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底名無し沼さん
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778 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 21:26:44.53 ID:55THIflI
織3計画の位置付け(1)行政計画との関連・連携(2)計画の実施
第2章構成資産の概要1構成資産の一覧2資産及び緩衝地帯等の範囲
3構成資産の概要(1)富士山山体及び登山道A富士山A1山頂信仰
遺跡A2大宮・村山口登山道A3須山口登山道A4須走口登山道A5
吉田口登山道A6北口本宮冨士浅間神社A7西湖A8精進湖A9本栖
湖(2)信仰B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B3村山浅間
神社B4須山浅間神社B5冨士浅間神社B6河口浅間神社B7冨士御
室浅間神社B8御師住宅B9山中湖B10河口湖B11忍野八海B1
2船津胎内樹型−2−B13吉田胎内樹型B14人穴富士講遺跡(人
穴浅間神社)B15白糸ノ滝(3)眺望C1三保松原第3章保存管理
の基本方針1顕著な普遍的価値及び周辺環境等を構成する諸要素(1
)顕著な普遍的価値を構成する諸要素@富士山山体及び登山道A信仰
B眺望(2)顕著な普遍的価値を構成する諸要素と密接に関わる諸要
素@自然地形A森林、植栽樹木B社寺の境内に含まれる歴史的な建造
物及び工作物等以外の建築物及び工作物C道路とその関連施設(3)
周辺環境を構成する諸要素@自然的要素A歴史的要素B人文的要素2
保存管理の基本方針(1)構成資産の適切な保存管理(2)周辺環境
を含めた一体的な保全(3)経過観察の実施(4)整備・公開・活用
推進(5)保存管理体制の整備と運営第4章構成資産の保存管理1現
状の把握(1)富士山山体及び登山道(2)信仰(3)眺望2保存管
理の基本的な考え方(1)現状変更の制限についての考え方(2)地
区区分についての考え方(3)指定地に関わる諸法令について3具体
的な施策(1)第1種保護地区(2)第2種保護地区(3)三保松原
−3−第5章緩衝地帯の保存管理1現状の把握2保存管理の基本的な
考え方(1)緩衝地帯の設定と行為規制(2)都市計画との調整(3
)住民生活との調和3具体的な施策第6章経過観察の実施1顕著な普
遍的な価値に負の影響を与える要素2負の影響を与える要因の観察第
7章整備・公開・活用1基本方針2整備と公開・活用第8章保存管理
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779 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 21:33:42.69 ID:55THIflI
体制の整備と運営1保存管理体制の整備と役割分担2地域住民等との
連携・協働3持続的運営のための定期的確認付章1保存管理に関する
事業計画一覧表−4−第1章目的と経緯1目的富士山は、日本を代表
し象徴する日本最高峰の秀麗な円錐形成層火山として世界的に著名で
あり、日本人の自然に対する信仰の在り方や日本に独自の芸術文化を
育んだ「名山」である。山岳に対する信仰の在り方及び芸術活動など
を通じ、時代を超えて、一国の文化の諸相と極めて深い関連性を示し
、生きた文化的伝統の物証であるのみならず、人間と自然との良好で
継続的な関係を示す景観の傑出した類型として、世界的にも比類なき
顕著な普遍的価値を持つ山岳であり、世界文化遺産に値するものであ
る。富士山は、有史以前から噴火活動を続けてきた標高3776mの
円錐形の独立成層火山であり、その山体は南の駿河湾の海浜にまで及
び、海面からの実質的な高さは世界的にも有数である。その力強く秀
麗な姿は人々に神聖なる気持ちを喚起し、古代から現代に至るまで、
時代を超えて信仰の対象となってきた。山腹及び山嶺には神社・登山
道・巡礼地等が形成され、山体と一体となった比類のない文化的景観
を形成した。山体のうち、五合目以上の砂礫地は「焼山」と呼ばれて
特に神聖視され、山麓に分布する湖沼・湧水、火山活動により形成さ
れた独自の地形などは、富士信仰の霊地として重要な役割を果たして
きた。日本独自の山岳民衆信仰に基づく登拝・登山の様式は現在でも
命脈を保ち、特に夏季を中心に訪れる多くの登山客とともに富士登山
の特徴を成している。このように、富士山は日本人の自然に対する信
仰の在り方に関連して、山に対する固有の文化的伝統を表す物証及び
人間の山に対する景観認知の在り方を示す傑出した類型となっている
。また、富士山の秀麗な姿は古くから芸術活動の対象となり、その結
果生み出された「万葉集」の和歌などの文学作品や「浮世絵」などの
秀麗で独自の絵画作品は、日本国内のみならず海外にも広く知られ、
様々な影響を与えてきた。それらの作品群は、地球上の特定の地域に
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782 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 21:39:48.54 ID:55THIflI
おいて独自の文化的伝統が形成・発展するのに当たり、富士山が重要
な源泉となった極めて強力な関連性であることを示している。このよ
うな価値をもつ「富士山」の構成資産は、山梨県と静岡県の二県にま
たがって分布している。これら一連の構成資産を世界文化遺産「富士
山」の総体として確実に保存し、確実に次世代へと継承するためには
、両県共通の考え方を基に、各構成資産全体を一つの資産として包括
的に保存管理していくための方法を整理していく必要があることから
、個別の構成資産についての保存管理計画に加え、構成資産相互の関
係性を保全し全体の価値を継承していくための包括的な保存管理計画
を策定しておくことが必要である。そのため、山梨県・静岡県は、文
化庁・環境省の指導・助言の下に関係市町村、関係各機関等と調整を
図り、本計画を策定した。「富士山」包括的保存管理計画−5−各構
成資産の都市計画保存管理計画等観光計画(環境省・山梨県・静岡県
・各市町村)整備計画等図包括的保存管理計画の体系2計画策定の経
緯富士山包括的保存管理計画は、構成資産に係る個別の保存管理計画
を基礎とし、世界遺産の推薦に当たって必要とされる保存管理及び整
