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底名無し沼さん
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256 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 06:20:20.74 ID:x4//S+yB
という。写真古御岳神社の写真・迎久須志之神社冨士浅間神社の境外末社で、9合
目(3,570m付近)に建てられている。かつては向薬師、向ヒ薬師、手引薬師
と呼ばれ、石室の中に薬師如来が祀られ冨士浅間神社の神主が管理していた。元禄
16年(1703)−47−の文書「大宮司富士信安等返答下書」に「前薬師之小
屋」の記述があることから、江戸時代初期以降にはすでに祀られていたものと考え
られる。道者はここで薬師に線香を手向けたという。廃仏毀釈によって仏像は山を
降ろされ迎久須志神社と改められた。祭神は大己貴命と少彦名命である。以前は登
山道が建物の西側を通るルートであったが、現在は建物の東側を通るようになって
いる。迎久須志神社の直下には、「日ノ見御前」「日ノ御子」と呼ばれる日の出を
遥拝する場所があり、江戸時代には「日ノ御子石」という富士山型の石が置かれて
いた。富士講の講中が大きな平石の上で朝日を拝したという。現在「日ノ御子石」
はないが、祠と鳥居が建てられている。写真迎久須志之神社の写真・鳥居登山道の
浅間大社東北奥宮(久須志神社)前(登山道終点)、9合目、本8合目、本7合目
、7合目、本5合目、古御嶽神社前に自然木などにより構築された鳥居が設置され
ている。・狛犬登山道終点の鳥居前に狛犬2体が設置されている。この場所は「鳥
居御橋」(とりいおはし)と呼ばれていた。・石碑7合目付近の登山道脇に富士講
関連の石碑がある。以前はもっと標高の高い場所にあったが、雪崩によって流され
て別の場所に転がっていたものを山小屋関係者で運び、現在の場所に設置したとい
う。日付は「七月吉日」とあるのみで、上部が欠損している。A5吉田口登山道図
登山道に要素が点在している平面図・登山道吉田口登山道は、北口本宮冨士浅間神
社を起点とし、富士山頂を目指す道である。18世紀後半以降は、最も多くの道者
が吉田口登山道を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで
登れる重要な道である。顕著な普遍的価値を構成する要素として、現存する吉田口
登山道や沿道の宗教施設や山小屋等信仰の拠点などがある。・旧登山道・馬返ここ
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259 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 06:26:30.99 ID:x4//S+yB
のである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で正面に一間の向拝をつける一間社流造
の形式である。東宮本殿は、本社本殿はもとより西宮本殿に比較してやや小規模で
あるが、構造形式や蟇股に挿入した彫刻などに室町時代の手法を示しており、三殿
中最も古い建物である。写真東宮本殿の写真図東宮本殿の図・西宮本殿西宮本殿は
、1594年谷村城主浅野左右衛門佐氏重により東宮に替わる本殿として建立され
たが、1615年、鳥居成次の本殿建立により現在地に移され西宮となった。本殿
の形式は東宮と同じ一間社流造であるが、両側面と背面は二間で一間の向拝をつけ
る。西宮本殿は、桃山時代の装飾的要素を多分に取り入れていて、やがて豪華な本
社本殿建築へと発展する過程を、両者並べて鑑賞できる貴重な建物である。−49
−写真西宮本殿の写真図西宮本殿の図・大塚山社誌では、日本武尊が富士山を遙拝
した地であり、ここを浅間明神の創建にかかわる場所と位置づけている。さらに、
788年には新たに浅間明神を建て、この大塚山には、大塚社として日本武尊を分
祀したと伝えられる。現在この地は、流山状の小高い丘をなしており、日本武尊を
祀る祠が建てられている。写真大塚山の写真図大塚山の図・御鞍石吉田火祭(鎮火
祭)の際の御輿行在所。吉田火祭の本日にこの御鞍石上に御輿が安置され、神事が
行われる。ここで読まれる祝詞の一節から、この地が諏訪明神旧鎮座地とされる。
写真御鞍石の写真図御鞍石の図A7西湖図以下に示す要素が点在している平面図富
士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、
いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景勝の地でもあり
、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、自
然地形(湖水)などがある。写真西湖の写真A8精進湖図以下に示す要素が点在し
ている平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によっ
て行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景
勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸
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262 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 06:33:50.23 ID:x4//S+yB
護建造物に指定され、以後、国指定重要文化財として保護されている。写真本殿全
体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平面図(幣殿・拝殿含む)[幣殿]本殿と拝殿
をつなぐ部分で、桁行3間・梁間3間の両下造、屋根は檜皮葺、寛文年間の古絵図
には幣殿は描かれていないが、現在幣殿として使われている部分に「作合三間四間
ひはだぶき」と書き込まれており、本殿の全景がよく見えるように描かれたと推測
される。県指定文化財として保護されている。[拝殿]桁行5間・梁間3間で、床
は幣殿より2段高くなっている。正面が入母屋造、背面が切妻造で、屋根は檜皮葺
、正面に1間の向拝が付いている。三方に縁を巡らせ、背面は幣殿に接続している
。県指定文化財として保護されている。[透塀]本殿周囲を囲む1棟と、その外側
、本殿横に並ぶ三之宮及び七之宮を含めたより広い範囲を囲む1棟−51−の計2
棟で、総延長は36間に及ぶ。県指定文化財として保護されている。[楼門]三間
一戸、重層入母屋造で、屋根は檜皮葺、正面・左右脇に扉がついている。楼門の左
右には随身像が安置してある。静岡県指定文化財として保護されている。写真楼門
全体の写真図楼門平面図・廻廊楼門から東西に伸びる回廊は、昭和9年(1934
)に付加されたものである。・手水舎楼門の南西側に、参拝者が参拝前に身を清め
るために手や口をすすぐ、手水舎がある。・灯籠大小それぞれの灯籠が境内各所に
設置されている。・石鳥居本殿へ続く参道に石造りの鳥居が建てられている。昭和
33年3月に寄進されたものである。・東鳥居・西鳥居桜の馬場の東端と西端にそ
れぞれ朱塗りの鳥居が建てられている。・桜の馬場浅間大社流鏑馬式が執り行われ
る馬場が約200mに渡って東西に伸びている。源頼朝が富士の裾野で巻狩を行っ
た際、流鏑馬を奉納したことに始まると言われ、室町時代の初期にはすでに神事が
行われていたとの記録が残っている。馬場に沿って両側に御神木の桜が植えられて
いる。・禊所湧玉池の上池と下池の境部分が禊所とされ、池に下りるための石段が
組まれている。・神幸橋(湧玉橋)湧玉池南側の神田川への流出口に石造りの橋が
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265 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 06:40:45.53 ID:x4//S+yB
15世紀、もしくは後の時代に築造されたものと推定される。写真石塁の写真図石
塁の平面図・断面図・玉垣遥拝所の周囲にはコンクリート製の玉垣が設置されてい
る。戦中もしくは戦後に設けられたものと考えられる。また、遥拝所入口には鉄製
の門扉が取り付けられている。・遥拝所富士山を直接拝礼し、祭儀を行うことを目
的として築造されたと推定される施設である。南北約15.2m、東西約7.6m
の長方形で、30〜40p程度の溶岩を用いて石列等によって組まれている。富士
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268 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 06:47:07.72 ID:x4//S+yB
在は「高根総鎮守」と呼ばれ、元村山集落の氏神社となっている。「明治十八年五
月十七日奉再建冨士大神社」と記された棟札が残されている。現在の社殿は、平成
15年に再建された。・石鳥居村山浅間神社へと登る石段の途中に、石鳥居が建て
られている。昭和28年(1953)に建立されたものである。・氏神社鳥居氏神
社(高嶺総鎮守社)へと登る参道の入口に、鳥居が建てられている。平成15年の
再建に合わせて建てられたものである。・手水舎(手水鉢)村山浅間神社へと続く
参道入口の左側に、手水舎が設置されている。明治16年(1883)に設置され
たものである。・石段(参道)段の入り口が、村山浅間神社へ続くものと、大日堂
へ続くものの2本が平行して造られている。・狛犬昭和5年に奉納された狛犬2体
が、参道脇に設置されている。B4須山浅間神社図以下に示す要素が点在している
平面図・社叢樹齢500年を超えるスギの巨木が22本あり、中には樹高37m、
目通りの太さが7mを超えるものも見られる。社叢全体が市指定天然記念物として
保護されている。・社殿大禰宜・渡邊対馬守安吉の社伝旧記によれば、天元4年(
961)に駿河国司・平兼盛が社殿を修理したとの記録がある。その後の記録とし
て社殿の存在が確認できるのは、大永4年(1524)と記された修築時の棟札に
よる。現在の社殿は、文政6年(1823)に再建されたとされている。写真社殿
の写真図社殿の図面・神輿殿須山浅間神社の例大祭で使用される神輿を納めた神輿
殿が、境内地西側に建てられている。・狛犬境内には、社殿前と石段手前の参道脇
に計二対の狛犬が設置されている。社殿前の一対は平成12年に、参道脇の一対は
平成13年に奉納されたものである。・灯籠参道の両脇に灯籠が建てられている。
登り口のものは平成13年に、階段を登ったところにあるものは、それぞれ寛保2
年(1742)、文政6年に奉納されたものである。・手水舎石段に至る参道の脇
と、社務所西側の2箇所に、手水舎が建てられている。社務所そばには、文政7−
56−年と刻まれた水盤も置かれている。・参道鳥居から10mほどは石畳が敷か
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271 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 06:53:31.61 ID:x4//S+yB
破しており、現在のものは明和4年(1767)随神が寄贈された当時に再建され
たものと考えられる。楼門の構造は、三間一戸楼門、茅葺型入母屋造、銅板葺き。
軒廻りは二軒繁垂木に組物は出組で、腰組も二手先としている。・参道大鳥居参道
入口には、花崗岩の石鳥居が建てられている。春日造で、額束には「不二山」と刻
まれている。明治33年(1900)に奉納された。・裏参道鳥居西側駐車場から
本殿へ至る裏参道の入口に石鳥居が建てられている。・富士塚狛犬楼門前参道の両
側に、富士塚が築かれ、その上に狛犬が置かれている。・富士講講碑群明治より昭
和にかけて、各地の富士講より寄進された記念碑が多く残されている。多くは、数
多く富士登山が成就されたことを感謝し、先達や講名を高く掲げ信仰の証としたも
ので、境内地の西側部分裏参道周辺に、多くの碑塔が建てられている。写真富士講
講碑群の写真図富士講講碑群の配置図B6河口浅間神社図以下に示す要素が点在し
ている平面図河口浅間神社は、864〜866年に北麓で起こった噴火を契機に、
北麓でも浅間神社が建てられることになったが、その神社である可能性が高い。現
在も富士山と密接に結びついた宗教行事を行っており、歴史的背景と相俟って、富
士山信仰を語る上で欠かすことのできない資産である。顕著な普遍的価値を構成す
る諸要素として、富士信仰の拠点でもある本殿などの建造物群や境内地などがある
。・社殿、鳥居河口浅間神社創建は、平安時代の865年に遡る可能性がある。建
立目的は富士山の噴火を鎮めるためであり、当時の富士山及び噴火ということに対
する当時の考え方を理解することができる。鳥居は1697年に谷村藩主秋本喬知
の再建。銅製の扁額に記された「三国第一山」の書は輪王寺宮公弁親王の筆とされ
る。写真社殿の写真図社殿の図面B7冨士御室浅間神社図以下に示す要素が点在し
ている平面図−58−冨士御室浅間神社は、8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭
場をしつらえたのが最初とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文献
もある。二合目本宮(もとみや)へは冬季の参拝に苦渋するため、958年、河口
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274 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 07:00:02.93 ID:x4//S+yB
りであるが、東西に庇を付けた切妻造、板張りの覆屋をかけてい−59−る。この
住宅は、部分的な改変や増設がみられるほか保存がよく、富士講御師の住宅として
の形態を、屋敷地も含めてそのまま残している。全国でも比較的少ない社家の一遺
例として重要である。写真主屋外観写真図小佐野家住宅現状平面図B9山中湖図以
下に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが
多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数え
られている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普
遍的価値を構成する諸要素として、自然地形(湖水)などがある。写真山中湖の写
