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105 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 00:37:19.12 ID:x4//S+yB - 馬返し」と呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一合目よりも下の場所
であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという所)そこで宗秀は嘉永6年(1 852)6月21日、幕府に内緒で登山を決意し、明け方から出発して山を登り始 め、昼過ぎには頂上に着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富士登山を 行った唯一の記録となった。万延元年1860年英国公使オールコックが外国人と して初登頂。『古事類苑』にオールコックの登山についての記録(富士重本が寺社 奉行所に提出した届出)があり、「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書 寫…廿二日大雨にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成り、廿五日快晴致し、 不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上いたし…」とある。オールコックは7月24 日に大宮から村山に入り登山を行い、26日に登頂した。明治4年1872年女人 禁制が解かれる。明治時代になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わって娯楽 やスポーツとしても登られるようになり、欧米の近代登山技術が取り入れられるこ とになる。明治25年1892年英国人のウォルター・ウェストンが登頂。翌年に も登頂した。その後本を出版し富士山などの日本の山々を世界に紹介した。明治2 8年1895年野中到が冬季初登頂。2月16日に御殿場口から単独で登頂。同年 10月から12月まで山頂で気象観測を行った。大正12年1923年皇太子裕仁 親王(後の昭和天皇)の登山7月26日の事、須走に赴いてから8合目まで乗馬に て登山後、8合目以上は徒歩にて登山を行なった。奥宮を参拝し金剛棒に焼印など を行った後、御殿場口より下山された。大正12年1923年秩父宮雍仁親王の登 山8月20日の夜に御殿場口から登山し、翌朝頂上に到着。奥宮を参拝後、下山。 昭和2年1927年中村テルが冬季女性初登頂1月1日に御殿場口から登頂、男性 2人と共に。昭和63年1988年浩宮徳仁親王(当時)の登山。8月1日−2日 の登山で、須走口から八合目を往復した。天候の悪化で登頂は断念される。平成2 0年2008年皇太子徳仁親王が登頂。8月7日に富士宮口を出発後、御殿場口登
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108 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 00:44:05.35 ID:x4//S+yB - いう扱いとなり、その内済にて「他の者に小屋掛けさせないこと」「薬師堂の入仏
は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:4で分け、2番拾 いは須走が得るものとする」という決定となり、以後これらは遵守された。安永の 争論安永元年(1772年)に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあるとして 浅間大社を相手として訴えた争論が安永の争論である。またこれをみた浅間大社側 の富士民済も反論を起こした。さらに吉田村と浅間大社とで支配地域を確定する争 論もあったため、ここに大宮・新規参入である吉田と須走の争いの決着が望まれる こととなり、勘定奉行なども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持 ち越されることとなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信奉していたと いう幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社奉行のいわゆる三奉行による裁 許で、最終的に富士山の8合目より上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決 定された。この2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であった山頂の 支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により明確に定められることとなった 。富士山と眺望特別名勝としての富士山富士山は昭和27年(1952年)10月 7日に「名勝」に指定され、同年11月22日に「特別名勝」に指定された。山梨 県側は富士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・中野村(現・山中湖村 )の範囲が指定された。静岡県側は御中道に囲まれる地域全部および富士宮口登山 道(富士宮市)と御殿場口登山道(御殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域 、またこれと重複しない一合目以上御中道に至る富士宮口登山道および須走口登山 道(小山町)が範囲となっている。富士山の眺望ウィキメディア・コモンズには、 各地点からの富士山の眺望に関連するカテゴリがあります。富士山への良好な眺望 が得られる128景233地点を、国土交通省関東地方整備局が関東の富士見百景 として、2005年(平成17年)に選定した。羽田空港から西に向かう国内便な どでは富士山の上空を通過する。その際、機長が富士山を案内するアナウンスをす
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111 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 00:51:04.29 ID:x4//S+yB - 767年)に河村岷雪が絵本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを
提示した。浮世絵のジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受けた 葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連作版画『冨嶽三十六景』( 天保元年1831年頃)を出版した。多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠 近法に加え舶来顔料を活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き 、夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波と富士を描いた
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114 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 00:57:39.72 ID:x4//S+yB - され、古典文学では都良香『富士日記』が富士の様子や伝承を記録している。『竹
取物語』は物語後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老不 死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山頂で燃やしたことに なっている。それからその山は数多の士に因んでふじ山(富士山)と名付けられた とする命名説話を記している。なお、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹 採塚」として言い伝えられている場所が現存している。ほか、『源氏物語』や『伊 勢物語』でも富士に言及される箇所があるものの、主要な舞台となるケースは少な い。富士は甲駿の国境に位置することが正確に認識されており、古代においては駿 河国に帰属していたため古典文学においては駿河側の富士が題材となることが多い が、『堤中納言物語』では甲斐側の富士について触れられている。また、「八面玲 瓏」という言葉は富士山から生まれたといわれ、どの方角から見ても整った美しい 形を表している。中世から近世には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、江戸期に は地域文芸として俳諧が盛んであった。近代には鉄道など交通機関の発達や富士裾 野の観光地化の影響を受けて、多くの文人や民俗学者が避暑目的などで富士へ訪れ るようになり、新田次郎や草野心平、堀口大學らが富士をテーマにした作品を書き 、山岳文学をはじめ多くの紀行文などに描かれた。富士山麓に滞在した作家は数多 くおり、武田泰淳は富士山麓の精神病院を舞台とした小説『富士』を書いており、 妻の武田百合子も泰淳の死後に富士山荘での生活の記録を『富士日記』として記し ている。津島佑子は山梨県嘱託の地質学者であった母方の石原家をモデルに、富士 を望みつつ激動の時代を過ごした一族の物語である『火の山―山猿記』を記した。 また、北麓地域出身の文学者として自然主義文学者の中村星湖や戦後の在日朝鮮人 文学者の李良枝がおり、それぞれ作品の中で富士を描いており、中村星湖は地域文 芸の振興にも務めている。太宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小説『富 嶽百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよく知られ、山梨県富士
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117 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 01:04:25.17 ID:x4//S+yB - 山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)にて条例を制定。2002年(平成14年
)山梨県富士吉田市を中心に、山梨県の富士山麓10市町村、2恩賜林組合が了承 。2009年(平成21年)12月21日静岡県議会にて条例を全会一致で可決。 同年12月25日条例を制定。静岡県、山梨県どちらも、富士山は普段の生活に溶 け込み過ぎており、「あって当たり前」の空気のような存在である。そのため「富 士山の日」に、各自治体や県内企業などがさまざまなイベント等を催し、参加する 事など通じて、身近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルとしても名高い名峰と して再認識する機会としている。また併せて富士山の世界遺産登録に向けた動きを 地元から活発化したいとの期待も込められている。静岡県教育委員会で、各市町村 に対して2011年(平成23年)より「富士山の日」を学校休業日とするよう要 望した。休業日として組み込んだ自治体があるなか、麓である富士市教育委員会で は「特定日を学校休業日とすることはなじまない」という理由で、2011年以降 休業日としていない。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる場の提供や、富 士山こどもの国の無料開放、図書館や博物館などの社会教育施設にも富士山の日に ちなんだ事業実施を要請している。なお、富士山の日を最初に宣言したのは、パソ コン通信「NIFTY−Serve」内の「山の展望と地図のフォーラム(FYA MAP)」で、1996年1月1日にネット上で発表した。富士山ナンバー静岡運 輸支局管内の4市2町と山梨運輸支局管内の1市2町4村を対象とした、いわゆる ご当地ナンバーとして2008年11月4日から富士山ナンバーの交付が開始され た。管轄支局が二県にまたがるナンバープレートは珍しい。富士山検定「富士山検 定実行委員会」が主催する富士山検定が、富士商工会議所、富士吉田商工会議所、 静岡新聞社・静岡放送、山梨日日新聞社・山梨放送、NPO法人富士山検定協会の 5者により行われている。地域間交流富士山頂の湧水を琵琶湖へ、琵琶湖の水を富 士山頂へ注ぐ交流が昭和三十二年以降静岡県富士宮市と滋賀県近江八幡市の間で続
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120 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 01:10:28.41 ID:x4//S+yB - 産一覧表への記載を推薦する「富士山」は、東アジアの東端に当たる日本列島の本
