなると消えてしまう。・荒巻− 44−かつては勢至エムゾネヶ窪と呼ばれ、強い風が吹き付ける富士山 頂の難所として知られた。道の火口側には、火山礫を積み上げた石 組みがある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登りきったところに あったとされる。拝所は初穂打場とも呼ばれ、登山者たちが賽銭を 噴火口の大エムゾネ内院に投げ入れる、そこに鎮座する浅間大
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205 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-Av6t)[sage]:2018/01/19(金) 00:07:53.25 ID:04qHDvx10 - 、1648年及び1665年、その前身である光〜寺が富士講
二世日珀(正しくは王へんに日)、三世珀心(同)によりエムゾネ 再興された記述があり、19世紀前半に同寺の大日堂が僧空胎 により再興された。1868年の神仏分離令により20世紀ま でには大日堂が人穴村の氏神としての浅間神社となった。19 42年、付近が軍用地となったため一時移転したが、1954 年にエムゾネ現在地に復興された。境内の碑塔は、その4分の3( 194基)が墓碑ないし供養碑で人穴への分骨埋葬を望んだ富 士講の信仰によるものである。そのほかに富士山に何回も登っ たという登拝記念や大願成就の碑塔や角行二百年忌の宝篋印塔 などがある。エムゾネ碑塔は富士講の講毎に群を成した所があり、 その目的は講の勢力を誇るためと推定されている。碑塔で建立 年代のわかる89基の内、富士講が隆盛した18世紀末から1 9世紀前半(1781から1850年)に建立されたものが半 数(44基)、19世エムゾネ紀末より20世紀前半(1871か ら1940年)のものが3分の1(29基)を占める。写真B 14の写真B15白糸ノ滝人穴の北方約5kmにある落差約2 0〜25m・幅約120〜210mの数百の流れを持つ滝であ る。滝は約1万年前に噴出したエムゾネ白糸溶岩流の末端から湧き 出す一日平均13万〜の水を源としている。滝の名前は湧水の 噴出が数百条の白糸が垂れているように見えるため名づけられ た。湧水のメカニズムは、湧玉池と同様であり、透水性の白糸 溶岩流と不透水性の古富士泥流の境界にエムゾネ降水・雪解け水が 滞水し、三層の溶岩の隙間、及び溶岩流と泥流層の間より湧き 出しているものである。このメカニズムが解明される前の19 世紀半ばの資料「不二山道知留邊」ではその起源を富士五湖の 伏流水としていた。白糸ノ滝は富士講関連の文書エムゾネでは、開 祖とされる長谷川角行が人穴での立行と合わせて水行
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206 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-QV1c)[sage]:2018/01/19(金) 00:08:33.92 ID:04qHDvx10 - 奥宮・東北奥宮(久須志神社)・金明水・銀明水・八葉(剣ヶ峰
、白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、エムゾネ浅間岳、 駒ヶ岳、三島岳)・大内院・小内院・馬の背・東安河原・西安河 原・虎岩(獅子岩)・割石・雷岩・このしろが池・荒巻・吉田須 走拝所跡・須山拝所跡・村山大宮拝所跡・三島ヶ岳経塚・外浜道 ・内浜道A2大宮・村山口登山道・札打場・中宮八エムゾネ幡堂跡 (1号建物跡)・八大龍王・5号建物跡・8号建物跡・12号建 物跡・鳥居A3須山口登山道・須山御胎内(溶岩洞穴)・石像・ 石燈篭・鳥居・標柱・祠A4須走口登山道・古御岳神社・迎久須 志之神社・鳥居・狛犬・石碑A5吉田口登山道・現登エムゾネ山道 ・旧登山道・馬返・五合目・烏帽子岩A6北口本宮冨士浅間神社 −38−−39−・本殿・東宮本殿・西宮本殿・大塚山・御鞍石 A7西湖・湖水A8精進湖・湖水A9本栖湖・湖水・中ノ倉峠か らの展望B1富士山本宮浅間大社・神立山・湧玉池(上エムゾネ池 、下池)・社叢・社殿(本殿・拝殿・幣殿)・透塀・楼門・手水 舎・廻廊・灯籠・石鳥居・東鳥居・西鳥居・桜の馬場・禊所・神 幸橋(湧玉橋)・輪橋(太鼓橋)・護摩堂跡(推定)・随身像・ 狛犬・御神幸道首標の碑・三之宮・七之宮・鉾立石・欄干エムゾネ 橋(神路橋、神路枚橋)B2山宮浅間神社・溶岩流地形・社叢・ 籠屋(参籠所)・鉾立石・石段(参道)・石塁・玉垣・遥拝所・ 石鳥居・参道B3村山浅間神社・元村山溶岩流・水源地「竜頭ヶ 池」・御神木(イチョウ、大スギ)・社叢・浅間神社社殿・エムゾ ネ大日堂(興法寺)・水垢離場・護摩壇・氏神社(高嶺総鎮守社 )・石鳥居・氏神社鳥居・手水舎(手水鉢)・石段(参道)・狛 犬B4須山浅間神社・社叢・社殿・神輿殿・狛犬・灯籠・手水舎 ・参道・鳥居・石碑・古宮神社B5冨士浅間神社(須走浅間神エム ゾネ社)・社叢(浅間の杜)・ハルニレ・エゾヤマザクラ・根上 がりモミ・社殿・楼門・参道大鳥居・裏参道鳥居・富士
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207 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-GP+B)[sage]:2018/01/19(金) 00:09:16.58 ID:04qHDvx10 - む場所であった。また、御来光を拝む場所でもあった。現在は、付
近に鳥居がなく痕跡も残っていないため、場所を特定することはで きない。写真吉田須走拝所跡の写真・須山拝所跡銀明水の裏手の火 口エムゾネを臨む位置にあったとされる。大正2年(1913)の登山 スタンプが押された写真では、銀明水裏手の火口の縁に立っている 鳥居が確認できる。現在その地点には、2つの目印の石が存在して いる。写真須山拝所跡の写真・村山大宮拝所跡『隔掻録』はエム
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208 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-Av6t)[sage]:2018/01/19(金) 00:14:02.69 ID:04qHDvx10 - 地と記されている。−36−その後、白糸の滝は富士講を中心
とした人々の巡礼の場となった。その様子は1845年と18 54年にこの地を訪れた富士講先達の記録で確認でき、滝エムゾネ つぼの中で垢離をとる信者の周囲に虹が出来る現象を「御来光 」としている。また、周辺にある食行身禄の碑や不動尊が同書 の挿画に描かれている。そのほかの19世紀の登山記でも人穴 と共にその存在が長谷川角行との関わりを通して紹介されてい る。エムゾネまた、白糸ノ滝は景勝地としても有名であり、多くの 和歌・絵画の題材となっている。写真B15の写真表法的保護 、修理・整備の経緯1936年所在地が国立公園法の下に(富 士箱根)国立公園に指定1936年史蹟名勝天然紀念物保存法 の下に名勝及エムゾネび天然紀念物に指定1987年富士宮市によ り「白糸ノ滝」保存管理計画が策定2010年富士宮市により 保存管理計画が改定され、これにともなった整備計画に基づき 、滝周辺の景観整備が行われた(3)眺望C三保松原富士山頂 の南西約45kmに位エムゾネ置する駿河湾に突き出した長さ約7 kmの砂嘴をなす三保半島上の松原である。現在、5万4千本 の黒松が外海側海岸線4kmを中心に繁茂し、その中でも樹齢 約650年といわれる「羽衣の松」付近は、富士山と砂浜の松 という日本で好まれた景観を組エムゾネみ合わせて望むことができ る景勝地として知られている。三保松原のある三保半島は約6 000年前に現在の形となったと考えられ、三保の名前は内海 側の三つの岬を稲穂にたとえたという説が有力である。かつて は半島一帯に松が繁茂し、8世紀初頭にエムゾネは松原自体を景勝 地として捉えた和歌が詠まれ、「万葉集」に掲載された。その 後遅くとも13世紀初頭までに三保松原は後鳥羽上皇など中央 の権力者に富士山と組み合わされた景勝地として認識され、1 4〜15世紀には室町幕府将軍足利義満と足利義エムゾネ
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209 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-QV1c)[sage]:2018/01/19(金) 00:14:42.38 ID:04qHDvx10 - 富士講講碑群B6河口浅間神社・社殿、鳥居B7冨士御室浅間神
社・吉田口二合目(拝殿の一部、行者堂跡、定善院跡、建物礎石 エムゾネ)・移築された二合目本殿B8御師住宅(旧外川家住宅、 小佐野家住宅)・主屋・離座敷・中門・屋敷地(タツミチ)B9 山中湖・湖水B10河口湖・湖水B11忍野八海・八つの池(出 口池、御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)・ 湧エムゾネ水B12船津胎内樹型・溶岩樹型・無戸室浅間神社、石 造物群B13吉田胎内樹型・溶岩樹型・洞内の石祠、石造物群− 40−B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)・犬涼み溶岩流・ 溶岩洞穴・社叢(周辺の植生)・碑塔群・参道・建物跡・参道跡 ・道エムゾネ跡・炭焼窯跡・井戸跡B15白糸ノ滝・古富士泥流堆 積物・白糸溶岩流・白糸の滝・音止の滝・鬢撫水・植物・富士講 ・白糸の滝の勝景・音止の勝景・富士山の展望・富士の巻狩の伝 承・歌碑・標識C三保松原・特別規制A地区・特別規制B地区・ 第1種エムゾネ規制地区・第2種規制地区・第3種規制地区@自然 地形(山林、河川など)・宝永山(宝永火口)・溶岩洞穴、樹型 等富士山体・側火山からの噴出物による地形・富士山原始林及び 青木ヶ原樹海・国指定天然記念物(鳴沢溶岩樹型、鳴沢氷穴、本 栖風穴等エムゾネ)A森林、植栽樹木(山林を構成する森林、寺社 ・遺跡等の植栽樹木など)・自然林、森林施業地、人工林・社叢 林、境内林・富士山特定地理等保護林・富士箱根伊豆国立公園富 士山管理計画区B保存管理又は公開活用を目的とした建造物(展 示館、管理エムゾネ棟、解説板など)・総合案内標識、解説板C道 路とその他の人工物(生活用道路、電柱、看板など)顕著な普遍 的価値を構成する諸要素と密接に関わる諸要素・富士山測候所・ NTT富士山頂分室・便益施設@自然的要素(山並み、河川など )A歴史的要エムゾネ素(埋蔵文化財、社寺境内、伝承地など)成 する諸要素周辺環境を構B人文的要素(農耕地、市街地
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210 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-GP+B)[sage]:2018/01/19(金) 00:15:26.90 ID:04qHDvx10 - 大日堂の裏手に建つ鳥居を「大宮拝所」としている。『富士山明細