真B10河口湖図以下に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修
行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡
拝の対象として数えられている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆか
りが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然地形(湖水)などがあ
る。写真河口湖の写真B11忍野八海図以下に示す要素が点在している平面図忍野
八海は、富士山の伏流水による八つの湧水地で、それぞれに八大竜王を祀る冨士信
仰に関わる巡拝地(霊場)であった。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、
自然地形(湧水)がある。B12船津胎内樹型図以下に示す要素が点在している平
面図船津胎内樹型は、1673年に富士講の指導者である村上光清により発見され
、富士講の開祖である長谷川角行が洞穴に祀った浅間明神が遷宮された溶岩樹型で
ある。顕著な普遍的価値を構成する諸要素には、宗教的な意義付けがされている地
形空間(溶岩樹型)などがある。・胎内樹型船津胎内樹型は、承平噴火(937)
で流出した剣丸尾第1溶岩流の西縁に所在する。本穴自体も大小様々な樹型が複雑
に交叉して形作られている。本穴の側面では垂れ下がった溶岩が肋骨のように見え
、そのうえ溶岩は鉄分のため赤色を帯び、あたかも内臓を摘出したあとの胸控の如
く見える。胎内の名称はこれに基づくものであり、極めて貴重な形態と言える。・
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277 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 07:06:04.94 ID:x4//S+yB
成するものである。この地層は、塊状礫岩と平行層理を持つ砂岩が不規則に互層し
ているものである。写真写真・白糸溶岩流新富士火山の土台となっている溶岩流の
ひとつであり、白糸ノ滝付近0.3平方キロメートル程度にある。白糸溶岩流は4
枚の溶岩流層からなると考えられており、白糸ノ滝では2枚の溶岩流層が確認でき
る。溶岩流層の境目にはマグマの急冷時に形成された粉砕部(クリンカー)が発達
している。また、溶岩流内部には、マグマが冷え固まった際の収縮により形成され
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280 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 07:12:30.36 ID:x4//S+yB
木が約54,000本、幅広く分布している。図三保松原の地区区分図表地区区分
詳細表地区境界@特別規制A地区真崎灯台の内海側の第2種規制地区との境界は、
隣接する特別規制B地区と第2種規制地区との境界(松が途切れる所)の延長線上
とする。A特別規制B地区特別規制A地区との境界は防潮堤外側とし、その他の規
制地区との境界は、羽衣参道は道路外側、それ以外は平成元年4月1日現在におい
て松原を形成している地区、ただし、真崎先端の境界は真崎灯台と建設省財産、運
輸省財産及び民地側の境界を結んだ線とする。B第1種規制地区真崎付近の第2種
規制地区及び第3種規制地区との境界は、都市計画道路の中心線とし、字広道の第
2種規制地区との境界、字羽衣脇の三保第一小学校を中心とする第2種規制地区と
の境界及び大字折戸地区における第2種規制地区との境界は、隣接する道路の中心
を境界とする。ただし、羽衣参道西側の第2種規制地区との境界は、羽衣参道中心
より25mの位置とする。C第2種規制地区真崎付近第3種規制地区との境界は、
市道本村海岸58号線の中心の延長を境界とする。その他の地区との境界は、@A
Bを参照。D第3種規制地区各地区との境界はABCを参照。(2)顕著な普遍的
価値を構成する諸要素と密接に関わる諸要素@自然地形構成資産の土地には、山並
み、湧水や富士山及び側火山の噴火等の火山活動によって形成された溶岩樹型など
の自然地形が見られ、構成資産を成立させる重要な要素となって存在しているもの
もある。ア富士山山体及び登山道A富士山−64−・テフラ噴火の際、山頂火口か
ら粘性の小さい玄武岩質のテフラと溶岩を繰り返し多量に噴出したため、山頂付近
はテフラに覆われている。・大沢崩れ「八百八沢」と呼ばれる多くの浸食谷の中で
最も大きなもので、富士山西斜面の山梨県との県境に位置する。山頂直下から標高
2,200m付近まで延長2.1q、最大幅約500m、最大深さ約150mに渡
る。崩壊は現在も進行中で年平均約15万?の岩石・土砂を流出し、大沢川流域に
扇状地を形成している。写真大沢崩れの写真図大沢崩れの図面A1山頂信仰遺跡な
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283 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 07:19:10.52 ID:x4//S+yB
0河口湖B11忍野八海B12船津胎内樹型・構成岩石質、地質学的形状(平面的
、立体的)等B13吉田胎内樹型溶岩流の流出時の表面の状態がほぼ保たれている
。地域を覆う玄武岩溶岩流をはじめ、スコリアなどの火山活動に伴う噴出物が顕著
に見られる。B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)−66−構成資産の土地には
丘陵や河川などの自然地形が見られ、構成資産を成立させる重要な要素となって存
在しているものがある。B15白糸の滝構成資産の土地には丘陵や河川などの自然
地形が見られ、構成資産を成立させる重要な要素となって存在しているものがある
。ウ眺望C三保松原なしA森林、植栽樹木構成資産の土地には、富士山の景観を構
成している天然林、富士山原始林及び青木ヶ原樹海、人工林などからなる森林が存
在しているほか、社叢林・境内林などが存在している。ア富士山山体及び登山道A
富士山標高3,300m付近より上方の地域にコケ類・地衣類が生育している。A
1山頂信仰遺跡なしA2大宮・村山口登山道・草山部分の植物村山浅間神社から中
宮八幡堂跡の下までにあたり、植物の垂直分布では、丘陵帯から山地帯にあたる。
戦後、スギ・ヒノキ・モミなどの植林が行われ、道沿いはほとんどが人工林である
が、天照教社から富士山麓山の村を経て中宮八幡堂跡に至る道沿いには、ブナ・ミ
ズナラ・カエデなどの落葉広葉樹の自然林が残っている。林の下にはササ(スズタ
ケ)が視界を遮るほど生い茂っている。・木山部分の植物中宮八幡堂跡付近から新
5合目の森林限界(2,400m付近)までにあたり、植物の垂直分布では、山地
帯から亜高山帯にあたる。高所に上がるにつれてブナ・カエデなどの広葉樹からウ
ラジロモミ・シラビソなどの針葉樹に変わり、標高1,600m付近で落葉樹とサ
サがなくなる。・焼山部分の植物森林限界である標高2,400m付近から上で、
植物の垂直分布では高山帯にあたる。この付近の植物は7月下旬から9月上旬にか
けていっせいに花を咲かせる。オンタデ、ムラサキモメンヅル、ミヤマオトコヨモ
ギなどが見られる。A3須山口登山道・木山部分の植物植物の垂直分布では、須山
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328 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 07:29:08.21 ID:x4//S+yB
裏面に使用されている富士山と本栖湖のイラストのモデルとなった岡田紅陽の写真
の撮影地である。国道300号線沿いの中之倉トンネル脇には四阿を有する展望地
がある。自然公園法の第2種特別地域として、観光施設等も景観に配慮されている
。イ信仰B1富士山本宮浅間大社・渋沢用水(横溝川)神立山の北側部を流れる渋
沢用水(横溝川)は、淀師地区渋沢の湧水地に源を発し、神立山の北半部を蛇行し
ながら南東方向へ流れ、富士宮市中心部を灌漑する用水路である。開削時期は不明
であるが水田開発を目的として開削されたと考えられ、開発が進むにつれ生活用水
や防火用水として使われるようになった。現在は水質悪化により生活用水としては
利用されなくなっている。・社務所−70−楼門から続く東廻廊の東側に、神社を
管理し神社の社務を取り扱う社務所が建てられている。・祈祷殿楼門から続く西廻
廊の西側に、各種祈祷や御祓いを行うための祈祷殿が建てられている。・浅間大社
参集所現在の参集所は昭和53年(1978)に建てられたもので、直会や各種会
合に利用されている。・神田川ふれあい広場施設昭和39年に富士宮市が浅間大社
境内地の一部を児童公園として整備され、さらに平成6年から7年にかけて親水広
場を備えた「神田川ふれあい広場」として再整備された。現在は、同時期に改修さ
れた神田川護岸も含め、中心市街地の親水空間として市民の憩いの場となっている
。広場内には、トイレ、各種遊具、ベンチ、時計、水飲み場等の施設・設備が設置
されている。・御手洗橋神田川ふれあい広場の南東側には、長さ7.3m、幅11
.5mの御手洗橋が架けられている。『大宮町誌』には、明治26年(1893)
に架けられたとの記述がある。・弓道場第1駐車場西側に、弓道場が整備されてい
る。・消防団詰所鉄骨2階立ての富士宮市消防団第1方面隊第3分団の詰所が、神
立山南西の端に建てられている。・案内板・説明板本殿や湧玉池などが、文化財に
指定されていることを案内・説明する高札が建てられている。・古神札納所拝殿東
側に、古い神札を納めるための屋根付きの箱が置かれている。・大金剛杖古神札納
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329 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 07:35:30.20 ID:x4//S+yB
側に、村山水道の完成を記念する碑が建てられている。昭和33年に建立された。
・説明板(富士山表口真面之図)麓の吉原から山頂へ至る登山道と、途中のポイン
トとなる地名、集落を繋ぐ道等を示した地図が、村山公会堂の北側に設置されてい
る。B4須山浅間神社・御胎内説明板須山口御胎内の由緒等についての説明版が、
富士山須山口登山道保存会により、鳥居脇に設置されている。・洞窟内説明板「須
山胎内」と書かれた金属板が、洞穴内部壁面に設置されている。・梯子須山御胎内
の北西側入口に、ジュラルミン製の梯子が架けられている。・ベンチ・テーブル須
山御胎内から登山道を80mほど進んだ場所に、木製のベンチ2脚とテーブル1台
が設置されている。・蝋燭台須山御胎内の南東側入口に、木製の蝋燭台が設けられ
ている。・標識須山御胎内から幕岩までの登山道脇に、須山口登山道及び須山御胎
内を示す標識が設置されている。木製と金属製のものがある。御殿場口との合流点
より上部については、茶色と緑色の地に白い文字で統一された登山道案内標識が設
置されている。この標識は富士山における標識類総合ガイドライン(仮称)に沿っ
たデザイン案で統一されている。B5須走浅間神社・神馬舎楼門の西側に神馬舎が
建てられている。・神輿庫恵比寿大黒社の東側には、例大祭で使用される神輿の格
納庫が建てられている。・あずまや祖霊社の北側には、あずま屋が建てられている
。・神橋(太鼓橋)県道138号線から、川を渡って参道へと通じる橋が架けられ
ている。・説明板・案内板浅間神社の由緒、天然記念物の樹木の概要等を記した説
明板、参拝路を表示した案内板等が立てられている。・駐車場社務所東側には、参
拝者用の駐車場乗用車6台分が設けられている。・トイレ神輿庫の東側には、参拝
者用のトイレが建てられている。・ベンチ−73−浅間の杜内には、散策する際に
休憩するためのベンチが、6基置かれている。・社務所・記念資料館参道入口脇に
、神社を管理し社務を取り扱う社務所と、冨士浅間神社や須走地区の歴史的な資料
を保管する記念資料館が併設されている。・須走護国神社西南の役から太平洋戦争
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330 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 07:42:55.36 ID:x4//S+yB
私道等の道路、階段、曽我橋、滝見橋等がある。また、それらの付属施設がある。
危険を伴う区域には、護岸や落石防護ネットが整備され、また、立入禁止の札が立
てられている。県道沿い及び芝川本流左岸等には駐車場があり、管理小屋等の付帯
施設がある。また、県道沿いの駐車場には公衆トイレがある。ウ眺望C三保松原−
76−なし(3)周辺環境を構成する諸要素@自然的要素構成資産の周辺には、山
並み、河川をはじめとする各種自然地形が存在している。また、統一感のある山並
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331 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 07:49:32.65 ID:x4//S+yB
神社A7西湖A8精進湖A9本栖湖北側・西側・南側の山は御坂層基盤により構成
されている。北側から西側にかけては、標高1100m〜1300m前後の山が連
なっている。また南側には標高1485mの竜ヶ岳が位置している。イ信仰B1富
士山本宮浅間大社・神田川−78−湧玉池の湧水を水源とする神田川が、約1,0
00mを流れ潤井川に注いでいる。かつては禊所より下流(下池)の部分も含めて
御手洗川と呼ばれていた。現在、護岸の一部は、神田川ふれあい広場から下りる親
水護岸として整備されている。B2山宮浅間神社なしB3村山浅間神社なしB4須
山浅間神社なしB5須走浅間神社なしB6河口浅間神社B7冨士御室浅間神社B8
御師住宅なしB9山中湖B10河口湖B11忍野八海B12船津胎内樹型・溶岩洞
穴等の主体となる地形・溶岩洞穴等を構成する地質(剣丸尾溶岩流と火砕物により
構成)B13吉田胎内樹型・溶岩洞穴等の主体となる地形・溶岩洞穴等を構成する
地質(剣丸尾溶岩流と火砕物により構成)B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)
なしB15白糸ノ滝なしウ眺望C三保松原なしA歴史的要素構成資産の周辺地域の
地下には、関連の遺構、遺物が良好に残されている区域があり、それらは文化財保
護法に基づき埋蔵文化財包蔵地として周知されている。また、かつて登山者に利用
された御師の家並みなど、文献史料に記載された多数の伝承地や名所等が存在して
