- どんどん≪問わず語り5≫ドゥルーズ&ガタリ
158 :呑呑 ◆d005eGRaX2 []:2011/06/23(木) 01:24:46.99 ID:0NwRugtb0 - 睡眠を敬い畏れるがいい! これが第一のことである
そして よく眠れない夜に目を覚ましている者と付き合うな 眠ることは、決して容易な技ではない そのためには 日中に起きていなければならない また一日に十回も あなたは克己に努めなければならない そうすれば快い疲労が生じるが それは魂を眠らせる阿片なのである
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159 :呑呑 ◆d005eGRaX2 []:2011/06/23(木) 01:41:50.36 ID:0NwRugtb0 - ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』の中の言葉です
細かい言い回しはうろ覚えで はっきり覚えていませんけれども 岩波文庫でも新潮文庫でもだいたいこんな感じの翻訳です まあ 岩波文庫の表題は『ツァラトゥストラはこう言った』ですが…
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160 :呑呑 ◆d005eGRaX2 []:2011/06/23(木) 02:31:04.58 ID:0NwRugtb0 - 私は幼少の頃から相当に「後悔知らずのへそ曲がり」でありましたから
この『ツァラトゥストラはかく語りき』の中の言葉を読んでも 眠る事に執着して 覚醒している間の行動が歪曲してはいけないと考えていました なにしろ中学生の読書ですから 正確にニーチェの思想を理解していなかったと思います (もちろん 今もどの程度の理解しているかは怪しいのですけれど…) それでも この「睡眠を敬い云々」というのは随分ニーチェらしくないなあ…と感じたものです
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161 :呑呑 ◆d005eGRaX2 []:2011/06/23(木) 02:32:01.46 ID:0NwRugtb0 - ただ 非常に緩やかですけれども ニーチェについて思い当たってきたのは
「もしかしたらニーチェは何一つ答えは書いていないのではないか?」という事でした と言うのも それから数年経って高校生ぐらいになってからの事ですが 友人たちに「お前と話してると生きるのがバカらしくなる」と言われた事があったのです 高校生にもなると 自分の生き方・人生や将来について話をするようになります 最初は 単に自分は斜に構えて社会を見ているからそう言われるのだと思っていました
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162 :呑呑 ◆d005eGRaX2 []:2011/06/23(木) 02:42:23.59 ID:0NwRugtb0 - もう2時40分を過ぎた つづきはまた後で♪
ふふっ オレ自身が「夜に目を覚ましている者」だった
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167 :呑呑 ◆d005eGRaX2 []:2011/06/23(木) 20:33:54.42 ID:0NwRugtb0 - >>161の続きです
でもそれは自分が斜に構えているからではなく 私の言葉が聞く者の期待に沿っていないからでした 学生となって人との関りの範囲も広がり 人を指導する立場になるとその誤解はひどくなっていきました もちろん スポーツを指導するに当たっても「いつでも死ぬ気で走れ」という指導と 「いつも死ぬ気で走っていたら肝心な時に走れないぞ」という矛盾する言説を行う私に責任はありますが これは「走る行動」を示唆しているのではなく 「走るべき時の判断」の心構えを述べたつもりだったのです
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168 :呑呑 ◆d005eGRaX2 []:2011/06/23(木) 20:36:10.58 ID:0NwRugtb0 - つまり 私はスポーツにおける力の緩急の重要性を選手に説いても
選手の「私はいつ力を入れるべきでしょう?」という疑問には答えていないのです 仮に 選手に直接「私はいつ力を入れるべきでしょう?」と問われても 私は「常に時機は自分で神経を研ぎ澄まして見計らうもの」とか 「ぼんやりしていても 時が背中を押して知らせてくれる」などと相反する指導を繰り返したでしょう スポーツに「絶対にこう動く」など無いとする私と 「絶対にこう動け」という指導を要求する選手の 根本的な誤解が そこに最初から横たわっていたのです
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169 :呑呑 ◆d005eGRaX2 []:2011/06/23(木) 20:38:13.95 ID:0NwRugtb0 - 「真理に絶対は無い」と言う私と 「真理は常に誤謬である」と言うニーチェに
何かしら共通項があるという凡庸なまとめ方をここではしません 実際にニーチェと私の思想は大きな隔たりがあります というより ニーチェ自体が誰にも似ていない思想なのです ただ 形式的に「行動に関しては何も答えていない」という事で同じなのかな…と それで 私がニーチェにしたような誤解を 私の周囲の人も私にしたのではないか? まあ非常に曖昧ですが このような思いに至ったわけです
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175 :呑呑 ◆d005eGRaX2 []:2011/06/23(木) 22:33:42.92 ID:0NwRugtb0 - それで話は変わりますが 最近はこのような「文体」がお気に入りなのです
それでも「まあ気分でやってるだけだろう」と思われるのは早計です 実は ある民俗学の講演会の録音を文章に起こす作業をしていたら ついつい こんな文章に嵌まってしまったのです(笑) 「遊んでいるようでも それなり仕事はしていたのですね」(大笑い)
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176 :呑呑 ◆d005eGRaX2 []:2011/06/23(木) 22:35:09.26 ID:0NwRugtb0 - もう飽きたけどな♪
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178 :呑呑 ◆d005eGRaX2 []:2011/06/23(木) 23:01:38.84 ID:0NwRugtb0 - >>170
確かに マルクスの「ヘーゲル法哲学批判序説」という論文に「宗教上の不幸は一つには現世の不幸の表現であり 一つには現実の不幸にたいする抗議である 宗教は、悩めるもののため息であり…民衆の阿片(あへん)である」という表現があります マルクスを支持し擁護する人は「圧政や貧困に苦しめられている民衆にとって 宗教が慰めの役割を果たしていることを 当時 鎮痛剤としても使われていたアヘンになぞらえたものです」と言って宗教を批判するものではないと言いますが 私は一概にそうは言えないのではと考えています 常識的に言ってもアヘンの麻薬としての側面を考慮しない言説は不自然ですし 文脈的にも一時的な慰めによって 本質的な問題点の解決が妨げられるなら その弊害の方が大きいと考えるのが普通だからです
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179 :呑呑 ◆d005eGRaX2 []:2011/06/23(木) 23:03:02.53 ID:0NwRugtb0 - あれれ 飽きてない
ていうか 文体が元に戻らない どうしよう♪
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