州島の中央部、日本の東海地方の東部及び関東地方の西部に位置する。推薦する資 産は17個の構成資産(26個の構成要素(後述))から成り、現行の行政区分に 基づく各構成資産の所在地については以下に記すとおりである。構成資産所在地N o.所在地座標計測位置緯度経度A静岡県(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場市 ・小山町)山梨県(富士吉田市・身延町・鳴沢村・富士河口湖町)県境未確定地富 士山(山頂剣ヶ峰)資産範囲及び緩衝地帯の範囲図資産と緩衝地帯の位置及び範囲 を示す図面、並びに資産近傍における法的保護区分を示す図面は以下のとおりであ る。f)資産面積及び緩衝地帯の面積各構成資産の面積及びその緩衝地帯の面積、 資産の総面積及びその緩衝地帯の総面積については、以下に記すとおりである。構 成資産面積:緩衝地帯面積:合計:No.構成資産の面積(ha)緩衝地帯の面積 (ha)合計説明a)資産の説明1)資産全体の説明富士山は、標高3776mと 日本一の高さを誇る独立峰である。高度を増すごとに山腹の傾斜が急になる美しい 懸垂曲線を呈し、類まれな優美さを持つ円錐形の山容を有した玄武岩質成層火山で ある。その山体は南の駿河湾の海浜にまで及び、海面からの実質的な高さは世界的 にも有数である。富士山は、日本列島のほぼ中央に位置し、フィリピン海プレート 、ユーラシアプレート、北アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さらにそ の下に東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる特異な地点に存在する。富 士山は、新生代第三紀中新世のおもに海底火山噴出物からなる地層の上に第四紀更 新世に造り上げられた先小御岳火山とそれに重なる小御岳火山を土台として、古富 士、さらにそれを覆う新富士山の4層構造で構成されている。山頂部の火口はおよ そ2200年前を最後に噴火していないが、フィリピン海プレートが北進しユーラ シアプレートを南南東方向から押し続けているため割れ目が発生することによって 、山頂を通って北北西に向かう方向にほぼ直線的に側火山が並び、有史以降も火山
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123 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 01:17:12.50 ID:x4//S+yB - 建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た
可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い。特に本 栖湖や三保松原は、何度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地や富士山を描く典 型的な構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供する展望地点である。また推 薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上に該当する標高1500 m以上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より
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126 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 01:24:25.69 ID:x4//S+yB - 、この理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と呼び宗教的に意義付
けられている)の底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に基づく。標高約2500m 付近の森林限界より上方は富士講信者(富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と 呼ばれ、神聖な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼこの境域に沿 い、富士山体を一周する「御中道」が15〜16世紀ごろに富士講の祖とされる長 谷川角行によって開かれたとされ(1561年及び1580年とされる)、その後 「大沢崩れ」という危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用され た。構成資産範囲内には、山頂信仰遺跡や登山道といった、富士山の顕著な普遍的 価値を語る上で重要な役割を担う、次のような構成要素が存在する。A1.山頂信 仰遺跡富士山山頂部には、火口壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設が所 在する。富士山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け山頂部において 寺院の造営や仏像等の奉納がおこなわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化 されていった。道者は山頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なされたブロッケ ン現象)」(のち「御来光(日の出)」)を拝み、内院(噴火口)に鎮座するとさ れる神仏(大日如来が本地仏とされた浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝し、火口壁 にいくつかあるピークを仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する「お鉢め ぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為を行なうことが一般的であった。山頂の宗教 的施設は、12世紀中ごろ修行僧末代により建立された施設(後の大日堂)が最初 とされ、その後、経典(12世紀末〜13世紀前半と推定されるものが最古)・懸 仏(1482年の銘のあるものが最古)・仏像等(1302年の銘があるものが最 古)の山頂部への奉納・埋納や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀 には、大宮・村山口山頂部に大日堂(現在は富士山本宮奥宮が所在)が、吉田・須 走口山頂部に薬師堂(現在の久須志神社)が造営された。1874年、山頂の仏教 的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピークの名称も変更され、寺
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129 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 01:30:50.91 ID:x4//S+yB - ある。(資産範囲は現在「御殿場口」の名称で使用されている二合八勺以上の部分
及び遊歩道として整備された旧須山口の一部である)A4.須走口登山道富士山東 麓の冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道と合流し山頂東部に至る登山 道である。その起源は明確ではないが、六合目からは1384年の銘のある掛仏が 出土しており、文字資料では1500年にその存在を確認できる。登山道は遅くと も17世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村が登山道の山頂部までを 支配し、散銭取得権の一部などを得ていた。山頂部の権利については富士山本宮浅 間大社と争いになり、須走村は18世紀(1703年と1772年)、幕府に裁定 を求め、権利は幕府によって認められた。1707年の宝永噴火の際、これらの施 設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け翌 年には復興を完了し、多くの道者を集めた。18世紀後半、他の霊場とセットにさ れた参詣の流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御縁年に23,700人 とピークを迎えた。1959年、バス道路の完成により、新五合目(標高約200 0m)以下の登山道の利用はほとんどなくなり、一部道としての確認ができない区 間がある。(推薦範囲は現在も利用されている新五合目以上である。)A5.吉田 口登山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂東部を目指す道である。15 世紀には、富士山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも広まっ ていた。吉田口は14世紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、大勢の人 々が登るための設備が整うようになった。16世紀から17世紀、長谷川角行が吉 田口を利用して修行を行い、18世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は 、入定(宗教的自殺)にあたって信者の登山本道をこの吉田口と定めた。このため 、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、最も多くの道者(他の登山 口の合計と同程度)が吉田口登山道を登って山頂を目指している。しかも、古道と しては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道である。(推薦範囲は登山道全体
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132 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 01:37:35.14 ID:x4//S+yB - 長谷川角行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたのが、後
述の山中湖及び河口湖とこの3湖である。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作 品とゆかりが深い。12特に本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度も使用された 写真の撮影地点であり、重要な展望地点(viewpoint)である。富士山は 、プロ・アマ問わず多くの写真家に愛され、撮影されてきた。なかでも、生涯にわ たり富士山を追い続けた岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西岸の峠道から 撮影された「湖畔の春」という写真は有名である。この写真は、1984年に採用 された五千円札及び2004年に採用された千円札の図柄として使用された。山体 の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成している本栖湖からの展望は、「湖畔の春 」に撮影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残している。法的保護、修理・整 備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される予定。B1.富士山本宮浅間大 社説明社記によれば806年に、富士山により近い遥拝所であった山宮浅間神社か ら現在の地に移転されたことを起源とする神社で、古くから富士山南麓地域の中心 的神社であった。現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮であり、広く信仰 されている。創建当初は遥拝のための施設であったが、15世紀ごろ登拝が盛んに なるにつれて、富士山本宮浅間大社は村山浅間神社(興法寺)とともに大宮・村山 口登山道の基点となり、宿坊が周辺に建設された。登拝の拡大に伴い、富士山中で の諸権利が構築されていく中で、浅間大社は徳川家康(約150年間の戦乱期をお さめ統一政権である江戸幕府を開いた人物)の庇護の下、1604年現在の「浅間 造り」と呼ばれる独特な構造を持った社殿が造営されるとともに、1609年山頂 部の散銭取得における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・支配を 行うようになり、1779年、幕府による裁判によりこの八合目以上の支配権が認 められた。明治政府によりここは国有地とされたが、1974年の最高裁判決に基 づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)された。浅間大社境内には富士山の湧水
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135 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 01:44:58.20 ID:x4//S+yB - 受け、山頂部の散銭取得権の一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火で崩壊