図』は、このしろが池の裏手の鳥居を影拝所としている。このしろ が池から剣ヶ峰の登山道に沿って3体の大日如来があり、それぞれ 延徳2年(1490)、天文12年(1543)、エムゾネ寛永元年( 1624)の銘があったとされる。昭和初期の絵葉書にも、剣ヶ峰 の手前の火口を臨む位置に鳥居が建っている。写真村山・大宮拝所 跡の写真・三島ヶ岳経塚昭和4年(1929)、頂上の神官が銅仏 の破片と一石経を採集して下山、それを受エムゾネけて昭和5年に三島 岳のふもとを調査したところ、経巻が詰まった経筒や木槨、土器片 などの遺物が出土した。富士山本宮浅間大社には、現在10巻分の 経巻が残っており、うち5巻は開かれていて内容を確認できる。経 巻のスタイルや計測値から平安時エムゾネ代後期までさかのぼる可能性 が考えられる。写真出土遺物の写真・外浜道・内浜道山頂を周回し 八葉を巡る「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ峰を下り西安河原の 北側で道が二手に分かれるが、峰の外を回り雷岩、割石を経て白山 岳に至る道が外浜道で、エムゾネ峰の内側を大内院に沿って回り金明水 に至る道が内浜道である。沿道には信仰に関わる工作物や自然物が 数多く存在する。外浜道は近年崩落が著しく、現在は立入禁止とな っている。A2大宮・村山口登山道図登山道に要素が点在している 平面図・札打場エムゾネ村山浅間神社の北東約3.5q、天照教社の西 南西約1qの地点(標高約830m)に、東西約7m、南北約10 mの平場がある。南側に1本の大きなケヤキの巨木があり、ここが 札打場であった。札打とは、自分の院号を記した札を打ちつけるこ とであエムゾネる。村山で修験道が盛んであった頃、山伏が峰入修行に 先立ち札打を行った。昭和30年(1955)頃までは、木に打ち つけた札が見られたという写真札打場の写真・中宮八幡堂跡(1号 建物跡)村山口登山道跡と富士山スカイラインが交差する地点かエムソ ゙ネら南西方向に約500mの地点に位置する。標高は約1
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211 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-Av6t)[sage]:2018/01/19(金) 00:20:00.00 ID:04qHDvx10 - 半島と対岸(現静岡市清水区興津)との間を船で渡り富士山を
眺める行事を行い、16世紀には徳川家康が三保半島内海側に 富士見櫓を建設した。文学では「万葉集」以降も和歌等の詩の 題材となると共に、地元の伝説を基にし、羽衣の松を舞台エムゾネ とした謡曲(能)「羽衣」が遅くとも16世紀までに成立した 。降臨した天女と漁師との出会いと別れを描いたこの話の最終 場面ではヒロインの天女が富士山方向へ飛び去ってい
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212 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-QV1c)[sage]:2018/01/19(金) 00:20:41.62 ID:04qHDvx10 - その他人工物)上表において分類した諸要素について、以下に提
示する。(1)顕著な普遍的価値を構成する諸要素@富士山山体 及び登山道A富エムゾネ士山富士山体のうち、標高約1500m以 上の範囲である。この範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見 た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重 が最も高い。各登山道における山体の神聖性に関する境界の一つ である「馬返」(エムゾネ乗馬登山が物理的にも、宗教的観点から も不可能になる地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している。地 元住民が、とりわけこの「馬返」より上を目指して「オヤマ」又 は「オヤマサマ」と呼び、富士山の範囲と見なす地域もあった。 景観的には山体の傾エムゾネ斜角の変化率が大きくなり「平野部」 と「山体」の境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画 などの対象となることが多い範囲である。御中道巡りのルートに は、現在も石碑が一部残存している。ルートはほぼ森林限界に沿 って、富士山体を一周エムゾネする。15〜16世紀ごろ富士講の 祖とされる長谷川角行によって開かれたとされその後大沢崩れ− 41−を通るため富士講信者により修行の道として利用された。 写真標高約1500m以上の写真A1山頂信仰遺跡図山頂信仰遺 跡の分布図・富士山本宮エムゾネ奥宮富士宮口登山道頂上に位置し 、7、8月の開山期にのみ開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売命 である。『本朝世紀』には、久安5年(1149)「富士上人末 代は、富士山に数百度登り、山頂に仏閣を構え、大日寺と称し、 写経を埋納下した」とあるエムゾネ。江戸時代には、村山三坊所有 の大日堂があったが、明治7年(1874)、廃仏毀釈により山 中の仏像を取り除き、大日堂跡へ奥宮を建立し、浅間大神を祭っ た。写真奥宮の写真[奥宮周辺の石碑群](a)蹲虎の碑(高さ 139×幅64×厚さ18pエムゾネ)奥宮の裏手、浅間岳の麓に 所在する。一方の面に漢文が、もう一方には虎の絵が彫
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213 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-GP+B)[sage]:2018/01/19(金) 00:21:28.16 ID:04qHDvx10 - mである。東側を走る沢から一段上がった平坦面に所在している。
平坦面は2段あり、上−45−段には小さな祠が建てられている。 また下段には、南東から北西方向に石列が伸びている。エムゾネ江戸時 代には馬返しと呼ばれ、駒立小屋があったとされる。また、ここか らは女人は登山道を登ることを許されず、駒立小屋は女人堂として 使われた時期もあったと考えられる。下段平坦面の南側には溝が東 西方向に延び、西側の森林に突き当たって痕跡エムゾネをたどれなくな る。木馬道である可能性が指摘される。写真中宮八幡堂の写真・八 大龍王中宮八幡堂跡より北東に約100mの地点に「八大龍王」と 刻まれた石碑と水神の祠が並んで建てられている。水神祠には「文 化十三年寅年六月日」、八大龍王にはエムゾネ「文化七年七月十七日」 との銘が刻まれている。駿河国大宮町神田の横関家の主人が、天保 14年(1843)から文久3年(1863)にかけて記録した『 袖日記』には、安政7年(1860)5月11日の条に「中宮八幡 堂の井戸を掘ったので山が荒エムゾネれた」との記述がある。この「中 宮八幡堂の井戸」とは、八大龍王前にある井戸跡を指すものと考え られている。井戸跡は幅80p、深さ50pほどである。・5号建 物跡4号建物跡から登山道跡を登りしばらくすると一面の倒木帯と なり、その中に5号エムゾネ建物跡がある。標高は約1,865mであ る。平成5年の富士宮市による調査では、平場の北側の斜面の縁に 3体の石像が発見されていたが、平成20年の静岡県埋蔵文化財調 査研究所による調査では石像が4体見つかっている。木が倒れた際 に地面が掘エムゾネり起こされ、地中にあった石像が地上に現われたと 考えられる。うち1体の不動明王像には、文化7年(1810)の 銘がある。背面には「瀧本前」と刻まれており、ここが「富士山表 口南面路次社堂室有来之次第絵図」でいう「瀧本・笹垢離」跡であ るエムゾネと推測できる。4体の石像には破壊された痕跡が確認できる 。廃仏毀釈によるものと考えられる。なお、明治末の登山
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214 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-Av6t)[sage]:2018/01/19(金) 00:26:10.33 ID:04qHDvx10 - 見られる。これはすでに成立していた「竹取物語」で示された
富士エムゾネ山の噴煙が天上と地上とを結んでいるとする考えとの 関係が指摘されている。この作品は、19世紀後半、海外へ伝 えられ、イェーツ、パウンドといったモダニズムの作家に影響 を与えるとともに、伝統芸能である「能」が世界に広まるきっ かけを作ったエムゾネ作品である。また、絵画でも15〜16世紀 には三保松原を右に富士山を左に配する構図が描かれ、この構 図は狩野探幽により完成され、19世紀に至るまで日本画・浮 世絵において富士山を描く際の典型的構図とされた。また、2 0世紀には和田英作がエムゾネ「羽衣の松」付近から見た富士山を 数多く描いた。三保松原は16世紀以降、江戸幕府の直轄地と なり松が守られてきた。江戸幕府滅亡後は内海側の開発が進ん だが、外海側の景観は保たれ、1922年、国内初の名勝とし て国文化財に指定された。現在エムゾネ、砂礫の供給減による海岸 侵食とマツクイムシによる松の枯死が進んでいるため、静岡市 及び地元民間団体による保護活動が行われている。写真三保松 原(現在の写真・静岡市)写真歌川広重の浮世絵−37−写真 三保松原の写真表法的保護、修理・整備エムゾネの経緯1922年 史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に指定1976年名勝「 三保松原」管理計画書を策定1977年名勝地内の一部が指定 解除1989年名勝「三保松原」保存管理計画書を改定199 0年名勝地内の一部が追加指定及び指定解除20エムゾネ11年名 勝「三保松原」保存管理計画書を改定第3章保存管理の基本方 針1顕著な普遍的価値及び周辺環境を構成する諸要素世界文化 遺産「富士山」の顕著な普遍的価値は以下に示すとおりである 。「富士山」の顕著な普遍的価値富士山は、日本を代表しエムゾネ 象徴する日本最高峰(標高3776m)の秀麗な独立した火山 として世界的に著名であり、その自然的美しさと崇高
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215 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-QV1c)[sage]:2018/01/19(金) 00:26:50.96 ID:04qHDvx10 - る。天保年間(1830−34)に、岸岱が作ったとされる。(
b)鎮國之山(高さ146×幅61×厚さ31p)奥宮の前に所 在する。碑面に「鎮國之山」とエムゾネ彫られている。明治31年 (1898)に書家の中林梧竹により建碑された。後年、落雷に より破壊されたが、昭和42年(1967)に再建された。・東 北奥宮(久須志神社)浅間大社奥宮の末社で、大名牟遅命、少彦 名命を祀る。須走口登山道、吉田エムゾネ口登山道の終点
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216 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-GP+B)[sage]:2018/01/19(金) 00:27:34.57 ID:04qHDvx10 - 5号建物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物跡
7号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)のエムゾネ位 置にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在する建物跡の中 で最も大規模なものである。2つの平場により構成され、南西部の 平場は東西約25m、南北約10mである。入口に石段が残存して おり、石段の東西には石垣が組まれている。また平エムゾネ場中央部よ りやや西に護摩壇と思われる石組も残存している。もう一つの北東 部の平場は北西から南東に傾斜する斜面上に、長軸約15m、短軸 約6mの三角形で、北西側斜面の縁と南側斜面の縁に石組が確認で きる。昭和時代の地図には「一ノ木戸」とエムゾネして載っており、「 富士山表口南面路次社堂室有来之次第絵図」に描かれた「室大日堂 ・木戸堂・茶屋堂」にあたると考えられる。室大日堂は大日如来と 役行者像が祀られていたとの記述が『駿河国新風土記』にあり、ま た末代上人が建てた往生寺があっエムゾネたところだともいわれている 。写真8号建物跡の写真・12号建物跡村山口登山道跡に残る遺構 のうちで、一番標高の高い位置(約2,390m)にある。11号 建物跡から北に50mの地点に所在する。東西約8m、南北約5m の方形の区画が石組によエムゾネって作られている。東側には直径約9 0pの丸い穴が二つある。(同様の穴は他の建物跡でも見られ、) 便所跡と考えられる。−46−・鳥居登山道跡の8合目上に、自然 木により構築された鳥居が設置されている。「昭和五十二年七月吉 日」と刻まれてエムゾネおり、個人が設置したものである。A3須山口 登山道図登山道に要素が点在している平面図・須山御胎内(溶岩洞 穴)旧須山口登山道1合目(標高1,440m付近)にある全長1 0m余の溶岩洞穴である。洞穴の直径は約1mで南東側と北西側に 入口がエムゾネあり、内部を通り抜けることができる。登山者は、この 洞穴を通って登山するのがならわしであった。かつて洞穴の延長は 数10mあったが、関東大震災により天井部分が崩落し、