備に係る理念・基本方針とその具体的内容について明示するため、学
術研究者等により構成される山梨県・静岡県学術委員会及び二県学術
委員による審議を経て策定されたものである。学識経験者等により構
成する各県学術委員会のもとに、保存管理計画の原案を検討する保存
管理計画検討部会を設置した。原案を検討するにあたり、県庁内の関
係部署との連携や共通認識を得るため、それぞれ「山梨県保存管理計
画検討プロジェクトチーム」(表)及び「静岡県保存管理計画検討庁
内連絡会議」(表)を設置し、連携・確認を行った。また、富士山の
効果的かつ確実な保存管理を行うためには、地元関係者など幅広い方
々の協力・助言が不可欠であることから、関係自治体・地域住民・観
光関係者・神社関係者などで構成する「山梨県保存管理計画策定協力
者会議」及び「静岡県保存管理計画協力者部会」を設置し、連携を図
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783 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 21:46:38.36 ID:55THIflI
った。さらに、二県学術委員会のもとに設置した「包括的保存管理計
画検討部会」における検討とあわせ、文化庁の指導・助言の下、20
1■年■月に策定した。(1)各県における検討の経緯両県の経緯(
包括的保存管理計画検討部会と学術委員会)2007年11月29日
平成19年第1回包括的保存管理計画検討部会・包括保存管理計画の
必要性・国内の世界遺産における包括的保存管理計画の事例2007
年12月26日平成19年第2回包括的保存管理計画検討部会・目的
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784 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 21:53:09.58 ID:55THIflI
と経緯・構成資産の概要・保存管理の包括的な基本方針2008年3
月17日平成19年度第2回学術委員会・包括的保存管理計画検討部
会の審議結果2008年6月19日平成20年度第1回包括的保存管
理計画検討部会−6−・包括的保存管理計画の役割・構成要素と本質
的価値の明確化2009年5月20日平成21年度第1回包括的保存
管理計画検討部会・各資産候補の概要について・構成資産、緩衝地帯
、保存管理区域について2010年3月19日平成21年度第2回学
術委員会・保存管理計画の考え方について山梨県の経緯2007年8
月31日平成19年第1回山梨県保存管理計画検討部会・保存管理計
画の事例2007年12月9日現地調査2008年1月31日平成1
9年度第2回山梨県保存管理計画検討部会・包括的保存管理計画検討
部会の審議結果・山梨県保存管理計画の基本方針2008年2月21
日平成19年度第3回山梨県・静岡県学術委員会・各県保存管理計画
検討部会の審議結果2008年4月16、17日現地調査2008年
5月1日平成20年度山梨県保存管理計画策定ワーキング・山梨県保
存管理計画の策定について2008年6月10日現地調査2008年
6月30日現地調査2008年7月22日平成20年度第1回山梨県
保存管理計画検討部会・構成要素と本質的価値の明確化・保存管理の
方法と考え方2009年4月24日平成21年度第1回山梨県保存管
理計画策定協力者会議・富士山の世界文化遺産登録の現状について・
山梨県保存管理計画策定協力者会議について2009年6月19日平
成21年度第1回山梨県保存管理計画検討部会・各資産候補の概要に
ついて・構成資産、緩衝地帯、保存管理区域について2009年8月
26日平成21年度山梨県保存管理計画策定ワーキング・富士山世界
文化遺産登録への取組状況について・山梨県保存管理計画の策定につ
いて2010年3月16日平成21年度第3回山梨県・静岡県学術委
員会・保存管理計画の考え方について2010年6月30日平成22
年度第1回山梨県保存管理計画検討部会静岡県の経緯2007年7月
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785 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 21:59:04.19 ID:55THIflI
実施されている。表包括的保存管理計画に関連する計画(山梨県)計
画名称策定年等F資産に影響する可能性がある個別の開発計画大規模
集客施設等の立地に関する方針(山梨県)2010年1月ゴルフ場造
成に事業に関する今後の取扱いについて(山梨県)1993年10月
−17−明神峠自然環境保全地域保全計画昭和50年策定静岡県森林
共生基本計画平成19年3月策定富士地域森林計画書平成18年4月
策定F資産に影響する可能性がある個別の開発計画企業立地促進法に
基づく静岡県東部地域基本計画(静岡県及び14市町)平成21年2
月策定市町村森林整備計画平成18年4月策定−18−(富士宮市・
富士市・裾野市・御殿場市・小山町)(2)計画の実施今回提出する
富士山包括的保存管理計画は、20年月から既に実施され機能されて
いるものである。−19−第2章構成資産の概要1構成資産の一覧世
界遺産「富士山」の構成資産の種別、位置、面積、緩衝地帯の面積、
所在地については、以下の表に示すとおりである。表構成資産の一覧
大種別分類小分類構成資産世界遺産条約文化財保護法自然公園法所在
地位置資産面積(ha)緩衝地帯面積(ha)A富士山(山体)(御
中道含む)遺跡特別名勝史跡山頂信仰遺跡(奥宮、お鉢巡り)遺跡特
別名勝史跡A2大宮・村山口登山道遺跡特別名勝史跡A3須山口登山
道遺跡特別名勝史跡A4須走口登山道遺跡特別名勝史跡A5吉田口登
山道遺跡特別名勝史跡静岡県(富士宮市、裾野市、御殿場市、小山町
)山梨県(富士吉田市、身延町、鳴沢村、富士河口湖町)県境未確定
地″A6北口本宮冨士浅間神社遺跡建造物記念工作物特別名勝史跡重
要文化財A7西湖遺跡名勝A8精進湖遺跡名勝A9本栖湖遺跡名勝B
B1富士山本宮浅間大社遺跡建造物記念工作物重文静岡県富士宮市B
14人穴富士講遺跡遺跡市史跡静岡県富士宮市NEB15白糸ノ滝遺
跡名勝・天然記念物静岡県富士宮市NEC三保松原文化的景観遺跡静
岡県静岡市NE2資産及び緩衝地帯等の範囲「富士山」の顕著な普遍
的価値を表す構成資産の保護を確実にし、各構成資産における富士山
