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461 :名無しさん[sage]:2019/11/05(火) 00:13:09.73 ID:44NWwujR - >>460
沖縄土人は【ウソ】をアイデンティティとして、自分たちの凶悪戦争犯罪や、 自分達が「日本一の国粋主義県・沖縄」と言われた軍国主義県だったことを、 ひたすらウソをついて誤魔化すことだけが【琉球スピリット】だもんな ■日本兵を騙して殺戮した沖縄人 http://wildhorse-depot.seesaa.net/article/87610228.html さて、自分のことも云わなければなりませんが、米軍が本部半島や今帰仁に上陸すると同時に、 本部村と今帰仁村の村民は米軍によって全て今の名護市、もとの久志村に収容されました。 故に久志村に行った人々は飢えてましたが、今帰仁や本部は無人の村となり、芋をはじめとする 食べ物が沢山ありましたので、私達は久志村の山を越えて、四、五日おきに本部や今帰仁の畑に 芋掘りに行ってましたが、久志村の山では南部から生き延びてきた日本の敗残兵が四、五人ずつ グループをつくり200人近くいました。私達が歩いていると、飢えた日本兵がよく「芋を下さい」 と云って私達少年に頭を下げてきました。 ある日のこと、元学校の先生が、「山には日本兵がいるでしょう。その日本兵にこの手紙を渡 して下さい」と私達四、五人の少年が手紙を預りました。手紙の内容はよく分かりませんでした が、私達は本部に芋掘りに行く時に、途中の山に立て籠もっている日本兵に渡したのです。 その翌朝、午前三時頃、激しい機関銃の音がするので、夜が明けてから行ってみると、きのう 私達が手紙を渡した日本兵です。後で知ったことですが、私達に手紙をことづけた元学校の 先生は手紙に「食べ物はあるから村まで取りにお出で」というような内容を書いていたようです。 翌朝、自分達がきのう手紙を渡した日本兵が田圃の中で死んでいました。昭和二十一年の秋で した。沖縄は年に二度米が取れますが、二回目の稲が青々と茂ってましたので、秋だと私は思っ てます。 沖縄人は物欲しさに、山に隠れている日本兵をおびき寄せ、米軍に狙い撃ちさせ、そのご褒美 に食べ物を貰った人達も沢山います。私もその一人です。だがそのような沖縄戦記を書く人は 沖縄には居ません。だが私は『沖縄戦語り歩き』という本に書いてます。私が一番今でも悲しい 思いをしているのは、四、五十人の村人が大きな壕に避難してました。一番奥には学校の先生 や村の有志達が一番安全な所に坐り、子供達やお年寄りは弾除けのように壕の入口に坐っている 訳です。そのようにして犠牲になった子供やお年寄りが沢山います。
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