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日曜8時の名無しさん
【2021年大河ドラマ】青天を衝け PART12

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【2021年大河ドラマ】青天を衝け PART12
41 :日曜8時の名無しさん[]:2021/02/28(日) 09:57:55.95 ID:3CbJ4v1H
前スレで264が平岡円四郎の養父の出世の話を紹介していたが、調べてみたら「八十里越」の記録が見つかり、面白かったので
紹介する。

「八十里越」は、新潟県三条市(旧下田村)から福島県只見町に至る県境部分を指し、古来は越後と会津の交易の街道として往来が盛んだったが、あまりの険しさゆえ実際は八里しかないが一里が十里にも感じられたことからこの名がついたと言われている。

以下のまとめはすべて
三条遺跡物語 https://www.city.sanjo.niigata.jp/material/files/group/12/sanjoisekimonogatarihatizyuri21-32.pdf
からの情報。

<大改修までのいきさつ>
1 天明3(1783)年の浅間山の大噴火による降灰は、 関東や東北地方に大凶作をもたらし、未曾有の大飢饉となった。
2 奥会津地方でも天明4年正月までに2千人以上もの餓死者が出たため、救済の手当金で越後米1千俵を買入れ、八十里越で運び込むこととなった。
3 牛馬の往来ができない難路のため人足の背負いで運ばれ、約400俵 が人足賃などの経費にあてられ、600俵余りが村々に配分された。
4 しかし越後からの救援米が八十里越を越えたことの意義は大きく、命をつなぐ重要な街道として奥会津の人々に再認識された。
5 天明の飢饉から50年ほど経た天保4(1833)年と7年に再び奥会津地方を大飢饉がおそった。
6 この時の移送も背負子によるもので、牛馬が往来できる道に改修するよう奥会津の人々は切望した。
7 天保3年には幕府に目安箱が設置され、奥会津から「八十里越は難所のため輸送の駄賃が高く、諸物が高いものとなっている。特に塩は新潟で買入れ、津川(阿賀町)から野沢(福島県西会津町)を経由して運ぶため高値となり困っている。平坦で距離も短い蒲生村(只見町)と大谷村(三条市)を結ぶ新道を開削したい。」 と申し入れたが実現しなかった。 
8 奥会津地方は南山御蔵入領として長く会津藩の預り支配地となっていたが、天保8(1837)年に幕府代官による直支配に替わった。
9 天保9年8月には再び凶作と なり飢饉の様相が現れたため、奥会津地方の黒谷組など4組の代表は連名して「会津伊南伊北郷より八十里越開発願書」を田島代官所に出した。
10 この時の田島代官は、越後水原代官と兼務する平岡文次郎だった。
(つづく)
【2021年大河ドラマ】青天を衝け PART12
43 :日曜8時の名無しさん[]:2021/02/28(日) 09:58:37.58 ID:3CbJ4v1H
(つづき 1)
11 平岡は前任地で信濃川通船を開通させた手腕を買われ、奥会津地方の南山御蔵入領を復興させるため、幕府が送り込んだ代官だった。
12 平岡は南山御蔵入領の全村を回り民情調査を行い、飢餓の被害の改善には八十里越の開鑿が最良策であると確信した。
13 平岡は兼務していた水原代官所管内の福島潟開拓を請負った市島徳次郎・佐藤伊左衛門ほか水原十三人衆と呼ばれた大地主や豪商たち に八十里越開鑿の重要性を説き、献金を要請した。
14 実現が難しいと思える工事計画に一人も応じる者はいなかった。
15 しかし平岡の窮民を救いたいという切なる願いに、豪商の佐藤伊左衛門の分家の佐藤友右衛門が千両、市島次郎吉が二百両を献金することを申し出た。
16 資金の見通しがつき、平岡は天保13(1842)年3月に工事目論見書を作成し、伺書とともに幕府勘定方に提出した。
17 老中水野越前守から「御下知書」が下り、八十里越の天保の大改修が始められることになった。  
18 天保13年7月、平岡は武蔵・下総の代官として転出したが、「八十里越切り開き御用掛り」に任ぜられ、引き続き八十里越の改修を担った。
19 普請は天保14年8月に開始した。
20 工事区間は、村松藩領(吉ヶ平村)、幕領会津藩預所(南魚沼市)、幕領田島代官所(福島県只見町)の3区間に分かれ同時に行われた。
21 幕領は地元で工事費を負担できないので佐藤友右衛門、市島次郎吉の献金千二百両で賄われた。村松藩領は手伝い普請という形で、森町組・長沢組・鹿峠組の三ヶ組が費用のほとんどを拠出した。
(つづく)
【2021年大河ドラマ】青天を衝け PART12
47 :日曜8時の名無しさん[]:2021/02/28(日) 10:01:25.49 ID:3CbJ4v1H
(つづき 2)
<工事経過>
6月22日 森町組村々の代表が大庄屋所に集められ、普請の説明
7月26日 三組代表が御所平まで普請場所を見分
8月 6日 森町組で会合を開き、各村々の人足割を決定し、工事の仕方を指示
8月 7日  黒鍬頭取、村方代表が登山し、番杭打ち、縄張り作業
8月13日 平岡文次郎が吉ヶ平に到着
8月14日 鍬はじめ
8月15日 普請総掛かり
8月17日 早水村分普請終了
8月18日 森町、濁沢、永島、笠堀、長崎村分普請終了
8月19日 大谷地、中野、遅場、田屋、南五百川村分普請終了
8月20日 大谷、庭月村分普請終了
8月21日 荒沢、名下村分普請終了
8月23日 牛ノ尾村分普請終了
8月24日 塩野渕村分普請終了
8月27日 吉ヶ平、棚鱗村分普請終了
8月28日 葎谷、北五百川、栗山、鹿峠、長沢村分普請終了
9月 7日  普請役の梶山と、平岡文次郎手代の皆川が検分下見(道幅狭く、2間幅にするよう指示)
9月13日 手直しに三組が登山
9月19日 手直し総仕上げ
閏9月1日 普請検分役小笠原信助が八十里越検分