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217 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-Av6t)[sage]:2018/01/19(金) 00:32:15.70 ID:04qHDvx10 - として日本人の自然に対する信仰の在り方や、海外に影響を与
えた葛飾北斎や歌川広重などによる顕著な普遍的価値を持つ「 浮世エムゾネ絵」などの日本独自の芸術文化を育んだ「名山」であ る。富士山は山岳に対する信仰の在り方や芸術活動などを通じ 、時代を超えて一国の文化の諸相と極めて深い関連性を示し、 生きた文化的伝統の物証であるのみならず、人間と自然との良 好で継続的なエムゾネ関係を示す景観の傑出した類型として、世界 的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山である。本計画 では、顕著な普遍的価値に対し、資産に含まれる要素を「顕著 な普遍的価値を構成する諸要素」と「顕著な普遍的価値を構成 する諸要素と密接に関エムゾネわる諸要素」に分類し、さらに緩衝 地帯における「周辺環境を構成する諸要素」を加え、表に示す とおり整理を行った。A富士山山体及び登山道B信仰に関わる 周辺のものC富士山から離れた眺望に関わるもの表富士山の構 成要素A富士山(富士山体)Aエムゾネ1山頂信仰遺跡・富士山本 宮奥宮・東北奥宮(久須志神社)・金明水・銀明水・八葉(剣 ヶ峰、白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、 駒ヶ岳、三島岳)・大内院・小内院・馬の背・東安河原・西安 河原・虎岩(獅子岩)・割石・雷岩・こエムゾネのしろが池・荒巻 ・吉田須走拝所跡・須山拝所跡・村山大宮拝所跡・三島ヶ岳経 塚・外浜道・内浜道A2大宮・村山口登山道・札打場・中宮八 幡堂跡(1号建物跡)・八大龍王・5号建物跡・8号建物跡・ 12号建物跡・鳥居A3須山口登山道・須山御胎エムゾネ内(溶岩 洞穴)・石像・石燈篭・鳥居・標柱・祠A4須走口登山道・古 御岳神社・迎久須志之神社・鳥居・狛犬・石碑A5吉田口登山 道・現登山道・旧登山道・馬返・五合目・烏帽子岩A6北口本 宮冨士浅間神社−38−−39−・本殿・東宮本殿・西宮エムゾネ 本殿・大塚山・御鞍石A7西湖・湖水A8精進湖・湖
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218 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-QV1c)[sage]:2018/01/19(金) 00:32:55.25 ID:04qHDvx10 - 室町時代以降、頂上の一つである久須志岳(旧薬師ヶ嶽)に薬師
堂があり、道者の登山切手を改めた。古くは山役銭の徴収場であ った。薬師堂は奥宮の場合と同様に廃仏毀釈により破却され、久 須志神社と改称した。写真東北奥宮エムゾネの写真・金明水雪解け 水が湧く泉で、その湧き水は霊験あらたかな「御霊水」として珍 重された。大正期の写真をみると、井戸は石組みや木製の柵で囲 われ、旗や幟などもみられる。・銀明水金明水とおなじく、富士 山頂の霊験あらたかな湧き水として珍エムゾネ重された。『富士の 歴史』によれば、「如何なる旱にも水の涸れることはない」と記 している。写真銀明水の写真[銀明水の石碑群](a)石碑@( 高さ112×幅62p)銘文には「明治三拾九年」と「大正五年 」の2つの年代が確認できる。富士講のエムゾネ人々が建碑したも のと考えられる。(b)石碑A(高さ162×下幅76×上幅6 3p)表面に龍が、裏面には文字が刻まれている。(c)石碑B (未計測)「大正十三年八月」と刻してある。写真銀明水の石碑 群の写真−42−・八葉(剣ヶ峰、白山岳エムゾネ、久須志岳、成 就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)山頂部の直径 約800mの火口を囲む峰々の総称で、それぞれの峰に仏が住む とされた。文永年中(1264〜1275)の作である『万葉集 註釈』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とあエムゾネることから、 鎌倉時代中期には山頂の峰々を蓮の「八葉」に見立てていたと考 えられる。江戸時代後期の地誌である『駿河国新風土記』には「 ソノ名一定ノ説ナク、又峰ノ数八ツアルニアラズ。コマカニカゾ ヘバ、十二バカリナリト言フ。」とあり、八葉エムゾネを構成する 峰も、またその名称も一定でないことがわかる。峰の名称は、明 治8年に廃仏毀釈により仏教色を払拭したものに変更された。以 下、平成20年度の静岡県埋蔵文化財調査研究所による発掘調査 報告書で示された9つの峰について、最高峰の剣エムゾネ
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219 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-GP+B)[sage]:2018/01/19(金) 00:33:37.94 ID:04qHDvx10 - さになった。崩落した部分は、長さ約30mのU字型の溝状の溶エムソ
゙ネ岩地形として須山御胎内の南東側に残っている。この付近の溶岩 は須山胎内溶岩と呼ばれている。年代測定では1030〜1230 年という結果が出ており、永保3年(1083)の噴火時に噴出し た可能性がある。平成21年に実施した測量調査では、エムゾネ須山胎 内溶岩は須山口登山道脇の標高1,485m付近から認められてお り、須山口登山道がこの溶岩流に沿って形成されているこ
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220 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-Av6t)[sage]:2018/01/19(金) 00:39:03.53 ID:04qHDvx10 - 栖湖・湖水・中ノ倉峠からの展望B1富士山本宮浅間大社・神
立山・湧玉池(上池、下池)・社叢・社殿(本殿・拝殿・幣殿 )・透塀・楼門・手水舎・廻廊・灯籠・石鳥居・東鳥居・西鳥 居・エムゾネ桜の馬場・禊所・神幸橋(湧玉橋)・輪橋(太鼓橋) ・護摩堂跡(推定)・随身像・狛犬・御神幸道首標の碑・三之 宮・七之宮・鉾立石・欄干橋(神路橋、神路枚橋)B2山宮浅 間神社・溶岩流地形・社叢・籠屋(参籠所)・鉾立石・石段( 参道)・石塁エムゾネ・玉垣・遥拝所・石鳥居・参道B3村山浅間 神社・元村山溶岩流・水源地「竜頭ヶ池」・御神木(イチョウ 、大スギ)・社叢・浅間神社社殿・大日堂(興法寺)・水垢離 場・護摩壇・氏神社(高嶺総鎮守社)・石鳥居・氏神社鳥居・ 手水舎(手水鉢)・石エムゾネ段(参道)・狛犬B4須山浅間神社 ・社叢・社殿・神輿殿・狛犬・灯籠・手水舎・参道・鳥居・石 碑・古宮神社B5冨士浅間神社(須走浅間神社)・社叢(浅間 の杜)・ハルニレ・エゾヤマザクラ・根上がりモミ・社殿・楼 門・参道大鳥居・裏参道鳥居・エムゾネ富士塚狛犬・富士講講碑群 B6河口浅間神社・社殿、鳥居B7冨士御室浅間神社・吉田口 二合目(拝殿の一部、行者堂跡、定善院跡、建物礎石)・移築 された二合目本殿B8御師住宅(旧外川家住宅、小佐野家住宅 )・主屋・離座敷・中門・屋敷地(タツエムゾネミチ)B9山中湖 ・湖水B10河口湖・湖水B11忍野八海・八つの池(出口池 、御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)・湧 水B12船津胎内樹型・溶岩樹型・無戸室浅間神社、石造物群 B13吉田胎内樹型・溶岩樹型・洞内の石祠、石エムゾネ造物群− 40−B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)・犬涼み溶岩流 ・溶岩洞穴・社叢(周辺の植生)・碑塔群・参道・建物跡・参 道跡・道跡・炭焼窯跡・井戸跡B15白糸ノ滝・古富士泥流堆 積物・白糸溶岩流・白糸の滝・音止の滝・鬢撫水・植物・エ
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221 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-QV1c)[sage]:2018/01/19(金) 00:39:46.36 ID:04qHDvx10 - お鉢巡りの回り方である時計回りの順に、記述する。なお、浅間
大社では、伊豆岳以外の8つをもって「八神峰」としている。図 八葉の配置図[剣ヶ峰(標高約3,776m)]かつては剣ノ峰 、阿弥陀岳とも呼ばれた。遠くから見ると剣を立てエムゾネたよう にそびえ立っているためにこの名があるという。道者たちはあま りに険しいこの峰を恐れて多くは登らなかったという。この峰の 石は「神の惜ミ給ふ」とされ、採取を禁じられたが、麓からの石 と取り替えるということが行われていた。写真剣ヶ峰エムゾネの写 真図気象庁測候所跡周辺の平面図[白山岳(標高約3,756m )]かつては釈迦ヶ岳とも呼ばれた。現在は一般の立入は禁止さ れている。頂上には鳥居が立ち、また二等三角点が存在する。[ 久須志岳(標高約3,725m)]かつては薬師岳ともエムゾネ呼 ばれた。現在の久須志神社の裏手にあたる。他の峰々と比べ傾斜 はなだらかである。頂上には鳥居が火口の方向に向けて建てられ ている。頂上付近には石造物が残存し、首から上と手首から先が 欠損している。台座正面に「食行」「身禄」の文字が確認エムゾネ できる。写真久須志岳の石造物の写真[成就岳(標高約3,73 4m)]かつては大日岳とも呼ばれ、大小2つの鳥居が、噴火口 の方角を向いて建てられている。[伊豆岳(標高約3,748m )]かつては勢至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『浅間神社のエムゾ ネ歴史』には、「中腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻の険を 越え、成就岳にいたるまで、至る所に蒸気を噴出する」とある。 頂上には鳥居は見られない。[朝日岳(標高約3,733m)] 伊豆岳と同様、かつては地中から蒸気を発していたとされる。エム ゾネ頂上に鳥居は存在しない。石積みがあるが時期は不明である 。他の峰々と比べ、文献の言及が乏しい。[浅間岳(標高約3, 722m)]浅間大社奥宮の裏手にあり、頂上に鳥居がある。現 在は一般の立入が制限されている。[駒ヶ岳(標高約3
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222 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-GP+B)[sage]:2018/01/19(金) 00:40:30.96 ID:04qHDvx10 - した。写真須山御胎内の写真・石像須山御胎内の洞穴内部に、「木