し1718年に再建された。この後もこの際の部材を使用し、2009年の修理も 含め何回かの修理がおこなわれている。神社には富士講道者が多く立ち寄り、20 世紀前半を中心に登拝回数の達成(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約80 基造営した。法的保護、修理・整備の経緯2006年に社殿が小山町の有形文化財 となる。2009年に本殿・参道の修理が行われた。文化財保護法の下に他の文化
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138 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 01:51:56.19 ID:x4//S+yB - 野八海説明富士山の伏流水による八つの湧水地で、それぞれに八大竜王を祀る富士
信仰に関わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓った 。長谷川角行が行った富士八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)元八湖」 と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843年に富士講道者によって再興された とされる。法的保護、修理・整備の経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の 下に天然紀念物に指定された。16B12.船津胎内樹型説明1617年長谷川角 行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指定範囲内に点在する小規模な溶岩 樹型のひとつと考えられる)を発見し、浅間明神を祀った。1673年には富士講 道者によって現船津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の際に 、樹型に入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義付けが 行われるとともに、奥には富士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫などが 祀られている。法的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存 法の下に天然紀念物に指定された。B13.吉田胎内樹型説明1892年に富士道 者によって整備された「お胎内」である。富士講講徒は、昼までに御師の家に着き 、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士山に登山した。本穴については、古くから冨士 山北口御師団が管理している。法的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝 天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定された。B14.人穴富士講遺跡説明富 士講の開祖長谷川(藤原)角行が修行したとされる溶岩洞窟の人穴と富士講信者に よる約230基の碑塔群が残る遺跡である。「吾妻鏡」では人穴探検の様子が描か れ、「浅間大菩薩の御在所」とみられていたとされている。この内容は遅くとも1 603年までに、浅間大菩薩の霊験譚として説話化され、その存在が広く知られて いた。富士講関連の文書によれば人穴は16世紀から17世紀にかけ、長谷川角行 が修行により浅間大菩薩(富士講では仙元大日神とする)の啓示を得た場であり、 入滅した場だとしている。また、角行は人穴を「浄土(浄土門)」と述べ、これら
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141 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 01:58:49.80 ID:x4//S+yB - 東方向に連なる側火山からの噴火を続け、1200年前から後には少なくとも80
0〜802年、864〜866年、937年、999年、1033年、1083年 、1435〜1436年、1511年、1707年の九つの時期の噴火が確認され ている。神々しい山容と「鎮爆」このような噴火や溶岩の流出を繰り返す富士山は 恐ろしくかつ神秘的な山と考えられたために、古くから遥拝の対象であったが、日 本における古代国家の統治システムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰り返す噴火 を鎮めるため、富士山そのものあるいは富士山に鎮座する神を浅間神として祀るよ うにもなり、各地に遥拝所としての浅間神社が建立され、国家の宗教政策の一端に 位置づけられるようになった。また、富士山の神々しく秀麗な姿と周辺の自然環境 が芸術の対象とされるようになり、日本最古の歌集である『万葉集』(8世紀半ば )や日本最古の物語とされる『竹取物語』(9世紀後半)をはじめとして、数多く の和歌・物語など文学の題材となったほか、現存最古となる『聖徳太子絵伝』(1 1世紀制作)をはじめ、数多くの絵画作品の題材として取り上げられるようになっ た(表参照)。特に12世紀後半以降、日本の政治的中心が京都から鎌倉に移動し 、この二つの都市を結び富士山南麓を通る街道の交通量が増加したことで、富士山 の情報は多くの人に記録され、広く知られるようになった。修験道―日本古来の山 岳信仰と外来宗教の習合―また、12世紀頃より噴火活動が沈静化したことで富士 山は日本古来の山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が習合した「修験道」の道場と もなり、修験者が山中に分け入り、霊力を獲得するために修行する山へと変化して いった。当時一般的であった神仏習合思想(本地垂迹説)により、山頂部は仏の世 界(又は仏が神の形となって現れる場所)として認識され、山頂部に至ることが重 要な意味を持つようになった。この結果15〜16世紀には登拝する山として一般 に広く知られ、修験者に引率された武家・庶民等による信仰登山が盛んになった。 登山口の設置はいずれも室町時代のことで、14世紀から15世紀後半に開かれた
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144 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 02:05:24.90 ID:x4//S+yB - 響もあり富士山への登拝は継続ないし拡大した。19世紀末以降の鉄道・自動車道
の開通も、登山者の利便性を格段に向上させた。南麓へは1889年に東海道線が 開通し、北麓へは1900年前後に馬車鉄道と中央線が開通したことによって、東 京からの登山がさらに活発になった。自動車道としては、1929年に北口本宮冨 士浅間神社から馬返(標高1450m)まで自動車専用道路が開削され、1937 年には大型バスによる輸送も始まった。第二次大戦以降、日本の価値観や経済状況 の変化により、富士山への登山は信仰を中心としたものから、富士山への憧れを主 な動機とするものに変化した。また、1964年に中腹までの自動車道として、北 麓の富士山スバルラインが、1970年に南麓の富士山スカイラインが開通し、こ れ以降、中腹(標高2300〜2400m)を起点とした登山が主流になった。こ の結果富士山への登山者は急増し、年平均20万〜30万人に達するに至った(2 007年からはさらに増加し年間35万〜43万人)。これらの登山者の行動様式 の中には富士山への信仰の核心が受け継がれており、加えて、現代的な富士山信仰 の形態として、静岡県の柿田川のように、新たに富士山との関わりが明らかになっ たことが、環境保護活動の活性化につながった例などがある。最近の保全の歴史2 0富士山体は文化財としては、1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法により、山 麓の幅広い地域が名勝に仮指定された。これとほぼ同じ範囲は、1936年に自然 公園法により国立公園の一部として指定され、現在も保全の対象となっている。さ らに、第二次世界大戦後の1952年には、新たに文化財保護法によって、御中道 以下500mより上及び一部の登山道などが名勝として(同年、特別名勝として) 指定され、1966年には指定区域を拡大した。山梨県は1978年(のち、19 99年及び2006年に改定)、静岡県は2006年に「特別名勝富士山」の保存 管理計画を策定し、適切な保存と活用を図っている。周辺の浅間神社や御師住宅の 近代以前の修理や保存の状況は2bで述べたところだが、それらを含めた富士山に
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147 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 02:12:42.84 ID:x4//S+yB - 蘭学を研鑚、後に小田野直武の影響を受けて、洋風写生画の第一人者となる。南蘋
派宋紫石東京国立博物館日金山富岳展望図(18世紀)長崎に渡来した清人画家よ り写生的花鳥画を学び、また平賀源内らを通じて蘭学に通じた。禅画白隠慧鶴大分 ・自性寺富士見大名行列図日本臨済禅を確立した禅僧。全国を遍歴、布教した。禅 画の大成者としても著名。浮世絵派葛飾北斎山梨県立博物館版画富岳三十六景18 31世界的に著名な浮世絵師。富岳三十六景に見る象徴主義は欧米文芸に大きく影
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150 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 02:20:13.13 ID:x4//S+yB - ょう」(鎌倉)藤原ふじわらの為ため明あきら「新拾遺和しんしゅういわ歌集かし
ゅう」(室町)25記録・紀行文都良香みやこのよしか(平安)「富士山記ふじさ んき」※作者不詳(鎌倉)「海道記かいどうき」※作者不詳(鎌倉)「東関紀行と うかんきこう」飛鳥井あすかい雅世まさよ(室町)「富士紀行ふじきこう」堯孝ぎ ょうこう(室町)「覧らん富士記ふじき」堯恵ぎょうえ(室町)「北国紀行ほっこ くきこう」※作者不詳(室町)「富士御覧日記ふじごらんにっき」道興どうこう( 室町)「廻国かいこく雑記ざっき」宗牧そうぼく(室町)「東国とうごく紀行きこ う」紹巴じょうは(室町)「富士見ふじみ道記みちのき」小堀遠州こぼりえんしゅ う(江戸)「東海道紀行とうかいどうきこう」浅井了意あさいりょうい(江戸)「 東海道名所記とうかいどうめいしょき」岩佐いわさ又兵衛またべえ(江戸)「迴国 道の記」松尾まつお芭蕉ばしょう(江戸)「野ざらし紀行」香川景樹かがわかげき (江戸)「中空の日記」古川古松こしょう軒けん(江戸)「東遊とうゆう雑記ざっ き」藤とう惺せい梅ばい(江戸)「東海紀行」日記文学菅原孝標女すがわらのたか すえのむすめ(平安)「更級さらしな日記」阿仏尼あぶつに(鎌倉)「十六夜日記 いざよいにっき」「うたたね」後ご深ふか草院くさいんの二条にじょう(鎌倉)「 とはずがたり」賀茂真淵かものまぶち(江戸)「岡部日記おかべにっき」永井なが い荷風かふう(江戸−昭和)「大窪だより」伝説・物語※作者不詳「竹取たけとり 物語ものがたり」(平安)※作者不詳「伊勢いせ物語ものがたり」(平安)紫式部 むらさきしきぶ「源氏げんじ物語ものがたり(若紫わかむらさき)」(平安)藤原 兼輔ふじわらのかねすけ「聖徳太子伝暦しょうとくたいしでんりゃく」(平安)※ 作者不詳(平安)「平中へいちゅう物語ものがたり」「平家へいけ物語ものがたり 」(鎌倉)※未詳「曽我そがの物語ものがたり」(鎌倉)※作者不詳「源平げんぺ い盛衰記せいすいき」(鎌倉)※未詳「承久記じょうきゅうき」(鎌倉)浅井あさ い了りょう意い「東海道名所記」(江戸)能(謡曲)伝世阿弥ぜあみ原作(室町)
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155 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 02:32:45.58 ID:x4//S+yB - は他界(死後世界)とされてきた。このため富士山では富士山の神(※1)を祀っ
た山麓の浅間神社における遥拝活動とともに、以下の絵図(類似の登山案内図が数 多く作成された)に示されたように、雲上の神仏の世界へ一定の儀礼に従って参詣 する「登拝」を中心に、富士山体・周辺にある富士山の火山活動によって生成され 神聖な意味を持つとされた風穴・溶岩樹型・湖沼・滝・湧水地などを巡礼し、修行 することで治病・除災などの超自然的力を獲得し、罪や穢れを消して生まれ変わる (擬死再生)と考える「富士山禅定」(※2)と呼ばれる行為(儀礼・活動)が成 立し、18〜19世紀にかけて富士山は体系化された登拝のための宗教施設も含め 、大規模な大衆による宗教的登山を代表する存在となっていた。このような自然へ の畏敬という日本の宗教観の根本を基盤とし、神仙思想(道教)や仏教(特に密教 )なとど融合した日本独特の山岳信仰を代表する遥拝及び登拝・登山の様式は今日 でも命脈を保ち、特に夏季を中心に訪れる外国人を含む多くの登山客とともに富士 登山の特徴を成している。また、信仰の核心部分は各地の浅間神社に対する信仰や 今日も続く宗教的な儀礼・活動によって受け継がれ、富士山は日本を代表する神聖 な山として知られている。(※1)この神は、1868年の神仏分離令まで神仏習 合の影響を受け仏の化身と考えられていた。また、この神は一つの神に限定されず 、信仰の種類や時代ごとに異なる性格と名称を持ついくつかの神または仏が信仰さ れていた。(※2)「禅定」とは本来は心を静めて一つの対象に集中する宗教的瞑 想・状態、あるいはその結果仏と一体化することを示す言葉であり、その後、主に 修験道において富士山などの霊山に登って修行することも意味するようになった。 写真「絹本著色冨士曼荼羅図」(部分:16世紀ごろ)30「絹本著色冨士曼荼羅 図」(16世紀ごろ)評価基準(C)歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集 合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。評価基準( C)の適用富士山では、富士山信仰の形成の中で神社等の建築群・登山道・宗教施