その後、田島(福島県南会津町)では馬市が開かれ、1日に90頭もの馬が越えるようになったり、
社寺参詣の女性が8年間で1000人近くも通ったり、男性では商人の往来のほか、日光参詣や
大工などの職人、百姓などが出稼ぎに行ったものもあったという記録があり、八十里越えの
大改修は大きな経済効果をもたらした。
(つづく)
【2021年大河ドラマ】青天を衝け PART12
50 :日曜8時の名無しさん[]:2021/02/28(日) 10:05:05.12 ID:3CbJ4v1H
(つづき 3)
<八十里越を通った旅人の記録>

(1) 
江戸時代後期、庶民の間でも社寺参詣などが盛んになり、奥会津の人々も伊勢参りなどに
出掛け、その旅日記が残されている。
黒谷組石伏村(福島県只見町)目黒多平治が記した旅日記「伊勢道中記」によれば、
多平治は、只見、田子倉などの村々からの23人で、文久4(1864)年1月13日に
伊勢参りに出発し、まずは日光東照宮を参詣する。その後、江戸へは寄らず、中山道に
出て大井宿(岐阜県恵那市)まで進み、2月12日に伊勢に到着した。外宮、内宮などを
参詣し無事にお伊勢参りを終えた後、そのまま帰路にはつかず、奈良、高野山、大坂、
四国の金比羅様、姫路、京などを廻って物見遊山の旅を楽しみ、3月20日に京を離れ、
中山道を塩尻宿(長野県塩尻市)まで戻り、松本を抜けて善光寺(長野市)に参詣した。
3月30日には越後国に入り、北国街道を北上し、高田(上越市)、柏崎、寺泊を経て、
弥彦に着き、弥彦神社を参詣した。その後4月5日に三条町に着き、旅籠「会津屋」で
一晩し翌6日には、遅場で一泊し、7日には最後の難所八十里越を「山越」して、奥会津に
帰村した。約80日間の長旅だった。