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788 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 22:05:56.13 ID:55THIflI
体への良好な眺望を保証するために、個々の構成資産の周囲に必要十
分な範囲の緩衝地帯を設定する。さらに、個々の構成資産間の関係を
良好に保ち、富士山の景観の一体性・連続性を保証するために、緩衝
地帯を含め、広く保全管理区域を設定する。構成資産の位置及びその
周辺地域である緩衝地帯、保全管理区域の範囲については、図に示す
とおりである。図「富士山」の範囲(構成資産・緩衝地帯)富士山山
体の範囲については、現在特別名勝富士山に指定されている区域だけ
でなく、その周辺部にあたる標高約1,500m付近までとした。こ
の範囲において、特別名勝の区域は文化財保護法で保護され、特別名
勝指定地外から標高1,500mの区域については自然公園法と森林
法で保護されている。緩衝地帯との境については林班により線引きを
行い、県道などの人工物の改修工事等への影響が軽減するよう配慮し
た。そして本栖湖、精進湖、西湖までを富士山の山体として考え、範
囲付けしたことは、展望地点から山頂までを連続して保護するための
措置である。緩衝地帯の範囲については、当初国道469号から県道
72号にかけての富士山側を計画していたが、国際専門家から飛び地
の資産である、富士山本宮浅間大社や山宮浅間神社を緩衝地帯に含め
るべきだとの指摘があり、市道を境に緩衝地帯を設定した。その際、
富士山本宮浅間大社からの富士山の眺望を確保するため、富士山に向
かって約36度の広がりで設定した。この範囲については、文化財保
護法以外の法律を適用し、自然公園法、森林法、景観法で保護されて
いる。保全管理区域の範囲については、三保松原から富士山を眺望す
る際、その阻害要因を軽減させるために、溶岩が流出した範囲を基本
として設定した。そのため、静岡県側においては、裾野市、御殿場市
、小山町に流出している溶岩流の範囲については、保全管理区域とは
していない。なお、保全管理区域についても、森林法と景観法で保護
されている。富士山山体の東に位置する、演習場(北富士演習場・東
富士演習場)については、従前より大規模開発が予定されていないこ
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790 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 22:12:35.07 ID:55THIflI
とから、緩衝地帯同様に資産を緩衝することが可能な区域であると言
える。3構成資産の概要構成資産及び保存管理状況の概要については
、以下に記すとおりである。構成資産の詳細については、推薦書本文
にて説明を行っている。保存管理状況等の詳細については、構成資産
毎に策定されている個別の保存管理計画等において、それぞれ具体的
内容を含めた説明を行っている。なお、p18,19表のA〜Cは次
のように分類し、整理したものである。A富士山山体及び登山道B信
仰に関わるものC富士山の眺望に関わるもの(1)富士山山体及び登
山道A富士山標高3776mを測る富士山は、日本を代表し、象徴す
る日本最高峰の秀麗な独立火山である。その自然的な美しさと崇高さ
を基盤として、日本人の自然に対する信仰のあり方や、日本独自の芸
術文化を育んだ名山でもある。富士山は山岳に対する信仰の在り方や
芸術活動などを通じ、時代を超えて一国の文化の諸相と極めて深い関
連性を示し、生きた文化的伝統の物証であるのみならず、人間と自然
との良好で継続的な関係を示す景観の傑出した類型として、世界的に
も類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山である。世界文化遺産とし
ての富士山とは、富士山山体の内、標高約1500m以上の範囲であ
る。この範囲は、富士山周辺の主要な神社や景勝地から見た可視領域
が重なり合う範囲であるとともに、各登山道における山体の神聖性に
関する境界の一つである「馬返」の標高とほぼ一致する。なお、「馬
返」とは、乗馬登山が物理的にも、宗教的観点からも不可能になる地
点を示す。景観的には山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」
と「山体」の境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き、絵画な
どの対象とされることが多い範囲である。写真上空から見た写真に資
産範囲を線で示したもの(推薦原案と同じもの)−21−−22−標
高約2500m付近の森林限界より上方は富士講信者には「焼山」と
呼ばれ、神聖な地域あるいは死後世界である「他界」と考えられてい
た。また、登山道ごとに標高は異なるが、1779年以降、浅間大社
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792 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 22:19:22.14 ID:55THIflI
景観の傑出した類型として、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山
である。世界文化遺産としての富士山とは、富士山山体の内、標高約1500m
以上の範囲である。この範囲は、富士山周辺の主要な神社や景勝地から見た可視
領域が重なり合う範囲であるとともに、各登山道における山体の神聖性に関する
境界の一つである「馬返」の標高とほぼ一致する。なお、「馬返」とは、乗馬登
山が物理的にも、宗教的観点からも不可能になる地点を示す。景観的には山体の
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794 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 22:25:55.56 ID:55THIflI
傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」と「山体」の境界として認識され、稜線
が優美な曲線を描き、絵画などの対象とされることが多い範囲である。写真上空
から見た写真に資産範囲を線で示したもの(推薦原案と同じもの)−21−−2