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158 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 02:40:15.59 ID:x4//S+yB - 岳やアジア地域の山岳においても形態は異なるとはいえ山を神聖視することをその
根本に据えた文化的伝統が数多く行われている。したがって、富士山は顕著な普遍 的価値を持つ生きた伝統と直接的・実質的に関連がある景観である。・顕著な普遍 的意義を持つ芸術作品との直接的・実質的関連独立峰である富士山の周囲には湖や 海と組み合わされた富士山の優れた景観を望む展望地があり、今日に至るまで多く の芸術作品を創造する場となった。これらの富士山を題材にした芸術作品のうち、
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161 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 02:46:21.44 ID:x4//S+yB - こでの儀礼や活動を通じて、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継承さ
れている。(2)景観の顕著な見本:富士山体とその周辺の景観は、類いまれな美 しさ、神聖な空間として認知され、日本における自然美の典型として、多くの人々 に世界の山の中でも最も著目なアイコンとして共有されている。(3)顕著な普遍 的意義を持つ芸術的作品との関連性:富士山の優れた景観美は、近現代の西洋美術 に影響を与えた芸術的作品などに「関連する景観」である。信仰の山については、 2001年9月に和歌山県で開催された国際会議「アジア・太平洋地域における信 仰の山の文化的景観に関する専門家会議」(以下、「信仰の山会議」という)にお いて、信仰の山の認定及び保護に関する様々なテーマと問題が討議された。ここで 、信仰の山の遺産としての価値は、有形的価値、無形的価値の形態をとって現れる とされた。また、信仰の山の自然的特性についても評価が可能とされた。信仰の山 会議で示された指標を参考に、富士山の顕著な普遍的価値を表す要素を勘案して、 自然的要素としては、「形状・標高」(独立峰かどうか、富士山と同程度の標高か )、「岩盤や岩(洞窟を含む)・水域」「火山」(火山であることに由来する特徴 的な風穴・湧水地・湖沼などがあるか)、有形的価値としては、「洞窟」「歴史的 な巡礼路又は参詣道」「神社」「寺院」「眺望・展望地」がそれぞれ存在するかど うか、無形的価値としては、「継続性」(崇拝儀礼などが今も行われているか)、 「存在」(山自体が信仰の対象か)、「慣習」(登拝、遙拝を行っているか)、「 アイデンティティ」(山自体が国、民族の象徴となっているか)、「知名度」(富 士山と同程度(山頂までの登山者が30万人、山麓が4,000万人)の訪問者が あるか)、といった観点から、評価することとする。同様に、顕著な普遍的意義を 持つ芸術的作品との関連性については、山の景観美が芸術作品を産み出す母胎とな ったかどうか、またそれらの作品群が海外にも広く知られ、世界史に大きな影響を 35与えたかどうか、といった観点から、評価することとする。2)海外同種資産
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164 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 02:52:57.32 ID:x4//S+yB - 20漢拏山済州火山島と溶岩洞窟群韓国アジア・太平洋地域21アダムスピークピ
ーク野生保護区、ホートンプレインズ国立公園、ナックレス山脈−スリランカ22 アパラチア山脈グレート・スモーキー山脈国立公園アメリカ23キラウェア山ハワ イ火山国立公園アメリカ24ロッキー山脈カナディアン・ロッキー山脈自然公園群 、恐竜州立自然公園、ウォータートン・グレーシャー国際平和自然公園、イエロー ストーン国立公園カナダ・アメリカ25シナイ山聖カトリーナ修道院エジプト26 サント・ヴィクトワール山サント・ヴィクトワール山とセザンヌに関連する土地− フランス27ペルデュ山ピレネー山脈−ペルデュ山スペイン及びフランス28アト ス山アトスギリシャ29オリンポス山オリンポス山周辺−ギリシャ30ドロミテ山 塊ドロミテイタリア31ケニア山ケニア山国立公園/自然林ケニア32ワスカラン 山ワスカラン国立公園ペルー33スイス・アルプス(ユングフラウ−アレッチュ峰 、ビチホルン峰ほか)スイス・アルプスユングフラウ−アレッチュスイスアジア・ 太平洋地域以外34キリマンジャロ山キリマンジャロ国立公園タンザニア37表2 :信仰関連の山岳等番信仰の物証号山名自然的要素、有形的側面無形的側面1ウル ルカタ・ジュタ・ウルルは単一の岩石・アボリジニにとって、ウルル−カタ・ジュ タの岩は伝統的な信仰の中で不可欠なものである。・山自体が信仰の対象であり、 遙拝といった信仰形態をもつ。3スライマン−トー・参詣道、岩面陰刻・中央アジ ア随一の聖なる山とされ、ムスリムの聖地である。前イスラム教とイスラム教を融 合した信仰形態が残る。・山頂を目指すという行為自体に宗教的意義付けがない( 登拝といった信仰形態をもたない)。4プーカオ山寺院、山頂のリンガ(シバ神の 象徴)・シバ神の住む山である。・山頂から麓の川に至るまでに建てられた寺院群 はヒンズー教の宇宙観を表現する配置である。6ヒマラヤ山脈・同程度以上の標高 (エベレスト8848m)・修道院、寺院・神々の住処として崇拝される空想的な 山であるメール山(スメール山、須弥山)が地上に顕現・チベット仏教、ボン教、
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167 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 02:59:59.70 ID:x4//S+yB - 5895m)・地域の神が住む場所と考えられ、東アフリカの人々は死者を埋葬す
る。・チャガ族(キリマンジャロ山麓に居住する部族)は、神の住む場所としてお り、彼らの伝承や慣習には、山への高い敬意が表されている。38表3:芸術関連 の山岳等番号山名芸術作品との関連性8泰山・数多くの詩や文が残る。・山頂の風 景が紙幣の図柄になるなど、中国人の精神的シンボルと捉えられている。9黄山・ 絵画は数多く描かれ、黄山画派と呼ばれた。11廬山・山水画、山水詩は多数作ら れ、特に「観瀑図」は日本の画家にも大きな影響を与えた。22アパラチア山脈・ フレデリック・チャーチやトーマス・コールといったアメリカの風景画家に描かれ ている。24ロッキー山脈・19世紀のアメリカ人画家、アルバート・ビエスタッ ドの描く絵画は、ロマン主義運動の理念を最も劇的に具現化しており、”ロッキー マウンテン画派”の指導者であった。・富士山と同程度以上の標高(エルバート山 4401m)26サント・ヴィクトワール山・20世紀の初頭、フランス人画家、 ポール・セザンヌによって、風景画に対して根本的に異なるアプローチが始められ 、西洋美術作品の中でも最も有名な山となった。27ペルデュ山・この風景は生活 の伝統(牧畜との暮らし、国境の文化、ピレネー独特の文化)と芸術・文学作品が 関連して、顕著な普遍的価値を構成。(レイモンド・デ・カルボニエ、ヘンリー・ ラッセル、ヴィクトル・ユゴー等)。・ヨーロッパ芸術の中でロマン主義が発展し ていく上で重要な役割を果たした。・富士山と同程度以上の標高(3352m)3 3スイスアルプス(ユングフラウ峰、ビーチホルン峰、ほか)・印象的な風景はヨ ーロッパ芸術、文学等において重要な役割を担った。・レオナルド・ダ・ヴィンチ はモンテ・ローザのスケッチをモナリザの背景として描いた。・富士山と同程度以 上の標高(フィンスターアールホルン4274m)3)国内同種資産の特定同様の 方法で、日本国内の資産について、世界遺産登録物件または暫定リストから抽出す ると、表4のとおり3つの山が考えられ、特に共通性が認められる2件について評
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170 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 03:06:10.77 ID:x4//S+yB - は、世界遺産一覧表には一般の人々が一様に認めている火山の多くが含まれていな
いことは興味深いとし、その例として、イタリアのエトナ火山や富士山などを挙げ ている。とくに富士山は、火山とその周辺地域に訪れる年間の観光客が地球上のど の火山よりも多い点で重要とされている。こうしたギャップを埋めるために、知名 度、科学的重要性、文化及び教育的価値を基準に個々の長所を検討すべきとしてい る。41(2)海外の芸術関連の山岳との比較独立峰であり、高い標高を持つ富士
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173 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 03:13:23.06 ID:x4//S+yB - 範囲の緩衝地帯を設定しており、負の影響を与える可能性の行為に対して適切な法
的規制を行うとともに、包括的保存管理計画の下に保全又は改善のための対策を明 示している。したがって、資産の周辺環境の保全に関する完全性も揺らぎはない。 2)真実性推薦資産は、所有者をはじめ、国及び地方公共団体によって適切な維持 管理が行われ、文化資産としての価値を失することなく良好な状態を保っている。 以下に、『世界遺産条約履行のための作業指針』第82項に示された文化遺産の評 価に適用される真実性の属性に基づいた、構成資産の種類ごとの分析を示す。(1 )富士山体(遺跡(site))富士山は、1707年を最後に噴火しておらず、 以降、形態に変更はない。また、今後噴火によって形態上の変化が起こったとして も、富士山の荒ぶる姿は人々の信仰心を鼓舞し、芸術活動に駆り立てることから、 真実性が損なわれるものではなく、むしろ、有史以来時代を超えて、精神・機能の 観点からみた真実性は確実に維持されている。神聖性が最も高いとされる、山体中 腹以上の核心となる区域には、文化財保護法により厳格に保護されているほか、そ の周辺地域や展望線及び主要な展望地点は、自然公園法などの国内法により展望・ 眺望への妨げとなるものの除外や風致景観との調和を図る景観保全が行われており 、景観全体の真実性は確実に保証される。また、登山道や山小屋、信仰関連遺跡な どの諸要素が総体的な登拝システムを構築し、その機能は良好に遺存している。登 山道は、人為による現状の変更には厳しい規制がかけられており、地下に埋もれた 遺構を含め、価値の真実性の伝達については、将来にわたり確実に保証されている 。また、宗教空間としての用途・機能を何百年も維持してきた。レクリエーション のために登43山を行う人々にとっても、脈々と継承してきた富士山に対する信仰 の核心の証左として、それらは機能している。(2)神社・御師住宅(記念工作物 ・建造物群・遺跡(site))神社について、建築の歴史的価値を表す平面形式 、構造様式、内外の立面意匠は顕著な普遍的価値を表す時代のままである。近代以
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176 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 03:19:44.31 ID:x4//S+yB - 体までの範囲は構成資産に含めてはいない。現状においてこれらの資産範囲及び展