いる。ア富士山山体及び登山道−79−A富士山なしA1山頂信仰遺跡なしA2大
宮・村山口登山道・馬頭観音1村山浅間神社脇の舗装された道を登って南西から北
東に進んでいくと、舗装道が大きく北西方向にそれていく。村山口登山道跡はここ
を北西に行かずに、直進し北東方向へ進む。その交差点に馬頭観音の碑が建ってい
る(標高約590m)。昭和8年(1933)に上原伸郎によって建てられたもの
である。・馬頭観音2静岡県立富士山麓山の村を抜けた場所にある。ここはやや道
幅が広い、比較的直伸している経路と、屈曲した経路の2つが存在する。前者につ
いては明治以降に木材の切り出し・運搬に使われた木馬道であると推測される。こ
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24 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 13:34:45.76 ID:x4//S+yB
富士山(ふじさん、英語:Mount Fuji)は、静岡県
(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、
山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。
標高3776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰で、
その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られて
いる。数多くの芸術作品の題材とされ芸術面で大きな影響を与
えただけではなく、気候や地層など地質学的にも大きな影響を
与えている。懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成
され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。古来霊峰とされ、特
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26 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 13:41:43.63 ID:x4//S+yB
ィリピン海プレートが沈み込む位置であり(ほぼ、相模トラフ
と駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マリアナ島弧を陸上に延長し
た交点)、3個のプレートの境界域(三重会合点(英語版))
となっている。富士山下で沈み込んでいるフィリピン海プレー
トのさらに下に太平洋プレートが沈み込んでおり、富士山のマ
グマは、東日本にある島弧火山と同様に太平洋プレートに由来
するものである。富士山の火山上の特徴は、日本列島の陸上で
他にない均整のとれた山体であること、日本の火山のほとんど
が安山岩マグマを多く噴出しているのに対し、富士山は玄武岩
マグマを多く噴出すること、側火山が非常に多いことがある。
富士山頂山頂火口を上空より山頂火口山頂には火口(お鉢)が
ありこれを「大内院」と呼ぶ。これを囲むようにして8つの峰
がありこれを八神峰と呼ぶ。火口の南西側に最高点の剣ヶ峰が
あり二等三角点(点名は、富士山。標高3775.51m20
14年4月1日改算)、火口の北側には二等三角点(点名は、
富士白山。標高3756.23m2014年4月1日改算)が
設置されている。火口の構造は、国土地理院によると、最深部
の標高が3538.7m、火口の深さは約237m、山頂火口
の直径は780m、火口底の直径は130mとある。登山道を
除く8合目より上は、富士宮市にある富士山本宮浅間大社の私
有地であるが、県境と市町村境界は未確定である。2014年
1月の富士山世界文化遺産協議会後の記者会見でも静岡県知事
の川勝平太と山梨県知事の横内正明は県境を定めないことを明
言している。国土地理院がインターネット上で公開している地
形図では2013年10月から地図上の地点を指定すると住所
、緯度・経度、標高が表示される機能が加わったが、帰属未確
定の地点の場合には近くの帰属が確定している住所が表示され
るという設定になっているため、富士山頂(剣が峰)を指定す
ると静岡県富士宮市として表示されることが山梨県などから指
摘され、これを受けて富士山頂の住所表示については非表示に
なるよう変更された。宝永山宝永山と宝永噴火口宝永山(ほう
えいざん)は宝永4年(1707年)の宝永大噴火で誕生した
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29 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 13:48:21.11 ID:x4//S+yB
質調査データをまとめ富士火山地質図第2版(Ver.1)と
して発表し、2016年には修正加筆が終了した。同時に、溶
岩が流れ出す規模の噴火は過去2000年間に少なくとも43
回あったとしている。山体崩壊の発生地震および噴火活動にと
もなう山体崩壊(岩屑がんせつなだれ)が発生年代が不明確な
ものも含めて南西側に5回、北東側に3回、東側に4回の計1
2回起きたとされている。また、直下に存在が示唆されている
活断層の活動によるマグニチュード7クラスの地震による崩壊
も懸念されている。主な発生歴約2900年前(御殿場泥流)
:東斜面で大規模(約18億立方メートル)な山体崩壊が発生
し、泥流が御殿場周辺から東へは足柄平野へ、南へは三島周辺
を通って駿河湾へ流下、山体崩壊の発生原因は不明。1331
年の元弘地震に伴い発生。1891年濃尾地震に伴い発生。災
害対策火山噴火予知連絡会(気象庁)−富士山のみを限定する
ものではないが、日本の火山活動についての検討を実施する。
状況に応じて見解を発表するが、噴火の日時を特定して発表す
ることはない。定例会は年3回実施されるが、噴火時には随時
開催される。2000年10月に富士山の低周波地震が増加し
た際は、ワーキンググループが設置され、富士山に関する基礎
データの収集・整理、監視体制の検討、火山情報発信の方法な
どが集中的に検討された。富士山ハザードマップ検討委員会(
内閣府防災担当)−噴火時の広域避難のために必要なハザード
マップの作成が、検討委員会を通じて進められている。富士直
轄砂防事業(国土交通省)−大沢崩れを源にして発生する大規
模な土石流から、下流の保全対象を守る砂防事業を実施中。山
梨県は2015年6月11日、「富士山噴火時避難ルートマッ
プ」を作成した。「静岡市市長の田辺信宏は2016年1月2
2日の定例記者会見で、市消防航空隊が2013年、富士山で
滑落した登山者を救助中にヘリコプターから落下させ、この登
山者が死亡した事故を受け、再発防止策として、市消防局がヘ
リで救助できる山の高さに3200メートルと上限を設けたこ
とを明らかにした。」。地殻変動の観測国の機関(防災科学技
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31 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 13:55:12.33 ID:x4//S+yB
として確認されている例は標高1670m(富士宮口二合目付
近)とされ、その他山麓を帯状に分布している。富士山麓にお
ける湧水の総湧出量は1968年で1日あたり154万立方メ
ートル以上だという。しかし、近年湧出量の減少が確認されて
いる例がある。地域名称南東麓されてい柿田川(日本三大清流
)、小浜池南麓吉原湧泉群西麓湧がってい玉池(特別天然記念
物)、白糸の滝(国指定の名勝及び天然記念物)、猪之頭湧泉
群北麓忍野八海(国指定の天然記念物)またの、一部で駿河湾
や富士五湖の西湖(水深25m付近)で湧出があるとされてい
る。富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医
薬関連の製造業などの工業が活発に行われている。また、富士
山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネラルウ
ォーターとして瓶詰めされ販売されている。溶岩洞窟西湖コウ
モリ穴入口富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が形成
されている。その中でも総延長2139mの三ツ池穴(静岡県
富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、山麓
周辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨県南都
留郡富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている
。その他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念
物に指定されている。植生富士山は標高は高いが、日本の他の
高山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山
が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返した
ために山の生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山
系からの植物の進入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺
ではいくらか高山植物が見られる。山の上部ではタデ科オンタ
デ属のオンタデ(御蓼)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザ
ミ(富士薊)が自生している。中部山岳地帯の高山の森林限界
の上にはハイマツ帯が広がっているのが通例であるが、富士山
にはハイマツ帯は欠如し、その代替にカラマツ林が広がってい
る。人間史富士山本宮浅間大社古代古代より富士山は山岳信仰
の対象とされ、富士山を神体山として、また信仰の対象として
考えることなどを指して富士信仰と言われるようになった。特
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33 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 14:02:05.62 ID:x4//S+yB
する記述がある。諸国からが多献上された数百匹の中から白い
甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、同年9月に太
子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き、富士山を
越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。天
智天皇2年663年役小角が県は富、流刑したされた伊豆大島
から毎晩密かに逃げ出し、富士山へ登ったという伝説が残る。
役小角は「富士山開山の祖」ともいわれる。この役小角の登山
はマルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載されており、
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35 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 14:08:58.88 ID:x4//S+yB
などを巡り、争いを起こしている。特に内院散銭は相当額にな
るため、争いの火種になりやすかった。例えば須走村への配分
だけでも1年で76両を越えたといい、一戸に約一両が配当さ
れる計算になるという。内院散銭の権利は、大名などに与えら
れた権利を根拠に主に3地域によって争われた。「村山」と「
須走」と「大宮」である。村山においては、1533年(天文
2年)に村山三坊の「辻之坊」が今川氏輝により内院散銭の取
得権を与えられている。須走は1577年(天正5年)に武田
氏により薬師堂(現在の久須志神社)の開帳日の内院散銭の取
得権が与えられている。大宮は1609年(慶長14年)に徳
川家康が内院散銭を浅間大社に寄進し、内院散銭の取得の優位
権を得ている。浅間大社の大宮司が村山より登る際は山役銭を
取られたので、村山を避け「須走」から登拝する慣例などもあ
った。新規に出来た登山道である現富士吉田口は、登山道を管
理している「須走」に許可なく、浅間大社の大宮司富士信安な
ど富士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」の登山道を
利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山小屋を建
てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」と「吉田」
は1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起こし
、「大宮」と「吉田」では薬師堂における役銭の配分で争って
いる過去などがある。元禄の争論元禄16年(1703年)に
散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(浅間大社
)を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口本宮冨士
浅間神社の神主や御師らが、浅間大社の大宮司富士信安など富
士氏らを相手取り寺社奉行に訴え出た。訴えは三か条であった
。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛けを認めたこ
とへの不服、2つ目は浅間大社側が造営した薬師堂の棟札に「
富士本宮が入仏を勤める」という旨の記述があることを、須走
の既得権を犯すものであるというもの、3つ目は内院の散銭取
得における2番拾いは須走側が得るという慣例となっていると
し、それを浅間大社が取得しているという訴えである。これに
対し訴えられた浅間大社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村の地
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37 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 14:16:27.15 ID:x4//S+yB