(2) 
1868年(慶応4年)、京都近郊の鳥羽伏見で同盟軍(東軍)と新政府軍(西軍)が衝突し、
火蓋を切った戊辰戦争は、関東、東北、北海道へ広がる中で、現在の新潟県においても
「北越戊辰戦争」と呼ばれる激しい戦いがあった。特に軍事総督、河井継之助率いる
長岡藩は、同盟軍としておよそ3か月にもわたる熾烈な攻防戦により新政府軍を脅かし、
その戦いぶりは後世にまで語り継がれている。
「八十里 こしぬけ武士の 越す峠」
という句は、重傷を負った継之助が担架に乗せられ峠を越える時に、悪路に揺られながら
詠んだ自嘲の句として知られている。

以上、三条遺跡物語 https://www.city.sanjo.niigata.jp/material/files/group/12/sanjoisekimonogatarihatizyuri21-32.pdf
(つづく)
【2021年大河ドラマ】青天を衝け PART12
51 :日曜8時の名無しさん[]:2021/02/28(日) 10:06:08.21 ID:3CbJ4v1H
(つづき 4)

<現代の八十里越>
八十里越は今どうなっているのか。歴史好き山好きのライターが峠越えに挑んだ記録。
写真多く実際に歩いた気分になれる。ところどころに石積みの形跡が見られ、天保の大改修跡か。
とにかく大変な難所なことが一目瞭然。

八十里越 たそがれオヤジの 越す峠https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-2089737.html

(つづく)
【2021年大河ドラマ】青天を衝け PART12
52 :日曜8時の名無しさん[]:2021/02/28(日) 10:07:18.35 ID:3CbJ4v1H
(つづき 5 まとめ)

驚いたこと
1 飢饉により八十里越の重要性が気づかれてから工事着手まで60年もかかった。
2 飢饉の救済米1000俵のうち、400俵が運賃にかかってしまう。(それほど難所)
3 目安箱が置かれなければ、八十里越も奥会津の窮乏も幕府に伝わらなかったかもしれない。
4 有能な官僚を適地に赴任させる幕府。(困難な仕事は左遷ではない)
5 誰も振り向きもしない難工事を、奥会津の窮乏民を救いたいという熱意で説得してしまう官僚。
6 直接自分に見返りがないのに、事業の意味に動かされて大金を寄付する豪商。
7 困難だと思われていた工事なのに、本工事2週間、手直し1週間で完成してしまう。
8 2000人も餓死者を出した地域なのに、幕末に80日間もの豪遊に20人以上参加した。
9 1864年といえば前年に下関戦争、薩英戦争と外国相手の戦争があり、その前の1862年には坂下門外の変、
皇女和宮降嫁、寺田屋事件、京都守護職に松平容保、生麦事件など京都も江戸もきな臭い。こんな時期に
80日も国内旅行を楽しんだ人達がいた。
10 モータリーゼーションは近道より平坦なコースを選んだ。

うずもれてしまった歴史に光を当て、偉業を伝える三条遺跡物語の筆者に感謝。
歴史好きの登山家にも。前スレ264投稿者にも。

長文お付き合いいただき、ありがとうございました。
【2021年大河ドラマ】青天を衝け PART12
94 :日曜8時の名無しさん[]:2021/02/28(日) 14:18:53.64 ID:3CbJ4v1H
武士の出世について