望面は三保松原の一部を除き良好な状態を保っている。これらの資産範囲について は、信仰の核心である御中道より上の範囲は文化財保護法(特別名勝及び名勝)及 び自然公園法(特別保護地区及び第1種特別地域)により厳密に保全され、下部( 標高1500〜2000m以下、特別名勝範囲外)は自然公園法(特別保護地区、 第1〜3種特別地域、普通地域)及び森林法(保安林)により重層的に保護されて いる。また、展望面の周辺部については自然公園法(特別保護地区、第1〜3種特 別地域、普通地域)及び森林法(保安林)、景観法に基づく景観条例、景観計画に より保護されている。これらの法令の許可制に基づく保護により、景観面に関して 資産に影響のある開発は厳重に管理されている。また、資産範囲及び緩衝地帯に含 まれていない三保松原の展望面についても海面において実質的に開発行為は起りえ ず、市街地においても景観法に基づく景観条例、景観計画により保護されているた め、特に問題は生じない。(2)登山道(遺跡(site))これらの構成資産は 富士山体及びそこに所在する登山道である。これらの構成資産については、真実性 及び完全性が担保できる部分が史跡に指定されるとともに、その大部分の範囲が特 別名勝に指定されている。これらの構成資産については、県が、各史跡及び特別名 勝としての保存管理計画を策定し、構成資産の所在する市町村とともに確実な保存 管理に当たっている。したがって、各史跡等を構成する諸要素及びそれらと一体を なす周辺の地域は、良好な状態を保っている。さらに、指定地内で行われる現状変 更及び保存に影響を及ぼす行為(以下、「現状変更等」という。)については、文 化財保護法の下に許可制に基づき厳重に規制されている(富士山体の保護措置につ いては次項で詳しく述べる。)。(3)神社・御師住宅(記念工作物・建造物群・ 遺跡(site))これらの構成資産はいずれも社殿などの木造建造物を中心とし ている。それら内のいくつかは、富士山本宮浅間大社本殿などのように重要文化財
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179 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 03:26:47.63 ID:x4//S+yB - 文化財保護法の下に許可制に基づき厳重に規制されている。2)構成資産の保全状
況(A)山体(眺望の対象である富士山、ある文化的伝統を伝承する物証である、 連続性のある資産としての富士山)登録範囲における自然的環境については、おお むね良好な状態である。資産範囲の上部は文化財保護法(特別名勝)及び自然公園 法(特別保護地区及び第1種特別地域、第2種特別地域)により厳密に保全され、 下部(標高1500〜2000m以下、特別名勝範囲外)は自然公園法(特別保護 地区、第1〜3種特別地域、普通地域)及び森林法(保安林)により重層的に保護 されているため、景観および文化的価値のどちらの点においても資産に影響を及ぼ す行為は発生しない。た46だし、山体西側には山頂部付近から標高2200m付 近までを源頭部とする土砂崩れ(以下、「大沢崩れ」という。)が、約1000年 前より継続して発生している。このため山体西側の一部でかつての信仰に関わる道 (御中道)の通行等が禁止されている区域がある。山頂及び登山道周辺では、多く の人々によって行われる登山行為に起因する廃棄物・し尿が発生するが、山小屋組 合などにより適切に管理・除去されている。なお、山腹において、山小屋の維持・ 廃棄物の撤去のためにブルドーザーが通行する道路があるが、使用は必要最小限に とどめられている。山頂部周辺の文化的環境についても、現時点における保全状態 は良好である。ただし、降雪・強風等に常時さらされるため、小規模な変更は常時 行われてきた。(A1)山頂信仰遺跡現時点における保全状態は良好である。(A 2〜5)登山道富士山は脆弱な火山地質であるとともに、雪崩・強風等に常時さら されるため、登山の開始以降登山道小規模な経路の変更は常時行われていた。した がって、継続的な観点における保全状態について明確に述べることはできない。し かし、現在も登山道として使用されている部分については毎年登山期前に県、地元 保存会(須山口)又は山小屋組合により整備が行われ、適切な状態に保たれている 。(A6)北口本宮冨士浅間神社北口本宮冨士浅間神社は定期的な維持修理が行わ
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182 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 03:33:09.75 ID:x4//S+yB - 界遺産両県協議会」(設置予定・仮称)では、両県の知事・市町村長を中心に、許
認可・保存に関わる国機関も加わり、開発の状況を把握し、コントロールのあり方 について検討を行う予定である。開発計画のうち、現在北麓(山梨県)においては 都市計画区域用途地域または都市計画区域外では5ha以上、都市計画内(用途地 域外)では10ha以上の計画については、山梨県内の組織である「山梨県土地利 用調整会議」に事前協議書が提出され、知事の同意が必要とされている。その同意
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185 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 03:39:14.92 ID:x4//S+yB - の水分を含んだ雪が流動する雪泥流)や大沢崩れ及びそれに伴う土石流、強風、雨
水による浸食などが考えられる。また、富士山を含む駿河湾沿いの地域はM8クラ スの海洋プレート内地震の発生が予測されている。第二に日本列島の太平洋側にお ける一般的自然災害である台風・大雨・洪水並びに火災等が予測されている。第三 に三保松原に関しては海岸浸食に伴う高潮などの被害がある。これらについてそれ ぞれ以下のような防災対策を講じている。噴火及びそれに伴う災害に対しては、気 象庁をはじめとする研究・防災機関が常時観測を行うと同時に、国の富士山ハザー ドマップ検討委員会報告書(2004年)に基づき県及び市町村において火山防災 計画(ハザードマップ・避難計画)などを策定している。雪崩については、吉田口 登山道では馬返より上の登山道に浸透桝を設け、雨水や雪崩による崩壊を防いでい る。土砂崩れ・土石流(主に大沢崩れ)については国が中心となり、源頭部におけ る水分と土砂の分離、山麓における土石流災害防止を目的とした遊砂地の設置など を行っている。また、登山道を管理する県では導流堤を設置し、落石の落下先をコ ントロールしている。これらの災害は発生自体を防止することは困難であるため、 その被害を最小限にとどめることを対策の骨子としている。50地震に関する対策 としては、大規模地震対策特別措置法(1978年)に基づき、予知を目的とした 観測体制、予知を前提とした非難・警戒体制、防災施設整備が行われるとともに、 東海地震対策大綱(2003)に基づき国・県・市町村の防災計画が策定されてい る。また、今後各神社等の耐震化が行われる計画となっている。台風は1996年 9月に富士山南側の人工林地区(ヒノキ)に風倒の被害(標高1100〜1200 m中心、計1125ha、富士山では約935haうち国有林620ha)をもた らしたことがあるため、1997年より静岡県が中心となり、被害地に対して自生 種(ブナ・ミズナラ)の植栽(のべ22・68ha)を実施している。また、風倒 による被害を防ぐため人工林における下刈を実施している。大雨・洪水に関しては
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188 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 03:45:52.06 ID:x4//S+yB - 国・県及びNPO法人(富士山ネットワーク・富士山クラブ)、ボランティアによ
51る清掃作業が活発に実施されるとともに(平成20年実績・92回、約64t 、延べ参加人数約7000名)、外国人も含め登山者に対してマナー向上を呼びか け、登山道周辺のごみは減少している。山頂部で発生するごみについては山小屋組 合(富士山吉田口旅館組合等)により、山麓に搬出し、適切に管理・処理されてい る。し尿対策に関しては登山道及び山小屋のトイレ48箇所を2006年までにバ イオ処理式等に改良し、環境への負荷を軽減した。さらに、登山者の増加や設備の 老朽化に対応するため、環境配慮型トイレ適正管理委員会を設けて対策を検討して おり、今後は業者と連携を密にしてメンテナンスをきちんとしていくことが確認さ れた。自動車に関しては、土日・休日を中心に各登山道の利用者数に応じて自家用 車の利用を規制し(利用者の多い富士スバルラインで最大12日間、利用者の少な い御殿場口はなし)、山麓の臨時駐車場と五合目駐車場間のシャトルバスによる輸 送を行っている。吉田口においては2011年夏には富士吉田IC付近に1400 台の駐車場を整備し、自家用車の利用規制を15日に拡大する予定である。5)資 産と緩衝地帯の居住者人口構成資産内人口:人緩衝地帯内人口:人合計:人集計年 :2010年No.構成資産の名称構成資産範囲内人口(人)緩衝地帯内人口(人 )合計(人)富士山A1山頂信仰遺跡A2大宮・村山口登山道A3須山口登山道A 4須走口登山道A5吉田口登山道A6北口本宮冨士浅間神社A7西湖A8精進湖A A9本栖湖B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B3村山浅間神社B4須山浅 間神社B5冨士浅間神社(須走浅間神社)B6河口浅間神社B7冨士御室浅間神社 B8御師住宅52B9山中湖B10河口湖B11忍野八海B12船津胎内樹型B1 3吉田胎内樹型B14人穴冨士講遺跡B15白糸ノ滝C三保松原535.資産の保 護の管理a)所有関係各構成資産の所在地及び所有者については、以下に記すとお りである。b)法に基づく指定保護資産を構成する重要文化財に指定された「記念
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191 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 03:52:11.32 ID:x4//S+yB - 重要文化財冨士御室浅間神社本殿の指定史跡富士山の指定予定(B8)御師住宅1
976年5月20日:重要文化財小佐野家住宅の指定重要文化財旧外川家住宅の指 定予定(B9)山中湖561936年2月1日:富士箱根国立公園の指定(名勝富 士五湖の指定予定(B10)河口湖1936年2月1日:富士箱根国立公園の指定 (名勝富士五湖の指定予定(B11)忍野八海1934年5月1日:天然紀念物忍 野八海の指定(B12)船津胎内樹型1929年12月17日:天然紀念物船津胎 内樹型の指定(B13)吉田胎内樹型1929年12月17日:天然紀念物吉田胎 内樹型の指定(B14)人穴富士講遺跡史跡富士山の指定予定(B15)白糸ノ滝 1936年2月1日:富士箱根国立公園の指定(1936年3月6日:名勝及天然 紀念物白糸ノ滝の指定(C)三保松原1922年3月8日名勝三保松原の指定19 77年4月1日名勝三保松原の一部指定解除1990年3月29日名勝三保松原の 追加指定及び一部指定解除c)保護の実施手段1)資産各構成資産については、遺 跡、記念工作物、建築物群のみならず、それらと密接な関連を持つ展望線など、富 士山の本質的価値を構成する諸要素を厳格かつ的確に把握し、それらをすべて含む 範囲について、価値の中核をなす部分は文化財保護法の下に指定(特別名勝又は名 勝、特別天然記念物又は天然記念物、重要文化財、史跡)され、また、価値の中核 をなす部分を取り囲む地域の大部分は自然公園法の下に国立公園(国立公園、県立 自然公園)に指定している。これら範囲のうち、富士山の顕著な普遍的価値を証明 するために必要不可欠な範囲を資産範囲とした。これらの範囲の大部分においては 、国の許可無くそれらの現状を変更することはできない。文化財保護法、自然公園 法の及ばない地域は国有林であり、開発行為が行われることはない。また、森林法 に基づき森林の伐採に関しても適切な管理が行われている。文化財保護法の定める ところにより、特別名勝又は名勝、特別天然記念物又は天然記念物、重57要文化 財、史跡の保存管理・修理・公開については、所有者又は管理団体が適切に行うこ
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194 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 03:58:46.50 ID:x4//S+yB - 大臣の許可(特別地域)、届出(普通地域)自然公園法(県立自然公園)県立自然
公園条例三保松原(一部)工作物の新築等、ごみ捨て又は放置、木竹の採取、土石 の採取、車馬の乗り入れ等県知事の許可(特別地域)、命令景観条例及び景観計画 (景観法に基づく)富士市・富士宮市静岡市・忍野村・山中湖村・富士河口湖町建 築物の新築等、工作物の新設等、開発行為、土石の採取・堆積等(高さ・色彩・形 状を規制)市町村長への届出勧告、指導・要請(問題があった場合)景観条例(自
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197 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 04:05:48.67 ID:x4//S+yB - 画62各構成資産の都市計画保存管理計画等観光計画(山梨県・静岡県・各市町村