県川俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919m)と日本地
図センターにより認定された(富士山からは308kmの距離
にある)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三原山から
も眺望される。富士山の見える都道府県は、理論上可能とされ
ていた京都府から2014年に撮影に成功したことにより、2
0都道府県となった。様々な表情の富士山富士山の表情は、見
る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する。富士と名
が付く、いくつかの姿がある。画像富士山の姿解説赤富士夏の
朝、露出した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。葛飾北斎をは
じめとした画家が「赤富士」を描いた絵画を残した。紅富士雪
化粧した富士山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。「モルゲンロ
ート」(ドイツ語Morgenrot)が用いられる場合があ
る。逆さ富士波立ちが少ない水面に映る逆さの富士山の光景。
D五千円券の裏の図案に、本栖湖の逆さ富士が使用された。竜
ヶ岳(山梨県)から望む日の出時のダイヤモンド富士(201
5年12月5日撮影)ダイヤモンド富士太陽が昇った時又は沈
む時、太陽が富士山の頂上と重なり、富士山の頂上付近がダイ
ヤモンドのように光る現象。富士山が見える西又は東の場所か
ら、年に2回見ることができる。影富士朝日や夕日で富士山の
山容の影が周囲に映し出される風景。富士山登山時に山の上部
から、雲海の上に見られる場合がある。笠雲笠雲とレンズ雲を
伴う。富士山の頂上に傘をかぶせた雲がある風景。その際は、
次第に麓では曇りまたは雨になることが多い。「表富士」と「
裏富士」『不二三十六景甲斐夢山裏富士』現在も富士山の山小
屋や登山道の道標として「表口」や「裏口」という表現がみら
れ、一般的に静岡県から見た富士山を表富士、山梨県からの姿
を裏富士として認知されているが、これには歴史的背景がある
。延宝8年(1680年)に作成された『八葉九尊図』では既
に「するが口表」という表記がある。他に『甲斐国志』巻35
ではこのような記述がある。登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口
・村山口・大宮口ノ四道ナリ、(中略)南面ヲ表トシ、北面ヲ
裏トスレドモ、…??『甲斐国志』他の資料にも共通した記述
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39 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 14:23:53.63 ID:x4//S+yB
ていなかった地点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓
していった。工芸品としては本阿弥光悦が自ら制作した楽焼の
茶碗に富士山の風情を見出し、「不二山」と銘打っている。5
0銭政府紙幣(1938年発行)岡田紅陽が撮影した愛鷹山か
らの富士山がモデル。富士は日本画をはじめ絵画作品や工芸、
写真、デザインなどあらゆる美術のモチーフとして扱われてい
る。日本画においては近代に殖産興業などを通じて富士が日本
を象徴する意匠として位置づけられ美術をはじめ商業デザイン
などに幅広く用いられ、絵画においては伝統を引き継ぎつつ近
代的視点で描かれた富士山絵画が制作された。また、鉄道・道
路網など交通機関の発達により数多くの文人・画家が避暑地や
保養地としての富士山麓に滞在し富士を題材とした作品を製作
しているが、富士を描いた風景画などを残している画家として
富岡鉄斎、洋画においては和田英作などがいる。富士山をモチ
ーフとした美術品は当時のヨーロッパでも多く流通しており、
このことから富士山もヨーロッパで広く知られていた。189
3年(明治26年)、日本を旅行していたオーストリア=ハン
ガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公は、
日記に次のように書いている。フジサン、フジノヤマ。いった
い、この日本の象徴――ヨーロッパではふつうフジヤマと呼ば
れる――を知らない者などいるのだろうか?ヨーロッパでもっ
とも好まれる日本工芸のデザインとして漆器、陶磁器、和紙、
金属などに描かれているから、もう、わたしたちにはお馴染み
だ。??8月15日付戦時下には国家により富士は国体の象徴
として位置づけられ、富士は国家のシンボルとして様々に描か
れた。戦後には国体のシンボルとしてのイメージから解放され
た「日本のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡球子
らが富士を描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的
画題へのアンチテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして
富士を描く傾向も見られる。深田久弥は『日本百名山』の中で
富士山を「小細工を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも
富士の絵は描くが、その真を現わすために画壇の巨匠も手こず
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41 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 14:31:03.88 ID:x4//S+yB
で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ花の姥」富士山と地域振興
富士山一帯の宗教施設や避暑、富士登山を目的とする観光客相
手の観光業も活発に行われている。しかし、富士山麓には温泉
地として成立する規模の湯量は湧出していない。富士山の利用
について、静岡県側が自然・文化の保護を重視するのに対し、
山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており、山頂所有権問題
、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題、世界遺産登録問題等
、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の相違が表面化
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43 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 14:37:43.05 ID:x4//S+yB
山(台湾)−日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰であ
った。標高3,952メートル。雪山(台湾)−日本統治時代
は次高山と呼ばれ、日本で2番目に高い山であった。標高3,
886メートル。北岳−日本で2番目に高い山。標高3,19
3メートル。日和山(仙台市)−日本で最も低い山。標高3メ
ートル。エベレスト−世界最高峰。標高8,844メートル。
文字この節には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示でき
ない文字(Unicode6.0の絵文字)が含まれています
。和文通話表で、「ふ」を送る際に「富士山のフ」という。文
字コードのUnicode6.0では、携帯電話などで使われ
ていた絵文字も追加されたが、その中に「MOUNTFUJI
」として富士山も含まれている。続けられている。これは「近
江の土を掘り富士山を作りその穴が琵琶湖になった」という伝
説からである。富士山頂の湧水を琵琶湖へ注ぐことを「お水返
し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐことを「お水取り」
という[82][83]。2014年には日本富士山協会と中
華民国山岳協会との間で、富士山と玉山の友好山提携が締結さ
れている[84]。標高3,952メートルの玉山は台湾の日
本統治時代に新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。その他
[編集]他山の標高[編集]玉山(台湾)−日本統治時代は新
高山と呼ばれ、日本最高峰であった。標高3,952メートル
。雪山(台湾)−日本統治時代は次高山と呼ばれ、日本で2番
目に高い山であった。標高3,886メートル。北岳−日本で
2番目に高い山。標高3,193メートル。日和山(仙台市)
−日本で最も低い山。標高3メートル。エベレスト−世界最高
峰。標高8,844メートル。文字[編集]この節には、一部
のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Unico
de6.0の絵文字)が含まれています(詳細)。和文通話表
で、「ふ」を送る際に「富士山のフ」という。文字コードのU
nicode6.0では、携帯電話などで使われていた絵文字
も追加されたが、その中に「MOUNTFUJI」として富士
山も含まれている。富士山世界文化遺産平成22年度第1回静
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45 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 14:44:01.00 ID:x4//S+yB
している。上記のような自然的環境を持つ富士山は、古来自然
物、特に山岳に対する信仰の伝統を持っていた日本人に畏敬の
念を抱かせ、日本における様々な宗教の融合した信仰の対象と
された。遥拝や山中での修行のみならず、神仏の在所と考えら
れた山頂への登山という宗教行為が一般化するとともに、山体
及び山麓周辺に神社などの宗教施設や風穴・湧水といった自然
物・自然現象を起源とする霊地・巡礼地が設けられ、登山のた
めの道や施設及びそれを支援する包括的なシステムが作られた
。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講(富士山
信仰の集団の一つ)信者には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域な
いし他界(死後世界)と考えられていた。北麓地域ではさらに
、山体を上方から順に「焼山」(森林限界以上)、「木山」(
森林地帯)、「草山」(草原地帯)と呼び習わし、俗界(「草
山」)と死の世界(「焼山」)を往復することでこの世の罪と
穢れを消すという富士登拝の区分と関連付けていた。森林地帯
は神聖な地域の入口の一つとされる一方で木材の伐採等生活の
ために利用される地域でもあった。また、富士山山麓に見られ
る湧水は登山前に身を清めるために必須のものであり、現代に
おいても柿田川をはじめ各所で「霊水」として取り扱われてい
る。また、富士山の稜線、冬季に一般的に見られる雪を戴いた
姿、周辺の湖や海岸線などの展望地から眺めた景観などが時代
を超えて多くの人々に神秘的な美しさとして賞賛され、芸術的
な創造意欲を掻き立てた。富士山体のうち、標高約1500m
以上の範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が
重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い
。各登山道における山体の神聖性に関する境界の一つである「
馬返」(乗馬登山が物理的にも、宗教的観点からも不可能にな
る地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民が、
とりわけこの「馬返」より上を指して「オヤマ」又は「オヤマ
サマ」と呼び、富士山の範囲とみなす地域もあった。景観的に
は山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」と「山体」の
境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの対象
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47 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 14:51:00.84 ID:x4//S+yB
の銘のある掛仏が出土した須走口登山道などがある。吉田口登
山道は、富士講信者の登山本道とされ、18世紀後半以降、最
も多くの道者(他の登山口の合計と同程度)によって利用され
た。また、1200年の資料では、大宮・村山口及び吉田口の
外、須山口登山道を挙げて、それ以外には登山道がないと述べ
られている。登山道沿いには要所要所に祠や石碑が設置され、
随所に小屋や石室が設けられており、富士独特の登拝システム
を語る上で、登山道は欠かすことのできない構成要素である。
A2大宮・村山口登山道A3須山口登山道A4須走口登山道A
5吉田口登山道(写真複数、地図挿入)(改頁)浅間神社・御
師住宅登山道の起点や周辺地域には浅間神社が建造された。古
くから富士山は遥拝の対象であり、山宮浅間神社などは古代か
らの祭祀の形をとどめている。噴火活動の活発化を受け、律令
国家によって9世紀前半に富士山を神体とする浅間神社(後の
富士山本宮浅間大社)が、9世紀後半には北麓にも噴火を鎮め
るための神社が祭祀された。11世紀後半の噴火を最後に火山
活動が休止期に入ると、富士山を舞台とする修験の活動が活発
化し始め、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨士御室浅間神
社へと発展していった。登拝の大衆化に伴って、須山浅間神社
や富士浅間神社(須走浅間神社)8など、登山口の起点にも浅
間神社が建立されるようになる。なかでも、北口本宮冨士浅間
神社は、江戸を中心に流行した富士講によって大いに利用され
た吉田口登山道の起点であったが、その北には、富士講徒の案
内し、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅が今も残されてい
る。B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B3村山浅間神
社B4須山浅間神社B5富士浅間神社(須走浅間神社)A6北
口本宮冨士浅間神社B8御師住宅B6河口浅間神社B7冨士御
室浅間神社(写真複数、地図挿入)(改頁)霊地・巡礼地とな
