トップページ > 登山キャンプ > 2017年09月17日 > 55THIflI

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底名無し沼さん
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639 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 06:17:13.79 ID:55THIflI
ここは重複スレです
富士登山入門スレへ移動してください

https://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/out/1504148465/
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640 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 06:22:40.22 ID:55THIflI
富士山(ふじさん、英語:Mount Fuji)は、静岡県(
富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨
県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。標高3
776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰で、その優美
な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。数多
くの芸術作品の題材とされ芸術面で大きな影響を与えただけでは
なく、気候や地層など地質学的にも大きな影響を与えている。懸
垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は
駿河湾の海岸まで及ぶ。古来霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神
が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため
律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。ま
た、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場と
しても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。こ
れら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった
一派を形成するに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多く
ある他、夏季シーズンには富士登山が盛んである。日本三名山(
三霊山)、日本百名山、日本の地質百選に選定されている。また
、1936年(昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定さ
れている。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、20
11年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25年)
6月22日には関連する文化財群とともに「富士山−信仰の対象
と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された。日本の文化遺
産としては13件目である。富士の山とは詠んだとしても、「ふ
じやま」という呼称は誤りであり、愛媛県大洲市柚木にある冨士
山(とみすやま)とは字も呼び方も異なる。富士山についての最
も古い記録は『常陸国風土記』における「福慈岳」という語であ
ると言われている。他にも多くの呼称が存在し、不二山もしくは
不尽山と表記する古文献もある。また、『竹取物語』における伝
説もある。「フジ」という長い山の斜面を表す大和言葉から転じ
て富士山と称されたという説もある。近代以降の語源説としては
、宣教師・バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味するアイ
ヌ語の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。しかし、
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641 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 06:29:05.55 ID:55THIflI
これは囲炉裏の中に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」
からきた誤解であるとの反論がある。その他の語源説として、マ
レー語説・マオリ語説・原ポリネシア語説等がある。明確に「富
士山」と表記されるに至るにおいては駿河国富士郡に由来すると
するものがあり、記録としては都良香の『富士山記』に「山を富
士と名づくるは、郡の名に取れるなり」とある。富士山に因む命
名富士山が日本を代表する名峰であることから、日本の各地に「
富士」の付く地名が多数存在している。富士山の麓として静岡県
に富士市・富士宮市、富士郡、山梨県に富士吉田市・富士河口湖
町・富士川町があるほか、よくあるものとして富士山が見える場
所を富士見と名づけたり(例:埼玉県富士見市)、富士山に似て
いる山(主に成層火山)に「富士」の名を冠する例(信濃富士な
ど)がある。日本国外に移住した日本人たちも、居住地付近の山
を「○○富士」と呼ぶことがある。詳細は「富士見」および「富
士街道」を参照また、全国各地には少なくとも、321座を超え
る数の富士と名の付く山があり、それらを郷土富士と呼ぶ。詳細
は「郷土富士」を参照なお、地名以外にも「富士」を冠した名称
は多く存在する。詳細は「フジ」を参照また、異名として芙蓉峰
とも言う。詳細は「芙蓉」を参照地質学上の富士山富士山周辺の
地形図富士山の構造図地質学上の富士山は典型的な成層火山であ
り、この種の火山特有の美しい稜線を持つ。現在の富士山の山体
は、大きく分けて下記の4段階の火山活動によって形成されたも
のだと考えられている。先小御岳(せんこみたけ)火山小御岳(
こみたけ)火山古富士(こふじ)火山新富士(しんふじ)火山こ
の中で先小御岳が最古であり、数十万年前の更新世にできた火山
である。東京大学地震研究所が2004年4月に行ったボーリン
グ調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判明
した。安山岩を主体とするこの第4の山体は「先小御岳」と名付
けられた。古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続
け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3,000m弱ま
で成長した。山頂は宝永火口の北側1?2kmのところにあった
と考えられている。2009年10月に、GPSによる富士山の
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642 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 06:36:31.60 ID:55THIflI
観測で地殻変動が確認された。これは1996年4月の観測開始
以来初めてのことである。この地殻変動により最大2センチの変
化が現れ、富士宮市−富士吉田市間で約2cm伸びた。これはマ
グマが蓄積している(活火山である)現れとされている。プレー
トの観点からは、ユーラシアプレート外縁部で、北アメリカプレ
ート又はオホーツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に
糸魚川静岡構造線)に南からフィリピン海プレートが沈み込む位
置であり(ほぼ、相模トラフと駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マ
リアナ島弧を陸上に延長した交点)、3個のプレートの境界域(
三重会合点(英語版))となっている。富士山下で沈み込んでい
るフィリピン海プレートのさらに下に太平洋プレートが沈み込ん
でおり、富士山のマグマは、東日本にある島弧火山と同様に太平
洋プレートに由来するものである。富士山の火山上の特徴は、日
本列島の陸上で他にない均整のとれた山体であること、日本の火
山のほとんどが安山岩マグマを多く噴出しているのに対し、富士
山は玄武岩マグマを多く噴出すること、側火山が非常に多いこと
がある。富士山頂山頂火口を上空より山頂火口山頂には火口(お
鉢)がありこれを「大内院」と呼ぶ。これを囲むようにして8つ
の峰がありこれを八神峰と呼ぶ。火口の南西側に最高点の剣ヶ峰
があり二等三角点(点名は、富士山。標高3775.51m20
14年4月1日改算)、火口の北側には二等三角点(点名は、富
士白山。標高3756.23m2014年4月1日改算)が設置
されている。火口の構造は、国土地理院によると、最深部の標高
が3538.7m、火口の深さは約237m、山頂火口の直径は
780m、火口底の直径は130mとある。登山道を除く8合目
より上は、富士宮市にある富士山本宮浅間大社の私有地であるが
、県境と市町村境界は未確定である。2014年1月の富士山世
界文化遺産協議会後の記者会見でも静岡県知事の川勝平太と山梨
県知事の横内正明は県境を定めないことを明言している。国土地
理院がインターネット上で公開している地形図では2013年1
0月から地図上の地点を指定すると住所、緯度・経度、標高が表
示される機能が加わったが、帰属未確定の地点の場合には近くの
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643 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 06:44:21.69 ID:55THIflI
帰属が確定している住所が表示されるという設定になっているた
め、富士山頂(剣が峰)を指定すると静岡県富士宮市として表示
されることが山梨県などから指摘され、これを受けて富士山頂の
住所表示については非表示になるよう変更された。宝永山宝永山
と宝永噴火口宝永山(ほうえいざん)は宝永4年(1707年)
の宝永大噴火で誕生した側火山(寄生火山)である。富士山南東
斜面に位置し標高は2,693mである。宝永山の西側には巨大
な噴火口が開いている。これらを間近で見ることができる登山コ
ースも整備されている。詳細は「宝永山」を参照富士山と火山活
動富士山の噴火詳細は「富士山の噴火史」を参照最終氷期が終了
した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩
を大量に噴出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体であ
る新富士が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の
東側に顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約
2,500?2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大
規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊した。新
富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前?約8
,000年前の3,000年間と、約4,500年前?約3,2
00年前の1,300年間と考えられている。山頂部からの最後
の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山頂部からの噴火は
無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的に発生
している。延暦19年−21年(800年−802年)に延暦噴
火、貞観6年(864年)に青木が原溶岩を噴出した貞観大噴火
。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝永大
噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4cmの火山灰が
降り積もった。また、宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山
が形成された。その後も火山性の地震や噴気が観測されており、
今後も噴火の可能性が残されている。噴火の年代が考証できる最
も古い記録は、『続日本紀』に記述されている、天応元年(78
1年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に
成立した『竹取物語』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であ
ったことを窺わせる記述がある。平安時代の歴史書『日本三代実
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644 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 06:50:26.50 ID:55THIflI
録』には貞観大噴火の状況が迫力ある文体で記載され、平安時代
中期の『更級日記』には、富士山の噴気や火映現象を表した描写
がある。宝永大噴火についての記録は、新井白石による『折りた
く柴の記』をはじめとした文書、絵図等により多数残されている
。その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが、記述から
見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測される。宝永
大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり
、1990年代まで小学校などでは富士山は休火山と教えられて
いた。しかし先述の通り富士山にはいまだ活発な活動が観測され
ており、また気象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり
、現在は活火山に区分されている。2013年7月20日、産業
技術総合研究所は、1999年から約15年分の踏査データや地
質調査データをまとめ富士火山地質図第2版(Ver.1)とし
て発表し、2016年には修正加筆が終了した。同時に、溶岩が
流れ出す規模の噴火は過去2000年間に少なくとも43回あっ
たとしている。山体崩壊の発生地震および噴火活動にともなう山
体崩壊(岩屑がんせつなだれ)が発生年代が不明確なものも含め
て南西側に5回、北東側に3回、東側に4回の計12回起きたと
されている。また、直下に存在が示唆されている活断層の活動に
よるマグニチュード7クラスの地震による崩壊も懸念されている
。主な発生歴約2900年前(御殿場泥流):東斜面で大規模(
約18億立方メートル)な山体崩壊が発生し、泥流が御殿場周辺
から東へは足柄平野へ、南へは三島周辺を通って駿河湾へ流下、
山体崩壊の発生原因は不明。1331年の元弘地震に伴い発生。
1891年濃尾地震に伴い発生。災害対策火山噴火予知連絡会(
気象庁)−富士山のみを限定するものではないが、日本の火山活