花咲耶姫」の石像が安置されている。地元在住エムゾネの彫刻家、杉山 拓氏の作品。須山口登山道復興後の平成12年に作られたものであ る。・石燈篭須山御胎内の南東側入口の両脇に、石燈篭が設置され ている。・鳥居須山御胎内の南東側入口前に高さ3m前後の木製の 鳥居が建てられている。・標柱鳥居脇エムゾネに、「旧須山口登山道一 合目(須山御胎内)」と記された標柱が、富士山須山口登山道保存 会によって設置されている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状 の溶岩地形脇に、石造りの祠が設置されている。写真祠の写真A4 須走口登山道図登山道に要素エムゾネが点在している平面図・古御岳神 社冨士浅間神社の境外末社で、5合目の登山道登り口にある。現在 の社殿は、昭和54年(1979)に建立され、間口九尺、奥行九 尺の規模である。その際、御室浅間神社を合祀した。神社の前には 鳥居がある。かつてエムゾネは3000坪の境内地を持ち、本殿、拝殿 、庁舎を備えていたという。写真古御岳神社の写真・迎久須志之神 社冨士浅間神社の境外末社で、9合目(3,570m付近)に建て られている。かつては向薬師、向ヒ薬師、手引薬師と呼ばれ、石室 の中に薬師エムゾネ如来が祀られ冨士浅間神社の神主が管理していた。 元禄16年(1703)−47−の文書「大宮司富士信安等返答下 書」に「前薬師之小屋」の記述があることから、江戸時代初期以降 にはすでに祀られていたものと考えられる。道者はここで薬師に線 香エムゾネを手向けたという。廃仏毀釈によって仏像は山を降ろされ迎 久須志神社と改められた。祭神は大己貴命と少彦名命である。以前 は登山道が建物の西側を通るルートであったが、現在は建物の東側 を通るようになっている。迎久須志神社の直下には、「日ノエムゾネ見 御前」「日ノ御子」と呼ばれる日の出を遥拝する場所があり、江戸 時代には「日ノ御子石」という富士山型の石が置かれていた。富士 講の講中が大きな平石の上で朝日を拝したという。現在「
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223 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-Av6t)[sage]:2018/01/19(金) 00:45:41.56 ID:04qHDvx10 - 富士講・白糸の滝の勝景・音止の勝景・富士山の展望・富士の
巻狩の伝承・歌碑・標識C三保松原・特別規制A地区・特別規 制B地区・第1種規制地区・第2種規制地区・第3種規制地区 @自然地形(山林、河川など)・宝永山(宝永火口)・溶岩洞 穴、エムゾネ樹型等富士山体・側火山からの噴出物による地形・富 士山原始林及び青木ヶ原樹海・国指定天然記念物(鳴沢溶岩樹 型、鳴沢氷穴、本栖風穴等)A森林、植栽樹木(山林
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224 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-QV1c)[sage]:2018/01/19(金) 00:46:20.03 ID:04qHDvx10 - エムゾネm)]聖徳太子が黒駒に乗って登山した際に、ここで休息
をとったという伝説のある峰である。山頂に鳥居が存在する。峰 全体が岩石からできている。[三島岳(標高約3,734m)] −43−かつては文殊岳とも呼ばれた。頂上に木製の鳥居と、「 三エムゾネ島岳」と刻まれた白い角材の木杭が立っている。三島岳 の石仏群として、三島岳のふもと、かつて経塚が発見された付近 に、10体の石像が安置されている。これらは原位置を留めてお らず、周辺にあったものが集められたと考えられる。いずれも頭 部をエムゾネ欠損している。・大内院山頂の火口中央に存在する穴 で、ここより雲が生じ、風が起きるとされた。大内院(噴火口) は中央にある大きな火口、小内院(阿弥陀ヶ窪)は雷岩の下の小 さな火口を指す。神や仏の居る所であると信じられ、登山者は各 登山口エムゾネに設けられた拝所あるいは初穂打場から、噴火口に 向けて賽銭を投げ入れた。現在、噴火口への立入は禁止されてい る。写真大内院の写真・小内院西安河原から白山岳に向かう途中 にある大きな窪地で、大内院との対比で小内院と呼ばれる。かつ ては噴火エムゾネ口だったと考えられる。写真小内院の写真・馬の 背剣ヶ峰に通じる坂道で、火山礫と砂の急斜面である。お鉢巡り の道中で最大の難所である。現在はブルドーザーが通れるよう整 地されている。火口に向けて傾斜しており、その険しさから道者 たちの多くエムゾネは剣ヶ峰に登らなかったといわれる。・東安河 原須山口拝所東側にあり、山頂部では稀な広い平坦部である。か つては現世と来世の境である「賽の河原」になぞらえて、道者た ちが溶岩礫を積み上げ石塔を作った。また「初穂打場」とも呼ば れ、火口に向エムゾネけて賽銭が投げ込まれた場所とされる。・西 安河原東安河原と対をなす、剣ヶ峰から北側に下りた付近の平坦 部である。火口の外壁を行く外浜道と内壁を行く内浜道との分岐 点に位置する。・虎岩(獅子岩)大内院の南岸に突き出
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225 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-GP+B)[sage]:2018/01/19(金) 00:47:02.77 ID:04qHDvx10 - 石」はないが、祠と鳥居が建てられている。写真迎エムゾネ久須志之神
社の写真・鳥居登山道の浅間大社東北奥宮(久須志神社)前(登山 道終点)、9合目、本8合目、本7合目、7合目、本5合目、古御 嶽神社前に自然木などにより構築された鳥居が設置されている。・ 狛犬登山道終点の鳥居前に狛犬2体が設置エムゾネされている。この場 所は「鳥居御橋」(とりいおはし)と呼ばれていた。・石碑7合目 付近の登山道脇に富士講関連の石碑がある。以前はもっと標高の高 い場所にあったが、雪崩によって流されて別の場所に転がっていた ものを山小屋関係者で運び、現在エムゾネの場所に設置したという。日 付は「七月吉日」とあるのみで、上部が欠損している。A5吉田口 登山道図登山道に要素が点在している平面図・登山道吉田口登山道 は、北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂を目指す道である 。18世紀後半以降は、エムゾネ最も多くの道者が吉田口登山道を目指 している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる 重要な道である。顕著な普遍的価値を構成する要素として、現存す る吉田口登山道や沿道の宗教施設や山小屋等信仰の拠点などがある 。・旧登山道・エムゾネ馬返ここから急坂となり馬が使えなくなること からこの名がついた。この一体は草山から木山への境でもあり、こ こからが御山の聖地ということにもなる。富士山有料道路が開通す る以前の馬返の周辺は、本格的な登り勾配の坂道が始まる直前の平 地であエムゾネり、登拝者たちがいったん休憩を取る場所として賑わっ た。登山期間には4軒の茶屋が営業され、登拝者の便に供された。 写真馬返周辺の写真・五合目ここは木山と焼山の境界でもあるこの 地は天地境(てんちのさかい)とも言われる場所である。役場、エムソ ゙ネ中宮の社、小屋等がおかれていた。ここの役場は、古くは中宮三 社の神供料として役銭を納めた場所である。後年は登山切手改め所 となった。小屋については、江戸後期には4軒があったが、すでに 武田信玄の1566年の文書に「中宮之室」という名称エムゾ
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226 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-Av6t)[sage]:2018/01/19(金) 00:52:37.85 ID:04qHDvx10 - る森林、寺社・遺跡等の植栽樹木など)・自然林、森林施業地
、人工林・社エムゾネ叢林、境内林・富士山特定地理等保護林・富 士箱根伊豆国立公園富士山管理計画区B保存管理又は公開活用 を目的とした建造物(展示館、管理棟、解説板など)・総合案 内標識、解説板C道路とその他の人工物(生活用道路、電柱、 看板など)顕著な普遍エムゾネ的価値を構成する諸要素と密接に関 わる諸要素・富士山測候所・NTT富士山頂分室・便益施設@ 自然的要素(山並み、河川など)A歴史的要素(埋蔵文化財、 社寺境内、伝承地など)成する諸要素周辺環境を構B人文的要 素(農耕地、市街地、道路、そエムゾネの他人工物)上表において 分類した諸要素について、以下に提示する。(1)顕著な普遍 的価値を構成する諸要素@富士山山体及び登山道A富士山富士 山体のうち、標高約1500m以上の範囲である。この範囲は 、周辺の浅間神社や展望地点から見た可エムゾネ視領域が重なり合 う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い。各登山 道における山体の神聖性に関する境界の一つである「馬返」( 乗馬登山が物理的にも、宗教的観点からも不可能になる地点) の標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民エムゾネが、とり わけこの「馬返」より上を目指して「オヤマ」又は「オヤマサ マ」と呼び、富士山の範囲と見なす地域もあった。景観的には 山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」と「山体」の境 界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの対エムゾネ 象となることが多い範囲である。御中道巡りのルートには、現 在も石碑が一部残存している。ルートはほぼ森林限界に沿って 、富士山体を一周する。15〜16世紀ごろ富士講の祖とされ る長谷川角行によって開かれたとされその後大沢崩れ−41− を通エムゾネるため富士講信者により修行の道として利用された。 写真標高約1500m以上の写真A1山頂信仰遺跡図
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227 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-QV1c)[sage]:2018/01/19(金) 00:53:18.46 ID:04qHDvx10 - 、形状が虎(獅エムゾネ子)のうずくまる姿に似ていることから名
付けられた。・割石かつては「釈迦の割石」と呼ばれた溶岩で、 溶岩が急速に冷えて固まったため割れていた。高さが15m程あ ったが、現在は崩壊してしまっている。古くから行者の修行場と して知られ、食行エムゾネ身禄がここで入定しようとしたが、大宮 浅間の社人からの許可が得られず、吉田口七合五勺の烏帽子岩で 入定したとされる。写真割石の写真・雷岩白山岳の西側
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228 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-GP+B)[sage]:2018/01/19(金) 00:54:03.02 ID:04qHDvx10 - 、戦国時代からこの地に小屋が設けられ−48−ていたことがわか
