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4 :名無しさん[sage]:2016/06/25(土) 16:44:26.99 ID:ff2D9hlp - ■琉球王朝の歴史 古文献
舜天(しゅんてん、1166年 - 1237年)は、舜天王統の開祖とされる琉球国王。 在位1187年 - 1237年。神号は尊敦。実在を証明する同時代史料は存在しないが、その名は16世紀頃から見られ、『中山世鑑』(1655年)や『中山世譜』(1701年)といった正史では、初代琉球国王と位置づけられている。 舜天の名自体は、国王頌徳碑(石門之東之碑文)(1522年)や浦添城の前の碑文(1597年)にすでに見られ、16世紀には実在の王と考えられていたことが分かるが、より詳しい経歴は、1650年に編纂された琉球王国の正史『中山世鑑』に見ることができる。 それによると、沖縄本島には天帝の遣いとして下界に下った神・アマミキヨの子に始まる天孫氏と呼ばれる王統が25代続いた。この後、臣下によって天孫氏が滅ぼされ、国が乱れていたときに善政を敷き、天下を統一したのが浦添の按司であった舜天とされている。 王統は舜馬順煕・義本と3代にわたって続き、1259年に英祖に王位を譲ったとされている。 『中山世鑑』や『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、舜天は保元の乱で日本を追われた源為朝の子であるという。 保元の乱で為朝は伊豆に流刑となったが、その途上、船が嵐に遭い、沖縄本島の今帰仁に漂着して豪族となった、というものである。 『中山世鑑』における記述では為朝が上陸した地の豪族大里按司の妹と結婚し、生まれた子を尊敦(後の舜天)と名付ける。 尊敦は15歳で浦添按司となり、天孫氏25世の在位で謀反を起こし中山王に就いた利勇を討ち、22歳の時に諸侯の推挙を受けて中山王となった。 これが舜天と伝えられる。この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。これが真実であるとすれば、舜天と鎌倉幕府を起こした源頼朝は従兄弟同士ということにもなる。 『球陽』所載の伝説によれば、舜天は右鬢に角のような瘤があり、それを隠すために右側に髷を結い、人々もそれに倣ったという。これが琉球人の髪型、欹髻(かたかしら)のはじまりとされる
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