った風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀後半から爆発的に
流行した富士講の信者は、山頂を目指して富士山に登るだけで
なく、いわばオプショナル・ツアーのごとく周辺の風穴や湧水
地などを巡り、巡礼や修行を行っていた。富士講の開祖とされ
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49 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 14:58:22.18 ID:x4//S+yB
登山道の管理を行うとともに所属の修験者が登山道等を利用し
て修行を行った。また、一般人の信仰登山(以下これを行う者
を「道者」と言う。)も開始され、その様子は16世紀の作と
される「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている。道者の数は
18世紀後半から19世紀初頭の宿坊(大鏡坊のみ)の記録よ
り、御縁年で2,000人前後、平年で数百名程度と推測でき
る。また1860年、初の外国人登山を行った英国公使オール
コックがこの登山道を利用した。101889年、鉄道(東海
/ ´,_ゝ`\初心者のための富士山登山入門134m (ワッチョイ無) [転載禁止]
51 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 15:04:43.30 ID:x4//S+yB
立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整っていたとされ
る。その後、1561年に現在の東宮本殿、1594年に西宮
本殿、1615年には本殿が建立された。富士講とのつながり
が強く、1730年代に富士講の指導者である村上光清の寄進
によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内
の景観の礎が形成された。本殿は、一間社入母屋造・檜皮葺の
本殿に唐破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰
組をもって支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東
宮本殿・西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。3本殿
とも、各部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して
、それぞれの時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮
冨士浅間神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に
所属しており、神社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ね
られていた。社殿の背後には登山門があり、この神社を起点と
して富士山頂まで吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田御
師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。法的保護、
修理・整備の経緯1907年に東宮本殿が古社寺保存法の下に
特別保護建造物に指定された。1929年の国宝保存法制定に
伴い、本殿は国宝とされた。1950年の文化財保護法制定に
伴い、東宮本殿は重要文化財とされた。1953年に本殿及び
西宮本殿が文化財保護法の下に重要文化財に指定された。19
52年に東宮本殿の解体修理工事が行われた。1962〜63
年に西宮本殿の解体修理工事が行われた。1973〜74年に
本殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工事が行われた。1981
〜82年に東宮本殿の部分修理工事が行われた。1997年に
本殿の部分修理工事が行われた。文化財保護法の下に他の文化
財とともに史跡富士山として指定される予定。A7.西湖A8
.精進湖A9.本栖湖説明富士山の火山活動によって形成され
た堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡り
が多くの富士講徒によって行われたが、長谷川角行の水行から
いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたのが、後述
の山中湖及び河口湖とこの3湖である。また、景勝の地でもあ
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53 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 15:11:12.21 ID:x4//S+yB
に本殿・拝殿・楼門等の補修が行われた。1929年の国宝保
存法制定に伴い、本殿は国宝とされた。1933〜34年に楼
門の修理を行った。1936年に袖廊・廻廊を附した。195
0年の文化財保護法制定に伴い、本殿は重要文化財とされた。
1951〜52年、1970年、1988年に本殿の屋根の修
理等が行われた。1969〜70年に本殿の屋根の修理等が行
われた。1987〜88年に本殿の屋根の修理等が行われた(
部分補修)。2005年に本殿の屋根の修理等が行われた。1
3文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指
定される予定。B2.山宮浅間神社説明富士山本宮浅間大社の
社伝によれば、浅間大社の前身とされ、拝殿・本殿等が位置す
べき場所に石列でいくつかに区分された遥拝所が設置されるの
みという特異な形態は古代からの富士山祭祀の形を止めている
と推定されている。この遥拝所の主軸は富士山方向を向いてい
る。具体的な創建年代は不詳だが、発掘調査では神事に使用さ
れたと推定される12〜15世紀の土器が出土し、文献上では
1551年にその存在が確認できる。また、遅くとも1577
年までには浅間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式が
開始された。これは4月と11月に神の宿った鉾を持ち、浅間
大社と山宮浅間神社を往復する行事である。現時点では神が4
月に旧跡に戻るという解釈と、山にいる神が4月に田の神とし
て里へ降りるという解釈がある。この行事は1874年まで行
われていた。なお、「山宮御神幸」に使用される経路を御神幸
道という。道には1691年に置かれた距離を示す石碑が少な
くとも四箇所残っているが、正確な道筋は現在確認されていな
い。法的保護、修理・整備の経緯1985年に富士宮市の史跡
に指定される。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富
士山として指定される予定。B3.村山浅間神社説明12世紀
前半から中ごろの修行僧末代の活動が創建の起源とされており
、1868年の神仏分離令までは神仏習合の宗教施設として興
法寺(富士山興法寺または村山興法寺)と呼ばれていた(資産
範囲には浅間神社と寺院である大日堂が含まれる)。富士山に
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55 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 15:17:50.41 ID:x4//S+yB
を行っており、歴史的背景と相俟って、富士山信仰を語る上で
欠かすことのできない資産である。法的保護、修理・整備の経
緯文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指
定される予定。B7.冨士御室浅間神社説明冨士御室浅間神社
は、8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたのが
最初とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文献
もある。富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二
合目、御室浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点と
して役行者堂が整備されたようである。山中という厳しい条件
の下に所在するためたびたび破損し、1189、1275、1
475、1525年と加修され、1564には地元領主による
大修理が行われている。現在の本殿は1612年建立と認めら
れ、その後も1698年、1867年に修復が行われていた。
1973−74年には里宮の地にそのままの形で移設された。
里宮は、二合目の本宮(もとみや)が冬季の参拝に苦渋するた
めに河口湖畔に建てられたとされる。修験や登拝といった様々
な富士信仰の拠点として位置づけられる二合目の本宮と、土地
の産土神としての里宮が一体となって機能してきた神社である
。法的保護、修理・整備の経緯1973〜74年に吉田口登山
道二合目にあった本殿が里宮の地に移築された。151985
年に移築された二合目本殿が文化財保護法の下に重要文化財に
指定された。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士
山として指定される予定。B8.御師住宅説明御師は、道者に
宿や食事を始め登拝のための一切の世話をするとともに、登拝
の指導や祈祷を行うことを業とした。富士山御師として代表的
なのは、吉田口登山道の起点である北口本宮冨士浅間神社の北
西に、北東方向の傾斜面に沿って大規模な集落を形成した吉田
の御師である。御師屋敷の多くは短冊状をなし、表通りに面し
て引き込み路を設け、敷地を流れる水路の奥に住宅兼宿坊の建
物が建っている。玄関から奥へ客室が続き、最奥部には神殿が
設けられている。1768年に建てられ最古の部類に数えられ
る旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士
/ ´,_ゝ`\初心者のための富士山登山入門134m (ワッチョイ無) [転載禁止]
57 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 15:25:03.66 ID:x4//S+yB
長谷川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地とされ、
富士講を中心とした人々の巡礼・修行の場となった。また、景
勝地としても有名であり、和歌・絵画の題材にもなっている。
法的保護、修理・整備の経緯1936年に史蹟名勝天然紀念物
保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原
説明三保松原は、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「羽衣」
の舞台となった。15〜16世紀以降富士山を描く際の典型的
な構図に含まれる景勝地として数多く描かれ、歌川広重等の作
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58 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 15:30:08.21 ID:x4//S+yB
拝した後、頂上を目指した。登山道には茶屋や山小屋が建てら
れ、多くの登拝者の活動を支える施設が体系的に整備されたの
もこの頃である。また、富士講においては長谷川角行ら指導者
の言動にならって周辺の風穴や湖沼・滝なども修行の地とされ
、ここにおいて富士山と周辺の宗教施設・霊地・巡礼地は庶民
の信仰の場として定着し、山の結界が開放される二ヶ月間に年
平均1万〜2万人の人々が信仰を目的とした登山を行うように
なった。芸術作品の多様化とジャポニスム芸術面においても、
とりわけ江戸時代(17〜19世紀半ば)には、文学、絵画、
工芸、庭園等のモチーフとして多岐にわたって取り上げられ、
三保松原と富士山を描いた絵画など多様な表現が追究されるよ
うになった。(表参照)特に、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」に
代表される浮世絵の数々は、西洋の画家たちに文化的衝撃を与
えた。19世紀後半には「ジャポニスム」という芸術上の画期
的な転機を惹き起こし、印象派の作品に影響を与えるとともに
、その富士山を含んだ構図は海外において日本のイメージの一
つとされてきたのである。日本を訪れた外国人が富士山からイ
ンスピレーションを得て記述した紀行文の中でも、富士山のア
イコン的側面を綴ったものが多い。近世以前も富士山は日本一
有名な山であったが、19世紀後半の開国によって日本が近代
国家としての体制を整えるにつれて、日本を代表する山から日
本を象徴する山へと変貌した。廃仏毀釈と登山の利便性向上1
9世紀半ばより、明治政府を中心に行われた日本の近代化・西
欧化政策は富士山にも影響を与えた。政府が神仏分離や修験道
禁止の方針を打ち出したことや、これを契機に発生した廃仏毀
釈の運動により、仏教的施設は神道系の施設に再編されたが、
1872年の(信仰の山における)女人禁制解禁の影響もあり
富士山への登拝は継続ないし拡大した。19世紀末以降の鉄道
・自動車道の開通も、登山者の利便性を格段に向上させた。南
麓へは1889年に東海道線が開通し、北麓へは1900年前
後に馬車鉄道と中央線が開通したことによって、東京からの登
山がさらに活発になった。自動車道としては、1929年に北
/ ´,_ゝ`\初心者のための富士山登山入門134m (ワッチョイ無) [転載禁止]
60 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 15:36:47.20 ID:x4//S+yB
寺外一遍聖絵絵巻1299一遍が全国遍歴の途中、富士川に入
水する往生者を見送る背後に富士山。兵庫・真光寺遊行上人縁
起絵絵巻1323他阿上人が全国遍歴の途中、甲斐の御坂峠を
越えて河口に進む背後に富士山。大阪・久保惣記念美術館伊勢
物語絵巻絵巻14世紀伊勢物語現存最古の絵巻。第九段物語の
主人が富士山麓を進む場面。東京国立博物館月次風俗図のうち
小屏風15世紀十二月風俗図の一場面。鎌倉初期に行われた富
士山麓の巻狩を題材とする。富士山本宮浅間大社富士参詣曼荼
羅図掛軸16世紀霊山である富士山に参拝する行者達の登山風