動についての検討を実施する。状況に応じて見解を発表するが、
噴火の日時を特定して発表することはない。定例会は年3回実施
されるが、噴火時には随時開催される。2000年10月に富士
山の低周波地震が増加した際は、ワーキンググループが設置され
、富士山に関する基礎データの収集・整理、監視体制の検討、火
山情報発信の方法などが集中的に検討された。富士山ハザードマ
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645 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 06:56:38.46 ID:55THIflI
ップ検討委員会(内閣府防災担当)−噴火時の広域避難のために
必要なハザードマップの作成が、検討委員会を通じて進められて
いる。富士直轄砂防事業(国土交通省)−大沢崩れを源にして発
生する大規模な土石流から、下流の保全対象を守る砂防事業を実
施中。山梨県は2015年6月11日、「富士山噴火時避難ルー
トマップ」を作成した。「静岡市市長の田辺信宏は2016年1
月22日の定例記者会見で、市消防航空隊が2013年、富士山
で滑落した登山者を救助中にヘリコプターから落下させ、この登
山者が死亡した事故を受け、再発防止策として、市消防局がヘリ
で救助できる山の高さに3200メートルと上限を設けたことを
明らかにした。」。地殻変動の観測国の機関(防災科学技術研究
所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所)及び大学(東京
大学地震研究所)などにより観測が行われている。国土地理院:
地磁気観測点が、鹿野山測地観測所、水沢測地観測所および江刺
観測場に設置されている。また、山頂にはGPSの電子基準点。
気象庁観測所:地震計(山頂、御殿場口8合目、吉田口6合目、
鳴沢塒塚東、太郎坊)、傾斜計(太郎坊)、空振計(太郎坊、上
井出)、GSP(太郎坊)、望遠カメラ(萩原)防災科学技術研
究所:火山活動可視情報化システム(VIsualizatio
nsystemforVolcanicActivity)噴出
物災害などへの対策国土交通省、富士砂防事務所:静岡県、山梨
県と連携し火砕流、溶岩流などの火山活動に伴う災害を防ぐため
の調査・検討を実施しハザードマップが作成されている。しかし
、山体崩壊を想定したハザードマップは2012年現在未作成で
ある。富士山と気象気候山頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃
しかなく、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0℃以上1
0℃未満のツンドラ気候に分類される。太平洋側の気候のため1
月や2月は乾燥し、3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ1
0を占める。観測史上最低気温は−38.0℃で最高気温が−3
0℃未満の日も過去に数回観測されていて−30℃を上回ること
がない1日というのは北海道でも例がない。富士山での気象観測
かつて気象庁東京管区気象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気
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646 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 07:06:23.23 ID:55THIflI
象官署が富士山測候所である。現在は富士山特別地域気象観測所
となっており、自動気象観測装置による気象観測を行っている。
詳細は「富士山測候所」を参照気象現象山体に強風が吹くと砂が
巻き上げられ、周辺の自治体に降ることがある。2010年12
月15日には、神奈川県の西部から南部にかけて黒い砂が積もり
、その状況から富士山の砂が巻き上げられ、西風に乗り降り積も
ったと考えられると報道された。富士山北麓の一部農地(現在の
山梨県富士吉田市など)では、富士山の標高2600m付近に現
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647 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 07:15:27.73 ID:55THIflI
富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、山麓周
辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨県南都留郡
富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている。その
他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念物に指定
されている。植生富士山は標高は高いが、日本の他の高山に比較
すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山が最終氷期が
終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返したために山の生態
系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植物の進
入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺ではいくらか高山植
物が見られる。山の上部ではタデ科オンタデ属のオンタデ(御蓼
)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザミ(富士薊)が自生して
いる。中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広が
っているのが通例であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、そ
の代替にカラマツ林が広がっている。人間史富士山本宮浅間大社
古代古代より富士山は山岳信仰の対象とされ、富士山を神体山と
して、また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と
言われるようになった。特に富士山の神霊として考えられている
浅間大神とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅間神社で
あり全国に存在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある富
士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮
」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。詳
細は「富士信仰」を参照古代では富士山は駿河国のものであると
する考え方が普遍的であった。これらは「高く貴き駿河なる富士
の高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「富士山は、駿河国に在り
。」「富士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂の山である」
(都良香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹
取物語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲
斐の国うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万
葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を跨ぐ山であるという共有
の目線で記された貴重な例もある。それより後期の時代、イエズ
ス会のジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山
は駿河国に帰属している」としているため、帰属は駿河国という
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649 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 07:23:29.07 ID:55THIflI
関係は継続されていたと考えられる。登山口は末代上人が開いた
登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言
われる村山口である。これにより富士修験が成立したとされる。
次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須
走口が存在してる。神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂
部は仏の世界と考えられるようになり、特別な意味を持つように
なった。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年銘である木
造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。
鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩
薩」や「浅間大菩薩」という呼称が確認されている。富士山頂の
8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し、
文永年間(1264年−1275年)の『万葉集註釈』には「い
ただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の
記述が確認できる。江戸時代江戸時代になると、徳川家康による
庇護の下、本殿などの造営や内院散銭取得における優先権を得た
ことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された経緯で、現在富
士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大
社の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講な
どの一派が形成され、富士信仰を発展させていった。富士講の隆
盛が見られた18世紀後半以降、新興宗教として旧来の登山道で
は発展できなかったために吉田口を利用する道者が目立つように
なっていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合
計と同程度であったという。富士参詣の人々を「道(導)者」と
いい、例えば『妙法寺記』の明応9年(1500年)の記録に「
此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走へ皆導者付也」と
ある。また、登山における案内者・先導者を「先達」といい、先
達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文中に「永禄6年
」とあり)などが確認されている。明治以後慶応4年(1868
年)に神仏分離令が出されると、これら神仏習合の形態は大きく
崩されることとなる。富士山中や村山における仏像の取り壊しな
どが進んだ。富士山興法寺は分離され、大日堂は人穴浅間神社と
なり大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ。北口本宮冨士浅
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650 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 07:29:20.05 ID:55THIflI
間神社では仁王門や護摩堂などが取り壊されることとなった。仏
教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名も変更された。1
883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1906年(明治
39年)に新大宮口が開削された。富士山は平成23年(201
1年)2月7日に国指定文化財である「史跡」に指定された。史
跡としての富士山は複数の資産から構成され「史跡富士山」とし
て包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮市・裾野市・駿東
郡小山町、山梨県は富士吉田市・南都留郡富士河口湖町・鳴沢村
である。このとき富士山八合目以上の山頂部や各社寺、登拝道(
登山道)が指定された。その後富士山本宮浅間大社社有地の一部
、人穴富士講遺跡、各登山道が追加指定された。登山史富士登山
の伝承においては伝説的な部分が多く入り混じっており、諸説存
在する。富士山の登山史和暦西暦内容補足推古天皇6年598年
平安時代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士山の
上を越えたとする記述がある。諸国からが多献上された数百匹の
中から白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、同年
9月に太子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き、富
士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという
。天智天皇2年663年役小角が県は富、流刑したされた伊豆大
島から毎晩密かに逃げ出し、富士山へ登ったという伝説が残る。
役小角は「富士山開山の祖」ともいわれる。この役小角の登山は
マルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載されており、記録
は改訂されたものの「世界初の登山」という記述がされていた。
貞観17年875年平安時代の学者である都良香が『富士山記』
の中で山頂火口のさまを記す。山頂には常に沸き立つ火口湖があ
り、そのほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際に見た者でな
ければ知りえない描写から、実際に登頂したか、または登頂した
者に取材したと考えられる。なおこの約10年前には山頂噴火で
はないが有史最大の貞観大噴火があった。久安5年1149年『
本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を繰りかえしたとある。
回数は一致するものかは不明であるが、登山を多く行った人物と
して知られる。江戸時代に入ると富士講が盛んになり、多くの参
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651 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 07:36:02.11 ID:55THIflI
火口、小内院(阿弥陀ヶ窪)は雷岩の下の小さな火口を指す。神
や仏の居る所であると信じられ、登山者は各登山口に設けられた
拝所あるいは初穂打場から、噴火口に向けて賽銭を投げ入れた。
現在、噴火口への立入は禁止されている。写真大内院の写真・小
内院西安河原から白山岳に向かう途中にある大きな窪地で、大内
院との対比で小内院と呼ばれる。かつては噴火口だったと考えら
れる。写真小内院の写真・馬の背剣ヶ峰に通じる坂道で、火山礫