)整備計画等632)保存管理体制包括的保存管理計画に定めた上記の基本方針に 基づき、静岡県・山梨県と関係市町村は、広範囲にわたる富士山の構成資産及び緩 衝地帯を包括的保存管理計画に基づき統一的に管理するため「富士山世界遺産両県 協議会」(以下「両県協議会」という。仮称)及びその支部組織である「静岡県世 界遺産協議会」・「山梨県世界遺産協議会」(以下両者をまとめて「各県協議会」 という。仮称)を設置し、各構成資産を成す重要文化財、史跡、特別名勝又は名勝 、特別天然記念物又は天然記念物の保存管理計画を共通の基準に基づき確実に実行 する予定である。両県協議会及び各県協議会は、資産及びその周辺地域において、 国・静岡県・山梨県・関係市町村等・民間団体等が実施する予定の事業等について の情報を総合的に把握し、それぞれの事業が、資産の保存管理に負の影響を及ぼす ことなく、適切に実施されるように関係各機関の連絡・調整を行う。両県協議会・ 各県協議会における調整結果に基づき、静岡県・山梨県及び関係市町村は、民間事 業者等に対して権限に基づく適切な指導や助言を行うこととする予定である。また 、両県協議会には国関係機関(文化庁・環境省・国土交通省・防衛省・林野庁)、 国内の大学及びイコモス会員等の研究者・専門家が参加し、学術的な観点からの助 言を行う予定である。各県協議会の下には、各県庁内の実務担当者レベルの調整組 織として、静岡県(山梨県)庁内連絡会議を設置するとともに、各市町村担当者や 民間業者(観光協会、登山組合、神社関係者)などの代表者との調整組織として静 岡県(山梨県)保存管理協力者会議を設置し、十分な連携を図る予定である。さら に、静岡県・山梨県文化財保護審議会をはじめ各市町村文化財調査委員会は指定文 化財及び文化財全体に関する事項を審議し、それぞれ、静岡県・山梨県教育委員会 及び直接的な構成資産の管理を行う各市町村教育委員会に対して建議を行っている 。これらの組織の運営は静岡県・山梨県の世界遺産推進課が行い、専門の職員名に
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200 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 04:11:50.80 ID:x4//S+yB - 体に指定された各市町村教育委員会が実施している。静岡県・山梨県教育委員会と
その関連機関である財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所及び山梨県埋蔵文化セン ターでは、それぞれの組織内に文化財の高度な保存・管理技術を持つ専門職員及び 技術者を配置し、管理団体である各市町村が行う保存管理に対して適切な技術的支 援を行っている。また、独立行政法人国立文化財機構は、全国の史跡等における整 備活用事業の円滑な推進と専門職員及び技術者の技術や能力の向上のために、地方 公共団体の専門職員を対象として定期的に研修を開催しており、静岡県・山梨県を はじめ関係各市町村の職員も当該研修等に積極的に参加して、資産の整備活用の技 術向上に努める予定である。さらに、独立行政法人国立文化財機構(201年度よ り国内の大学の研究者及びイコモス会員を含む富士山世界遺産両県協議会の助言者 及び両県協議会も含まれる予定である)の助言・指導に基づいて行われている保存 ・管理技術は、高い水準を維持する予定である。重要文化財、史跡、特別名勝又は 名勝、特別天然記念物又は天然記念物を維持するための措置として簡単な修理又は 復旧を行う場合は、事前の届出に基づき、文化庁が適切な技術的指導を行っている ため、管理技術の水準はきわめて高く保たれている。資産の見回りや清掃等の日常 的な維持管理については、静岡県・山梨県教育委員会から嘱託された文化財保護指 導員(静岡県3名、山梨県2名:構成資産の所在地区を担当する人数)のほか、地 域住民・民間団体・管理団体が協働して積極的に行っている。表技術者の資質向上 のために行われているおもな研修h)来訪者の施設と統計構成資産の大部分は、周 囲に展開する景勝地とともに日本を代表する優れた名所として国内のみならず海外 に広く知られており、夏季の登山をはじめとして四季折々の自然の姿を求めて来訪 する観光客でにぎわい、現在も国内有数の観光地となっている。図富士山への登山 者数の推移(各登山口推計登山者数)静岡県山梨県富士宮口御殿場口須走口県計吉 田口合計図富士山への来訪者数の推移(7・8月における各登山口五合目への入れ
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203 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 04:18:58.32 ID:x4//S+yB - することにより十分な装備と経験を有する者以外の登山は不可能である。冬山登山
者は各登山口所轄警察署(御殿場署・富士宮署・富士吉田署)に登山計画書の提出 を推奨されている(また、おおむね11月末〜4月末まで静岡県側の登山用自動車 道は閉鎖され、山梨県側も積雪・凍結等の状況に応じて段階的に閉鎖される。)山 体以外の構成資産については、おおむね来訪者数に応じた駐車場・トイレ等を整備 しており、今後、これらをさらに整備する予定が立てられている。i)資産の整備 ・活用に関する方針・計画静岡県・山梨県では、構成資産及びその周辺を対象とし た保存管理に関する事業計画を定め、地域住民による活用の取組をも取り込んで計 画的に実施している。こうした諸計画に基づき、富士山地域の歴史的背景を展示す る「富士吉田市歴史民俗博物館」「裾野市立富士山資料館」「富士市立博物館」の 活用や、富士山に係る包括的な保存・管理や利用者ニーズに適切に対応する拠点の 整備を検討するなど富士山の適切な保全・管理・活用を図っていく。加えて、富士 山についての市民向け講座の開催をはじめ、児童・生徒を対象とした体験学習など の情報発信施策が定期的に実施されている。個別の資産については、「遺跡」であ る特別名勝又は名勝、天然記念物、史跡をはじめ「記念工作物」・「建造物群」で ある重要文化財に指定されている建造物については、一部を除き所有者・管理団体 が年間を通じて一般に公開している。なお、登山については、登山期間(基本的に 7月1日〜8月31日)が公開時期に当たる。この時期以外の登山も禁止されては いないが、道路・山小屋等の閉鎖、および冬季の気象条件などにより専門家以外の 登山は困難である。j)専門分野・技術・管理に関する人的措置68静岡県・山梨 県教育委員会の委嘱を受けた文化財保護指導員(以下、「指導員」という。)が定 期的に文化財を巡回・点検し、両県教育委員会に対して保護に関する助言を行って いる。静岡県・山梨県は、指導員の調査報告に基づき、所有者や関係市町村に対し て文化財の保存管理に関する指導を行っている。このように、将来的に良好な状態
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206 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 04:25:09.24 ID:x4//S+yB - 未着手分析結果A:富士山の価値を証明するのに必須の資産C:富士山の価値を証
明するのに不可欠ではない資産平成21年10月30日の各県学術委員会(両県合 同開催)での評価A:顕著な普遍的価値を有する資産B:顕著な普遍的価値につい てさらに調査等が必要な資産C:顕著な普遍的価値を有しない可能性がある資産保 留:評価を保留平成22年度第1回静岡県学術委員会・第2回山梨県学術委員会資 料3世界文化遺産富士山包括的保存管理計画原案−1−世界文化遺産富士山包括的
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209 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 04:31:16.55 ID:x4//S+yB - てきた。それらの作品群は、地球上の特定の地域において独自の文化的伝統が形成
・発展するのに当たり、富士山が重要な源泉となった極めて強力な関連性であるこ とを示している。このような価値をもつ「富士山」の構成資産は、山梨県と静岡県 の二県にまたがって分布している。これら一連の構成資産を世界文化遺産「富士山 」の総体として確実に保存し、確実に次世代へと継承するためには、両県共通の考 え方を基に、各構成資産全体を一つの資産として包括的に保存管理していくための 方法を整理していく必要があることから、個別の構成資産についての保存管理計画 に加え、構成資産相互の関係性を保全し全体の価値を継承していくための包括的な 保存管理計画を策定しておくことが必要である。そのため、山梨県・静岡県は、文 化庁・環境省の指導・助言の下に関係市町村、関係各機関等と調整を図り、本計画 を策定した。「富士山」包括的保存管理計画−5−各構成資産の都市計画保存管理 計画等観光計画(環境省・山梨県・静岡県・各市町村)整備計画等図包括的保存管 理計画の体系2計画策定の経緯富士山包括的保存管理計画は、構成資産に係る個別 の保存管理計画を基礎とし、世界遺産の推薦に当たって必要とされる保存管理及び 整備に係る理念・基本方針とその具体的内容について明示するため、学術研究者等 により構成される山梨県・静岡県学術委員会及び二県学術委員による審議を経て策 定されたものである。学識経験者等により構成する各県学術委員会のもとに、保存 管理計画の原案を検討する保存管理計画検討部会を設置した。原案を検討するにあ たり、県庁内の関係部署との連携や共通認識を得るため、それぞれ「山梨県保存管 理計画検討プロジェクトチーム」(表)及び「静岡県保存管理計画検討庁内連絡会 議」(表)を設置し、連携・確認を行った。また、富士山の効果的かつ確実な保存 管理を行うためには、地元関係者など幅広い方々の協力・助言が不可欠であること から、関係自治体・地域住民・観光関係者・神社関係者などで構成する「山梨県保 存管理計画策定協力者会議」及び「静岡県保存管理計画協力者部会」を設置し、連
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212 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 04:38:44.72 ID:x4//S+yB - 部会・保存管理計画について−7−2008年1月23日現地調査2008年1月
30日平成19年度第2回静岡県保存管理計画検討部会・包括的保存管理計画検討 部会の審議結果・静岡県保存管理計画について2008年2月21日平成19年度 第3回山梨県・静岡県学術委員会・各県保存管理計画検討部会の審議結果2008 年7月16日平成20年度第1回静岡県保存管理計画検討部会・包括的保存管理計 画検討部会の報告・静岡県保存管理計画について2008年9月9日平成20年度 静岡県保存管理計画検討部会第1回庁内連絡会議・富士山の世界文化遺産登録推進 の取組について・静岡県保存管理計画の策定について2009年2月12日現地調 査2009年6月1日平成21年度第1回静岡県保存管理計画策定協力者部会・富 士山の世界文化遺産登録推進の取組について・静岡県保存管理計画の策定について 2009年6月17日平成21年度第1回静岡県保存管理計画検討部会・静岡県保 存管理計画の策定について・富士山の緩衝地帯に関する考え方2009年7月13 日平成21年度静岡県保存管理計画検討部会第1回庁内連絡会議2009年10月 29日平成21年度静岡県保存管理計画検討部会第2回庁内連絡会議2009年1 1月25日平成21年度第2回静岡県保存管理計画策定協力者部会2010年1月 29日平成21年度第3回静岡県保存管理計画策定協力者部会2010年3月16 日平成21年度第3回山梨県・静岡県学術委員会・保存管理計画の考え方について 2010年6月30日平成22年度第1回静岡県保存管理計画検討部会(2)学術 委員会・保存管理計画検討部会組織学術委員会及び保存管理計画検討部会の組織は 図に示すとおりである。また、その構成は表〜のとおりである。(1)行政計画と の関連・連携構成資産及び緩衝地帯を有する山梨県・静岡県及び関係市町村では、 まちづくり、観光、防災などに関する各種計画を策定し、実施している。これらの 計画は、包括的保存管理計画と密接に関連し、日常的に連携を図りつつ実施されて いる。表包括的保存管理計画に関連する計画(山梨県)計画名称策定年等F資産に
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215 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 04:45:11.85 ID:x4//S+yB - から標高1,500mの区域については自然公園法と森林法で保護されている。緩
衝地帯との境については林班により線引きを行い、県道などの人工物の改修工事等 への影響が軽減するよう配慮した。そして本栖湖、精進湖、西湖までを富士山の山 体として考え、範囲付けしたことは、展望地点から山頂までを連続して保護するた めの措置である。緩衝地帯の範囲については、当初国道469号から県道72号に かけての富士山側を計画していたが、国際専門家から飛び地の資産である、富士山 本宮浅間大社や山宮浅間神社を緩衝地帯に含めるべきだとの指摘があり、市道を境 に緩衝地帯を設定した。その際、富士山本宮浅間大社からの富士山の眺望を確保す るため、富士山に向かって約36度の広がりで設定した。この範囲については、文 化財保護法以外の法律を適用し、自然公園法、森林法、景観法で保護されている。 保全管理区域の範囲については、三保松原から富士山を眺望する際、その阻害要因 を軽減させるために、溶岩が流出した範囲を基本として設定した。そのため、静岡 県側においては、裾野市、御殿場市、小山町に流出している溶岩流の範囲について は、保全管理区域とはしていない。なお、保全管理区域についても、森林法と景観 法で保護されている。富士山山体の東に位置する、演習場(北富士演習場・東富士 演習場)については、従前より大規模開発が予定されていないことから、緩衝地帯 同様に資産を緩衝することが可能な区域であると言える。3構成資産の概要構成資 産及び保存管理状況の概要については、以下に記すとおりである。構成資産の詳細 については、推薦書本文にて説明を行っている。保存管理状況等の詳細については 、構成資産毎に策定されている個別の保存管理計画等において、それぞれ具体的内 容を含めた説明を行っている。なお、p18,19表のA〜Cは次のように分類し 、整理したものである。A富士山山体及び登山道B信仰に関わるものC富士山の眺 望に関わるもの(1)富士山山体及び登山道A富士山標高3776mを測る富士山 は、日本を代表し、象徴する日本最高峰の秀麗な独立火山である。その自然的な美