る。最盛期には18軒が所在したと伝えられている。写真五合目周 辺の写真・烏帽子岩七合五勺に烏帽子の形をした岩があり、これを 烏帽子岩という。ここにて富士講中興の祖と称エムゾネされる食行身禄 が、1733年に31日間の断食修行を経て入定した。「甲斐国志 」にも「享保十八六月十三日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小屋アリ 身禄ノ木像ヲ安置ス流レヲ汲者年々此に登拝ス」とあり、江戸後期 にはすでに身禄の聖地として信者が登エムゾネ拝していたことがわかる 。現在も富士講の聖地として重要な地である。写真烏帽子岩の写真 A6北口本宮冨士浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図 北口本宮冨士浅間神社は、富士講とのつながりが強く1730年代 に富士講の指導者である村上エムゾネ光清の寄進によって境内の建造物 群の修復工事が行われ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。 社殿の背後には登山門があり、この神社を起点として富士山頂まで 吉田口登山道が延びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持ち ながら発展した神社エムゾネである。顕著な普遍的価値を構成する諸要 素として、富士信仰の拠点でもある本殿などの建造物群や境内地、 吉田口登山道の起点などがある。・本殿本殿は、1615年、都留 郡の領主鳥居土佐守成次によって建立された。桁行一間・梁間二間 の規模で、エムゾネ入母屋造の建物を身舎としてその前面に唐破風造の 向拝一間をつけた形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。 各部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な 装飾を展開し、桃山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに、 すエムゾネぐれた意匠をみせる顕著な建物である。写真本殿の写真図本 殿の図・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の創建とも伝え られるが、現社殿は1561年武田信玄が浅間本社として造営した ものである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で正面に一間のエムゾネ向 拝をつける一間社流造の形式である。東宮本殿は、本社本
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229 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-Av6t)[sage]:2018/01/19(金) 00:59:49.21 ID:04qHDvx10 - 遺跡の分布図・富士山本宮奥宮富士宮口登山道頂上に位置し、
7、8月の開山期にのみ開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売命 である。『本エムゾネ朝世紀』には、久安5年(1149)「富士 上人末代は、富士山に数百度登り、山頂に仏閣を構え、大日寺 と称し、写経を埋納下した」とある。江戸時代には、村山三坊 所有の大日堂があったが、明治7年(1874)、廃仏毀釈に より山中の仏像を取りエムゾネ除き、大日堂跡へ奥宮を建立し、浅 間大神を祭った。写真奥宮の写真[奥宮周辺の石碑群](a) 蹲虎の碑(高さ139×幅64×厚さ18p)奥宮の裏手、浅 間岳の麓に所在する。一方の面に漢文が、もう一方には虎の絵 が彫られている。天保年間(1エムゾネ830−34)に、岸岱が 作ったとされる。(b)鎮國之山(高さ146×幅61×厚さ 31p)奥宮の前に所在する。碑面に「鎮國之山」と彫られて いる。明治31年(1898)に書家の中林梧竹により建碑さ れた。後年、落雷により破壊されたが、エムゾネ昭和42年(19 67)に再建された。・東北奥宮(久須志神社)浅間大社奥宮 の末社で、大名牟遅命、少彦名命を祀る。須走口登山道、吉田 口登山道の終点にある。室町時代以降、頂上の一つである久須 志岳(旧薬師ヶ嶽)に薬師堂があり、道者の登山エムゾネ切手を改 めた。古くは山役銭の徴収場であった。薬師堂は奥宮の場合と 同様に廃仏毀釈により破却され、久須志神社と改称した。写真 東北奥宮の写真・金明水雪解け水が湧く泉で、その湧き水は霊 験あらたかな「御霊水」として珍重された。大正期の写真エムゾネ をみると、井戸は石組みや木製の柵で囲われ、旗や幟などもみ られる。・銀明水金明水とおなじく、富士山頂の霊験あらたか な湧き水として珍重された。『富士の歴史』によれば、「如何 なる旱にも水の涸れることはない」と記している。写真銀明水 の写エムゾネ真[銀明水の石碑群](a)石碑@(高さ1
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230 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-QV1c)[sage]:2018/01/19(金) 01:00:28.79 ID:04qHDvx10 - で、この方角から強い雷雲がくる事からこう呼ばれたとされる。
また、文化年間の初エムゾネめ、岩より雷鳴がとどろいて雷獣が出 現し、8合目の石室に走り入った。これを石室に居合わせた人々 が生け捕りにしたとも伝えられる。・このしろが池三島岳の雪解 け水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月に姿を 現し、雪解け水の供給エムゾネが無くなると消えてしまう。・荒巻 −44−かつては勢至ヶ窪と呼ばれ、強い風が吹き付ける富士山 頂の難所として知られた。道の火口側には、火山礫を積み上げた 石組みがある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登りきったとこ ろにあったとされる。拝エムゾネ所は初穂打場とも呼ばれ、登山者 たちが賽銭を噴火口の大内院に投げ入れる、そこに鎮座する浅間 大菩薩を拝む場所であった。また、御来光を拝む場所でもあった 。現在は、付近に鳥居がなく痕跡も残っていないため、場所を特 定することはできない。写エムゾネ真吉田須走拝所跡の写真・須山 拝所跡銀明水の裏手の火口を臨む位置にあったとされる。大正2 年(1913)の登山スタンプが押された写真では、銀明水裏手 の火口の縁に立っている鳥居が確認できる。現在その地点には、 2つの目印の石が存在していエムゾネる。写真須山拝所跡の写真・ 村山大宮拝所跡『隔掻録』は、大日堂の裏手に建つ鳥居を「大宮 拝所」としている。『富士山明細図』は、このしろが池の裏手の 鳥居を影拝所としている。このしろが池から剣ヶ峰の登山道に沿 って3体の大日如来があり、そエムゾネれぞれ延徳2年(1490 )、天文12年(1543)、寛永元年(1624)の銘があっ たとされる。昭和初期の絵葉書にも、剣ヶ峰の手前の火口を臨む 位置に鳥居が建っている。写真村山・大宮拝所跡の写真・三島ヶ 岳経塚昭和4年(1929)、頂エムゾネ上の神官が銅仏の破片と 一石経を採集して下山、それを受けて昭和5年に三島岳のふもと を調査したところ、経巻が詰まった経筒や木槨、土器片
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231 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-GP+B)[sage]:2018/01/19(金) 01:01:12.72 ID:04qHDvx10 - より西宮本殿に比較してやや小規模であるが、構造形式や蟇股に挿
入した彫刻などに室町時代の手法を示しており、三殿中最も古い建 物である。写真東宮本殿の写真図東宮本殿の図・西エムゾネ宮本殿西宮 本殿は、1594年谷村城主浅野左右衛門佐氏重により東宮に替わ る本殿として建立されたが、1615年、鳥居成次の本殿建立によ り現在地に移され西宮となった。本殿の形式は東宮と同じ一間社流 造であるが、両側面と背面は二間で一間のエムゾネ向拝をつけ
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232 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-Av6t)[sage]:2018/01/19(金) 01:07:05.97 ID:04qHDvx10 - 62p)銘文には「明治三拾九年」と「大正五年」の2つの年
代が確認できる。富士講の人々が建碑したものと考えられる。 (b)石碑A(高さ162×下幅76×上幅63p)表面に龍 が、裏面にはエムゾネ文字が刻まれている。(c)石碑B(未計測 )「大正十三年八月」と刻してある。写真銀明水の石碑群の写 真−42−・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆 岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)山頂部の直径約800 mの火口を囲む峰々のエムゾネ総称で、それぞれの峰に仏が住むと された。文永年中(1264〜1275)の作である『万葉集 註釈』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とあることから、鎌倉 時代中期には山頂の峰々を蓮の「八葉」に見立てていたと考え られる。江戸時代後期の地誌でエムゾネある『駿河国新風土記』に は「ソノ名一定ノ説ナク、又峰ノ数八ツアルニアラズ。コマカ ニカゾヘバ、十二バカリナリト言フ。」とあり、八葉を構成す る峰も、またその名称も一定でないことがわかる。峰の名称は 、明治8年に廃仏毀釈により仏教色を払エムゾネ拭したものに変更 された。以下、平成20年度の静岡県埋蔵文化財調査研究所に よる発掘調査報告書で示された9つの峰について、最高峰の剣 ヶ峰からお鉢巡りの回り方である時計回りの順に、記述する。 なお、浅間大社では、伊豆岳以外の8つをもってエムゾネ「八神峰 」としている。図八葉の配置図[剣ヶ峰(標高約3,776m )]かつては剣ノ峰、阿弥陀岳とも呼ばれた。遠くから見ると 剣を立てたようにそびえ立っているためにこの名があるという 。道者たちはあまりに険しいこの峰を恐れて多くは登らなエムゾネ かったという。この峰の石は「神の惜ミ給ふ」とされ、採取を 禁じられたが、麓からの石と取り替えるということが行われて いた。写真剣ヶ峰の写真図気象庁測候所跡周辺の平面図[白山 岳(標高約3,756m)]かつては釈迦ヶ岳とも呼
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233 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-QV1c)[sage]:2018/01/19(金) 01:07:46.63 ID:04qHDvx10 - 物が出土した。富士山本宮浅間大社には、現在10巻分の経巻が
残っており、うち5巻は開かれていエムゾネて内容を確認できる。 経巻のスタイルや計測値から平安時代後期までさかのぼる可能性 が考えられる。写真出土遺物の写真・外浜道・内浜道山頂を周回 し八葉を巡る「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ峰を下り西安河 原の北側で道が二手に分かれるが、峰エムゾネの外を回り雷岩、割 石を経て白山岳に至る道が外浜道で、峰の内側を大内院に沿って 回り金明水に至る道が内浜道である。沿道には信仰に関わる工作 物や自然物が数多く存在する。外浜道は近年崩落が著しく、現在 は立入禁止となっている。A2大宮・村エムゾネ山口登山道図登山 道に要素が点在している平面図・札打場村山浅間神社の北東約3 .5q、天照教社の西南西約1qの地点(標高約830m)に、 東西約7m、南北約10mの平場がある。南側に1本の大きなケ ヤキの巨木があり、ここが札打場であったエムゾネ。札打とは、自 分の院号を記した札を打ちつけることである。村山で修験道が盛 んであった頃、山伏が峰入修行に先立ち札打を行った。昭和30 年(1955)頃までは、木に打ちつけた札が見られたという写 真札打場の写真・中宮八幡堂跡(1号建物跡エムゾネ)村山口登山 道跡と富士山スカイラインが交差する地点から南西方向に約50 0mの地点に位置する。標高は約1,280mである。東側を走 る沢から一段上がった平坦面に所在している。平坦面は2段あり 、上−45−段には小さな祠が建てられているエムゾネ。また下段 には、南東から北西方向に石列が伸びている。江戸時代には馬返 しと呼ばれ、駒立小屋があったとされる。また、ここからは女人 は登山道を登ることを許されず、駒立小屋は女人堂として使われ た時期もあったと考えられる。下段平坦面の南側エムゾネには溝が 東西方向に延び、西側の森林に突き当たって痕跡をたどれなくな る。木馬道である可能性が指摘される。写真中宮八幡堂