と砂の急斜面である。お鉢巡りの道中で最大の難所である。現在
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653 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 07:43:51.18 ID:55THIflI
拝者が富士登山(富士詣)をした。特に江戸後期には講社が多数
存在し、富士詣は地域社会や村落共同体の代参講としての性格を
持っていた。最盛期には吉田口だけで百軒近くの宿坊(山小屋)
があった。文政11年1828年気圧計による高度測定の試みシ
ーボルトの弟子である二宮敬作が登頂し、気圧の変化により高度
測定を行った。伊能忠敬の測量では2603m−3732mとさ
れていたが、この測定では3794.5mと算出されている。天
保3年1832年高山たつが女性として初登頂。女人禁制が敷か
れていた時代である。嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)
が近世大名として初登頂。富士宮市の有形文化財となっている、
造り酒屋の主人が記した「袖日記」という古記録に宮津藩主松平
宗秀が富士登山を行った記録がある。袖日記の6番によると、宗
秀は江戸と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろう
と思い始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであ
り、これを逸脱したコースを通ったり、たとえ社寺参詣であって
も寄り道することは許されないため、富士に登ることを幕府に願
い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「馬返し」と
呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一合目よりも下
の場所であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという所)そ
こで宗秀は嘉永6年(1852)6月21日、幕府に内緒で登山
を決意し、明け方から出発して山を登り始め、昼過ぎには頂上に
着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富士登山を行っ
た唯一の記録となった。万延元年1860年英国公使オールコッ
クが外国人として初登頂。『古事類苑』にオールコックの登山に
ついての記録(富士重本が寺社奉行所に提出した届出)があり、
「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書寫…廿二日大雨
にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成り、廿五日快晴致し
、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上いたし…」とある。オー
ルコックは7月24日に大宮から村山に入り登山を行い、26日
に登頂した。明治4年1872年女人禁制が解かれる。明治時代
になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わって娯楽やスポー
ツとしても登られるようになり、欧米の近代登山技術が取り入れ
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654 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 07:51:50.49 ID:55THIflI
られることになる。明治25年1892年英国人のウォルター・
ウェストンが登頂。翌年にも登頂した。その後本を出版し富士山
などの日本の山々を世界に紹介した。明治28年1895年野中
到が冬季初登頂。2月16日に御殿場口から単独で登頂。同年1
0月から12月まで山頂で気象観測を行った。大正12年192
3年皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の登山7月26日の事、須
走に赴いてから8合目まで乗馬にて登山後、8合目以上は徒歩に
て登山を行なった。奥宮を参拝し金剛棒に焼印などを行った後、
御殿場口より下山された。大正12年1923年秩父宮雍仁親王
の登山8月20日の夜に御殿場口から登山し、翌朝頂上に到着。
奥宮を参拝後、下山。昭和2年1927年中村テルが冬季女性初
登頂1月1日に御殿場口から登頂、男性2人と共に。昭和63年
1988年浩宮徳仁親王(当時)の登山。8月1日−2日の登山
で、須走口から八合目を往復した。天候の悪化で登頂は断念され
る。平成20年2008年皇太子徳仁親王が登頂。8月7日に富
士宮口を出発後、御殿場口登山道に入り登頂。富士山を巡る利権
争い山役銭と内院散銭『冨嶽三十六景諸人登山』山麓の各地域に
は各登山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、須山口が古来
の登山道であり、その登山道を管理する地域の浅間大社が山役銭
を徴収していた。これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争い
を起こしている。特に内院散銭は相当額になるため、争いの火種
になりやすかった。例えば須走村への配分だけでも1年で76両
を越えたといい、一戸に約一両が配当される計算になるという。
内院散銭の権利は、大名などに与えられた権利を根拠に主に3地
域によって争われた。「村山」と「須走」と「大宮」である。村
山においては、1533年(天文2年)に村山三坊の「辻之坊」
が今川氏輝により内院散銭の取得権を与えられている。須走は1
577年(天正5年)に武田氏により薬師堂(現在の久須志神社
)の開帳日の内院散銭の取得権が与えられている。大宮は160
9年(慶長14年)に徳川家康が内院散銭を浅間大社に寄進し、
内院散銭の取得の優位権を得ている。浅間大社の大宮司が村山よ
り登る際は山役銭を取られたので、村山を避け「須走」から登拝
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655 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 07:57:39.31 ID:55THIflI
する慣例などもあった。新規に出来た登山道である現富士吉田口
は、登山道を管理している「須走」に許可なく、浅間大社の大宮
司富士信安など富士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」
の登山道を利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山
小屋を建てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」と「
吉田」は1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起
こし、「大宮」と「吉田」では薬師堂における役銭の配分で争っ
ている過去などがある。元禄の争論元禄16年(1703年)に
散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(浅間大社)
を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口本宮冨士浅間
神社の神主や御師らが、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏ら
を相手取り寺社奉行に訴え出た。訴えは三か条であった。1つは
浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛けを認めたことへの不服
、2つ目は浅間大社側が造営した薬師堂の棟札に「富士本宮が入
仏を勤める」という旨の記述があることを、須走の既得権を犯す
ものであるというもの、3つ目は内院の散銭取得における2番拾
いは須走側が得るという慣例となっているとし、それを浅間大社
が取得しているという訴えである。これに対し訴えられた浅間大
社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村の地内ではないこと、薬師堂
の入仏については浅間大社側が造営したものであるので権利は浅
間大社にあること、散銭の2番拾いの慣例は根拠がないというこ
とを主張した。それらは第三者に委ねる内済という扱いとなり、
その内済にて「他の者に小屋掛けさせないこと」「薬師堂の入仏
は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:
4で分け、2番拾いは須走が得るものとする」という決定となり
、以後これらは遵守された。安永の争論安永元年(1772年)
に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあるとして浅間大社を
相手として訴えた争論が安永の争論である。またこれをみた浅間
大社側の富士民済も反論を起こした。さらに吉田村と浅間大社と
で支配地域を確定する争論もあったため、ここに大宮・新規参入
である吉田と須走の争いの決着が望まれることとなり、勘定奉行
なども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持ち越
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656 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 08:03:44.53 ID:55THIflI
されることとなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信
奉していたという幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社
奉行のいわゆる三奉行による裁許で、最終的に富士山の8合目よ
り上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決定された。この
2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であった山頂
の支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により明確に定め
られることとなった。富士山と眺望特別名勝としての富士山富士
山は昭和27年(1952年)10月7日に「名勝」に指定され
、同年11月22日に「特別名勝」に指定された。山梨県側は富
士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・中野村(現・
山中湖村)の範囲が指定された。静岡県側は御中道に囲まれる地
域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御殿場口登山道(御
殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域、またこれと重複し
ない一合目以上御中道に至る富士宮口登山道および須走口登山道
(小山町)が範囲となっている。富士山の眺望ウィキメディア・
コモンズには、各地点からの富士山の眺望に関連するカテゴリが
あります。富士山への良好な眺望が得られる128景233地点
を、国土交通省関東地方整備局が関東の富士見百景として、20
05年(平成17年)に選定した。羽田空港から西に向かう国内
便などでは富士山の上空を通過する。その際、機長が富士山を案
内するアナウンスをすることが多い。また、新年のご来光を見る
ための遊覧飛行便も運行される。富士山の眺望の最遠は2013
年現在、和歌山県那智勝浦町である。那智勝浦の色川富士見峠(
妙法山とは別)は、富士山頂からの距離は322.9キロで、一
番遠く最も西にあるとされる。また、眺望の北限は2017年1
月16日に福島県川俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919
m)と日本地図センターにより認定された(富士山からは308
kmの距離にある)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三
原山からも眺望される。富士山の見える都道府県は、理論上可能
とされていた京都府から2014年に撮影に成功したことにより
、20都道府県となった。様々な表情の富士山富士山の表情は、
見る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する。富士と名
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657 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 08:11:40.99 ID:55THIflI
が付く、いくつかの姿がある。画像富士山の姿解説赤富士夏の朝
、露出した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。葛飾北斎をはじめ
とした画家が「赤富士」を描いた絵画を残した。紅富士雪化粧し
た富士山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。「モルゲンロート」(
ドイツ語Morgenrot)が用いられる場合がある。逆さ富
士波立ちが少ない水面に映る逆さの富士山の光景。D五千円券の
裏の図案に、本栖湖の逆さ富士が使用された。竜ヶ岳(山梨県)
から望む日の出時のダイヤモンド富士(2015年12月5日撮
影)ダイヤモンド富士太陽が昇った時又は沈む時、太陽が富士山
の頂上と重なり、富士山の頂上付近がダイヤモンドのように光る
現象。富士山が見える西又は東の場所から、年に2回見ることが
できる。影富士朝日や夕日で富士山の山容の影が周囲に映し出さ
れる風景。富士山登山時に山の上部から、雲海の上に見られる場
合がある。笠雲笠雲とレンズ雲を伴う。富士山の頂上に傘をかぶ
せた雲がある風景。その際は、次第に麓では曇りまたは雨になる
ことが多い。「表富士」と「裏富士」『不二三十六景甲斐夢山裏
富士』現在も富士山の山小屋や登山道の道標として「表口」や「
裏口」という表現がみられ、一般的に静岡県から見た富士山を表
富士、山梨県からの姿を裏富士として認知されているが、これに
は歴史的背景がある。延宝8年(1680年)に作成された『八
葉九尊図』では既に「するが口表」という表記がある。他に『甲
斐国志』巻35ではこのような記述がある。登山路ハ北ハ吉田口
、南ハ須走口・村山口・大宮口ノ四道ナリ、(中略)南面ヲ表ト
シ、北面ヲ裏トスレドモ、…??『甲斐国志』他の資料にも共通
した記述がみられ、このように南麓を表、北麓を裏とする考え方
は一般的な認識であったと言える。これとは別に「裏富士」とい
う言葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景裏不二』『冨嶽三十六景身
延川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景甲斐夢山裏富士』など
、作品名に採用されている例がみられる。富士山の文化美術にお
ける富士山三峰型富士の例絹本着色富士曼荼羅図狩野元信(伝)
峰型富士の例(上図)と同じ構図の実写富士は、ギャラリーに掲
載富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名所を描く