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218 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 04:52:36.68 ID:x4//S+yB - 設及び仏像は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は
神社に改変された。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上記の 行為は現代の−23−登山者の多くが行っており、これらを通じて富士信仰の核心 が現代に受け継がれている。写真奥宮の写真表法的保護、修理・整備の経緯192 4年所在地が史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国 立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1952年所在地が文化財保護法の下
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221 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 04:59:27.87 ID:x4//S+yB - た須山村により管理されていた。ただし、銀明水の管理を巡り、須走村と争いにな
った際は浅間大社の裁定を仰いでいる。登山道には宝永噴火前の状況を描いた絵図 で須山御胎内に附属する御胎内神社等の宗教施設と山室がみられる。これらの施設 及び登山道はその中腹より噴火した宝永噴火により壊滅し、御縁年の1740年に 復興したが永続せず、1780年にようやく復興した。また、1880年代の記録 では御室浅間神社、中宮浅間社、御胎内等の宗教施設と4箇所の石室があることが 確認できる。中宮浅間社や水呑浅間は村山修験の富士峯修行の行場としても使用さ れた。登拝者については詳しい研究が進んでいないが、西日本・東日本両方からの 登山者があったことが、宿帳及び案内立札の立地から確認できる。登拝者数は御縁 年に当たる1800年に約5,400人、1840年代前半は年平均約1,700 人、続く1860年の御縁年には約3,600人であった。登拝者は神仏分離令後 も継続していたが、1883年、須山口二合八勺に接続する御殿場口登山道が開鑿 された。また、1889年に東海道本線が開通し、御殿場口の利便性の向上により 須山口からの登拝者や登山者が減少することとなった。1912年には、登山道の 一部が陸軍演習場となり使用不可能となったため、須山口からの登拝(登山)は衰 退し現在に至っている。二合八勺以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一部 のみである。また、1999年、地元住民により須山口下山歩道の名でかつての登 山道の一部が復興された。写真須山口登山道の写真A4須走口登山道富士山東麓の 冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道と合流して山頂久須志岳に至る登 山道である。その起源は明確ではないが、六合目からは1384年の銘のある掛仏 が出土している。文献からは「勝山記」の1500年6月の項に、関東地方での戦 乱を避け、吉田口を利用すべき登拝者が須走口に集中したことが確認できる。遅く とも17世紀までに、冨士浅間神社及び須走村が登山道山頂部までを支配し、薬師 嶽(現久須志岳)における石室建設の独占、薬師堂の開帳・入仏などを行った。ま
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224 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 05:06:52.18 ID:x4//S+yB - 登山者は激減したが、六合目以上については、現在残る登山道の中で最も多くの道
者(外の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を上って山頂を目指している。し かも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道である。写真吉田口 登山道の写真表法的保護、修理・整備の経緯1924年所在地が史蹟名勝天然紀念 物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国 立公園に指定1952年所在地が文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定 1978年「特別名勝富士山保存管理計画」策定(1999年、2006年改訂) 1996年歴史の道整備活用事業により馬返〜1合目区間を発掘調査・整備199 9年「特別名勝富士山保存管理計画」を改訂2006年「特別名勝富士山保存管理 計画」を改訂2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに登山道の一部を史 跡富士山として指定−26−2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定 )A6北口本宮冨士浅間神社富士山北麓、吉田口登山道の起点に位置し、祭神とし て木花開花姫命、天津彦彦火瓊瓊杵命、大山祇命を祀る神社である。富士山の遙拝 所に祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、1480年には「富 士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整っていたとされる 。当神社は領主からの崇敬が厚く、境内に現存する3つの社殿は、1561年、1 594年、1615年にそれぞれ当時の領主が寄進したものである。富士講とのつ ながりが強く、1730年には富士講の指導者である村上光清の寄進によって境内 の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。北口本 宮冨士浅間神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており、神 社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた。社殿の背後に登山門があ り、この神社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田 御師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。写真北口本宮冨士浅間神社の 写真(本殿、西宮本殿、東宮本殿)表法的保護、修理・整備の経緯1907年古社
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227 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 05:14:14.45 ID:x4//S+yB - 梨県富士五湖の静穏の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に本栖
湖の湖面全域での動力船の使用が規制される2011年文化財保護法の下に名勝に 指定(予定)2011年「名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)(2)信仰 B1富士山本宮浅間大社富士山の南西麓に位置する神社であり、この神社とともに 発展してきた富士宮市の中央部に所在する。富士山の神とされる木花之佐久夜毘売 命を主祭神とし、現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮とされている。境 内には登拝の際に水垢離場として使用された湧玉池がある。浅間大社は7世紀ごろ 、富士山により近い遥拝所であった山宮浅間神社から現在の地に移転されたとされ る。創建当時は富士山の噴火が盛んであり、これを畏れ鎮めることを信仰の目的と していた。朝廷も浅間大神に他の山よりも高い神階を与えることで崇敬の念を示し た。12世紀後半ごろには、浅間大神は本地垂迹説の影響を受け大日如来の垂迹で ある「浅間大菩薩」と見なされるようになり、12世紀頃より政治の実権を掌握し た武士階級に戦勝の神として信仰された。15世紀ごろ、登拝が盛んになるにつれ て、浅間大社は村山浅間神社とともに大宮・村山口登山道の起点となり、宿坊が周 辺に建設された。16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水垢離を重要な儀式と位置 づけることによって、浅間大社を経由した登拝を喧伝した。同時期の絵図である絹 本著色富士曼荼羅図には、浅間大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する 人々の姿が描かれている。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築されてい く中で、浅間大社は徳川家康の庇護の下、1604年現在の社殿が造営されるとと もに、1609年山頂部の散銭取得における優先権を得た。これを基に浅間大社は 山頂部の管理・支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登山道と頂上部の 大日堂周辺は−28−村山浅間神社が支配し、廃仏毀釈以降、村山浅間神社の衰退 と1906年の村山浅間神社を経由しない登山道の開削などにより、浅間大社には 多くの参拝者が訪れた。また、明治政府の政策により、一時国有地とされていた八
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230 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 05:20:36.70 ID:x4//S+yB - 神社に至る。道の出発点及び途中には1691年に置かれた距離を示す石碑が少な
くとも四箇所残っている。写真山宮浅間神社の写真B3村山浅間神社山宮浅間神社 の南東約4km、富士山南麓に張り出した標高約500mのバルコニー状地形に位 置し、木花開花姫命を主祭神とする神社である。神社と一体化した範囲には、現在 別の宗教法人となった大日堂・水垢離場・護摩壇などが存在している。これらは1 868年の神仏分離令までは一体のものであり、富士山興法寺(村山興法寺)と呼
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232 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 05:27:15.86 ID:x4//S+yB - め、須山口は衰退した。しかし、その後都市化の影響を余り受けなかったため、須
山浅間神社周辺は日本的伝統に基づく村落景観を保っている部分が多い。写真須山 浅間神社の写真B5冨士浅間神社富士山東麓、須走口登山道の起点に位置し、木花 開花姫命を主祭神とする神社である。境内西側には鎌倉往還が通り、神社周辺は古 来、交通の要衝であった。社伝では802年、噴火の鎮火祈願のために祭事を行い 、翌年噴火が収まったことから、807年に祭事の跡地であるとされる現在の地に お礼のために社殿を造営したとされる。その他の文書で確実に存在が確認できるの は、1571年のものである。16世紀には地元支配者である武田氏の保護を受け 、山頂部の散銭取得権の一部を得ている。17世紀以降、須走浅間神社は当時の須 走村の御師などと共に須走口登山道を支配し、山頂部薬師嶽(現−31−久須志岳 )の薬師堂開帳の権利及び山頂部の散銭取得権の一部を得ていた。これら山頂部の 権利については八合目以上の支配権を主張する富士山本宮浅間大社と争いになり、 須走村は1703年と1772年の2回、幕府に裁定を求めている。この結果、こ れらの権利は幕府によって認められた。また、冨士浅間神社神主や御師は須山の場 合と同じく、京都吉田家より神道裁許状を得て権威を高めている。社殿は、記録の 残っている範囲では1662年、地元領主である沼津城主大久保氏や小田原藩主稲 葉氏などの援助によって修造が行われた。しかし1707年の宝永噴火では3m以 上の降砂に埋もれ崩壊したため、1718年に再建された。この後もこの際の部材 を使用し、2009年の修理も含め何回かの修理がおこなわれている。境内には水 路があり、水垢離に利用された。18世紀末から19世紀初頭にかけて富士講が隆 盛を迎えると須走口にも関東からの登拝者が登山又は下山の際立ち寄った。その数 は1800年の御縁年の際に約27,300名であった。同時期から20世紀前半 まで富士講信者は境内に登山回数等の記念碑を約80基造営した。また、神社には 神社神官や御師が発行した木版印刷による神影や神符の版木が保管されている。写