2−標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講信者には「焼山」と呼ば
れ、神聖な地域あるいは死後世界である「他界」と考えられていた。また、登山
道ごとに標高は異なるが、1779年以降、浅間大社の境内地とされてきた八合
目以上はより強い神聖性を持つとされる。理由は八合目の標高とほぼ一致する噴
火口である「内院」の底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に基づく。富士山頂へ
向かい、登山の歴史の中で開鑿された登山道が、現在の4本の登山道の起源とな
っている。また、ほぼ森林限界に沿い、富士山山体を一周する「御中道」が15
〜16世紀ごろ富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ、その後
「大沢崩れ」という危険箇所を通るため、富士講信者により修行の道として利用
された。表法的保護、修理・整備の経緯1924年史蹟名勝天然紀念物保存法の
下に名勝に仮指定1936年国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定19
52年文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定1969年国が大沢崩れ
に対する砂防事業に着手(継続中)1996年国・県が台風による森林の風倒被
害に対する対策に着手(継続中)「御中道」は、標高2,300m付近から2,
800m付近の山腹を通り、富士山の中腹部を時計回りに一周する約25kmの
道である。「御中道巡り」は、修験道の祖とされる役行者が始めたと伝えられ、
16世紀後半、富士講の基礎を築いた長谷川角行が行ったことが記録されている
。古くは定まった道もなく巡ったとされ、富士講が盛んになった江戸時代後期に
は一定の道が整備された。富士山信仰の上では、山体西側の大沢崩れを渡るとい
う危険を伴う最大級の大行の道とされていた。富士登山3回以上の経験を持ち、
誓約書を御師に提出し、神への伺いをたてた上でないと許可されないほど厳しい
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796 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 22:32:03.51 ID:55THIflI
ものであった。この御中道の巡拝を無事終えると、その証である「御許し」を御
師から受けることができた。1816年の資料では年間100人以上が御中道巡
りを行っているが、1977年の転落事故で通行止めとなり、現在では一周する
ことはできなくなっている。写真御中道の写真A1山頂信仰遺跡(富士山本宮奥
宮)富士山山頂部の火口壁沿いに、いくつかの神社及び宗教関連施設が所在する
。富士山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け山頂部において寺院
の造営や仏像等の奉納がおこなわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化さ
れていった。登拝者は山頂周辺において「御来光」を拝み、内院と呼称される噴
火口に鎮座すると言われる神仏を拝した。また、火口壁にいくつかあるピークを
仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する「お鉢めぐり(八葉めぐり)」
と呼ばれる行為を行なうことが一般的であった。山頂の宗教的施設は、12世紀
中ごろ、修行僧末代により建立された大日寺(大日堂)が最初とされ、その後、
経典・懸仏・仏像等の山頂部への奉納・埋納や内院への散銭が行われた。また、
遅くとも17世紀には、大宮・村山口山頂部に大日堂が、吉田・須走口山頂部に
薬師堂が造営された。この様子は19世紀中ごろの絵図によって確認できる。1
874年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピー
クの名称も変更され、寺院は神社に改変された。しかし、山頂部に対する信仰自
体は変化することなく、上記の行為は現代の−23−登山者の多くが行っており
、これらを通じて富士信仰の核心が現代に受け継がれている。写真奥宮の写真表
法的保護、修理・整備の経緯1924年所在地が史蹟名勝天然紀念物保存法の下
に名勝に仮指定1936年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指
定1952年所在地が文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定2008
年財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所により現地調査が行われ、その成果に基
づき2010年に「史跡富士山保存管理計画」が策定された2010年文化財保
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797 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 22:38:55.43 ID:55THIflI
護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定山頂の噴火口の周囲を一周
し、頂上の各峰を巡る行為は、古くから「お鉢巡り」と呼ばれ、現在も多くの人
々に受け継がれている。13世紀後半の資料には「いたゞきに八葉の嶺あり」と
の記載があり、このころには山頂の峰々に信仰的意義を見出していたことが伺え
る。16世紀前半には地元為政者が「八要メサルヽ也」との記述も見られ、後に
盛んになるお鉢巡りの古態と思われる習俗があったことが知られる。富士講講中
の多くは、頂上に着くと、時計回りに山頂を巡っていった。内院に賽銭を投じ、
御来光を礼拝し、途中にあるいくつかの仏像や石碑を拝みながら、大日寺(現奥
宮)の大日如来、最高峰の剣ヶ峰、釈迦割石、霊泉とされた金明水などを巡礼し
た。写真お鉢めぐりの写真A2大宮・村山口登山道富士山南西麓の浅間大社及び
村山浅間神社を起点とし、山頂大日岳に至る登山道である。12世紀前半、富士
山で修行した末代上人の開削した登山道が起源だとされ、14世紀初め、僧の頼
尊が修験者とその活動を組織化したことで、村山を基点とする登山が行われてい