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658 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 08:19:02.24 ID:55THIflI
はブルドーザーが通れるよう整地されている。火口に向けて傾斜
しており、その険しさから道者たちの多くは剣ヶ峰に登らなかっ
たといわれる。・東安河原須山口拝所東側にあり、山頂部では稀
な広い平坦部である。かつては現世と来世の境である「賽の河原
」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を積み上げ石塔を作った。ま
た「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向けて賽銭が投げ込まれた場
所とされる。・西安河原東安河原と対をなす、剣ヶ峰から北側に
下りた付近の平坦部である。火口の外壁を行く外浜道と内壁を行
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660 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 08:27:03.46 ID:55THIflI
名所絵の成立とともにはじまり、現存する作例はないものの、記
録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題として描かれて
いたと考えられている。現存する最古の富士図は法隆寺献納宝物
である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵伝』(東京国立博
物館)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒駒に乗った聖徳太子
が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の山岳
図として描かれている。楽焼白片身変茶碗銘不二山(国宝)鎌倉
時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、『
伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など物語文学の成立とと
もに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画とし
ての『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては反
弧状で緑色に着色された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態
で描かれ、特別な存在として認識されていた。室町時代の作とさ
れる『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要
文化財)には富士山とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であっ
た浅間神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるもの
である。また、富士山は三峰型富士で描かれている。凱風快晴、
葛飾北斎作江戸時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵
本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した
。浮世絵のジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響
を受けた葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連
作版画『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。
多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料
を活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き、
夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波
と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知られる。また、歌川広
重も北斎より後の1850年代に『不二三十六景』『冨士三十六
景』を出版した。広重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のスケ
ッチを重ね作品に活かしている。『東海道五十三次』でも、富士
山を題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作
により、それまで富士見の好スポットと認識されていなかった地
点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓していった。工芸
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662 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 08:33:45.23 ID:55THIflI
品としては本阿弥光悦が自ら制作した楽焼の茶碗に富士山の風情
を見出し、「不二山」と銘打っている。50銭政府紙幣(193
8年発行)岡田紅陽が撮影した愛鷹山からの富士山がモデル。富
士は日本画をはじめ絵画作品や工芸、写真、デザインなどあらゆ
る美術のモチーフとして扱われている。日本画においては近代に
殖産興業などを通じて富士が日本を象徴する意匠として位置づけ
られ美術をはじめ商業デザインなどに幅広く用いられ、絵画にお
いては伝統を引き継ぎつつ近代的視点で描かれた富士山絵画が制
作された。また、鉄道・道路網など交通機関の発達により数多く
の文人・画家が避暑地や保養地としての富士山麓に滞在し富士を
題材とした作品を製作しているが、富士を描いた風景画などを残
している画家として富岡鉄斎、洋画においては和田英作などがい
る。富士山をモチーフとした美術品は当時のヨーロッパでも多く
流通しており、このことから富士山もヨーロッパで広く知られて
いた。1893年(明治26年)、日本を旅行していたオースト
リア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント
大公は、日記に次のように書いている。フジサン、フジノヤマ。
いったい、この日本の象徴――ヨーロッパではふつうフジヤマと
呼ばれる――を知らない者などいるのだろうか?ヨーロッパでも
っとも好まれる日本工芸のデザインとして漆器、陶磁器、和紙、
金属などに描かれているから、もう、わたしたちにはお馴染みだ
。??8月15日付戦時下には国家により富士は国体の象徴とし
て位置づけられ、富士は国家のシンボルとして様々に描かれた。
戦後には国体のシンボルとしてのイメージから解放された「日本
のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡球子らが富士を
描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的画題へのアン
チテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして富士を描く傾向
も見られる。深田久弥は『日本百名山』の中で富士山を「小細工
を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも富士の絵は描くが、
その真を現わすために画壇の巨匠も手こずっている」という。日
本画全般の題材として「富士見西行」があり、巨大な富士山を豆
粒のような人物(僧、西行法師)が見上げるという構図で、水墨
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663 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 08:41:24.37 ID:55THIflI
画や彫金でも描かれている。千円札、旧五千円札のモデルとなっ
た本栖湖からの富士山近代では紙幣や切手のデザインにも用いら
れている。富士山が紙幣のデザインに用いられる例は数多くある
。古くは1913年発行の50銭政府紙幣があり、愛鷹山からの
富士山でる。その後の1951年と1969年発行の旧五百円札
は大月市の雁ヶ腹摺山からの富士山を元にしている。1984年
発行の旧五千円札と2004年発行の千円札は本栖湖の湖畔から
の富士山である。富士山を描写した切手が郵便局から発売された
。河口湖、西湖、精進湖、本栖湖、山中湖(1999年(平成1
1年))葛飾北斎(1999年(平成11年))オオマツヨイグ
サ・山梨県(2005年(平成17年))文学における富士山富
士山は和歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』
の中には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。「田子
の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(
3.318)は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。また
、この反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…
燃ゆる火を雪もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…」(巻3・31
9・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山
頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士
山が火山活動を行っていたことがうかがえる。『新古今和歌集』
から。富士の煙が歌われている。風になびく富士の煙の空にきえ
てゆくへもしらぬ我が心かな西行(#1613)都人にとって富
士は遠く神秘的な山として認識され、古典文学では都良香『富士
日記』が富士の様子や伝承を記録している。『竹取物語』は物語
後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老
不死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山
頂で燃やしたことになっている。それからその山は数多の士に因
んでふじ山(富士山)と名付けられたとする命名説話を記してい
る。なお、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」と
して言い伝えられている場所が現存している。ほか、『源氏物語
』や『伊勢物語』でも富士に言及される箇所があるものの、主要
な舞台となるケースは少ない。富士は甲駿の国境に位置すること
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664 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 08:50:27.49 ID:55THIflI
が正確に認識されており、古代においては駿河国に帰属していた
ため古典文学においては駿河側の富士が題材となることが多いが
、『堤中納言物語』では甲斐側の富士について触れられている。
また、「八面玲瓏」という言葉は富士山から生まれたといわれ、
どの方角から見ても整った美しい形を表している。中世から近世
には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、江戸期には地域文芸と
して俳諧が盛んであった。近代には鉄道など交通機関の発達や富
士裾野の観光地化の影響を受けて、多くの文人や民俗学者が避暑
目的などで富士へ訪れるようになり、新田次郎や草野心平、堀口
大學らが富士をテーマにした作品を書き、山岳文学をはじめ多く
の紀行文などに描かれた。富士山麓に滞在した作家は数多くおり
、武田泰淳は富士山麓の精神病院を舞台とした小説『富士』を書
いており、妻の武田百合子も泰淳の死後に富士山荘での生活の記
録を『富士日記』として記している。津島佑子は山梨県嘱託の地
質学者であった母方の石原家をモデルに、富士を望みつつ激動の
時代を過ごした一族の物語である『火の山―山猿記』を記した。
また、北麓地域出身の文学者として自然主義文学者の中村星湖や
戦後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それぞれ作品の中で富
士を描いており、中村星湖は地域文芸の振興にも務めている。太
宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小説『富嶽百景』の
一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよく知られ、山梨
県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建っている。直木賞作家
である新田次郎は富士山頂測候所に勤務していた経験をもとに、
富士山の強力(ごうりき)の生き様を描いた直木賞受賞作『強力
伝』や『富士山頂』をはじめ数々の富士にまつわる作品を執筆し
ている。高浜虚子は静岡県富士宮市の沼久保駅で降りた際、美し
い富士山を見て歌を詠んだ。駅前にはその歌碑が建てられている
。「とある停車場富士の裾野で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ
花の姥」富士山と地域振興富士山一帯の宗教施設や避暑、富士登
山を目的とする観光客相手の観光業も活発に行われている。しか
し、富士山麓には温泉地として成立する規模の湯量は湧出してい
ない。富士山の利用について、静岡県側が自然・文化の保護を重
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665 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 08:58:46.77 ID:55THIflI
視するのに対し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており、
山頂所有権問題、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題、世界遺
産登録問題等、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の相
違が表面化している。富士山と観光富士登山富士登山には登山の
知識や経験、装備が不可欠である。一般的には、毎年7月1日の
山開きから9月上旬の山じまいまでの期間、登山が可能である。
期間外は、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されている。
とくに積雪期・残雪期の登山は自殺行為である。詳細は「富士登
山」を参照その他の観光その優美な姿から、富士山が見える場所
は著名な観光地となっていることが多い。箱根−箱根は富士山が
望めるうえに、東京から近く温泉や歴史・美術館や各種の乗り物
が楽しめることもあり、年間を通じて内外の観光客が絶えない。
また、夏は避暑地としても有名である。富士五湖−富士五湖は富
