- 学校の「体育」の授業って必要あんの?
33 :運動神経名無しさん[]:2012/05/13(日) 03:40:59.52 ID:5+c0uw9q - >>26-29
体育が「スポーツ選手」や「軍人」といったプロの育成に役に立たない、というのは体育が不要である決定的理由ではないと思う。 国語や算数の授業も、作家や文学者、数学者育成に役に立っているか、といったら必ずしもそうでないと思う。 体育の授業が不要であると断言できる決定的理由は、 基本的な体の動かし方、技術を教えることが全くないからである。 「基礎教育」に相当することを全く行っていないのである。 国語や算数を受ける生徒全てが、作家や文学者、数学者といったプロやスペシャリストを目指すわけではない。目指さないの人の方が多いと思う。 作家や文学者、数学者育成に役に立つ教育を行っているとも思わない。 でも、国語や算数の基礎教育は十分に役に立っているのである。 国語教育があるおかげで、文盲はほぼゼロだし、 (国語教育が行われていない、アフリカや中国の一部では文盲が存在する) 算数教育があるおかげで、九九が出来ない、という人はほぼゼロだ。 しかし、体育の1年から6年の過程でサッカーや鉄棒に九九の授業を超える時間を割いているにも関わらず 逆上がりやリフティングが出来ない人が多数存在する。 それもそのはず。 見本を見せて、あとはやって見ろというだけ。正しい筋肉の動かし方・技術等は全く教えない。 算数で例えれば、ドリルとその回答を生徒に配ってあとは自分で解いて、自分で答え合わせしてね、というのと同じ。 先生は生徒が教室から逃げ出さないのを監視する以外は他のことをしている。 どういう過程で解くことが出来るかは、質問にきても絶対に教えない。 そんなことを算数でやったら確実にPTA・教育委員会で槍玉に挙げられる。 でも、体育ではごく普通にまかり通る。 体育の授業では、うまく出来るようになるための指針・コツを全く示さず生徒のセンスのみに任せる。 そして、うまくできなかったら晒し者、笑いものにされる。 国語や算数の成績をトップからビリまで公開するのはほとんどが中高一貫校を中心とした一流進学校だ。 でも、体育はそれを全ての学校で小学校から行う。 こういう"教育"だけは「一流」なのである。 結局のところ、体育の授業の存在意義は @(基本的な体の動かし方、技術を教わらずとも出来る)体育の出来るのある子が、体育が出来ない子に対し能力を誇示すること。 A体育が出来ない子を、みんなの前で確実に晒し上げること。 の2点なのである。 これが、「教育」といえるのか、体育の授業が「教育課程」として必要なのか、 結論は言うまでもない。
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34 :33です。一部訂正[sage]:2012/05/13(日) 03:47:55.05 ID:5+c0uw9q - >>26-29
体育が「スポーツ選手」や「軍人」といったプロの育成に役に立たない、というのは体育が不要である決定的理由ではないと思う。 国語や算数の授業も、作家や文学者、数学者育成に役に立っているか、といったら必ずしもそうでないと思う。 体育の授業が不要であると断言できる決定的理由は、 基本的な体の動かし方、技術を教えることが全くないからである。 「基礎教育」に相当することを全く行っていないのである。 国語や算数を受ける生徒全てが、作家や文学者、数学者といったプロやスペシャリストを目指すわけではない。目指さないの人の方が多いと思う。 作家や文学者、数学者育成に役に立つ教育を行っているとも思わない。 でも、国語や算数の基礎教育は十分に役に立っているのである。 国語教育があるおかげで、文盲はほぼゼロだし、 (国語教育が行われていない、アフリカや中国の一部では文盲が存在する) 算数教育があるおかげで、九九が出来ない、という人はほぼゼロだ。 しかし、体育の1年から6年の過程でサッカーや鉄棒に九九の授業を超える時間を割いているにも関わらず 逆上がりやリフティングが出来ない人が多数存在する。 それもそのはず。 見本を見せて、あとはやって見ろというだけ。正しい筋肉の動かし方・技術等は全く教えない。 算数で例えれば、ドリルとその回答を生徒に配ってあとは自分で解いて、自分で答え合わせしてね、というのと同じ。 先生は生徒が教室から逃げ出さないのを監視する以外は他のことをしている。 