景、山頂に三尊あり。狩野派の祖元信筆。東京国立博物館武蔵
野図屏風17世紀武蔵野の状景を装飾的に描いた名所図屏風の
一。ススキ野の奥に富士山がそびえる。山梨県立博物館曽我物
語図屏風17世紀鎌倉将軍源頼朝が主催した富士の巻狩最中に
果された曽我兄弟による仇討ちを題材。富士山の美術(2)室
町時代水墨画によるもの指定所在作品名形式時代(年代)説明
東京・根津美術館富岳図仲安真康筆掛軸15世紀現存最古の水
墨による富士山図。鎌倉建長寺の僧で、鎌倉画派の祖とされる
。東京国立博物館富岳図祥啓筆掛軸1490仲安真康の弟子、
建長寺の書記を勤めた禅僧万里集九や雪舟とも交友があった。
東京永青文庫富士清見寺図雪舟集掛軸15世紀世界的に著名な
日本を代表する水墨画家の作。水墨画による富士山の一典型作
。静岡県立美術館富士八景図式部輝忠筆掛軸1530東国を中
心に活躍した水墨画家。瀟湘八景にあやかって連作に挑んだ作
品。個人(?)富士三保松原図是庵筆掛軸16世紀京都相国寺
の僧で、画をよくした。下辺に三保松原、富士山の左手に日輪
を描く。22富士山の美術(3)江戸時代諸派の作家と富士山
指定流派著名な作家名所在代表作(年代)説明陶芸野々村仁清
東京・鼻山美術館銹絵富士山香炉(17世紀)世界的にも著名
な京焼の第一人者。富士山の朝昼晩の三つの景色を造型化する
。狩野派狩野探幽静岡県立美術館富士山図1670江戸狩野派
の祖、第一人者。富士山連作の緒を開いた。狩野派狩野山雪静
岡県立美術館富士三保松原図屏風(17世紀)山楽の養子とし
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62 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 15:43:54.26 ID:x4//S+yB
朝陽1945ルノアールに学び、日本洋画に存在感ある独特の
装飾技法を樹立した。その金字塔とも言うべき作。〃田崎広助
長野・田崎美術館箱根朱富士1975日本独特の平面的装飾に
新しい一頁を開いた田崎ならではの自然景観。〃林武箱根彫刻
の森美術館赤富士1967主として第二次大戦以後洋画壇をリ
ードした。豪快な技法で富士連作に挑んだ。膠画(日本画)富
岡鉄斎兵庫・清荒神清澄寺富士山及び山頂全図屏風1898最
後の文人画家とも言われる思想家。自ら富士山に登り、その神
聖性をダイナミックに表現した。〃横山大観東京国立近代美術
館或る日の太平洋1952フェノロサ、岡倉天心と共に日本画
壇を復興した巨匠。日本の象徴と意識して多くのテーマに富士
山が描かれた。〃下村観山秋田県立近代美術館三保富士図屏風
1919横山大観とともに明治日本画壇を背負った作家が伝統
的テーマに新風を吹き込む。〃川端龍子東京・大田区立龍子記
念館怒る富士1944強烈な個性で大作に挑んだ激情の画家。
激しい気象現象を示す富士に挑戦した作品。〃松岡映丘宮内庁
三の丸尚蔵館富岳茶園1928昭和天皇即位記念の作品。伝統
的日本画に透明感のある新しい表現技法を示す。〃徳岡神泉京
都国立近代美術館富士1965福田平八郎と共に昭和の日本画
壇に独自の新風を吹き込んだ。茫漠たるモノトーンの中に立す
る富士。24〃横山操東京・五島美術館朱富士1966第二次
大戦後の日本画壇をリードした新星。多くの富士を描いたが、
赤富士と電光の対比の妙。〃小松均京都市立美術館白富士19
82第二次大戦後の日本画壇に詩的な大画面で新境地を開いた
。郷土山形や大自然に魅せられて。〃片岡球子神奈川県立近代
美術館面構葛飾北斎数年前に没したが、最も現代日本画界をリ
ードした女流画家。本図は女史のライフワーク面構シリーズの
一つ。写真鹿島清兵衛宮内庁三の丸尚蔵館富士1894アマチ
ュアながら当時の技術を駆使した大版写真を御成婚25年記念
に皇室に託した。〃岡田紅陽山梨・岡田紅陽写真美術館忍野赤
富士1894文字通り富士山の写真家。富士山のあらゆる表情
を写真に収め、広めた。木版画萩原英雄山梨県立美術館三十六
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65 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 15:50:13.93 ID:x4//S+yB
和ひより下駄げた」太宰だざい治おさむ(明治−昭和)「富嶽
百景ふがくひゃっけい」大町桂月おおまちけいげつ(明治−大
正)「富士の大観」中村星湖なかむらせいこ(明治−昭和)「
少年行しょうねんこう」北村きたむら透谷とうこく(明治)「
富嶽ふがくの詩し神しんを思おもふ」深田ふかだ久弥きゅうや
(明治−昭和)「日本にほん百名山ひゃくめいざん」小説落合
直文おちあいなおぶみ(江戸−明治)「たかねの雪ゆき」夏目
漱石なつめそうせき(明治−大正)「三四郎さんしろう」「虞
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67 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 15:57:02.51 ID:x4//S+yB
麓の草原地帯(「草山」、「カヤ原」などと呼ばれた)にある
神社・水垢離場で身を清め、森林地帯(「木山」、「深山」な
どと呼ばれた)の山中の宗教施設等を順に経ながら、砂礫地帯
(「焼山」、「ハゲ山」などと呼ばれた)の神仏の世界あるい
は他界に至るイメージで認知されるようになり、同時期に絵画
や文学作品において典型的な富士山像が成立したことを背景に
、「絹本著色冨士曼荼羅図」を代表例とする信仰上の景観認識
が成立した。17世紀以降はこれらの典型的な認識を基に、さ
らに多様な信仰上の認識(※3)が模索され、「富士講」と呼
ばれる富士山信仰集団の隆盛や交流人口の拡大などにより、1
8世紀後半から19世紀にかけてほとんどの日本人に富士山の
神聖な山としての景観認識が定着した(※4)。この認識は近
代工業社会の自然に対する考え方が一般化する以前の山と人間
との良好な精神的関係を示すものであった。、31(※3)富
士山は神仙思想における不老不死の象徴である「蓬莱山」や仏
教における世界の中心である「須弥山」に見立てられた。また
、主に18世紀後半より富士山の信仰上の景観認識を立体化し
た「富士塚」が東京を中心に建設され、女性を含め山頂への登
拝ができない人にとっての代参施設となった。(※4)登拝者
には登山口の浅間神社や御師の発行する富士山の信仰上の景観
認識を描いた宗教画が配布されるとともに、縁起の良いものと
して富士山やその図像を拝したり、眺めることが行われた。右
「富士山のゾーニング」左「三尊九尊図」評価基準(E)顕著
な普遍的意義を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信
仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連
がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ま
しい)。評価基準(E)の適用富士山と周辺の特徴的な自然が
醸成する優秀な景観美や火山としての活動は、日本人の山に対
する信仰の形成の一翼を担い、今日まで継承されている山頂へ
の遥拝と参詣を中心とした文化的伝統は、アジア地域に顕著で
ある山を神聖視する文化と深い関りを有している。写真写真焼
山(ハゲ山)木山(深山)草山(カヤ原)32また、これらの
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72 :底名無し沼さん[sag]:2017/12/06(水) 16:41:48.42 ID:x4//S+yB
富士山(ふじさん、英語:Mount Fuji)は、静岡県(
富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨
県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。標高3
776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰で、その優美
な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。数多
くの芸術作品の題材とされ芸術面で大きな影響を与えただけでは
なく、気候や地層など地質学的にも大きな影響を与えている。懸
垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は
駿河湾の海岸まで及ぶ。古来霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神
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73 :底名無し沼さん[sag]:2017/12/06(水) 16:48:07.68 ID:x4//S+yB
が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため
律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。ま
た、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場と
しても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。こ
れら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった
一派を形成するに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多く
ある他、夏季シーズンには富士登山が盛んである。日本三名山(
三霊山)、日本百名山、日本の地質百選に選定されている。また
、1936年(昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定さ
れている。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、20
11年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25年)
6月22日には関連する文化財群とともに「富士山−信仰の対象
と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された。日本の文化遺
産としては13件目である。富士の山とは詠んだとしても、「ふ
じやま」という呼称は誤りであり、愛媛県大洲市柚木にある冨士
山(とみすやま)とは字も呼び方も異なる。富士山についての最
も古い記録は『常陸国風土記』における「福慈岳」という語であ
ると言われている。他にも多くの呼称が存在し、不二山もしくは
不尽山と表記する古文献もある。また、『竹取物語』における伝
説もある。「フジ」という長い山の斜面を表す大和言葉から転じ
て富士山と称されたという説もある。近代以降の語源説としては
、宣教師・バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味するアイ
ヌ語の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。しかし、
これは囲炉裏の中に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」
からきた誤解であるとの反論がある。その他の語源説として、マ
レー語説・マオリ語説・原ポリネシア語説等がある。明確に「富
士山」と表記されるに至るにおいては駿河国富士郡に由来すると
するものがあり、記録としては都良香の『富士山記』に「山を富
士と名づくるは、郡の名に取れるなり」とある。富士山に因む命
名富士山が日本を代表する名峰であることから、日本の各地に「
富士」の付く地名が多数存在している。富士山の麓として静岡県
に富士市・富士宮市、富士郡、山梨県に富士吉田市・富士河口湖
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75 :底名無し沼さん[sag]:2017/12/06(水) 16:54:58.04 ID:x4//S+yB
動富士山の噴火詳細は「富士山の噴火史」を参照最終氷期が終了
した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩
を大量に噴出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体であ
る新富士が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の
東側に顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約
2,500?2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大
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77 :底名無し沼さん[sag]:2017/12/06(水) 17:00:37.82 ID:x4//S+yB
気象庁観測所:地震計(山頂、御殿場口8合目、吉田口6合目、
鳴沢塒塚東、太郎坊)、傾斜計(太郎坊)、空振計(太郎坊、上
井出)、GSP(太郎坊)、望遠カメラ(萩原)防災科学技術研
究所:火山活動可視情報化システム(VIsualizatio
nsystemforVolcanicActivity)噴出
物災害などへの対策国土交通省、富士砂防事務所:静岡県、山梨
県と連携し火砕流、溶岩流などの火山活動に伴う災害を防ぐため
の調査・検討を実施しハザードマップが作成されている。しかし
、山体崩壊を想定したハザードマップは2012年現在未作成で
ある。富士山と気象気候山頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃
しかなく、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0℃以上1
0℃未満のツンドラ気候に分類される。太平洋側の気候のため1
月や2月は乾燥し、3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ1
0を占める。観測史上最低気温は−38.0℃で最高気温が−3
0℃未満の日も過去に数回観測されていて−30℃を上回ること
がない1日というのは北海道でも例がない。富士山での気象観測
かつて気象庁東京管区気象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気