士山周辺の観光地として著名であり、本栖湖の逆さ富士が日本銀
行券に採用されている。白糸の滝−白糸の滝は上流に川は存在せ
ず、富士山の雪解け水が溶岩断層から湧き出す非常に珍しい形成
をしている滝である。また、音止めの滝と共に日本の滝百選に指
定されている。朝霧高原−朝霧高原は富士山を綺麗に臨むスポッ
トとして著名であり、その自然と広大な土地もあり過去に第13
回世界ジャンボリーも開催されている。ダイヤモンド富士−ダイ
ヤモンド富士などがはっきりと拝める田貫湖や山中湖といったス
ポットも有名で、特に写真撮影を目的として訪れる観光客もいる
。ドライブ−富士スバルラインや富士山スカイラインなどを利用
して、5合目までマイカーで上がることができる。シーズン中は
マイカー規制の期間があり、冬期は閉鎖される。富士山の日(2
月23日)2月23日を「2:ふ・2:じ・3:さん」と語呂合
わせで読み「富士山の日」として制定している自治体がある。2
001年(平成13年)山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)
にて条例を制定。2002年(平成14年)山梨県富士吉田市を
中心に、山梨県の富士山麓10市町村、2恩賜林組合が了承。2
009年(平成21年)12月21日静岡県議会にて条例を全会
一致で可決。同年12月25日条例を制定。静岡県、山梨県どち
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666 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 09:06:24.82 ID:55THIflI
く内浜道との分岐点に位置する。・虎岩(獅子岩)大内院の南岸
に突き出た大岩で、形状が虎(獅子)のうずくまる姿に似ている
ことから名付けられた。・割石かつては「釈迦の割石」と呼ばれ
た溶岩で、溶岩が急速に冷えて固まったため割れていた。高さが
15m程あったが、現在は崩壊してしまっている。古くから行者
の修行場として知られ、食行身禄がここで入定しようとしたが、
大宮浅間の社人からの許可が得られず、吉田口七合五勺の烏帽子
岩で入定したとされる。写真割石の写真・雷岩白山岳の西側にあ
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667 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 09:14:37.01 ID:55THIflI
らも、富士山は普段の生活に溶け込み過ぎており、「あって当た
り前」の空気のような存在である。そのため「富士山の日」に、
各自治体や県内企業などがさまざまなイベント等を催し、参加す
る事など通じて、身近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルと
しても名高い名峰として再認識する機会としている。また併せて
富士山の世界遺産登録に向けた動きを地元から活発化したいとの
期待も込められている。静岡県教育委員会で、各市町村に対して
2011年(平成23年)より「富士山の日」を学校休業日とす
るよう要望した。休業日として組み込んだ自治体があるなか、麓
である富士市教育委員会では「特定日を学校休業日とすることは
なじまない」という理由で、2011年以降休業日としていない
。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる場の提供や、富士
山こどもの国の無料開放、図書館や博物館などの社会教育施設に
も富士山の日にちなんだ事業実施を要請している。なお、富士山
の日を最初に宣言したのは、パソコン通信「NIFTY−Ser
ve」内の「山の展望と地図のフォーラム(FYAMAP)」で
、1996年1月1日にネット上で発表した。富士山ナンバー静
岡運輸支局管内の4市2町と山梨運輸支局管内の1市2町4村を
対象とした、いわゆるご当地ナンバーとして2008年11月4
日から富士山ナンバーの交付が開始された。管轄支局が二県にま
たがるナンバープレートは珍しい。富士山検定「富士山検定実行
委員会」が主催する富士山検定が、富士商工会議所、富士吉田商
工会議所、静岡新聞社・静岡放送、山梨日日新聞社・山梨放送、
NPO法人富士山検定協会の5者により行われている。地域間交
流富士山頂の湧水を琵琶湖へ、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐ交流
が昭和三十二年以降静岡県富士宮市と滋賀県近江八幡市の間で続
けられている。これは「近江の土を掘り富士山を作りその穴が琵
琶湖になった」という伝説からである。富士山頂の湧水を琵琶湖
へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐ
ことを「お水取り」という。2014年には日本富士山協会と中
華民国山岳協会との間で、富士山と玉山の友好山提携が締結され
ている。標高3,952メートルの玉山は台湾の日本統治時代に
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668 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 09:20:33.87 ID:55THIflI
新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。その他他山の標高玉山
(台湾)−日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰であった
。標高3,952メートル。雪山(台湾)−日本統治時代は次高
山と呼ばれ、日本で2番目に高い山であった。標高3,886メ
ートル。北岳−日本で2番目に高い山。標高3,193メートル
。日和山(仙台市)−日本で最も低い山。標高3メートル。エベ
レスト−世界最高峰。標高8,844メートル。文字この節には
、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Uni
code6.0の絵文字)が含まれています。和文通話表で、「
ふ」を送る際に「富士山のフ」という。文字コードのUnico
de6.0では、携帯電話などで使われていた絵文字も追加され
たが、その中に「MOUNTFUJI」として富士山も含まれて
いる。続けられている。これは「近江の土を掘り富士山を作りそ
の穴が琵琶湖になった」という伝説からである。富士山頂の湧水
を琵琶湖へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山
頂へ注ぐことを「お水取り」という[82][83]。2014
年には日本富士山協会と中華民国山岳協会との間で、富士山と玉
山の友好山提携が締結されている[84]。標高3,952メー
トルの玉山は台湾の日本統治時代に新高山と呼ばれ、日本の最高
峰であった。その他[編集]他山の標高[編集]玉山(台湾)−
日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰であった。標高3,
952メートル。雪山(台湾)−日本統治時代は次高山と呼ばれ
、日本で2番目に高い山であった。標高3,886メートル。北
岳−日本で2番目に高い山。標高3,193メートル。日和山(
仙台市)−日本で最も低い山。標高3メートル。エベレスト−世
界最高峰。標高8,844メートル。文字[編集]この節には、
一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Unic
ode6.0の絵文字)が含まれています(詳細)。和文通話表
で、「ふ」を送る際に「富士山のフ」という。文字コードのUn
icode6.0では、携帯電話などで使われていた絵文字も追
加されたが、その中に「MOUNTFUJI」として富士山も含
まれている。富士山世界文化遺産平成22年度第1回静岡県学術
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670 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 09:27:48.73 ID:55THIflI
日本政府が世界遺産一覧表への記載を推薦する「富士山」は、東
アジアの東端に当たる日本列島の本州島の中央部、日本の東海地
方の東部及び関東地方の西部に位置する。推薦する資産は17個
の構成資産(26個の構成要素(後述))から成り、現行の行政
区分に基づく各構成資産の所在地については以下に記すとおりで
ある。構成資産所在地No.所在地座標計測位置緯度経度A静岡
県(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場市・小山町)山梨県(富
士吉田市・身延町・鳴沢村・富士河口湖町)県境未確定地富士山
(山頂剣ヶ峰)資産範囲及び緩衝地帯の範囲図資産と緩衝地帯の
位置及び範囲を示す図面、並びに資産近傍における法的保護区分
を示す図面は以下のとおりである。f)資産面積及び緩衝地帯の
面積各構成資産の面積及びその緩衝地帯の面積、資産の総面積及
びその緩衝地帯の総面積については、以下に記すとおりである。
構成資産面積:緩衝地帯面積:合計:No.構成資産の面積(h
a)緩衝地帯の面積(ha)合計説明a)資産の説明1)資産全
体の説明富士山は、標高3776mと日本一の高さを誇る独立峰
である。高度を増すごとに山腹の傾斜が急になる美しい懸垂曲線
を呈し、類まれな優美さを持つ円錐形の山容を有した玄武岩質成
層火山である。その山体は南の駿河湾の海浜にまで及び、海面か
らの実質的な高さは世界的にも有数である。富士山は、日本列島
のほぼ中央に位置し、フィリピン海プレート、ユーラシアプレー
ト、北アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さらにその
下に東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる特異な地点
に存在する。富士山は、新生代第三紀中新世のおもに海底火山噴
出物からなる地層の上に第四紀更新世に造り上げられた先小御岳
火山とそれに重なる小御岳火山を土台として、古富士、さらにそ
れを覆う新富士山の4層構造で構成されている。山頂部の火口は
およそ2200年前を最後に噴火していないが、フィリピン海プ
レートが北進しユーラシアプレートを南南東方向から押し続けて
いるため割れ目が発生することによって、山頂を通って北北西に
向かう方向にほぼ直線的に側火山が並び、有史以降も火山活動を
行ってきた。富士山が過去に流出した溶岩などの火山噴出物は、
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671 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 09:37:58.17 ID:55THIflI
(山頂剣ヶ峰)資産範囲及び緩衝地帯の範囲図資産と緩衝地帯の
位置及び範囲を示す図面、並びに資産近傍における法的保護区分
を示す図面は以下のとおりである。f)資産面積及び緩衝地帯の
面積各構成資産の面積及びその緩衝地帯の面積、資産の総面積及
びその緩衝地帯の総面積については、以下に記すとおりである。
構成資産面積:緩衝地帯面積:合計:No.構成資産の面積(h
a)緩衝地帯の面積(ha)合計説明a)資産の説明1)資産全
体の説明富士山は、標高3776mと日本一の高さを誇る独立峰
である。高度を増すごとに山腹の傾斜が急になる美しい懸垂曲線
を呈し、類まれな優美さを持つ円錐形の山容を有した玄武岩質成
層火山である。その山体は南の駿河湾の海浜にまで及び、海面か
らの実質的な高さは世界的にも有数である。富士山は、日本列島
のほぼ中央に位置し、フィリピン海プレート、ユーラシアプレー
ト、北アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さらにその
下に東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる特異な地点
に存在する。富士山は、新生代第三紀中新世のおもに海底火山噴
出物からなる地層の上に第四紀更新世に造り上げられた先小御岳
火山とそれに重なる小御岳火山を土台として、古富士、さらにそ
れを覆う新富士山の4層構造で構成されている。山頂部の火口は
およそ2200年前を最後に噴火していないが、フィリピン海プ
レートが北進しユーラシアプレートを南南東方向から押し続けて
いるため割れ目が発生することによって、山頂を通って北北西に
向かう方向にほぼ直線的に側火山が並び、有史以降も火山活動を
行ってきた。富士山が過去に流出した溶岩などの火山噴出物は、
適度な粘度を持つために美しいコニーデ型の山容を形成しながら
、山頂を中心として約15〜20km(最大約30km)の範囲
に広がった。山麓には数多くの風穴・溶岩樹型等の地形が見られ
、溶岩流の末端部では富士山の中腹以上への降水を起源とする豊
富な湧水(日量約450〜680万t、現在最大の湧水は日量約
100万tの柿田川)が見られる。富士山北麓ではこれらの湧水
や降水を起源とする湖沼が点在している。上記のような自然的環
境を持つ富士山は、古来自然物、特に山岳に対する信仰の伝統を
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672 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 09:45:19.25 ID:55THIflI
(山頂剣ヶ峰)資産範囲及び緩衝地帯の範囲図資産と緩衝地帯の
位置及び範囲を示す図面、並びに資産近傍における法的保護区分
を示す図面は以下のとおりである。f)資産面積及び緩衝地帯の
面積各構成資産の面積及びその緩衝地帯の面積、資産の総面積及
びその緩衝地帯の総面積については、以下に記すとおりである。
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673 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 09:53:22.04 ID:55THIflI
型・湖沼、芸術作品の視点場(又は舞台)となった地点から構成
される。富士山体の中には山頂信仰遺跡や登山道などの重要な要
素が含まれている。これらの構成資産が一体となった推薦資産「
富士山」は、山に対する固有の文化的伝統を表す物証であり、山
と人間との精神的な関係を生み出した景観の見本であるとともに
、芸術的作品との関連がある山岳である。表構成資産/構成要素
の分類No.世界遺産条約上の分類遺跡A1山頂信仰遺跡遺跡A
2大宮・村山口登山道遺跡A3須山口登山道遺跡A4須走口登山
道遺跡A5吉田口登山道遺跡A6北口本宮冨士浅間神社遺跡、記
念工作物、建造物A7西湖遺跡A8精進湖遺跡A9本栖湖遺跡B
1遺跡、記念工作物、建造物B2遺跡B3遺跡B4遺跡B5遺跡
B6遺跡B7遺跡、記念工作物、建造物B8建造物B9遺跡B1
0遺跡B11遺跡B12遺跡B13遺跡B14遺跡B15遺跡C
遺跡A富士山(富士山体)富士山本宮浅間大社山宮浅間神社河口
湖村山浅間神社須山浅間神社富士浅間神社(須走浅間神社)河口
浅間神社白糸ノ滝三保松原構成資産/構成要素忍野八海船津胎内
樹型吉田胎内樹型人穴富士講遺跡冨士御室浅間神社御師住宅山中
湖673)構成資産の説明富士山(富士山体)・展望地点富士山
には、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施
設として機能してきた登山道や山小屋といった宿泊施設、信仰の
証として建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅
