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460 :自夜[osage]:2011/10/01(土) 02:22:57.25 ID:kpjZdGvA0 - >>446のネタの人さん
海(あま)の神格化は航海の歴史抜きには語れないかな、って思いますですね 航海の歴史は農耕の歴史より遥かに古いですからね (日本みたいな島国とか南北アメリカ大陸とか寒冷時代に陸続きになってたから移住できた って説は今ではほぼ否定されているのは問題ないですよね) 太古の歴史を語る上で、海の存在は避けて通れないわけでして、 農耕そのものが長期の航海を可能にするために開発されたという説もあるくらいです (農耕のない時代、つまり生肉と草くらいしかない時代、今で言う海峡と言えども どうやって航海できたのだろうかというのは人類の広がりを考える上で大きな謎の ひとつなんですが、一般にはあんまり認識されていないですかね ついでに言うと、農耕が始まった初期の頃は、とても住民がその穀物で生きていけるほどの 収穫量はなかった訳ですが、それでもせっせと古来からのエネルギー源である「原(はるorはら)」 を「田畑(はた)」に変えて穀物を生産するようになったのは何故か 穀物が富を産むんではなく、交易が富を産むのであり、その交易のために(人の保存可能糧食として) 穀物が必要であったと考える方がより当時のエネルギー収支を説明出来ると思いますが どうでしょうかね) をっと、括弧の中の方が多いぞぉ・・・・つづく
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461 :自夜[osage]:2011/10/01(土) 02:24:33.33 ID:kpjZdGvA0 - んで、つづき
陸で人が死ぬと埋めます(まぁ、後世では火葬もありますが) 海で人が死ぬと流します まぁ、太古から現代に世界的に続いている風習ですかね 近年では水葬せずに冷凍保存して陸上に埋めたり火葬するのも広く行われていますが、それはさておいて 陸で埋めたものは基本的に動きません、ずっとそこに居ます うっかり掘り起こしてしまうと生きている頃とは全く異なる姿で顕れてくれたりします 海に流したものは、だいたいどっかに逝ってくれます 残るのは美しい思い出だけ・・・そうかな? 実は簡単には逝ってくれません 裸体のままでも梱包してもそうですが、だいたい船の後流渦のせいで、2〜3日は船の跡を憑いてくるんです (人力船でも風力船でも動力船でもあんまり変わりません だから大航海時代以降は重しをつけて水葬するようになったんですけどね) でも、いずれどっかに逝ってくれます このへんの自然現象が陸地あるいは海域での死者に対する想いの違いになったんじゃないかなぁ〜って思ったりしますけどね
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463 :自夜[osage]:2011/10/01(土) 02:38:33.93 ID:kpjZdGvA0 - >>453のDoWさん
実は大東亜戦争(っていうか、第二次世界大戦ですかね、日本に限った話じゃないですから)は 幽霊さん話の宝庫だったりしますです (戦争起因の幽霊さん話、ではなく、戦争中に起こった幽霊さん話の話です) いじめられた新兵さんが自決した所だっていういわく付きの場所がある学校は まだ多く残っているでしょうかね 陸軍さんの場合は恨み系の幽霊さん話が日本に限らず多いようですが、 陸軍さん海軍さんに限らず、先に戦死した方々が道案内してくれたとか、声援を送ってくれたとか そういう話がけっこう多くありますですね(儂は幽霊なんぞ信じてはおらんが、と言って語ってくれるのがお約束と言えば、お約束なんですがね) 中には中隊ごと全滅(俗に言う3割全滅でなく、本当に全員戦死)したはずなのに、 毎晩死んだ中隊長が引率して飯を食いに来る話のように、毒にも薬にもならない話もありますけどね (朝昼は自炊してたんでしょうかね、その幽霊中隊は) 大東亜戦争後の足を引っ張る幽霊さん話は・・・・・・やっぱり単なる文化なんじゃないでしょうかね
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464 :自夜[osage]:2011/10/01(土) 02:46:05.50 ID:kpjZdGvA0 - >>462のDoWさん
交易品としての「人」の話は幽霊さんがらみとしては薄いのかなという気がしますので スレ違いかなと気が引けますが 「クリッパー」 言わずと知れた快速帆船のことで、痛みやすい茶や羊毛を迅速に運ぶために開発されたとかなんとか 解説書には記載されていますが 最も痛みやすく、そして占有容積の割には比較的軽い当時の有力交易品(なまもの)を運ぶため でしょうねぇ