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234 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-GP+B)[sage]:2018/01/19(金) 01:08:33.27 ID:04qHDvx10 - 本殿は、桃山時代の装飾的要素を多分に取り入れていて、やがて豪
華な本社本殿建築へと発展する過程を、両者並べて鑑賞できる貴重 な建物である。−49−写真西宮本殿の写真図西宮本殿の図・大塚 山社誌では、日本武尊が富士山をエムゾネ遙拝した地であり、ここを浅 間明神の創建にかかわる場所と位置づけている。さらに、788年 には新たに浅間明神を建て、この大塚山には、大塚社として日本武 尊を分祀したと伝えられる。現在この地は、流山状の小高い丘をな しており、日本武尊を祀エムゾネる祠が建てられている。写真大塚山の 写真図大塚山の図・御鞍石吉田火祭(鎮火祭)の際の御輿行在所。 吉田火祭の本日にこの御鞍石上に御輿が安置され、神事が行われる 。ここで読まれる祝詞の一節から、この地が諏訪明神旧鎮座地とさ れる。写真御鞍エムゾネ石の写真図御鞍石の図A7西湖図以下に示す要 素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡 りが多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡 拝の対象として数えられている。また、景勝の地でもあり、多くの 芸術作エムゾネ品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素 として、自然地形(湖水)などがある。写真西湖の写真A8精進湖 図以下に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修 行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、いつのエムソ ゙ネ時代も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景勝の 地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を 構成する諸要素として、自然地形(湖水)などがある。写真精進湖 の写真A9本栖湖図以下に示す要素が点在している平面エムゾネ図富士 山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって 行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられてい る。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕 著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然エムゾネ地形(湖水)や 中ノ倉峠からの展望などがある。写真本栖湖の写真A信仰
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235 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-Av6t)[sage]:2018/01/19(金) 01:13:26.67 ID:04qHDvx10 - 現在エムゾネは一般の立入は禁止されている。頂上には鳥居が立ち
、また二等三角点が存在する。[久須志岳(標高約3,725 m)]かつては薬師岳とも呼ばれた。現在の久須志神社の裏手 にあたる。他の峰々と比べ傾斜はなだらかである。頂上には鳥 居が火口の方エムゾネ向に向けて建てられている。頂上付近には石 造物が残存し、首から上と手首から先が欠損している。台座正 面に「食行」「身禄」の文字が確認できる。写真久須
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236 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-QV1c)[sage]:2018/01/19(金) 01:14:09.36 ID:04qHDvx10 - 八大龍王中宮八幡堂跡より北東に約100mの地点に「八大龍王
」と刻まれた石碑と水神の祠が並んで建てられていエムゾネる。水 神祠には「文化十三年寅年六月日」、八大龍王には「文化七年七 月十七日」との銘が刻まれている。駿河国大宮町神田の横関家の 主人が、天保14年(1843)から文久3年(1863)にか けて記録した『袖日記』には、安政7年(1860)エムゾネ5月 11日の条に「中宮八幡堂の井戸を掘ったので山が荒れた」との 記述がある。この「中宮八幡堂の井戸」とは、八大龍王前にある 井戸跡を指すものと考えられている。井戸跡は幅80p、深さ5 0pほどである。・5号建物跡4号建物跡から登山道跡エムゾネを 登りしばらくすると一面の倒木帯となり、その中に5号建物跡が ある。標高は約1,865mである。平成5年の富士宮市による 調査では、平場の北側の斜面の縁に3体の石像が発見されていた が、平成20年の静岡県埋蔵文化財調査研究所による調査エムゾネ では石像が4体見つかっている。木が倒れた際に地面が掘り起こ され、地中にあった石像が地上に現われたと考えられる。うち1 体の不動明王像には、文化7年(1810)の銘がある。背面に は「瀧本前」と刻まれており、ここが「富士山表口南面路次エムゾ ネ社堂室有来之次第絵図」でいう「瀧本・笹垢離」跡であると推 測できる。4体の石像には破壊された痕跡が確認できる。廃仏毀 釈によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内では5号建 物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物跡7エム ゾネ号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)の位 置にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在する建物跡の 中で最も大規模なものである。2つの平場により構成され、南西 部の平場は東西約25m、南北約10mである。入口に石段が残 エムゾネ存しており、石段の東西には石垣が組まれている。また平 場中央部よりやや西に護摩壇と思われる石組も残存して
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237 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-Av6t)[sage]:2018/01/19(金) 01:19:48.29 ID:04qHDvx10 - 造物の写真[成就岳(標高約3,734m)]かつては大日岳
とも呼ばれ、大小2つエムゾネの鳥居が、噴火口の方角を向いて建 てられている。[伊豆岳(標高約3,748m)]かつては勢 至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『浅間神社の歴史』には、「中 腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻の険を越え、成就岳にい たるまで、至る所に蒸気を噴出エムゾネする」とある。頂上には鳥 居は見られない。[朝日岳(標高約3,733m)]伊豆岳と 同様、かつては地中から蒸気を発していたとされる。頂上に鳥 居は存在しない。石積みがあるが時期は不明である。他の峰々 と比べ、文献の言及が乏しい。[浅間岳エムゾネ(標高約3,72 2m)]浅間大社奥宮の裏手にあり、頂上に鳥居がある。現在 は一般の立入が制限されている。[駒ヶ岳(標高約3,718 m)]聖徳太子が黒駒に乗って登山した際に、ここで休息をと ったという伝説のある峰である。山頂に鳥居が存エムゾネ在する。 峰全体が岩石からできている。[三島岳(標高約3,734m )]−43−かつては文殊岳とも呼ばれた。頂上に木製の鳥居 と、「三島岳」と刻まれた白い角材の木杭が立っている。三島 岳の石仏群として、三島岳のふもと、かつて経塚が発見さエムゾネ れた付近に、10体の石像が安置されている。これらは原位置 を留めておらず、周辺にあったものが集められたと考えられる 。いずれも頭部を欠損している。・大内院山頂の火口中央に存 在する穴で、ここより雲が生じ、風が起きるとされた。大内院 (噴エムゾネ火口)は中央にある大きな火口、小内院(阿弥陀ヶ窪 )は雷岩の下の小さな火口を指す。神や仏の居る所であると信 じられ、登山者は各登山口に設けられた拝所あるいは初穂打場 から、噴火口に向けて賽銭を投げ入れた。現在、噴火口への立 入は禁止されエムゾネている。写真大内院の写真・小内院西安河原 から白山岳に向かう途中にある大きな窪地で、大内院
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238 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-QV1c)[sage]:2018/01/19(金) 01:20:30.95 ID:04qHDvx10 - う一つの北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜面上に、長軸
約15m、短軸約6mの三角形で、北西側斜面の縁と南側斜面の 縁エムゾネに石組が確認できる。昭和時代の地図には「一ノ木戸」 として載っており、「富士山表口南面路次社堂室有来之次第絵図 」に描かれた「室大日堂・木戸堂・茶屋堂」にあたると考えられ る。室大日堂は大日如来と役行者像が祀られていたとの記述が『 駿河エムゾネ国新風土記』にあり、また末代上人が建てた
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239 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-GP+B)[sage]:2018/01/19(金) 01:21:15.64 ID:04qHDvx10 - 例を見ない。1階下層は桁行5間・梁間4間の寄棟造、2階上層は
桁行3間・梁間2間の三間社流造で共に桧エムゾネ皮葺である。明治4 0年(1907)5月27日古社寺保存法により特別保護建造物に 指定され、以後、国指定重要文化財として保護されている。写真本 殿全体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平面図(幣殿・拝殿含む) [幣殿]本殿と拝殿をつなぐ部分エムゾネで、桁行3間・梁間3間の両 下造、屋根は檜皮葺、寛文年間の古絵図には幣殿は描かれていない が、現在幣殿として使われている部分に「作合三間四間ひはだぶき 」と書き込まれており、本殿の全景がよく見えるように描かれたと 推測される。県指定文化エムゾネ財として保護されている。[拝殿]桁 行5間・梁間3間で、床は幣殿より2段高くなっている。正面が入 母屋造、背面が切妻造で、屋根は檜皮葺、正面に1間の向拝が付い ている。三方に縁を巡らせ、背面は幣殿に接続している。県指定文 化財として保護エムゾネされている。[透塀]本殿周囲を囲む1棟と、 その外側、本殿横に並ぶ三之宮及び七之宮を含めたより広い範囲を 囲む1棟−51−の計2棟で、総延長は36間に及ぶ。県指定文化 財として保護されている。[楼門]三間一戸、重層入母屋造で、屋 根は檜エムゾネ皮葺、正面・左右脇に扉がついている。楼門の左右には 随身像が安置してある。静岡県指定文化財として保護されている。 写真楼門全体の写真図楼門平面図・廻廊楼門から東西に伸びる回廊 は、昭和9年(1934)に付加されたものである。・手水舎楼エムソ ゙ネ門の南西側に、参拝者が参拝前に身を清めるために手や口をすす ぐ、手水舎がある。・灯籠大小それぞれの灯籠が境内各所に設置さ れている。・石鳥居本殿へ続く参道に石造りの鳥居が建てられてい る。昭和33年3月に寄進されたものである。・東鳥居エムゾネ・西鳥 居桜の馬場の東端と西端にそれぞれ朱塗りの鳥居が建てられている 。・桜の馬場浅間大社流鏑馬式が執り行われる馬場が約200mに 渡って東西に伸びている。源頼朝が富士の裾野で巻狩を行