象官署が富士山測候所である。現在は富士山特別地域気象観測所
となっており、自動気象観測装置による気象観測を行っている。
詳細は「富士山測候所」を参照気象現象山体に強風が吹くと砂が
巻き上げられ、周辺の自治体に降ることがある。2010年12
月15日には、神奈川県の西部から南部にかけて黒い砂が積もり
、その状況から富士山の砂が巻き上げられ、西風に乗り降り積も
ったと考えられると報道された。富士山北麓の一部農地(現在の
山梨県富士吉田市など)では、富士山の標高2600m付近に現
れる農鳥(鳥の形に見える残雪)の出現する時期によって、農作
物が豊作になる・凶作となるという言い伝えがある。富士山では
山岳波が発生することもあり墜落事故も起きている(英国海外航
空機空中分解事故など)。富士山麓の自然環境富士山麓の天然記
念物として、「富士山原始林及び青木ヶ原樹海」(天然記念物:
1926年2月24日指定、2010年3月8日追加指定・名称
変更)、「富士風穴」(天然記念物:1929年12月17日指
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79 :底名無し沼さん[sag]:2017/12/06(水) 17:08:07.39 ID:x4//S+yB
の高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「富士山は、駿河国に在り
。」「富士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂の山である」
(都良香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹
取物語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲
斐の国うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万
葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を跨ぐ山であるという共有
の目線で記された貴重な例もある。それより後期の時代、イエズ
ス会のジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山
は駿河国に帰属している」としているため、帰属は駿河国という
関係は継続されていたと考えられる。登山口は末代上人が開いた
登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言
われる村山口である。これにより富士修験が成立したとされる。
次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須
走口が存在してる。神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂
部は仏の世界と考えられるようになり、特別な意味を持つように
なった。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年銘である木
造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。
鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩
薩」や「浅間大菩薩」という呼称が確認されている。富士山頂の
8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し、
文永年間(1264年−1275年)の『万葉集註釈』には「い
ただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の
記述が確認できる。江戸時代江戸時代になると、徳川家康による
庇護の下、本殿などの造営や内院散銭取得における優先権を得た
ことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された経緯で、現在富
士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大
社の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講な
どの一派が形成され、富士信仰を発展させていった。富士講の隆
盛が見られた18世紀後半以降、新興宗教として旧来の登山道で
は発展できなかったために吉田口を利用する道者が目立つように
なっていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合
計と同程度であったという。富士参詣の人々を「道(導)者」と
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81 :底名無し沼さん[sag]:2017/12/06(水) 17:13:51.45 ID:x4//S+yB
本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を繰りかえしたとある。
回数は一致するものかは不明であるが、登山を多く行った人物と
して知られる。江戸時代に入ると富士講が盛んになり、多くの参
拝者が富士登山(富士詣)をした。特に江戸後期には講社が多数
存在し、富士詣は地域社会や村落共同体の代参講としての性格を
持っていた。最盛期には吉田口だけで百軒近くの宿坊(山小屋)
があった。文政11年1828年気圧計による高度測定の試みシ
ーボルトの弟子である二宮敬作が登頂し、気圧の変化により高度
測定を行った。伊能忠敬の測量では2603m−3732mとさ
れていたが、この測定では3794.5mと算出されている。天
保3年1832年高山たつが女性として初登頂。女人禁制が敷か
れていた時代である。嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)
が近世大名として初登頂。富士宮市の有形文化財となっている、
造り酒屋の主人が記した「袖日記」という古記録に宮津藩主松平
宗秀が富士登山を行った記録がある。袖日記の6番によると、宗
秀は江戸と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろう
と思い始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであ
り、これを逸脱したコースを通ったり、たとえ社寺参詣であって
も寄り道することは許されないため、富士に登ることを幕府に願
い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「馬返し」と
呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一合目よりも下
の場所であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという所)そ
こで宗秀は嘉永6年(1852)6月21日、幕府に内緒で登山
を決意し、明け方から出発して山を登り始め、昼過ぎには頂上に
着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富士登山を行っ
た唯一の記録となった。万延元年1860年英国公使オールコッ
クが外国人として初登頂。『古事類苑』にオールコックの登山に
ついての記録(富士重本が寺社奉行所に提出した届出)があり、
「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書寫…廿二日大雨
にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成り、廿五日快晴致し
、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上いたし…」とある。オー
ルコックは7月24日に大宮から村山に入り登山を行い、26日
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82 :底名無し沼さん[sag]:2017/12/06(水) 17:19:35.53 ID:x4//S+yB
で支配地域を確定する争論もあったため、ここに大宮・新規参入
である吉田と須走の争いの決着が望まれることとなり、勘定奉行
なども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持ち越
されることとなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信
奉していたという幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社
奉行のいわゆる三奉行による裁許で、最終的に富士山の8合目よ
り上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決定された。この
2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であった山頂
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83 :底名無し沼さん[sag]:2017/12/06(水) 17:25:20.48 ID:x4//S+yB
が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の山岳
図として描かれている。楽焼白片身変茶碗銘不二山(国宝)鎌倉
時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、『
伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など物語文学の成立とと
もに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画とし
ての『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては反
弧状で緑色に着色された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態
で描かれ、特別な存在として認識されていた。室町時代の作とさ
れる『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要
文化財)には富士山とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であっ
た浅間神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるもの
である。また、富士山は三峰型富士で描かれている。凱風快晴、
葛飾北斎作江戸時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵
本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した
。浮世絵のジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響
を受けた葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連
作版画『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。
多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料
を活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き、
夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波
と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知られる。また、歌川広
重も北斎より後の1850年代に『不二三十六景』『冨士三十六
景』を出版した。広重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のスケ
ッチを重ね作品に活かしている。『東海道五十三次』でも、富士
山を題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作
により、それまで富士見の好スポットと認識されていなかった地
点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓していった。工芸
品としては本阿弥光悦が自ら制作した楽焼の茶碗に富士山の風情
を見出し、「不二山」と銘打っている。50銭政府紙幣(193
8年発行)岡田紅陽が撮影した愛鷹山からの富士山がモデル。富
士は日本画をはじめ絵画作品や工芸、写真、デザインなどあらゆ
る美術のモチーフとして扱われている。日本画においては近代に
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84 :底名無し沼さん[sag]:2017/12/06(水) 17:31:05.03 ID:x4//S+yB
士山は和歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』
の中には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。「田子
の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(
3.318)は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。また
、この反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…
燃ゆる火を雪もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…」(巻3・31
9・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山
頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士
山が火山活動を行っていたことがうかがえる。『新古今和歌集』
から。富士の煙が歌われている。風になびく富士の煙の空にきえ
てゆくへもしらぬ我が心かな西行(#1613)都人にとって富
士は遠く神秘的な山として認識され、古典文学では都良香『富士
