- ■□■幽霊は本当にいるのか110(いないのか)■□■
264 :本当にあった怖い名無し[]:2011/01/10(月) 05:47:33 ID:OQmQAlvB0 - このすれは何かの残骸?w
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18 :考え中[]:2011/01/10(月) 05:50:23 ID:OQmQAlvB0 - >>1 乙かれ〜
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19 :考え中[]:2011/01/10(月) 05:55:53 ID:OQmQAlvB0 - 今再び同じ論題。
幽霊なるものが死後死んだ人間の思考力を引き継ぐ存在 と定義するなら、それは科学的に再現しうる。別の構造で 今ある脳機能を再現することは、技術的な問題こそあれ 論理的問題は存在しない。すなわち、その定義による幽霊は 「存在しうる」「存在して問題ない」でFAなのだ。 それが幽霊ではない、というのなら、幽霊とは何か 否定派にも肯定派にも問おう。
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113 :考え中[]:2011/01/10(月) 11:59:56 ID:OQmQAlvB0 - テクノロジーによって再現された脳機能と人格が
「死後生前の人間の人格を後継するもの」という条件を満たしているにも かかわらず、それを幽霊と認められない人の理由はなにか。そこには覆い隠されている さらなる条件があるからではないか。肯定派だろうが、否定派だろうが同じである。 それを言い出せない理由があるだろう。でもそれを認めないことには 君らは求めている答えを得ることは(議論しうることは)無い。
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124 :考え中[]:2011/01/10(月) 13:32:54 ID:OQmQAlvB0 - さて再びこの論題。
不死なるものは生きることができない。生きるとは必滅であると同義である。 仮に永遠なるものが目の前にあったとしよう。それは永遠であるがゆえに 一切の変化をゆるされない。素粒子に至るまで静止し、ガラスに封入された 標本のように、そこにあり続けるだけだ。 変化は死を意味する。それと同時に変化することによって活動し、生きられる。 生きるとは一瞬前のそれ自身を殺して、別の形に生まれ変わることの連続で成り立ち 死の連続の総称が生きている、活動しているということなのである。
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131 :考え中[]:2011/01/10(月) 13:42:52 ID:OQmQAlvB0 - 先の論題である、テクノロジーによる幽霊の作成、再現とともに考えて見よう。
そもそも生きて活動し続けることは死の連続、断続された一瞬の集積でしかない。 だとすれば、断続をもってそれが別のものと考えるのは、単に知覚されるスケールでの 思い込みに過ぎない。生きて活動しているものには、何一つ連続なものは存在しない。 自分で決めた「意味性」があるだけなのだ。 君らの求める答えはここにある。
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138 :考え中[]:2011/01/10(月) 13:53:09 ID:OQmQAlvB0 - >>135
必ずここに落ちてくる。これが分かれば、十分「成仏」できるだろう。 終点のひとつの形だ。そして見る方向が違うだけで、終点はひとつしかない。
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169 :考え中[]:2011/01/10(月) 18:24:07 ID:OQmQAlvB0 - 知識が不足している人間に、神秘性はかってについてくるでしょう。
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178 :考え中[]:2011/01/10(月) 18:44:37 ID:OQmQAlvB0 - 神秘性で埋めようとしている部分が、すなわち知識の不足分であると考えられる。
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182 :考え中[]:2011/01/10(月) 18:53:55 ID:OQmQAlvB0 - 先の論題のように仕組みが解明されてなくても、原則的に変わらない
ことからの論理的考察で求めている答えを得ることは可能だ。 現象を深く追求することに長けていることと、自分の存在に関して 納得できる答えを見出すこととは違うスキルかもしれませんね。
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186 :考え中[]:2011/01/10(月) 19:00:47 ID:OQmQAlvB0 - 失敗だと思うから失敗。定理としての失敗などはない。
誤った方向も定理ではない。 誤ったと思わない限り誤っていないのである。 失敗したと思わない限り失敗ではないのである。
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