間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・
鑑賞の側面における比重が最も高い。特に本栖湖や三保松原は、
何度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地や富士山を描く典型
的な構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供する展望地点
である。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬
返」以上に該当する標高1500m以上の区域でもあり、その中
でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より上方、富士山
本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割
した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約3200〜3375
m)以上と、山頂に近づくほどより強い神聖性を持つと認識され
てきた。A富士山(富士山体)A1山頂信仰遺跡A9本栖湖C三
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674 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 09:59:34.83 ID:55THIflI
保松原(写真複数、地図挿入)(改頁)登山道富士山には、麓の
浅間神社を起点として山頂に至る登山道が、複数存在する。12
世紀前半から中ごろにかけての修行僧末代の活動がきっかけにな
ったと考えられる大宮・村山口登山道や、六合目から1384年
の銘のある掛仏が出土した須走口登山道などがある。吉田口登山
道は、富士講信者の登山本道とされ、18世紀後半以降、最も多
くの道者(他の登山口の合計と同程度)によって利用された。ま
た、1200年の資料では、大宮・村山口及び吉田口の外、須山
口登山道を挙げて、それ以外には登山道がないと述べられている
。登山道沿いには要所要所に祠や石碑が設置され、随所に小屋や
石室が設けられており、富士独特の登拝システムを語る上で、登
山道は欠かすことのできない構成要素である。A2大宮・村山口
登山道A3須山口登山道A4須走口登山道A5吉田口登山道(写
真複数、地図挿入)(改頁)浅間神社・御師住宅登山道の起点や
周辺地域には浅間神社が建造された。古くから富士山は遥拝の対
象であり、山宮浅間神社などは古代からの祭祀の形をとどめてい
る。噴火活動の活発化を受け、律令国家によって9世紀前半に富
士山を神体とする浅間神社(後の富士山本宮浅間大社)が、9世
紀後半には北麓にも噴火を鎮めるための神社が祭祀された。11
世紀後半の噴火を最後に火山活動が休止期に入ると、富士山を舞
台とする修験の活動が活発化し始め、修験者の拠点が後に村山浅
間神社や冨士御室浅間神社へと発展していった。登拝の大衆化に
伴って、須山浅間神社や富士浅間神社(須走浅間神社)8など、
登山口の起点にも浅間神社が建立されるようになる。なかでも、
北口本宮冨士浅間神社は、江戸を中心に流行した富士講によって
大いに利用された吉田口登山道の起点であったが、その北には、
富士講徒の案内し、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅が今も
残されている。B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B3村
山浅間神社B4須山浅間神社B5富士浅間神社(須走浅間神社)
A6北口本宮冨士浅間神社B8御師住宅B6河口浅間神社B7冨
士御室浅間神社(写真複数、地図挿入)(改頁)霊地・巡礼地と
なった風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀後半から爆発的に
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675 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 10:06:17.76 ID:55THIflI
流行した富士講の信者は、山頂を目指して富士山に登るだけでな
く、いわばオプショナル・ツアーのごとく周辺の風穴や湧水地な
どを巡り、巡礼や修行を行っていた。富士講の開祖とされる長谷
川角行は、人穴(富士講遺跡)で修行をし、富士五湖を始めとし
た八つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行った。後の富士講徒はこれら
の地へ参詣し、開祖に倣って修行を行う者もいた。また、長谷川
角行の八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)元八湖」と
唱えられた忍野八海や、彼が北麓の洞穴で浅間明神を祀ったこと
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676 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 10:14:24.01 ID:55THIflI
にちなんで整備された船津胎内樹型や吉田胎内樹型など、特定の
富士講にとっての霊場・巡礼地となっている資産もある。B9山
中湖B10河口湖A7西湖A8精進湖A9本栖湖B11忍野八海
B12船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴富士講遺跡B
15白糸ノ滝(写真複数、地図挿入)(改頁)A.富士山(富士
山体)説明富士山には、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、
信仰登山の支援施設として機能してきた登山道や山小屋といった
宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在する。推薦
範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合
う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が9最も高い。また推
薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上に該当
する標高1500m以上の区域でもあり、その中でも、他界(死
後世界)と考えられた森林限界より上方、富士山本宮浅間大社の
境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割した目安の一つ
。登山道ごとに異なり標高約3200〜3375m)以上と、山
頂に近づくほどより強い神聖性を持つと認識されてきた。八合目
以上は、1779年以降、富士山本宮浅間大社の境内地とされた
が、この理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と
呼び宗教的に意義付けられている)の底部に浅間大神が鎮座する
との信仰に基づく。標高約2500m付近の森林限界より上方は
富士講信者(富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ、
神聖な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼこの
境域に沿い、富士山体を一周する「御中道」が15〜16世紀ご
ろに富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ(1
561年及び1580年とされる)、その後「大沢崩れ」という
危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用された
。構成資産範囲内には、山頂信仰遺跡や登山道といった、富士山
の顕著な普遍的価値を語る上で重要な役割を担う、次のような構
成要素が存在する。A1.山頂信仰遺跡富士山山頂部には、火口
壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設が所在する。富士
山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け山頂部にお
いて寺院の造営や仏像等の奉納がおこなわれるとともに、山頂部
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677 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 10:22:12.09 ID:55THIflI
での宗教行為が体系化されていった。道者は山頂周辺において「
御来迎(仏の来迎と見なされたブロッケン現象)」(のち「御来
光(日の出)」)を拝み、内院(噴火口)に鎮座するとされる神
仏(大日如来が本地仏とされた浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝
し、火口壁にいくつかあるピークを仏教の曼荼羅における仏の世
界に擬して巡拝する「お鉢めぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行
為を行なうことが一般的であった。山頂の宗教的施設は、12世
紀中ごろ修行僧末代により建立された施設(後の大日堂)が最初
とされ、その後、経典(12世紀末〜13世紀前半と推定される
ものが最古)・懸仏(1482年の銘のあるものが最古)・仏像
等(1302年の銘があるものが最古)の山頂部への奉納・埋納
や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀には、大宮
・村山口山頂部に大日堂(現在は富士山本宮奥宮が所在)が、吉
田・須走口山頂部に薬師堂(現在の久須志神社)が造営された。
1874年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によっ
て撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は神社に改変された
。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上記の
行為は現代の登山者の多くが行っており、これらを通じて富士信
仰の核心が現代に受け継がれている。A2.大宮・村山口登山道
富士山南西麓の浅間大社を起点とし、村山浅間神社を経て山頂南
側に至る登山道である。12世紀前半から中ごろの、修行僧末代
の活動により、富士山南麓における登山が本格的に開始されたと
され、14世紀初めには修験者による組織的登山が始まったとさ
れる。15世紀以降19世紀後半まで、「村山三坊」と呼ばれた
3軒の有力宿坊が村山浅間神社(興法寺)と登山道の管理を行う
とともに所属の修験者が登山道等を利用して修行を行った。また
、一般人の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と言う。)も
開始され、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色富士曼荼
羅図」に描かれている。道者の数は18世紀後半から19世紀初
頭の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年で2,000人前後
、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の外国人
登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用した。1
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678 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 10:29:06.00 ID:55THIflI
01889年、鉄道(東海道線)の開通による御殿場口利用者の
増加により衰退し、これへの対策として1906年、村山を経由
しない新道が建設されたため、大宮から現在の六合目(標高26
00m)までは登山道としての機能を失った。この区間は一部除
き登山道跡の推定は困難な状態である。現在は1970年に標高
2400m地点まで開通した自動車道を利用しての登山が行われ
ている。(推薦範囲は六合目以上である。)A3.須山口登山道
富士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東部に至る登山
道である。その起源は明確ではないが、文字資料の中で1486
年にその存在が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅
間神社及びその所在地の須山村(現裾野市須山)により管理され
ていた。また、登山道のいくつかの宗教施設は村山の修験者の行
場(参拝所)としても使用された。道者については詳しい研究が
進んでいないが、1800年(御縁年:富士山出現伝説に由来す
る60年に1回の記念の年)に約5,400人、1840年代前
半は年平均約1,700人、1860年(御縁年)は約3,60
0人であった。1883年、須山口二合八勺(標高2050m)
に接続する御殿場口登山道が開削され、1889年、東海道本線
開通による御殿場口利便性の向上は須山口よりの道者を奪い、さ
らに1912年、一部が陸軍演習場となり使用不可能となったた
め、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至っている。二合
八勺以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一部のみである
。(資産範囲は現在「御殿場口」の名称で使用されている二合八
勺以上の部分及び遊歩道として整備された旧須山口の一部である
)A4.須走口登山道富士山東麓の冨士浅間神社を起点とし、八
合目で吉田口登山道と合流し山頂東部に至る登山道である。その
起源は明確ではないが、六合目からは1384年の銘のある掛仏
が出土しており、文字資料では1500年にその存在を確認でき
る。登山道は遅くとも17世紀までに、冨士浅間神社及びその所
在地の須走村が登山道の山頂部までを支配し、散銭取得権の一部
などを得ていた。山頂部の権利については富士山本宮浅間大社と
争いになり、須走村は18世紀(1703年と1772年)、幕
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679 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 10:35:49.02 ID:55THIflI
府に裁定を求め、権利は幕府によって認められた。1707年の
宝永噴火の際、これらの施設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に
覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け翌年には復興を完了し
、多くの道者を集めた。18世紀後半、他の霊場とセットにされ
た参詣の流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御縁年に
23,700人とピークを迎えた。1959年、バス道路の完成
により、新五合目(標高約2000m)以下の登山道の利用はほ
とんどなくなり、一部道としての確認ができない区間がある。(
推薦範囲は現在も利用されている新五合目以上である。)A5.