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235 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 05:33:42.10 ID:x4//S+yB - 神社本殿保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに
史跡富士山として指定(予定)2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予 定)B8御師住宅御師は、道者に宿や食事を始め登拝のための一切の世話をすると ともに、登拝の指導や祈祷を行うことを業とした。富士山御師として代表的なのは 、吉田口登山道の起点である北口本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に 沿って大規模な集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多くは短冊状をなし 、表通りに面して引き込み路を設け、敷地を流れる水路の奥に住宅兼宿坊の建物が 建っている。玄関から奥へ客室が続き、最奥部には神殿が設けられている。最古の 部類に入る旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最盛期の 典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。旧外川家住宅は、富士北麓の信仰登 山口集落である富士吉田市上吉田・下宿の東側南端に位置する。1572年の町割 によって成立した東西方向の奥行きが150mほどの長大な短冊形の屋敷地に建て られている。外川家は、屋号を塩屋ないし大外川、塩廼屋(しおのや)と号し、富 士信仰における上吉田に居住し、下総地域を檀家とした富士山御師である。157 2年の「吉田宿屋敷割帳写」には、外川家の位置に「仁科六郎ゑもん」の屋敷が記 されており、外川家ではこの人物を中興の初代としている。また、1669年の「 検地帳」では、塩屋多兵衛の屋敷として確認される。御師としての活動は江戸末期 頃隆盛期を迎えるが、1962年に御師を廃業している。建物の老朽化に伴い、所 有者が取り壊す意向であったが、富士吉田市が寄贈を受け、2006年から200 7年にかけ大規模保存修理事業を行った上で、2008年4月から富士吉田市歴史 民俗博物館の附属施設として一般公開されている。写真旧外川家住宅の写真表法的 保護、修理・整備の経緯2006年大規模保全修理を行う2008年富士吉田市歴 史民俗博物館の附属施設として一般公開を行う2010年「山梨県指定有形文化財 旧外川家住宅保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に重要文化財とし
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238 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 05:39:57.15 ID:x4//S+yB - 予定)2011年「名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)B11忍野八海富
士山の北東、忍野村忍草にある、富士山の伏流水による八つの湧水地(出口池、御 釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)の愛称である。それぞれに八 大竜王を祀る富士信仰に関わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの 水で穢れを祓った。長谷川角行が行った富士八海修行になぞられ「富士御手洗(み てらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843年に富士講道者に よって再興されたとされる。写真忍野八海の写真(どれか1つ)図忍野八海周辺図 表法的保護、修理・整備の経緯1934年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀 念物に指定2010年忍野村景観計画を策定、忍野八海周辺を景観形成重点区域に 指定2010年街なみ環境整備事業により忍野八海周辺環境の整備を行う(〜14 年)2011年「天然記念物忍野八海保存管理計画」を策定(予定)B12船津胎 内樹型1617年、富士講の祖とされる長谷川角行が富士登拝の際、現船津胎内樹 型の南方に焼入(船津胎内樹型指定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと 考えられる)を発見し、浅間明神を祀った。1673年、富士講道者村上光清によ り現船津胎内樹型が発見され、開祖が祀った焼入の地の浅間明神が遷宮された。浅 間明神誕生の地ともいわれ、無戸室(むつむろ)に火を放ち、無事に御子を出産し たという故事に倣い社号を無戸室浅間神社と名付けた。富士道者は、富士登拝の際 に、樹型を入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義付け が行われるとともに、奥には富士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫など が祀られている。写真船津胎内樹型の写真表法的保護、修理・整備の経緯1929 年史跡名勝天然記念物法の下に天然紀念物として指定2010年「山梨県南都留郡 富士河口湖町町内国指定天然記念物溶岩洞穴等保存管理・整備活用計画書」を策定 B13吉田胎内樹型吉田胎内本穴は、1892年に富士道者により整備された「御 胎内」である。吉田胎内本穴の奥には、石祠があって富士講にとっての富士山の祭
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241 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 05:46:54.44 ID:x4//S+yB - 6年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1936年史蹟名勝天
然紀念物保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定1987年富士宮市により「白糸 ノ滝」保存管理計画が策定2010年富士宮市により保存管理計画が改定され、こ れにともなった整備計画に基づき、滝周辺の景観整備が行われた(3)眺望C三保 松原富士山頂の南西約45kmに位置する駿河湾に突き出した長さ約7kmの砂嘴 をなす三保半島上の松原である。現在、5万4千本の黒松が外海側海岸線4kmを
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244 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 05:53:40.80 ID:x4//S+yB - 田須走拝所跡・須山拝所跡・村山大宮拝所跡・三島ヶ岳経塚・外浜道・内浜道A2
大宮・村山口登山道・札打場・中宮八幡堂跡(1号建物跡)・八大龍王・5号建物 跡・8号建物跡・12号建物跡・鳥居A3須山口登山道・須山御胎内(溶岩洞穴) ・石像・石燈篭・鳥居・標柱・祠A4須走口登山道・古御岳神社・迎久須志之神社 ・鳥居・狛犬・石碑A5吉田口登山道・現登山道・旧登山道・馬返・五合目・烏帽 子岩A6北口本宮冨士浅間神社−38−−39−・本殿・東宮本殿・西宮本殿・大 塚山・御鞍石A7西湖・湖水A8精進湖・湖水A9本栖湖・湖水・中ノ倉峠からの 展望B1富士山本宮浅間大社・神立山・湧玉池(上池、下池)・社叢・社殿(本殿 ・拝殿・幣殿)・透塀・楼門・手水舎・廻廊・灯籠・石鳥居・東鳥居・西鳥居・桜 の馬場・禊所・神幸橋(湧玉橋)・輪橋(太鼓橋)・護摩堂跡(推定)・随身像・ 狛犬・御神幸道首標の碑・三之宮・七之宮・鉾立石・欄干橋(神路橋、神路枚橋) B2山宮浅間神社・溶岩流地形・社叢・籠屋(参籠所)・鉾立石・石段(参道)・ 石塁・玉垣・遥拝所・石鳥居・参道B3村山浅間神社・元村山溶岩流・水源地「竜 頭ヶ池」・御神木(イチョウ、大スギ)・社叢・浅間神社社殿・大日堂(興法寺) ・水垢離場・護摩壇・氏神社(高嶺総鎮守社)・石鳥居・氏神社鳥居・手水舎(手 水鉢)・石段(参道)・狛犬B4須山浅間神社・社叢・社殿・神輿殿・狛犬・灯籠 ・手水舎・参道・鳥居・石碑・古宮神社B5冨士浅間神社(須走浅間神社)・社叢 (浅間の杜)・ハルニレ・エゾヤマザクラ・根上がりモミ・社殿・楼門・参道大鳥 居・裏参道鳥居・富士塚狛犬・富士講講碑群B6河口浅間神社・社殿、鳥居B7冨 士御室浅間神社・吉田口二合目(拝殿の一部、行者堂跡、定善院跡、建物礎石)・ 移築された二合目本殿B8御師住宅(旧外川家住宅、小佐野家住宅)・主屋・離座 敷・中門・屋敷地(タツミチ)B9山中湖・湖水B10河口湖・湖水B11忍野八 海・八つの池(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)・ 湧水B12船津胎内樹型・溶岩樹型・無戸室浅間神社、石造物群B13吉田胎内樹
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247 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 05:59:49.92 ID:x4//S+yB - 登山道頂上に位置し、7、8月の開山期にのみ開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売
命である。『本朝世紀』には、久安5年(1149)「富士上人末代は、富士山に 数百度登り、山頂に仏閣を構え、大日寺と称し、写経を埋納下した」とある。江戸 時代には、村山三坊所有の大日堂があったが、明治7年(1874)、廃仏毀釈に より山中の仏像を取り除き、大日堂跡へ奥宮を建立し、浅間大神を祭った。写真奥 宮の写真[奥宮周辺の石碑群](a)蹲虎の碑(高さ139×幅64×厚さ18p )奥宮の裏手、浅間岳の麓に所在する。一方の面に漢文が、もう一方には虎の絵が 彫られている。天保年間(1830−34)に、岸岱が作ったとされる。(b)鎮 國之山(高さ146×幅61×厚さ31p)奥宮の前に所在する。碑面に「鎮國之 山」と彫られている。明治31年(1898)に書家の中林梧竹により建碑された 。後年、落雷により破壊されたが、昭和42年(1967)に再建された。・東北 奥宮(久須志神社)浅間大社奥宮の末社で、大名牟遅命、少彦名命を祀る。須走口 登山道、吉田口登山道の終点にある。室町時代以降、頂上の一つである久須志岳( 旧薬師ヶ嶽)に薬師堂があり、道者の登山切手を改めた。古くは山役銭の徴収場で あった。薬師堂は奥宮の場合と同様に廃仏毀釈により破却され、久須志神社と改称 した。写真東北奥宮の写真・金明水雪解け水が湧く泉で、その湧き水は霊験あらた かな「御霊水」として珍重された。大正期の写真をみると、井戸は石組みや木製の 柵で囲われ、旗や幟などもみられる。・銀明水金明水とおなじく、富士山頂の霊験 あらたかな湧き水として珍重された。『富士の歴史』によれば、「如何なる旱にも 水の涸れることはない」と記している。写真銀明水の写真[銀明水の石碑群](a )石碑@(高さ112×幅62p)銘文には「明治三拾九年」と「大正五年」の2 つの年代が確認できる。富士講の人々が建碑したものと考えられる。(b)石碑A (高さ162×下幅76×上幅63p)表面に龍が、裏面には文字が刻まれている 。(c)石碑B(未計測)「大正十三年八月」と刻してある。写真銀明水の石碑群
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252 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 06:07:11.67 ID:x4//S+yB - 奥宮の裏手にあり、頂上に鳥居がある。現在は一般の立入が制限されている。[駒
ヶ岳(標高約3,718m)]聖徳太子が黒駒に乗って登山した際に、ここで休息 をとったという伝説のある峰である。山頂に鳥居が存在する。峰全体が岩石からで
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253 :底名無し沼さん[sage]:2017/12/06(水) 06:13:24.44 ID:x4//S+yB - 建てられている。水神祠には「文化十三年寅年六月日」、八大龍王には「文化七年
七月十七日」との銘が刻まれている。駿河国大宮町神田の横関家の主人が、天保1 4年(1843)から文久3年(1863)にかけて記録した『袖日記』には、安 政7年(1860)5月11日の条に「中宮八幡堂の井戸を掘ったので山が荒れた 」との記述がある。この「中宮八幡堂の井戸」とは、八大龍王前にある井戸跡を指 すものと考えられている。井戸跡は幅80p、深さ50pほどである。・5号建物
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