たことが推測できる。15世紀に入ると村山での宿坊の存在が確認でき、同世紀
前半には、地元支配者である今川氏により発心門等の施設が寄進されたとの記録
がある。今川氏は1552年、村山を神聖な地と定め、村山三坊には山役銭の徴
収権を与えている。この権利は19世紀後半まで継続し、浅間大社が登山道の管
理に関わることはなかった。一方、16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水垢離
を重要な儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由した登拝を喧伝した。
浅間大社には16世紀前半に30余りの道者坊があったことが伝えられ、同時期
の絵図である「絹本著色富士曼荼羅図」には浅間大社・湧玉池及び村山浅間神社
を経由して登山する人々の姿が描かれている。道者坊はその後統合され、19世
紀前半には5坊となった。また、1600年頃以降、地元支配者により、大宮を
経て村山口登山道を利用することが求められた。登山道中の宗教施設は、17世
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798 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 22:45:07.05 ID:55THIflI
紀初頭までに建設され、石室などの施設は主に17世紀後半、興法寺から許可を
受けた先達により建設されたが、1707年の宝永噴火で登山道と共にことごと
く破壊された。これらは再建されたが、その復興は須走口より遅かった。主要な
宗教施設としては発心門、中宮八幡堂、室大日などがあった。登拝者は興法寺の
檀所や浅間大社の道者場としていた静岡県西部地方を含む西日本の人々が多かっ
た。なお、1532年以降不連続であるが、登拝者の記録が残され、その数は1
8世紀後半から19世紀初頭の道者坊の記録より、御縁年で2,000人前後、
平年で数百名程度と推測できる。1826年の記録ではその数が減少し、村山の
村落も衰退していたとの記述もあるが、1860年、初の外国人登山となる英国
公使オ−24−ールコックは大宮を経由して村山に宿泊し、山頂をめざした。彼
の記録では大鏡坊、中宮八幡堂の存在や登山道の様子が確認できる。明治維新以
降、女人登山の解禁もあり、登山者は増加傾向を示すが、1889年、東海道線
の開通による御殿場口利用者の増加により衰退し、これへの対策として1906
年、村山を経由せず4km短縮された大宮新道(カケスバタ口)が建設されたた
め、大宮から現六合目までの村山口登山道は登山道としての機能を失い、その歴
史を閉じた。現在は、林道の建設に雨水による侵食も加わり、一部を除き登山道
跡の推定は困難な状態であり、道標、地蔵・不動明王像、建物跡などをある程度
たどることができるのみである。写真大宮・村山口登山道の写真A3須山口登山
道富士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂部浅間嶽(駒ケ嶽)に至る登山
道である。その起源は明確ではないが、1200年の資料には大宮・村山口、吉
田口、須山(珠山)口以外には登山道がないことが述べられている。1486年
の京都の僧による資料(廻国雑記)では、「すはま口」の名が確認できる。登山
道および山頂部銀明水は須山浅間神社及び12軒の御師を中心とした須山村によ
り管理されていた。ただし、銀明水の管理を巡り、須走村と争いになった際は浅
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799 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 22:51:15.09 ID:55THIflI
間大社の裁定を仰いでいる。登山道には宝永噴火前の状況を描いた絵図で須山御
胎内に附属する御胎内神社等の宗教施設と山室がみられる。これらの施設及び登
山道はその中腹より噴火した宝永噴火により壊滅し、御縁年の1740年に復興
したが永続せず、1780年にようやく復興した。また、1880年代の記録で
は御室浅間神社、中宮浅間社、御胎内等の宗教施設と4箇所の石室があることが
確認できる。中宮浅間社や水呑浅間は村山修験の富士峯修行の行場としても使用
された。登拝者については詳しい研究が進んでいないが、西日本・東日本両方か
らの登山者があったことが、宿帳及び案内立札の立地から確認できる。登拝者数
は御縁年に当たる1800年に約5,400人、1840年代前半は年平均約1
,700人、続く1860年の御縁年には約3,600人であった。登拝者は神
仏分離令後も継続していたが、1883年、須山口二合八勺に接続する御殿場口
登山道が開鑿された。また、1889年に東海道本線が開通し、御殿場口の利便
性の向上により須山口からの登拝者や登山者が減少することとなった。1912
年には、登山道の一部が陸軍演習場となり使用不可能となったため、須山口から
の登拝(登山)は衰退し現在に至っている。二合八勺以下の登山道で当時の道が
確認できる部分は一部のみである。また、1999年、地元住民により須山口下
山歩道の名でかつての登山道の一部が復興された。写真須山口登山道の写真A4
須走口登山道富士山東麓の冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道と合
流して山頂久須志岳に至る登山道である。その起源は明確ではないが、六合目か
らは1384年の銘のある掛仏が出土している。文献からは「勝山記」の150
0年6月の項に、関東地方での戦乱を避け、吉田口を利用すべき登拝者が須走口
に集中したことが確認できる。遅くとも17世紀までに、冨士浅間神社及び須走
村が登山道山頂部までを支配し、薬師嶽(現久須志岳)における石室建設の独占
、薬師堂の開帳・入仏などを行った。また、内院および薬師堂の散銭取得権も浅
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800 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 22:57:11.14 ID:55THIflI
間大社に次ぐ権利を有していた。冨士浅間神社及び須走村は、1703年と17
72年の2回幕府に訴え、これらの権利について八合目以上の支配権を主張する