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467 :自夜[osage]:2011/10/01(土) 03:29:14.44 ID:kpjZdGvA0 - えっと、>>460と>>461の補足になりますかね
「やま」と「あま」は現代では対比する存在のように思われていますが、 もともとは「あま」で生きるためになくてはならぬものが「やま」なのです 簡単にいうと、いい船を造るのにはいい木が必要ですよ、ということなんですけどね 従って、海の民は基本的に山の民なんですが、それはさておいて、 「あま」に対する言葉は「むら」ですかね 今でいうと海と陸ってことになりますか そして農耕以前は「むら」に必要なエネルギーは「はらorはる」から得られていました だいたい一集落(20〜50人くらいですかね)を養うのに半径5kmくらいの「はらorはる」が 必要だったようで、だから後世農耕を行うようになっても主要な集落(くに)の間隔は 5〜20kmくらいであり、三国志魏書東夷伝倭人の条の記述とも合致しているわけなんですが あ、これ、日本の新石器時代から歴史時代への話ですです 日本以外の新石器時代は農耕とセットになってるんで多少事情は異なりますです で、つづく で、つづき
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468 :自夜[osage]:2011/10/01(土) 03:32:18.32 ID:kpjZdGvA0 - で、つづき(ってのを>>467でも入れてますですね、失敗です、ミスです、どうせおっちょこちょいです)
で、おそらく「あま」の都合で始められた農耕です(もちろん大陸からの移民の影響込みの話です)が、 農耕のために、それまで生肉と草を提供してくれていた「はらorはる」を田畑に変えなければならなくなる ではそれまで「はるorはら」が供給してくれていた生肉と草はあきらめるか・・・そうはできない なんせ初期の農耕は全住民の腹を満たしてくれるほどの収穫はないわけですからね (エネルギー供給量は増えていますが、農耕のための人口増はそれを上回るわけですから まぁ、保存の利く糧食のためにあえて効率の悪い方法を採用したとでもいいますか) そこで生肉と草(ついでに実)を「やま」に求めることになります ここで「やま」における船の原材料供給という神聖な場と、生肉と草と実を得るための 汚れの場という矛盾が発生することになり、この矛盾を精神的に解消するために始められたのが 「やま」での祭であり、それが神道の原型となるわけです 確かに神道はアニミズムの形をよく残していると評されていますし、「やま」での祭りが行われる前は アイヌのイオマンテ(熊送り)のような「むら」で行われるアニミズムの儀式そのものであったと 思いますが、「やま」で祭りを行いだしたことで、祭祀としての神道の独自性が生じたと理解するわけです 「やま」そのものが神格化するのは更に後の話ですかね(もっともっとややこしい要因が加わりますけどね) まぁ、私見といえば、私見になりますけど ね
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472 :自夜[osage]:2011/10/01(土) 04:07:51.12 ID:kpjZdGvA0 - >>489のDoWさん
夏至・冬至・春分・秋分で二至二分、立春・立夏・立秋・立冬の四立を加えて八節ですか まぁ、現在では全て音読みで古語由来の訓でそれらをどう発音あるいは表現していたかが 伝わって居ないのが全てを物語っていると思いますですねぇ 今の神道の祭祀はだいたい農耕と強く結びついていますんで、夏祭・秋祭なんて感じで やっているようですが、猟にしろ漁にしろ節気よりもむしろ月齢の方が実際的に重要なんで、 あまり節気や節気の用語を用いた方位には関係ないと思いますですね もちろん古墳時代以降の神社や宮、都は方位を意識したというか、縁起担ぎの類ととれる ものもありますし、オカルト的にいろいろ類推するのは楽しいかもしれませんが あまり重要ではないように思えますです (古墳って、けっこういい加減な向きでできてますかね 札幌の町も請け負ったところの解釈の違いで微妙にずれているところがあるとかないとか 旧法隆寺と現法隆寺の方位の違いは何が原因でしたっけ?) つづきま〜す
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473 :自夜[osage]:2011/10/01(土) 04:09:35.73 ID:kpjZdGvA0 - づづきました〜
それ以上に興味があるのは、農耕にとっては太陽暦の方がずっと便利であり、代々の 権力は農耕を経済基盤としていたにも拘わらず、暦として何故ずっと太陰暦を使用していたか ですかね いろいろと理由は考えられるんですが、農耕上のデメリットを超えるメリットがあるとも思えないんですよ むしろ、農耕のためには暦とは別に節気という太陽暦を使用するばかりでなく、農耕由来の祭祀は この太陽暦でやってたんですからね ところで明治になってちょっとして、ようやく日本も太陽暦に切り替えたわけですが、 やっぱりその理由というのが笑いどころなんでしょうかね 経費節減の為に暦を変えますかね、普通 しかも一回しか使えない裏技・・・・・・