どういう過程で解くことが出来るかは、質問にきても絶対に教えない。 そんなことを算数でやったら確実にPTA・教育委員会で槍玉に挙げられる。 でも、体育ではごく普通にまかり通る。 体育の授業では、うまく出来るようになるための指針・コツを全く示さず生徒のセンスのみに任せる。 そして、うまくできなかったら晒し者、笑いものにされる。 国語や算数の成績をトップからビリまで公開するのはほとんどが中高一貫校を中心とした一流進学校だ。 でも、体育はそれを全ての学校で小学校から行う。 こういう"教育"だけは「一流」なのである。 結局のところ、体育の授業の存在意義は @(基本的な体の動かし方、技術を教わらずとも出来る)体育の出来る生徒が、体育が出来ない生徒に対し能力を誇示すること。 A体育が出来ない生徒を、みんなの前で確実に晒し上げること。 の2点なのである。 これが、「教育」といえるのか、体育の授業が「教育課程」として必要なのか、 結論は言うまでもない。
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35 :34:体育の授業が運動能力低下を招き、運動音痴を作る原因[age]:2012/05/13(日) 05:05:09.74 ID:5+c0uw9q - 私が体育の授業が不要だと感じるのは運動が嫌いだからではない。
体育の授業が、運動能力の向上に役に立たないどころか、 『体育の授業が運動能力低下を招き、運動音痴を作る原因』となっているからだ。 体育の授業で運動能力の向上、改善の指針が示されることは全くなかった。 ただ闇雲にやれというだけだ。 そして30才を過ぎて、運動に関する情報を知って愕然とした。 私は、1年くらい前までは体育の授業は、運動能力を向上させるために役に立っていると思っていた。 そして、運動部に入って3年間続けたにもかかわらず 運動音痴が改善されなかったのは生まれつきの個人差のために尽きるだと思っていた。 それが見事に裏切られたのである。 運動音痴の原因の一つが「体育の授業を受けたこと」だったからである。 体育の授業で運動に関する知識を全く教えないどころか 誤った知識を教えているのである。 例えば球技が上達するためには、 体幹の意識・筋肉の連動性・体重移動が重要だそうだ。 体育の授業では、体幹の「た」の文字も出てこなかった。 あと、うまく動くためには筋肉をリラックスさせる必要があるそうだが、 体育の授業では、もっと気張れと、もっと手に力を入れろと 筋肉を硬直させ、一点に力を入れることを指導する。 リラックスしてはいけない、連動して動くべきでないと教えるのだ。 太っていないのにお腹が出ているのは、 大腰筋(だいようきん)というインナーマッスルを鍛える必要があるが 体育の授業では、ただ走ればいい、運動すればいいなどとあいまいなことしか教えない。 海の中に10円玉を投げ込んで、金属探知機もなくくまなく探せと言っているのと同じ。 インナーマッスルなる言葉は30歳をすぎて初めて知った。 運動部に入って、文化部の子よりも運動しているのに、お腹が出ているために運動していない、運動不足だからだといわれた。 準備体操のストレッチは、 体育の授業では、「ストレッチ中踏ん張って呼吸を止めるのがいい」と教わったが 実際は、自然な呼吸で行うべきであるそうだ。 全く逆のことを教えられたのである。 算数で、「1+1=3」と、真顔で教える先生がいれば即問題になり、クビになる。 でも、体育の授業では運動に関する誤った知識をごく普通に教えている。 スポーツジムなどに通い、本を読んで運動に関する知識を知れば知る程、 体育の授業が有害無益なものであると痛感するのである。
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38 :34[]:2012/05/13(日) 15:46:37.51 ID:5+c0uw9q - >>32
うちの中学の運動部の一部の奴ら(特にバスケ部)は 体育の授業の時は、わざと力抜いてやってたよ。 体力を温存することで 本業(部活)で力を発揮して、顧問や先輩の前でいいところ見せてレギュラーを取りたかったからじゃないかな。 でも、今思うと、 体育の授業が運動能力の向上に役に立たないことを、本能的に感じ取っていたからかもしれないな。
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