吉田口登山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂東部を
目指す道である。15世紀には、富士山への登拝が、修験者だけ
でなく、ごく一般の人々の間にも広まっていた。吉田口は14世
紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、大勢の人々が登
るための設備が整うようになった。16世紀から17世紀、長谷
川角行が吉田口を利用して修行を行い、18世紀前半には富士講
隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的自殺)にあたって信
者の登山本道をこの吉田口と定めた。このため、富士講の信者が
次第に増加した18世紀後半以降は、最も多くの道者(他の登山
口の合計と同程度)が吉田口登山道を登って山頂を目指している
。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な
道である。(推薦範囲は登山道全体である。)11法的保護、修
理・整備の経緯1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名
勝に仮指定された。1936年に国立公園法の下に(富士箱根)
国立公園に指定された。1952年に文化財保護法の下に名勝、
ついで特別名勝に指定された。1969年に国が大沢崩れに対す
る砂防事業に着手(継続中)。1996年に国・県が台風による
森林の風倒被害に対する対策に着手(継続中)。文化財保護法の
下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。A6
.北口本宮冨士浅間神社説明富士山の遥拝所に祀られていた浅間
明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、1480年には「富士山
」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整って
いたとされる。その後、1561年に現在の東宮本殿、1594
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680 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 10:42:38.93 ID:55THIflI
年に西宮本殿、1615年には本殿が建立された。富士講とのつ
ながりが強く、1730年代に富士講の指導者である村上光清の
寄進によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境
内の景観の礎が形成された。本殿は、一間社入母屋造・檜皮葺の
本殿に唐破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰組
をもって支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東宮本
殿・西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。3本殿とも、
各部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して、それぞ
れの時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮冨士浅間神
社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており
、神社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた。社
殿の背後には登山門があり、この神社を起点として富士山頂まで
吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持
ちながら発展した神社である。法的保護、修理・整備の経緯19
07年に東宮本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定さ
れた。1929年の国宝保存法制定に伴い、本殿は国宝とされた
。1950年の文化財保護法制定に伴い、東宮本殿は重要文化財
とされた。1953年に本殿及び西宮本殿が文化財保護法の下に
重要文化財に指定された。1952年に東宮本殿の解体修理工事
が行われた。1962〜63年に西宮本殿の解体修理工事が行わ
れた。1973〜74年に本殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工
事が行われた。1981〜82年に東宮本殿の部分修理工事が行
われた。1997年に本殿の部分修理工事が行われた。文化財保
護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定
。A7.西湖A8.精進湖A9.本栖湖説明富士山の火山活動に
よって形成された堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修行す
る内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷川角行
の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたの
が、後述の山中湖及び河口湖とこの3湖である。また、景勝の地
でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。12特に本栖湖は、
日本の紙幣の図柄として何度も使用された写真の撮影地点であり
、重要な展望地点(viewpoint)である。富士山は、プ
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681 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 10:50:55.97 ID:55THIflI
ロ・アマ問わず多くの写真家に愛され、撮影されてきた。なかで
も、生涯にわたり富士山を追い続けた岡田紅陽によって、193
5年に本栖湖北西岸の峠道から撮影された「湖畔の春」という写
真は有名である。この写真は、1984年に採用された五千円札
及び2004年に採用された千円札の図柄として使用された。山
体の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成している本栖湖からの
展望は、「湖畔の春」に撮影された富士山とほぼ同じ姿のまま現
在も残している。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下
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682 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 10:59:04.39 ID:55THIflI
に名勝として指定される予定。B1.富士山本宮浅間大社説明社
記によれば806年に、富士山により近い遥拝所であった山宮浅
間神社から現在の地に移転されたことを起源とする神社で、古く
から富士山南麓地域の中心的神社であった。現在全国に約130
0社ある浅間神社の総本宮であり、広く信仰されている。創建当
初は遥拝のための施設であったが、15世紀ごろ登拝が盛んにな
るにつれて、富士山本宮浅間大社は村山浅間神社(興法寺)とと
もに大宮・村山口登山道の基点となり、宿坊が周辺に建設された
。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築されていく中で
、浅間大社は徳川家康(約150年間の戦乱期をおさめ統一政権
である江戸幕府を開いた人物)の庇護の下、1604年現在の「
浅間造り」と呼ばれる独特な構造を持った社殿が造営されるとと
もに、1609年山頂部の散銭取得における優先権を得た。これ
を基に浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり、177
9年、幕府による裁判によりこの八合目以上の支配権が認められ
た。明治政府によりここは国有地とされたが、1974年の最高
裁判決に基づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)された。浅
間大社境内には富士山の湧水を起源とする湧玉池がある。浅間大
社は、富士山の噴火を湧水によって鎮める考えや、富士山を聖な
る水源の山として崇める考え方から、豊富な湧水量(日平均14
万?)を持つ湧玉池のほとりに置かれたとする説が有力である。
なお湧玉池は、浅間大社内に所在する富士山の湧水を起源とする
池である。16世紀前後、湧玉池は浅間大社により道者が身を清
める場と位置づけられたとされ、同時期の絵図や旅行記でその様
子が確認できる。この水垢離は1920〜30年代まで行われた
。現在でも湧水を聖なる水として利用する人が多くいる。法的保
護、修理・整備の経緯1907年に本殿が古社寺保存法の下に特
別保護建造物に指定された。1923〜26年に本殿・拝殿・楼
門等の補修が行われた。1929年の国宝保存法制定に伴い、本
殿は国宝とされた。1933〜34年に楼門の修理を行った。1
936年に袖廊・廻廊を附した。1950年の文化財保護法制定
に伴い、本殿は重要文化財とされた。1951〜52年、197
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683 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 11:12:51.44 ID:55THIflI
に名勝として指定される予定。B1.富士山本宮浅間大社説明社
記によれば806年に、富士山により近い遥拝所であった山宮浅
間神社から現在の地に移転されたことを起源とする神社で、古く
から富士山南麓地域の中心的神社であった。現在全国に約130
0社ある浅間神社の総本宮であり、広く信仰されている。創建当
初は遥拝のための施設であったが、15世紀ごろ登拝が盛んにな
るにつれて、富士山本宮浅間大社は村山浅間神社(興法寺)とと
もに大宮・村山口登山道の基点となり、宿坊が周辺に建設された
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684 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 11:19:35.38 ID:55THIflI
は1940年代まで継続された。また、村山の修験者の影響を受
けた地域では現在でもその宗教行事が継続されている。法的保護
、修理・整備の経緯2001年から2003年にかけて富士宮市
教育委員会により発掘を含む調査が行われた。文化財保護法の下
に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。B4.
須山浅間神社説明須山口登山道の起点として遅くとも1524年
には存在していた神社である。1707年、宝永噴火により社殿
は登山道も含め大きな被害を受け、現在の社殿は1823年に再
建されたものである。神社は村山浅間神社(興法寺)の修験者と
も関わりを持ち、1940年頃まで境内で修行の一環としての祈
祷が行われていた。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の
下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。14
B5.富士浅間神社(須走浅間神社)説明社伝では807年に社
16世紀には地元支配者(武田氏)の保護を受け、山頂部の散銭
取得権の一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火で崩壊し
1718年に再建された。この後もこの際の部材を使用し、20
09年の修理も含め何回かの修理がおこなわれている。神社には
富士講道者が多く立ち寄り、20世紀前半を中心に登拝回数の達
成(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約80基造営した。
法的保護、修理・整備の経緯2006年に社殿が小山町の有形文
化財となる。2009年に本殿・参道の修理が行われた。文化財
保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予
定。B6.河口浅間神社説明古くから富士山に関わる祭祀は南麓
の浅間神社が執り行っていたが、864〜866年に北麓で起こ
った噴火を契機に、北麓にも浅間神社が建てられることとなった
。それが、富士山を望む河口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかっ
た河口浅間神社である可能性が高い。浅間神社を中心とした河口
の地は、甲府盆地から続く官道の宿駅という役割に加え、富士登
拝が大衆化した中世後半から御師集落として発展を遂げた。しか
し、江戸における富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛
により、河口の御師集落としての機能は、19世紀以降衰退して
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685 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 11:27:21.24 ID:55THIflI
しまった。ただし、河口浅間神社は、現在も富士山と密接に結び
ついた宗教行事を行っており、歴史的背景と相俟って、富士山信
仰を語る上で欠かすことのできない資産である。法的保護、修理
・整備の経緯文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山
として指定される予定。B7.冨士御室浅間神社説明冨士御室浅
間神社は、8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえた
のが最初とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文
献もある。富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二
合目、御室浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点とし
て役行者堂が整備されたようである。山中という厳しい条件の下
に所在するためたびたび破損し、1189、1275、1475
、1525年と加修され、1564には地元領主による大修理が
行われている。現在の本殿は1612年建立と認められ、その後
4年には里宮の地にそのままの形で移設された。里宮は、二合目
の本宮(もとみや)が冬季の参拝に苦渋するために河口湖畔に建
てられたとされる。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点と
して位置づけられる二合目の本宮と、土地の産土神としての里宮
が一体となって機能してきた神社である。法的保護、修理・整備
の経緯1973〜74年に吉田口登山道二合目にあった本殿が里
宮の地に移築された。151985年に移築された二合目本殿が
文化財保護法の下に重要文化財に指定された。文化財保護法の下
に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。B8.
御師住宅説明御師は、道者に宿や食事を始め登拝のための一切の
世話をするとともに、登拝の指導や祈祷を行うことを業とした。
富士山御師として代表的なのは、吉田口登山道の起点である北口
本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に沿って大規模な
集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多くは短冊状をな
し、表通りに面して引き込み路を設け、敷地を流れる水路の奥に
住宅兼宿坊の建物が建っている。玄関から奥へ客室が続き、最奥
部には神殿が設けられている。1768年に建てられ最古の部類
に数えられる旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建て
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686 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 11:34:35.02 ID:55THIflI
られ富士講最盛期の御師住宅の典型例とされる小佐野家住宅が代
表的である。1861年に新築された小佐野家住宅同様、富士講
の流行に伴い増加する宿泊者に対応するため、旧外川家住宅では
1860年代に離座敷が増築された。法的保護、修理・整備の経
緯1976年に小佐野家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に
指定された。1979年に小佐野家住宅の屋根の修理等が行われ
た。1996〜98年に小佐野家住宅の腐敗修理等が行われた。
旧外川家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定される予定