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487 :自夜[osage]:2011/10/01(土) 05:32:07.41 ID:kpjZdGvA0 - >>475のDoWさん
ん〜、日本に夜系の話があまり伝わって居ないのは皇祖神を太陽神としたからかなぁ〜 さて、支那からの暦導入以前の日本の暦ですか? 日本書紀の記述は支那由来の文明文化の影響が大きいですから、そういう目で記述されたと理解するのが妥当かなと思いますですね 干支はアジアでは広く使われていますが、干支でなく十二支の方ですかね、地方によって動物が違ったりします 判りやすいのが亥ですかね、本義は「核」ですが、日本とモンゴルでは猪、他の国では豚ですかね なぜに違いが生じたかを調べてみるのも面白いかもしれません つづくよん
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488 :自夜[osage]:2011/10/01(土) 05:34:44.02 ID:kpjZdGvA0 - つづきだよん
さて、日本古来の暦はどうであったか? 正確なところは判りませんですね 農耕以前の話になりますが、まぁ、太陰暦というか、月の朔望を元にした何日(何夜)の概念はあったでしょうが、 月固有の呼び名、何月とかいうのはなかったと思いますです 季節に関してはその認識は特に冬期の糧食貯蔵に重要に思えるかと思いますが、 特に暦的には認識していなかったと思われます 考えてみれば、冬の到来とか、その年の冬の厳しさなんてのは年によって大きく変動するわけですから 何月何日になったら○○をすると決めてもあまり意味はないのでしょう 秋になったら自然と木の実はなり、鮭が遡上し、それを採って干したりして冬に備えるだけです 秋の実りが少なかったり冬が厳しかったりした年は当然犠牲者も出たでしょうが、 それはそれとして受け止めていたのでしょう もちょっとつづくよん
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490 :自夜[osage]:2011/10/01(土) 05:38:17.38 ID:kpjZdGvA0 - たぶんこれでおわるよん
新年は秋、一日の始まりは夕方 新たな年が始まる、新たな一日が始まる、っていうような概念ではなく、 夏の太陽の勢いがなくなったときが一年の終わり 太陽が沈むときが一日の終わり、という概念であったようです もちろん年の概念はあるわけですから何年前とかいう概念もあるわけですが、 絶対年という概念はなかったようです 以上は私の里に伝わる口上(古神道)とかからの類推ですので、どこまで信憑性があるかは判りません 口上自体も随分と古いものだということしか伝わって居ませんので、何時の成立かも判りません 近世の創作である可能性も捨てきれませんですかね(里でこんなこと言うとはたかれますけど) あんま、参考になりませんですかね
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491 :自夜[osage]:2011/10/01(土) 05:53:11.55 ID:kpjZdGvA0 - DoWさんには補足は不要でしょうが、知らない方で興味ある方へ補足しときますね
一般には欽明15年(554)に支那の暦本が渡来したことで干支が日本に伝わったとされていますが、 隅田八幡所蔵の鏡には継体天皇の長寿を願う「癸未年」の銘文があり、西暦では503年にあたるので、 5世紀末には干支が伝わったんじゃね と考えられてますですね (稲荷山古墳出土の剣については471年説と531年説があるのでとりあえず保留) 一方、日本書紀は720年完成ですから、日本書紀編纂時は干支を使うことが常識であったと考えていいかと思いますです
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549 :自夜[osage]:2011/10/01(土) 16:50:01.02 ID:kpjZdGvA0 - >>544さん
ん〜、このスレの主旨からは外れる内容になりますが、いつかは書きたいテーマですかね その前に年表の手伝い、そしてこのスレに直結する空間での情報保持の考察、心(意識)の考察、 全体としての意思の考察を経ての、「幽霊さんホイホイ」の開発も少しは進めなくちゃ、ですかね その後で、機会があれば挑戦してみたいとは考えておりますので、 長ぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜い気持で待っていただければ嬉しいですぅ〜
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