浅間大社と争い、正式に権利を認められた。−25−登山道の施設は1683年
の資料等で詳細が確認でき、大日堂、御室浅間神社、古御岳神社等の宗教施設と
共に、小屋・石室が山頂部まで設置されている。1707年の宝永噴火では、こ
れらの施設及び麓の浅間神社、須走村は約3mの降砂に覆われ壊滅したが、江戸
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801 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 23:03:20.77 ID:55THIflI
幕府の支援を受け、翌年の登拝期までには復興を完了し、多くの登拝者を集めた
。18世紀半ばには800名前後に減少したとの資料があるが、18世紀後半、
相模の大山石尊や関本の道了尊とセットにされた参詣の流行で登拝者数は増加し
、年平均約1万人、1800年の御縁年に23,700人とピークを迎えた。登
拝者は関東地方の富士講関係者が多く、東北地方からの登拝者も見られる。講に
よっては吉田口から登山し、砂道で下山に適した須走口へ下山する形をとった。
また、1831年、須走口山頂部に宝経塔が作られたことにより、日蓮宗の信徒
による登拝も増加した。1889年の東海道線開通による御殿場口、および19
03年の中央線開通による吉田口の利便性の向上で、距離が長い須走口は敬遠さ
れるが、御殿場口の下山道として利用され続けた。1909年より登山道の周囲
に石垣を築き、1916年には、八合目まで馬による登山が可能になった。八合
目以上は浅間大社境内地という理由で馬の利用は行われなかった。また、192
3年に皇太子(昭和天皇)の登山に利用されている。1959年、バス道路(現
ふじあざみライン)の完成により、五合目以下の登山道の利用は減少し、一部登
山道としての確認ができない区間がある。写真須走口登山道の写真A5吉田口登
山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂を目指す道である。15世紀に
は、富士山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも広まってい
た。吉田口は14世紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、大勢の人々
が登るための設備が整うようになった。16世紀から17世紀、長谷川角行が吉
田口を利用して修行を行い、18世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄
は、入定(宗教的自殺)にあたって信者の登山本道をこの吉田口と定めた。この
ため、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、年間数万人を数える
富士講の道者が登拝したとされる。1964年に富士山有料道路が開通した後は
、ほとんどの登山者が新五合目(小御岳)を起点として登るようになったため、
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802 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 23:09:20.43 ID:55THIflI
五合目以下の道を利用する登山者は激減したが、六合目以上については、現在残
る登山道の中で最も多くの道者(外の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を
上って山頂を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登
れる重要な道である。写真吉田口登山道の写真表法的保護、修理・整備の経緯1
924年所在地が史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在
地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1952年所在地が文化財保
護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定1978年「特別名勝富士山保存管理計
画」策定(1999年、2006年改訂)1996年歴史の道整備活用事業によ
り馬返〜1合目区間を発掘調査・整備1999年「特別名勝富士山保存管理計画
」を改訂2006年「特別名勝富士山保存管理計画」を改訂2011年文化財保
護法の下に他の文化財とともに登山道の一部を史跡富士山として指定−26−2
011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)A6北口本宮冨士浅間神社
富士山北麓、吉田口登山道の起点に位置し、祭神として木花開花姫命、天津彦彦
火瓊瓊杵命、大山祇命を祀る神社である。富士山の遙拝所に祀られていた浅間明
神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、1480年には「富士山」の鳥居が建立さ
れ、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整っていたとされる。当神社は領主から
の崇敬が厚く、境内に現存する3つの社殿は、1561年、1594年、161
5年にそれぞれ当時の領主が寄進したものである。富士講とのつながりが強く、
1730年には富士講の指導者である村上光清の寄進によって境内の建造物群の
修復工事が行われ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。北口本宮冨士浅間
神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており、神社の管理
も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた。社殿の背後に登山門があり、こ
の神社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田御師
と密接な関係を持ちながら発展した神社である。写真北口本宮冨士浅間神社の写
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803 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 23:15:08.37 ID:55THIflI