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240 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-Av6t)[sage]:2018/01/19(金) 01:25:40.85 ID:04qHDvx10 - で小内院と呼ばれる。かつては噴火口だったと考えられる。写
真小内院の写真・馬の背剣ヶ峰に通じる坂道で、火山礫と砂の 急斜面である。お鉢巡エムゾネりの道中で最大の難所である。現在 はブルドーザーが通れるよう整地されている。火口に向けて傾 斜しており、その険しさから道者たちの多くは剣ヶ峰に登らな かったといわれる。・東安河原須山口拝所東側にあり、山頂部 では稀な広い平坦部である。かエムゾネつては現世と来世の境であ る「賽の河原」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を積み上げ石 塔を作った。また「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向けて賽銭 が投げ込まれた場所とされる。・西安河原東安河原と対をなす 、剣ヶ峰から北側に下りた付近の平坦部エムゾネである。火口の外 壁を行く外浜道と内壁を行く内浜道との分岐点に位置する。・ 虎岩(獅子岩)大内院の南岸に突き出た大岩で、形状が虎(獅 子)のうずくまる姿に似ていることから名付けられた。・割石 かつては「釈迦の割石」と呼ばれた溶岩で、溶岩エムゾネが急速に 冷えて固まったため割れていた。高さが15m程あったが、現 在は崩壊してしまっている。古くから行者の修行場として知ら れ、食行身禄がここで入定しようとしたが、大宮浅間の社人か らの許可が得られず、吉田口七合五勺の烏帽子岩で入定しエムゾネ たとされる。写真割石の写真・雷岩白山岳の西側にある岩で、 この方角から強い雷雲がくる事からこう呼ばれたとされる。ま た、文化年間の初め、岩より雷鳴がとどろいて雷獣が出現し、 8合目の石室に走り入った。これを石室に居合わせた人々が生 け捕エムゾネりにしたとも伝えられる。・このしろが池三島岳の雪 解け水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月に 姿を現し、雪解け水の供給が無くなると消えてしまう。・荒巻 −44−かつては勢至ヶ窪と呼ばれ、強い風が吹き付ける富士 山頂の難所とエムゾネして知られた。道の火口側には、火
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241 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-QV1c)[sage]:2018/01/19(金) 01:26:22.48 ID:04qHDvx10 - あったところだともいわれている。写真8号建物跡の写真・12
号建物跡村山口登山道跡に残る遺構のうちで、一番標高の高い位 置(約2,390m)にある。11号建物跡から北に50mの地 点に所エムゾネ在する。東西約8m、南北約5mの方形の区画が石 組によって作られている。東側には直径約90pの丸い穴が二つ ある。(同様の穴は他の建物跡でも見られ、)便所跡と考えられ る。−46−・鳥居登山道跡の8合目上に、自然木により構築さ れた鳥居エムゾネが設置されている。「昭和五十二年七月吉日」と 刻まれており、個人が設置したものである。A3須山口登山道図 登山道に要素が点在している平面図・須山御胎内(溶岩洞穴)旧 須山口登山道1合目(標高1,440m付近)にある全長10m 余の溶岩洞エムゾネ穴である。洞穴の直径は約1mで南東側と北西 側に入口があり、内部を通り抜けることができる。登山者は、こ の洞穴を通って登山するのがならわしであった。かつて洞穴の延 長は数10mあったが、関東大震災により天井部分が崩落し、現 在の長さになエムゾネった。崩落した部分は、長さ約30mのU字 型の溝状の溶岩地形として須山御胎内の南東側に残っている。こ の付近の溶岩は須山胎内溶岩と呼ばれている。年代測定では10 30〜1230年という結果が出ており、永保3年(1083) の噴火時に噴出エムゾネした可能性がある。平成21年に実施した 測量調査では、須山胎内溶岩は須山口登山道脇の標高1,485 m付近から認められており、須山口登山道がこの溶岩流に沿って 形成されていることが判明した。写真須山御胎内の写真・石像須 山御胎内の洞穴内エムゾネ部に、「木花咲耶姫」の石像が安置され ている。地元在住の彫刻家、杉山拓氏の作品。須山口登山道復興 後の平成12年に作られたものである。・石燈篭須山御胎内の南 東側入口の両脇に、石燈篭が設置されている。・鳥居須山御胎内 の南東側入口前に高エムゾネさ3m前後の木製の鳥居が建
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242 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-GP+B)[sage]:2018/01/19(金) 01:27:06.19 ID:04qHDvx10 - 流鏑馬を奉納したことに始まると言われ、室町エムゾネ時代の初期には
すでに神事が行われていたとの記録が残っている。馬場に沿って両 側に御神木の桜が植えられている。・禊所湧玉池の上池と下池の境 部分が禊所とされ、池に下りるための石段が組まれている。・神幸 橋(湧玉橋)湧玉池南側の神田川へのエムゾネ流出口に石造りの橋が架 けられている。春秋の大祭にはこの橋を通って山宮御神幸が出発し たとされる。寛文10年(1671)の絵図では橋に屋根
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243 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-QV1c)[sage]:2018/01/19(金) 01:32:40.24 ID:04qHDvx10 - いる。・標柱鳥居脇に、「旧須山口登山道一合目(須山御胎内)
」と記された標柱が、富士山須山口登山道保存会によって設置さ れている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状の溶岩地形脇に 、石造りの祠が設置さエムゾネれている。写真祠の写真A4須走口 登山道図登山道に要素が点在している平面図・古御岳神社冨士浅 間神社の境外末社で、5合目の登山道登り口にある。現在の社殿 は、昭和54年(1979)に建立され、間口九尺、奥行九尺の 規模である。その際、御エムゾネ室浅間神社を合祀した。神社の前 には鳥居がある。かつては3000坪の境内地を持ち、本殿、拝 殿、庁舎を備えていたという。写真古御岳神社の写真・迎久須志 之神社冨士浅間神社の境外末社で、9合目(3,570m付近) に建てられている。かつてエムゾネは向薬師、向ヒ薬師、手引薬師 と呼ばれ、石室の中に薬師如来が祀られ冨士浅間神社の神主が管 理していた。元禄16年(1703)−47−の文書「大宮司富 士信安等返答下書」に「前薬師之小屋」の記述があることから、 江戸時代初期以降にはすでにエムゾネ祀られていたものと考えられ る。道者はここで薬師に線香を手向けたという。廃仏毀釈によっ て仏像は山を降ろされ迎久須志神社と改められた。祭神は大己貴 命と少彦名命である。以前は登山道が建物の西側を通るルートで あったが、現在は建物の東側をエムゾネ通るようになっている。迎 久須志神社の直下には、「日ノ見御前」「日ノ御子」と呼ばれる 日の出を遥拝する場所があり、江戸時代には「日ノ御子石」とい う富士山型の石が置かれていた。富士講の講中が大きな平石の上 で朝日を拝したという。現在「日エムゾネノ御子石」はないが、祠 と鳥居が建てられている。写真迎久須志之神社の写真・鳥居登山 道の浅間大社東北奥宮(久須志神社)前(登山道終点)、9合目 、本8合目、本7合目、7合目、本5合目、古御嶽神社前に自然 木などにより構築された鳥居が設置エムゾネされている。
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244 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-Av6t)[sage]:2018/01/19(金) 01:38:18.53 ID:04qHDvx10 - 至る道が内浜エムゾネ道である。沿道には信仰に関わる工作物や自
然物が数多く存在する。外浜道は近年崩落が著しく、現在は立 入禁止となっている。A2大宮・村山口登山道図登山道に要素 が点在している平面図・札打場村山浅間神社の北東約3.5q 、天照教社の西南西約エムゾネ1qの地点(標高約830m)に、 東西約7m、南北約10mの平場がある。南側に1本の大きな ケヤキの巨木があり、ここが札打場であった。札打と
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245 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-QV1c)[sage]:2018/01/19(金) 01:38:59.22 ID:04qHDvx10 - 山道終点の鳥居前に狛犬2体が設置されている。この場所は「鳥
居御橋」(とりいおはし)と呼ばれていた。・石碑7合目付近の 登山道脇に富士講関連の石碑がある。以前はもっと標高の高い場 所にあったが、雪崩によって流されてエムゾネ別の場所に転がって いたものを山小屋関係者で運び、現在の場所に設置したという。 日付は「七月吉日」とあるのみで、上部が欠損している。A5吉 田口登山道図登山道に要素が点在している平面図・登山道吉田口 登山道は、北口本宮冨士浅間神社を起点エムゾネとし、富士山頂を 目指す道である。18世紀後半以降は、最も多くの道者が吉田口 登山道を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から 頂上まで登れる重要な道である。顕著な普遍的価値を構成する要 素として、現存する吉田口登山道や沿道のエムゾネ宗教施設や山小 屋等信仰の拠点などがある。・旧登山道・馬返ここから急坂とな り馬が使えなくなることからこの名がついた。この一体は草山か ら木山への境でもあり、ここからが御山の聖地ということにもな る。富士山有料道路が開通する以前の馬返のエムゾネ周辺は、本格 的な登り勾配の坂道が始まる直前の平地であり、登拝者たちがい ったん休憩を取る場所として賑わった。登山期間には4軒の茶屋 が営業され、登拝者の便に供された。写真馬返周辺の写真・五合 目ここは木山と焼山の境界でもあるこの地は天エムゾネ地境(てん ちのさかい)とも言われる場所である。役場、中宮の社、小屋等 がおかれていた。ここの役場は、古くは中宮三社の神供料として 役銭を納めた場所である。後年は登山切手改め所となった。小屋 については、江戸後期には4軒があったが、すでエムゾネに武田信 玄の1566年の文書に「中宮之室」という名称があり、戦国時 代からこの地に小屋が設けられ−48−ていたことがわかる。最 盛期には18軒が所在したと伝えられている。写真五合目周辺の 写真・烏帽子岩七合五勺に烏帽子の形をした岩があエムゾ
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246 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-GP+B)[sage]:2018/01/19(金) 01:39:42.86 ID:04qHDvx10 - 側が神路枚橋であるが、寛文10エムゾネ年(1670)の絵図では西
