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名無しさん
琉球王国の歴史其の5 [無断転載禁止]©2ch.net

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琉球王国の歴史其の5 [無断転載禁止]©2ch.net
54 :名無しさん[sage]:2017/01/14(土) 23:14:46.69 ID:zqGby9De
貧しさから世界に出稼ぎに出た沖縄の歴史 最初の移民は1899年、ハワイへ

 沖縄から移民を送り出していた“移民の父”當山久三により、沖縄県最初の移民が1899年12月、ハワイに旅立ちました。
時期は本土から約15年遅れたものの、次第に移民数は増え、1905年には1620人が移民。世界に出て行った人々の数は全国比で12%余、25年には2606人、全国比で約24%を占めるほどになりました。

 移民が始まった1899年から1903年にかけて、県内で土地を集団で共有する土地制度「地割制」が崩れて、土地の所有権が確立されました。
人々は土地を売って海外渡航費を捻出できたことも移民の増加を後押し。先駆移民からの呼び寄せ、徴兵忌避などの動機もあったといいます。

 当時、沖縄の人々の暮らしは貧しく、出稼ぎなど経済的な理由で移民が盛んになりました。県も、人口過多や移民先からの送金による経済振興を期待し、移民政策を推進しました。

 行き先地はハワイから南米のペルーやブラジル、東南アジアのフィリピンやシンガポールなどへと広がりました。移民らはサトウキビ畑やコーヒー農園などで過酷な重労働を課せられました。
さらに本土出身移民者との間には言葉や習慣の違いもあり、ハワイでは「沖縄ケンケン豚カウカウ=沖縄人は豚を飼って食べる」(カウカウはハワイ語で食べるの意)と差別的な言葉を投げられる者もいたといいます。

 一方で、ウチナーンチュたちは世界各地で市町村人会をつくったり、「頼母子(たのもし)」と呼ばれた模合などで助け合い、過酷な移民地での生活基盤を築いていきました。

 郷里を思う気持ちは戦争で荒廃した沖縄の地の戦後復興にもつながりました。日本と敵対する国に移民した1、2世は戦時中、厳しい立場に置かれましたが、戦後は衣類や食糧、種豚などを送る救済運動が各地で広がっていきました。

 戦後は移民も再開し、80年からは南米の県系人らが日本に戻り、出稼ぎする流れも生まれました。

 リーダーとなるウチナーンチュも多く、2014年には県系3世のデービッド・イゲ氏が全米初の県系知事となり、話題になりました
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/67640
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55 :名無しさん[sage]:2017/01/14(土) 23:16:56.24 ID:zqGby9De
舜天伝説
舜天王は、源為朝の子という伝説がある。
保元の乱で敗れ、伊豆大島に流刑になっていた源為朝は、密かに大島を脱出した。ところが、運悪く荒らしにあい漂流してしまい。運を天にまかせて流れ着いたところが琉球、今帰仁で、その地を「運天」と名付けた。
そこから南部に移り住み大里按司の妹と結婚。源為朝は妻子を残しヤマトに旅立った。

その子供が舜天王となった伝説。

もちろん、伝説にすぎない。運天の古い名称は「くもけな」で、牧港も「まひみなと」とよばれていた。

これは島津侵略を受け、幕府下におかれた王朝がヤマト文化の受け入れを体系化しなければならず日琉同祖論を伝説をもって受け入れた。

舜天を源為朝の子とする伝説は、1605年に袋中上人が「琉球神道記」に記されており、江戸時代前期から本土や民間に広まっている。
また、舜天を琉球最初の国王とする資料も16世紀には見られる。

江戸時代に「椿説弓張月」に源為朝の琉球落ちが描かれると、この伝説は全国に爆発的に知られるようになった。


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