真(本殿、西宮本殿、東宮本殿)表法的保護、修理・整備の経緯1907年古社
寺保存法の下に東宮本殿が特別保護建造物の指定1952年所在地が文化財保護
法の下に名勝、ついで特別名勝に指定1952年東宮本殿・解体修理工事を行う
1953年文化財保護法の下に本殿、西宮本殿が重要文化財の指定1962年西
宮本殿・解体修理工事を行う(〜64年)1978年「特別名勝富士山保存管理
計画」を策定1973年本殿・部分解体修理工事を行う(〜74年)1981年
東宮本殿・部分修理工事を行う(〜82年)1997年東宮本殿・部分修理工事
を行う2008年本殿・屋根の葺替え修理工事を行う(〜09年)2010年「
重要文化財北口本宮冨士浅間神社保存活用計画」を策定2011年文化財保護法
の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定(予定)2011年「史跡富士
山保存管理計画」を策定(予定)A7西湖富士山の火山活動により形成された堰
止湖で、富士山の北北西に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡
りが行われたが、この西湖にも多くの富士講徒が訪れた。西湖と精進湖はかつて
「?の海(せのうみ)」と呼ばれる一つの湖だったが、日本最古の歌集・万葉集
で?の海が詠われたほか、いくつかの文学作品ともゆかりがある。写真西湖の写
真A8精進湖富士山の火山活動により形成された堰止湖で、富士山の北西に位置
する。富士山周辺の湖を巡って修−27−行する内八海巡りが行われたが、この
精進湖にも多くの富士講徒が訪れた。富士山北麓で最初の洋風ホテルはこの精進
湖畔に建てられ、多くの西洋人が訪れた。20世紀初頭には、絵葉書に使われた
富士山の写真はこの精進湖からのものがほとんどだった。写真精進湖の写真A9
本栖湖富士山の火山活動により形成された堰止湖で、富士山の北西に位置する。
富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが行われたが、この精進湖にも多く
の富士講徒が訪れた。本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度も使用された写真
の撮影地点であり、重要な展望地点(viewpoint)である。富士山は、
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804 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 23:21:54.45 ID:55THIflI
プロ・アマを問わず多くの写真家に愛され、撮影されてきた。なかでも、生涯に
わたり富士山を追い続けた岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西岸の峠道
から撮影された「湖畔の春」という写真は有名である。この写真は、1984年
に採用された5千円札及び2004年に採用された千円札の図柄として使用され
た。山体の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成している本栖湖からの展望は、
「湖畔の春」に撮影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残している。写真本
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805 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 23:29:09.05 ID:55THIflI
907年古社寺保存法の下に東宮本殿が特別保護建造物の指定1952年所在
地が文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定1952年東宮本殿・解
体修理工事を行う1953年文化財保護法の下に本殿、西宮本殿が重要文化財
の指定1962年西宮本殿・解体修理工事を行う(〜64年)1978年「特
別名勝富士山保存管理計画」を策定1973年本殿・部分解体修理工事を行う
(〜74年)1981年東宮本殿・部分修理工事を行う(〜82年)1997
年東宮本殿・部分修理工事を行う2008年本殿・屋根の葺替え修理工事を行
う(〜09年)2010年「重要文化財北口本宮冨士浅間神社保存活用計画」
を策定2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指
定(予定)2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)A7西湖富
士山の火山活動により形成された堰止湖で、富士山の北北西に位置する。富士
山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが行われたが、この西湖にも多くの富
士講徒が訪れた。西湖と精進湖はかつて「?の海(せのうみ)」と呼ばれる一
つの湖だったが、日本最古の歌集・万葉集で?の海が詠われたほか、いくつか
の文学作品ともゆかりがある。写真西湖の写真A8精進湖富士山の火山活動に
より形成された堰止湖で、富士山の北西に位置する。富士山周辺の湖を巡って
修−27−行する内八海巡りが行われたが、この精進湖にも多くの富士講徒が
訪れた。富士山北麓で最初の洋風ホテルはこの精進湖畔に建てられ、多くの西
洋人が訪れた。20世紀初頭には、絵葉書に使われた富士山の写真はこの精進
湖からのものがほとんどだった。写真精進湖の写真A9本栖湖富士山の火山活
動により形成された堰止湖で、富士山の北西に位置する。富士山周辺の湖を巡
って修行する内八海巡りが行われたが、この精進湖にも多くの富士講徒が訪れ
た。本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度も使用された写真の撮影地点であ
り、重要な展望地点(viewpoint)である。富士山は、プロ・アマを
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806 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 23:35:46.04 ID:55THIflI