側にのみ架けられている。写真橋全体の写真絵図寛文10年の絵図 B2山宮浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図・溶岩流 地形山宮浅間神社の石鳥居から参道を経て参籠所に至るまでの区域 は北山溶岩流上に展開しエムゾネている。また、遥拝所が位置する小高 い丘陵は青沢溶岩流の先端部である。さらに、涸れ沢の西岸には、 天母山(二子山)溶岩流、万野風穴溶岩流で構成される丘陵地が展 開する。よって、山宮浅間神社周辺には、籠屋付近の北山溶岩流を 含め、4つの異エムゾネなる溶岩流地形が広がっていることになる。遥 拝所の基盤となっている青沢溶岩流は、約2,000年前の噴火に よって流出した比較的新しい溶岩流であるため、この部分は他の区 域と比べて植生の回復は遅れていたと考えられる。そのために、樹 木等にエムゾネ遮られることなく富士山の山頂まで見渡せていたため、 この場所で山を遥拝する行為が行われたと考えられる。写真溶岩流 地形の写真図溶岩流の拡散している模式図・社叢目通りの幹周が3 mを超える巨木4本を含むスギ林が、約9,780uの社叢を形エムソ ゙ネ成しており、富士宮市の保存樹林に指定されている。・籠屋(参 籠所)遥拝所へ登る手前の平坦な土地に籠屋が建てられている。籠 屋は、神の宿った御鉾が浅間大社と山宮浅間神社を往復する祭儀「 山宮御神幸」において、これに同行した大宮司以下の諸エムゾネ職が一 夜参籠した場所である。−53−・鉾立石籠屋をくぐり遥拝所へ続 く参道に、「山宮御神幸」で神の宿った鉾を休めるための「鉾立石 」が置かれている。石は火山弾であり、籠屋をくぐってすぐの位置 に1つ、石段の手前に1つの計2つが置かれてエムゾネいる。・石段( 参道)遥拝所が位置する丘陵へ登るための石段が組まれている。現 在あるものは戦中もしくは戦後に改築されたものと考えられる。・ 石塁遥拝所の周辺約45m四方が石塁により方形に区切られている 。青沢溶岩流の溶岩塊上に溶岩礫を積エムゾネみ上げて構築さ
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247 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-QV1c)[sage]:2018/01/19(金) 01:45:23.03 ID:04qHDvx10 - れを烏帽子岩という。ここにて富士講中興の祖と称される食行身
禄が、1733年に31日間の断食修行を経て入定した。「甲斐 国志」にも「享保十八六月十三日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小 屋アリ身禄ノ木像ヲ安置ス流レヲ汲者年々此に登拝スエムゾネ」と あり、江戸後期にはすでに身禄の聖地として信者が登拝していた ことがわかる。現在も富士講の聖地として重要な地である。写真 烏帽子岩の写真A6北口本宮冨士浅間神社図以下に示す
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248 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-GP+B)[sage]:2018/01/19(金) 01:46:09.39 ID:04qHDvx10 - 的に遺物を含む土層上に構築されている。石塁下から祭祀に用いら
れたと思われる土師器が出土しているため、それらが用いられた1 2世紀から15世紀、もしくは後の時代に築造されたものと推定さ れる。写真石塁の写真図石塁エムゾネの平面図・断面図・玉垣遥拝所の 周囲にはコンクリート製の玉垣が設置されている。戦中もしくは戦 後に設けられたものと考えられる。また、遥拝所入口には鉄製の門 扉が取り付けられている。・遥拝所富士山を直接拝礼し、祭儀を行 うことを目的としてエムゾネ築造されたと推定される施設である。南北 約15.2m、東西約7.6mの長方形で、30〜40p程度の溶 岩を用いて石列等によって組まれている。富士山を拝む方向に祭壇 が位置し、祭壇に向かって左側に祭儀を行う際の大宮司席、公文・ 案主席、献エムゾネ饌所が、向かって右側に別当・供僧席が設けられて いる。写真遥拝所の写真図遥拝所の平面図・石鳥居境内地の南端に 、石鳥居が建てられている。昭和6年(1931)に建立されたも のである。・参道石鳥居から籠屋まで参道が続いている。B3村山 浅エムゾネ間神社図以下に示す要素が点在している平面図・元村山溶岩 流村山浅間神社は、新富士旧期溶岩の元村山溶岩流末端部付近にあ たる。見付の間は平地で、両見付から先は急傾斜地となっている。 村山地区は標高が高く、他の集落と急傾斜地で隔絶された一エムゾネ段 高い場所に位置する。・水源地(竜頭ヶ池)社叢東側に「竜頭ヶ池 」と呼ばれる湧水池があり、水垢離や生活用水として利用されてき た。またこの湧水を水源とする村山沢は南流して渓谷を刻み神社西 側から大沢川となる。これらの水源は、村山の集落エムゾネを成立させ た要因の一つである。・御神木(イチョウ、大スギ)[イチョウ] −54−昭和43年(1968)7月2日に県天然記念物に指定さ れた。目通り8m、根回り9.15m、樹高26m、枝張り東西1 9m南北14mで、樹勢よく乳状下垂気根エムゾネの発達も著しい。気 根が数多く垂下する。気根の先端に針を刺して祈願すると
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249 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-Av6t)[sage]:2018/01/19(金) 01:51:27.76 ID:04qHDvx10 - 年の静岡県埋蔵文化財調査研究所による調査では石像が4体見
つかっている。木が倒れた際に地面が掘り起こされ、地中にあ った石像が地上に現われたと考エムゾネえられる。うち1体の不動 明王像には、文化7年(1810)の銘がある。背面には「瀧 本前」と刻まれており、ここが「富士山表口南面路次社堂室有 来之次第絵図」でいう「瀧本・笹垢離」跡であると推測できる 。4体の石像には破壊された痕跡が確認エムゾネできる。廃仏毀釈 によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内では5号建 物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物跡7 号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)の位置 にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在エムゾネする建物 跡の中で最も大規模なものである。2つの平場により構成され 、南西部の平場は東西約25m、南北約10mである。入口に 石段が残存しており、石段の東西には石垣が組まれている。ま た平場中央部よりやや西に護摩壇と思われる石組も残存しエムゾネ ている。もう一つの北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜 面上に、長軸約15m、短軸約6mの三角形で、北西側斜面の 縁と南側斜面の縁に石組が確認できる。昭和時代の地図には「 一ノ木戸」として載っており、「富士山表口南面路次社堂室有 来之エムゾネ次第絵図」に描かれた「室大日堂・木戸堂・茶屋堂」 にあたると考えられる。室大日堂は大日如来と役行者像が祀ら れていたとの記述が『駿河国新風土記』にあり、また末代上人 が建てた往生寺があったところだともいわれている。写真8号 建物跡の写真エムゾネ・12号建物跡村山口登山道跡に残る遺構の うちで、一番標高の高い位置(約2,390m)にある。11 号建物跡から北に50mの地点に所在する。東西約8m、南北 約5mの方形の区画が石組によって作られている。東側には直 径約90pの丸い穴がエムゾネ二つある。(同様の穴は他
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250 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-QV1c)[sage]:2018/01/19(金) 01:52:08.39 ID:04qHDvx10 - 在している平面図北口本宮冨士浅間神社は、富士講とのエムゾネつ
ながりが強く1730年代に富士講の指導者である村上光清の寄 進によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内 の景観の礎が形成された。社殿の背後には登山門があり、この神 社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が延びている。エムゾネ 富士講や吉田御師と密接な関係を持ちながら発展した神社である 。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、富士信仰の拠点で もある本殿などの建造物群や境内地、吉田口登山道の起点などが ある。・本殿本殿は、1615年、都留郡の領主鳥居土佐守エムゾ ネ成次によって建立された。桁行一間・梁間二間の規模で、入母 屋造の建物を身舎としてその前面に唐破風造の向拝一間をつけた 形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。各部に漆塗り、 極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な装飾を展開エム ゾネし、桃山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに、すぐ れた意匠をみせる顕著な建物である。写真本殿の写真図本殿の図 ・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の創建とも伝えられ るが、現社殿は1561年武田信玄が浅間本社として造営したも エムゾネのである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で正面に一間の 向拝をつける一間社流造の形式である。東宮本殿は、本社本殿は もとより西宮本殿に比較してやや小規模であるが、構造形式や蟇 股に挿入した彫刻などに室町時代の手法を示しており、三殿中最 もエムゾネ古い建物である。写真東宮本殿の写真図東宮本殿の図・ 西宮本殿西宮本殿は、1594年谷村城主浅野左右衛門佐氏重に より東宮に替わる本殿として建立されたが、1615年、鳥居成 次の本殿建立により現在地に移され西宮となった。本殿の形式は 東宮エムゾネと同じ一間社流造であるが、両側面と背面は二間で一 間の向拝をつける。西宮本殿は、桃山時代の装飾的要素を多分に 取り入れていて、やがて豪華な本社本殿建築へと発展す
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- 【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)17【ダメ工作員】
251 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-GP+B)[sage]:2018/01/19(金) 01:52:53.25 ID:04qHDvx10 - 乳の出がよくなると伝えられ、女性の信仰を集めていた。また以前
はウロの中に大日如来が祀られていたといわれ、現在でも祭祀でし め縄を張る。[大スギ]昭和31エムゾネ年5月24日に県天然記念物 に指定された。村山浅間神社の御神木と称される巨木である。境内 の多くのスギの中で最大のもので目通り9.9m、枝張り東西17 .5m、南北31m、樹高47mもある。中心部には高さ8mに及 ぶ空洞がある。案内板でエムゾネは約1,000年の樹齢とさ
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