。B9.山中湖B10.河口湖説明富士山の火山活動によって形
成された堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海
巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷川角行の水行か
らいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたのが前述の
3つの湖とこの山中湖及び河口湖である。この巡礼行為について
、具体的に湖沼のどこで修行や巡礼が執り行われたか、またどの
ルートを辿って各湖を巡ったかは、定まっていなかった(少なく
とも、明らかになっていない)ものの、人々の信仰心を駆り立て
た湖沼の水そのものを核心として、周辺地域も含めた範囲が文化
財とされている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆ
かりが深い。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下に名
による八つの湧水地で、それぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関
わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れ
を祓った。長谷川角行が行った富士八海修行になぞらえ「富士御
手洗(みてらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、
1843年に富士講道者によって再興されたとされる。法的保護
、修理・整備の経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下
に天然紀念物に指定された。16B12.船津胎内樹型説明16
17年長谷川角行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指
定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと考えられる)を
発見し、浅間明神を祀った。1673年には富士講道者によって
現船津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の
際に、樹型に入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間
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688 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 11:41:18.89 ID:55THIflI
に宗教的な意義付けが行われるとともに、奥には富士講にとって
の富士山の祭神である木花開耶姫などが祀られている。法的保護
、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下
に天然紀念物に指定された。B13.吉田胎内樹型説明1892
年に富士道者によって整備された「お胎内」である。富士講講徒
は、昼までに御師の家に着き、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士
山に登山した。本穴については、古くから冨士山北口御師団が管
理している。法的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝
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689 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 11:48:40.00 ID:55THIflI
天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定された。B14.人穴
富士講遺跡説明富士講の開祖長谷川(藤原)角行が修行したとさ
れる溶岩洞窟の人穴と富士講信者による約230基の碑塔群が残
る遺跡である。「吾妻鏡」では人穴探検の様子が描かれ、「浅間
大菩薩の御在所」とみられていたとされている。この内容は遅く
とも1603年までに、浅間大菩薩の霊験譚として説話化され、
その存在が広く知られていた。富士講関連の文書によれば人穴は
16世紀から17世紀にかけ、長谷川角行が修行により浅間大菩
薩(富士講では仙元大日神とする)の啓示を得た場であり、入滅
した場だとしている。また、角行は人穴を「浄土(浄土門)」と
述べ、これらの結果人穴には熱心な富士講信者が参詣し、修行を
行う者も見られた。また、信者は人穴への分骨埋葬などを望み、
墓碑、供養碑、記念碑などを建立した。1942年付近が軍用地
年神社は現在地に復興されたが、冨士講自体が衰退したことで参
詣者はみられるものの1964年以降碑塔の建設は行われていな
い。法的保護、修理・整備の経緯1999年に富士宮市の史跡と
なる。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として
指定される予定。B15.白糸ノ滝説明富士山の湧水を起源とす
る数百の流れを持つ滝である。滝の名前は湧水(日平均15〜1
6万?)の噴出が数百条の白糸が垂れているように見えることを
その起源とする。17白糸ノ滝は富士講関連の文書によれば長谷
川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地とされ、富士講
を中心とした人々の巡礼・修行の場となった。また、景勝地とし
ても有名であり、和歌・絵画の題材にもなっている。法的保護、
修理・整備の経緯1936年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に
名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原説明三保松原は
、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「羽衣」の舞台となった。
15〜16世紀以降富士山を描く際の典型的な構図に含まれる景
勝地として数多く描かれ、歌川広重等の作品をはじめ海外にも広
く知られている(又は海外に影響を与えた)芸術作品の視点場、
又は舞台となった場所のひとつである。法的保護、修理・整備の
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690 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 11:55:27.78 ID:55THIflI
経緯1922年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に指定さ
れた。18b)歴史と発展山容の形成富士山の原型は、40〜1
0万年前、周辺の火山とともに活動をはじめ、先小御岳火山が形
成された。その後これを覆うように標高約2500mの小御岳火
山が形成された。さらに約10万年前、そのふもとに古富士火山
が誕生し、爆発的噴火、火山礫・火山灰の噴出、山体崩壊を繰り
返し、小御岳火山をほぼ山体に納める形で3000mを超える火
山に成長した。約1万年前には大量の溶岩を噴出する形で現在の
富士山(新富士火山)が成長を始め、古富士山を覆いつくし、約
5600〜3500年前に現在の規模となった。繰り返された溶
岩の流出によって何層にもわたる溶岩層が形成され、その先端部
には山体への降水を起源とする湧水が各溶岩層の隙間より湧出す
る形で各所に形成された。富士山北麓においてはこれらの湧水や
降水が北側の山地との間の低地にたまり、湖や湿地が形成された
。また、溶岩層の中には数多くの風穴、溶岩樹型が形成された。
山頂からの噴火は2200年前の噴火を最後に起こっていないが
、歴史時代になっても北西〜南東方向に連なる側火山からの噴火
を続け、1200年前から後には少なくとも800〜802年、

年、1435〜1436年、1511年、1707年の九つの時
期の噴火が確認されている。神々しい山容と「鎮爆」このような
噴火や溶岩の流出を繰り返す富士山は恐ろしくかつ神秘的な山と
考えられたために、古くから遥拝の対象であったが、日本におけ
る古代国家の統治システムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰り
返す噴火を鎮めるため、富士山そのものあるいは富士山に鎮座す
る神を浅間神として祀るようにもなり、各地に遥拝所としての浅
間神社が建立され、国家の宗教政策の一端に位置づけられるよう
になった。また、富士山の神々しく秀麗な姿と周辺の自然環境が
芸術の対象とされるようになり、日本最古の歌集である『万葉集
』(8世紀半ば)や日本最古の物語とされる『竹取物語』(9世
紀後半)をはじめとして、数多くの和歌・物語など文学の題材と
なったほか、現存最古となる『聖徳太子絵伝』(11世紀制作)
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694 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 12:04:14.07 ID:55THIflI
をはじめ、数多くの絵画作品の題材として取り上げられるように
なった(表参照)。特に12世紀後半以降、日本の政治的中心が
京都から鎌倉に移動し、この二つの都市を結び富士山南麓を通る
街道の交通量が増加したことで、富士山の情報は多くの人に記録
され、広く知られるようになった。修験道―日本古来の山岳信仰
と外来宗教の習合―また、12世紀頃より噴火活動が沈静化した
ことで富士山は日本古来の山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が
習合した「修験道」の道場ともなり、修験者が山中に分け入り、
霊力を獲得するために修行する山へと変化していった。当時一般
的であった神仏習合思想(本地垂迹説)により、山頂部は仏の世
界(又は仏が神の形となって現れる場所)として認識され、山頂
部に至ることが重要な意味を持つようになった。この結果15〜
16世紀には登拝する山として一般に広く知られ、修験者に引率
された武家・庶民等による信仰登山が盛んになった。登山口の設
置はいずれも室町時代のことで、14世紀から15世紀後半に開
かれたとされている。このころには参詣の道者のための宿坊もで
衆化―富士講―17世紀前半、約150年にわたる日本国内での
戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治安が安定し経19済的な発
展もあってより多くの人が富士山を目指すようになった。このよ
うな中で18世紀後半、16世紀に富士山体や周辺の風穴などで
修行し、宗教的覚醒を得た長谷川角行から始まったとされる富士
信仰が江戸(現在の東京)を中心に「富士講」と呼ばれる信仰集
団を形成して大いに盛んになり、より多くの人々が登拝するよう
になった。富士講や他の登拝者(合わせて「道者」という。)は
原則として固定的・継続的関係を持った「御師(宿坊を経営する
神職)」の家や宿坊に宿泊し、祈祷や宗教的指導を受け、湧水で
水垢離をとり、浅間神社に参拝した後、頂上を目指した。登山道
には茶屋や山小屋が建てられ、多くの登拝者の活動を支える施設
が体系的に整備されたのもこの頃である。また、富士講において
は長谷川角行ら指導者の言動にならって周辺の風穴や湖沼・滝な
ども修行の地とされ、ここにおいて富士山と周辺の宗教施設・霊
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697 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 12:12:48.17 ID:55THIflI
地・巡礼地は庶民の信仰の場として定着し、山の結界が開放され
る二ヶ月間に年平均1万〜2万人の人々が信仰を目的とした登山
を行うようになった。芸術作品の多様化とジャポニスム芸術面に
おいても、とりわけ江戸時代(17〜19世紀半ば)には、文学
、絵画、工芸、庭園等のモチーフとして多岐にわたって取り上げ
られ、三保松原と富士山を描いた絵画など多様な表現が追究され
るようになった。(表参照)特に、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」
に代表される浮世絵の数々は、西洋の画家たちに文化的衝撃を与
えた。19世紀後半には「ジャポニスム」という芸術上の画期的
な転機を惹き起こし、印象派の作品に影響を与えるとともに、そ
れてきたのである。日本を訪れた外国人が富士山からインスピレ
ーションを得て記述した紀行文の中でも、富士山のアイコン的側
面を綴ったものが多い。近世以前も富士山は日本一有名な山であ
ったが、19世紀後半の開国によって日本が近代国家としての体
制を整えるにつれて、日本を代表する山から日本を象徴する山へ
と変貌した。廃仏毀釈と登山の利便性向上19世紀半ばより、明
治政府を中心に行われた日本の近代化・西欧化政策は富士山にも
影響を与えた。政府が神仏分離や修験道禁止の方針を打ち出した
ことや、これを契機に発生した廃仏毀釈の運動により、仏教的施
設は神道系の施設に再編されたが、1872年の(信仰の山にお
ける)女人禁制解禁の影響もあり富士山への登拝は継続ないし拡
大した。19世紀末以降の鉄道・自動車道の開通も、登山者の利
便性を格段に向上させた。南麓へは1889年に東海道線が開通
し、北麓へは1900年前後に馬車鉄道と中央線が開通したこと
によって、東京からの登山がさらに活発になった。自動車道とし
ては、1929年に北口本宮冨士浅間神社から馬返(標高145
0m)まで自動車専用道路が開削され、1937年には大型バス
による輸送も始まった。第二次大戦以降、日本の価値観や経済状
況の変化により、富士山への登山は信仰を中心としたものから、
富士山への憧れを主な動機とするものに変化した。また、196
4年に中腹までの自動車道として、北麓の富士山スバルラインが
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699 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 12:19:46.12 ID:55THIflI
、1970年に南麓の富士山スカイラインが開通し、これ以降、
中腹(標高2300〜2400m)を起点とした登山が主流にな
った。この結果富士山への登山者は急増し、年平均20万〜30
万人に達するに至った(2007年からはさらに増加し年間35
万〜43万人)。これらの登山者の行動様式の中には富士山への
信仰の核心が受け継がれており、加えて、現代的な富士山信仰の
形態として、静岡県の柿田川のように、新たに富士山との関わり
が明らかになったことが、環境保護活動の活性化につながった例
などがある。最近の保全の歴史20富士山体は文化財としては、
1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法により、山麓の幅広い地
域が名勝に仮指定された。これとほぼ同じ範囲は、1936年に
自然公園法により国立公園の一部として指定され、現在も保全の
対象となっている。さらに、第二次世界大戦後の1952年には
一部の登山道などが名勝として(同年、特別名勝として)指定さ
れ、1966年には指定区域を拡大した。山梨県は1978年(
のち、1999年及び2006年に改定)、静岡県は2006年
に「特別名勝富士山」の保存管理計画を策定し、適切な保存と活
用を図っている。周辺の浅間神社や御師住宅の近代以前の修理や
保存の状況は2bで述べたところだが、それらを含めた富士山に
関わる記念工作物・建造物群・遺跡は、1907年以降、古社寺
保存法(1897年〜1929年)、(国宝保存法(1929年
〜1950年))、史蹟名勝天然紀念物保存法(1919年〜1
950年)、文化財保護法(1950年〜現在)により、名勝、
特別天然記念物又は天然記念物、重要文化財、史跡等として指定
され、文化財ごとに保存管理計画が策定されており、それぞれの
価値が最もよく表れる時代の状態が保たれるように細心の注意が
払われている。、また、周辺に位置する個々の文化財は、「包括
的保存管理計画」によって、富士山体も含めた統一的な保存・管
理が行われている。21表富士山の美術(1)日本古来の伝統様
式によるもの(国宝重要文化財)指定所在作品名形式時代(年代
)説明東京国立博物館聖徳太子絵伝屏風1069現在最古の富士
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703 :底名無し沼さん[sage]:2017/09/17(日) 12:25:44.08 ID:55THIflI
山。聖徳太子が馬で富士山を越える物語の状景。神奈川清浄光寺
外一遍聖絵絵巻1299一遍が全国遍歴の途中、富士川に入水す
る往生者を見送る背後に富士山。兵庫・真光寺遊行上人縁起絵絵
巻1323他阿上人が全国遍歴の途中、甲斐の御坂峠を越えて河
口に進む背後に富士山。大阪・久保惣記念美術館伊勢物語絵巻絵
巻14世紀伊勢物語現存最古の絵巻。第九段物語の主人が富士山
麓を進む場面。東京国立博物館月次風俗図のうち小屏風15世紀
十二月風俗図の一場面。鎌倉初期に行われた富士山麓の巻狩を題
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