問わず多くの写真家に愛され、撮影されてきた。なかでも、生涯にわたり富士
山を追い続けた岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西岸の峠道から撮影
された「湖畔の春」という写真は有名である。この写真は、1984年に採用
された5千円札及び2004年に採用された千円札の図柄として使用された。
山体の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成している本栖湖からの展望は、「
湖畔の春」に撮影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残している。写真本
栖湖の写真表法的保護、修理・整備の経緯(A7・A8・A9)1936年所
在地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1988年「山梨県富士
五湖の静穏の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に本栖湖の
湖面全域での動力船の使用が規制される2011年文化財保護法の下に名勝に
指定(予定)2011年「名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)(2)
信仰B1富士山本宮浅間大社富士山の南西麓に位置する神社であり、この神社
とともに発展してきた富士宮市の中央部に所在する。富士山の神とされる木花
之佐久夜毘売命を主祭神とし、現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮
とされている。境内には登拝の際に水垢離場として使用された湧玉池がある。
浅間大社は7世紀ごろ、富士山により近い遥拝所であった山宮浅間神社から現
在の地に移転されたとされる。創建当時は富士山の噴火が盛んであり、これを
畏れ鎮めることを信仰の目的としていた。朝廷も浅間大神に他の山よりも高い
神階を与えることで崇敬の念を示した。12世紀後半ごろには、浅間大神は本
地垂迹説の影響を受け大日如来の垂迹である「浅間大菩薩」と見なされるよう
になり、12世紀頃より政治の実権を掌握した武士階級に戦勝の神として信仰
された。15世紀ごろ、登拝が盛んになるにつれて、浅間大社は村山浅間神社
とともに大宮・村山口登山道の起点となり、宿坊が周辺に建設された。16世
紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水垢離を重要な儀式と位置づけることによって
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807 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 23:42:36.84 ID:55THIflI
、浅間大社を経由した登拝を喧伝した。同時期の絵図である絹本著色富士曼荼
羅図には、浅間大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する人々の姿が
描かれている。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築されていく中で
、浅間大社は徳川家康の庇護の下、1604年現在の社殿が造営されるととも
に、1609年山頂部の散銭取得における優先権を得た。これを基に浅間大社
は山頂部の管理・支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登山道と頂
上部の大日堂周辺は−28−村山浅間神社が支配し、廃仏毀釈以降、村山浅間
神社の衰退と1906年の村山浅間神社を経由しない登山道の開削などにより
、浅間大社には多くの参拝者が訪れた。また、明治政府の政策により、一時国
有地とされていた八合目以上の土地は1974年の最高裁判決に基づき、20
04年浅間大社に譲渡(返還)された。写真本殿・拝殿+富士山表法的保護、
修理・整備の経緯1907年本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定
1925年本殿・拝殿・楼門等の補修1929年本殿は国宝保存法制定に伴い
国宝に名称変更1934年楼門の修理1936年袖廊・廻廊を附した1950
年本殿は文化財保護法制定に伴い重要文化財に名称変更1952年本殿の屋根
の修理等が行われた1970年本殿の屋根の修理等が行われた1988年本殿
の屋根の修理等が行われた1996年富士宮市教育委員会が調査を行った20
02年富士宮市教育委員会が調査を行った2005年本殿の屋根の修理等が行
われた2008年財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所により境内の発掘調査
が行われ、その成果に基づき2010年に「史跡富士山保存管理計画」を策定
2010年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定湧玉
池は富士山本宮浅間神社境内に所在する面積約2,500uの池である。池は
約1万年前に噴出した万野溶岩流の末端から湧き出す一日平均14万?(20
08年)の水を源としている。湧水のメカニズムは、富士山の標高1000m
/ ´,_ゝ`\初心者のための富士山登山入門128m [無断転載禁止]©2ch.net
808 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 23:49:08.70 ID:55THIflI
、浅間大社を経由した登拝を喧伝した。同時期の絵図である絹本著色富士曼荼
羅図には、浅間大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する人々の姿が
描かれている。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築されていく中で
、浅間大社は徳川家康の庇護の下、1604年現在の社殿が造営されるととも
に、1609年山頂部の散銭取得における優先権を得た。これを基に浅間大社
は山頂部の管理・支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登山道と頂
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