日記』が富士の様子や伝承を記録している。『竹取物語』は物語
後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老
不死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山
頂で燃やしたことになっている。それからその山は数多の士に因
んでふじ山(富士山)と名付けられたとする命名説話を記してい
る。なお、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」と
して言い伝えられている場所が現存している。ほか、『源氏物語
』や『伊勢物語』でも富士に言及される箇所があるものの、主要
な舞台となるケースは少ない。富士は甲駿の国境に位置すること
が正確に認識されており、古代においては駿河国に帰属していた
ため古典文学においては駿河側の富士が題材となることが多いが
、『堤中納言物語』では甲斐側の富士について触れられている。
また、「八面玲瓏」という言葉は富士山から生まれたといわれ、
どの方角から見ても整った美しい形を表している。中世から近世
には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、江戸期には地域文芸と
して俳諧が盛んであった。近代には鉄道など交通機関の発達や富
士裾野の観光地化の影響を受けて、多くの文人や民俗学者が避暑
目的などで富士へ訪れるようになり、新田次郎や草野心平、堀口
大學らが富士をテーマにした作品を書き、山岳文学をはじめ多く
の紀行文などに描かれた。富士山麓に滞在した作家は数多くおり
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85 :底名無し沼さん[sag]:2017/12/06(水) 17:36:48.82 ID:x4//S+yB
回世界ジャンボリーも開催されている。ダイヤモンド富士−ダイ
ヤモンド富士などがはっきりと拝める田貫湖や山中湖といったス
ポットも有名で、特に写真撮影を目的として訪れる観光客もいる
。ドライブ−富士スバルラインや富士山スカイラインなどを利用
して、5合目までマイカーで上がることができる。シーズン中は
マイカー規制の期間があり、冬期は閉鎖される。富士山の日(2
月23日)2月23日を「2:ふ・2:じ・3:さん」と語呂合
わせで読み「富士山の日」として制定している自治体がある。2
001年(平成13年)山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)
にて条例を制定。2002年(平成14年)山梨県富士吉田市を
中心に、山梨県の富士山麓10市町村、2恩賜林組合が了承。2
009年(平成21年)12月21日静岡県議会にて条例を全会
一致で可決。同年12月25日条例を制定。静岡県、山梨県どち
らも、富士山は普段の生活に溶け込み過ぎており、「あって当た
り前」の空気のような存在である。そのため「富士山の日」に、
各自治体や県内企業などがさまざまなイベント等を催し、参加す
る事など通じて、身近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルと
しても名高い名峰として再認識する機会としている。また併せて
富士山の世界遺産登録に向けた動きを地元から活発化したいとの
期待も込められている。静岡県教育委員会で、各市町村に対して
2011年(平成23年)より「富士山の日」を学校休業日とす
るよう要望した。休業日として組み込んだ自治体があるなか、麓
である富士市教育委員会では「特定日を学校休業日とすることは
なじまない」という理由で、2011年以降休業日としていない
。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる場の提供や、富士
山こどもの国の無料開放、図書館や博物館などの社会教育施設に
も富士山の日にちなんだ事業実施を要請している。なお、富士山
の日を最初に宣言したのは、パソコン通信「NIFTY−Ser
ve」内の「山の展望と地図のフォーラム(FYAMAP)」で
、1996年1月1日にネット上で発表した。富士山ナンバー静
岡運輸支局管内の4市2町と山梨運輸支局管内の1市2町4村を
対象とした、いわゆるご当地ナンバーとして2008年11月4
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86 :底名無し沼さん[sag]:2017/12/06(水) 17:45:15.37 ID:x4//S+yB
らの実質的な高さは世界的にも有数である。富士山は、日本列島
のほぼ中央に位置し、フィリピン海プレート、ユーラシアプレー
ト、北アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さらにその
下に東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる特異な地点
に存在する。富士山は、新生代第三紀中新世のおもに海底火山噴
出物からなる地層の上に第四紀更新世に造り上げられた先小御岳
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88 :底名無し沼さん[sag]:2017/12/06(水) 17:50:56.62 ID:x4//S+yB
湖673)構成資産の説明富士山(富士山体)・展望地点富士山
には、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施
設として機能してきた登山道や山小屋といった宿泊施設、信仰の
証として建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅
間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・
鑑賞の側面における比重が最も高い。特に本栖湖や三保松原は、
何度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地や富士山を描く典型
的な構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供する展望地点
である。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬
返」以上に該当する標高1500m以上の区域でもあり、その中
でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より上方、富士山
本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割
した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約3200〜3375
m)以上と、山頂に近づくほどより強い神聖性を持つと認識され
てきた。A富士山(富士山体)A1山頂信仰遺跡A9本栖湖C三
保松原(写真複数、地図挿入)(改頁)登山道富士山には、麓の
浅間神社を起点として山頂に至る登山道が、複数存在する。12
世紀前半から中ごろにかけての修行僧末代の活動がきっかけにな
ったと考えられる大宮・村山口登山道や、六合目から1384年
の銘のある掛仏が出土した須走口登山道などがある。吉田口登山
道は、富士講信者の登山本道とされ、18世紀後半以降、最も多
くの道者(他の登山口の合計と同程度)によって利用された。ま
た、1200年の資料では、大宮・村山口及び吉田口の外、須山
口登山道を挙げて、それ以外には登山道がないと述べられている
。登山道沿いには要所要所に祠や石碑が設置され、随所に小屋や
石室が設けられており、富士独特の登拝システムを語る上で、登
山道は欠かすことのできない構成要素である。A2大宮・村山口
登山道A3須山口登山道A4須走口登山道A5吉田口登山道(写
真複数、地図挿入)(改頁)浅間神社・御師住宅登山道の起点や
周辺地域には浅間神社が建造された。古くから富士山は遥拝の対
象であり、山宮浅間神社などは古代からの祭祀の形をとどめてい
る。噴火活動の活発化を受け、律令国家によって9世紀前半に富
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90 :底名無し沼さん[sag]:2017/12/06(水) 17:56:39.66 ID:x4//S+yB
が、この理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と
呼び宗教的に意義付けられている)の底部に浅間大神が鎮座する
との信仰に基づく。標高約2500m付近の森林限界より上方は
富士講信者(富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ、
神聖な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼこの
境域に沿い、富士山体を一周する「御中道」が15〜16世紀ご
ろに富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ(1
561年及び1580年とされる)、その後「大沢崩れ」という
危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用された
。構成資産範囲内には、山頂信仰遺跡や登山道といった、富士山
の顕著な普遍的価値を語る上で重要な役割を担う、次のような構
成要素が存在する。A1.山頂信仰遺跡富士山山頂部には、火口
壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設が所在する。富士
山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け山頂部にお
いて寺院の造営や仏像等の奉納がおこなわれるとともに、山頂部
での宗教行為が体系化されていった。道者は山頂周辺において「
御来迎(仏の来迎と見なされたブロッケン現象)」(のち「御来
光(日の出)」)を拝み、内院(噴火口)に鎮座するとされる神
仏(大日如来が本地仏とされた浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝
し、火口壁にいくつかあるピークを仏教の曼荼羅における仏の世
界に擬して巡拝する「お鉢めぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行
為を行なうことが一般的であった。山頂の宗教的施設は、12世
紀中ごろ修行僧末代により建立された施設(後の大日堂)が最初
とされ、その後、経典(12世紀末〜13世紀前半と推定される
ものが最古)・懸仏(1482年の銘のあるものが最古)・仏像
等(1302年の銘があるものが最古)の山頂部への奉納・埋納
や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀には、大宮
・村山口山頂部に大日堂(現在は富士山本宮奥宮が所在)が、吉
田・須走口山頂部に薬師堂(現在の久須志神社)が造営された。
1874年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によっ
て撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は神社に改変された
。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上記の
/ ´,_ゝ`\初心者のための富士山登山入門134m (ワッチョイ無) [転載禁止]
92 :底名無し沼さん[sag]:2017/12/06(水) 18:02:20.82 ID:x4//S+yB
勺以上の部分及び遊歩道として整備された旧須山口の一部である
)A4.須走口登山道富士山東麓の冨士浅間神社を起点とし、八
合目で吉田口登山道と合流し山頂東部に至る登山道である。その
起源は明確ではないが、六合目からは1384年の銘のある掛仏
が出土しており、文字資料では1500年にその存在を確認でき
る。登山道は遅くとも17世紀までに、冨士浅間神社及びその所
在地の須走村が登山道の山頂部までを支配し、散銭取得権の一部
などを得ていた。山頂部の権利については富士山本宮浅間大社と
争いになり、須走村は18世紀(1703年と1772年)、幕
府に裁定を求め、権利は幕府によって認められた。1707年の
宝永噴火の際、これらの施設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に
覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け翌年には復興を完了し
、多くの道者を集めた。18世紀後半、他の霊場とセットにされ
た参詣の流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御縁年に
23,700人とピークを迎えた。1959年、バス道路の完成
により、新五合目(標高約2000m)以下の登山道の利用はほ
とんどなくなり、一部道としての確認ができない区間がある。(
推薦範囲は現在も利用されている新五合目以上である。)A5.
吉田口登山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂東部を
目指す道である。15世紀には、富士山への登拝が、修験者だけ
でなく、ごく一般の人々の間にも広まっていた。吉田口は14世
紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、大勢の人々が登
るための設備が整うようになった。16世紀から17世紀、長谷
川角行が吉田口を利用して修行を行い、18世紀前半には富士講
隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的自殺)にあたって信
者の登山本道をこの吉田口と定めた。このため、富士講の信者が
次第に増加した18世紀後半以降は、最も多くの道者(他の登山
口の合計と同程度)が吉田口登山道を登って山頂を目指している
。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な
道である。(推薦範囲は登山道全体である。)11法的保護、修
理・整備の経緯1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名
勝に仮指定された。1936年に国立公園法の下に(富士箱根)
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