平岡円四郎の実父(岡本忠次郎)に触れた記録

<続徳川実紀>
矢部余に謂て曰く「足下は川路三左衛門に親しきよし、川路または岡本忠次郎(岡本忠次郎正成、
のち近江守)などいえるものは元来勘定所より出身せり。勘定所は人々才力を以て出身する場合ゆえ、
川路、岡本何れもその跡立派なり、某(それがし)は元来三百俵の御番士よりカクまでに立身したるは
才力にあらず、みな賄賂を以て致したることにて、大方のあざけりもあらんと思うなり」と語れる風情
サスガに取飾なく、かつは英雄の気象ありけるゆえ、彪(藤田東湖)答えけるは、「イカにも老兄と
川路らとは出処同じからざるゆえ、出身の相違もあるべく、賄賂を以て出身するは元より誉むべきことに
あらざれども、ここに一つの説あり、全く自家の腴を欲し富貴逸楽を希わんとて賄賂を行うもあり、
また恬憺(てんたん)無為にせば終身聞こゆる無きのみならず、上のために心力を尽くすこともなし得ず、
サラバ少く道を枉ても当路へ出、国家のために力を尽くし名をも後世にあげまほしきにて、自ら進んで
求むる人もあるべし、この二人は跡同じうして志異なりというべし」と申しければ、矢部も欣然として
喜びけり。・・」

http://onjweb.com/combakumaz/TP/TP12/TP1212/a12_1221.htm
 
(つづく)
【2021年大河ドラマ】青天を衝け PART12
95 :日曜8時の名無しさん[]:2021/02/28(日) 14:20:15.45 ID:3CbJ4v1H
(つづき1)
意訳

矢部*1
「あなたは川路三左衛門*2と親しいそうだが、川路や岡本忠次郎は勘定所の出身だ。
勘定所は能力のあるものが採用される部署なので、川路も岡本もその後の業績が立派だ。
私が三百俵の番士*3から南町奉行まで出世したのは能力ではなく、みな賄賂によるものだったから
さぞかし人々が笑っているだろうと思う。」
(と話す様子が取り繕うところがなく、堂々とした様子だったので)
藤田東湖*4
「確かにあなたと川路等とはコースが違ったから出世の仕方も違うかもしれない。賄賂を使うのは
褒めたことではないが、考え方にもよる。自分が豊かになり安楽に暮らせることを願って賄賂を贈る
場合もある。また、無欲で何もしないでいたら名も残さず世のために尽くす仕事もできない、
それならば少し道を曲げてでも出世コースへ出て、世のために尽くし後の世に名を残したいと願い、
賄賂を贈る場合もあるだろう。この二者はやることは同じでも志が違う。」
(と答えたので矢部は喜んだ。)
【2021年大河ドラマ】青天を衝け PART12
96 :日曜8時の名無しさん[]:2021/02/28(日) 14:21:35.53 ID:3CbJ4v1H
(つづき2)

脚注

*1 南町奉行 矢部定謙
天保2年(1831年)堺奉行、天保4年(1833年)大坂西町奉行。
天保12年(1841年)に江戸南町奉行に任じられたが、江戸幕府の老中水野忠邦と対立し罷免された。
矢部の主張は「江戸の物価は大坂が握っている。株仲間を解散すると大坂に商品が入らなくなり、
大坂の問屋は価格を上げざるを得ず、結局は物価高騰につながる」というもので、後に正しさが
証明された。

*2 川路 聖謨
豊後国日田に、日田代官所属吏・内藤吉兵衛歳由の長男として生まれた。
父・吉兵衛は江戸に出て御家人株を入手し、幕府徒歩組に編入された。文化9年(1812年9
弥吉は12歳で小普請組の川路三佐衛門光房の養子となる。文化14年(1817年)勘定奉行所の下級吏員
資格試験である筆算吟味に及第。文政元年(1818年)に勘定奉行所支配勘定出役という下級幕吏に
採用され、支配勘定を経て御勘定に昇進、旗本となる。(以後略)

*3 番士
幕府の役職の手当は、旗本の出世の振り出しと言われた「五番方」だと、いわゆる兵の「番士」が
100俵〜300俵、指揮を執る「番頭」が1,000石〜5,000石と規定されていた。
「番方」とは、幕府における軍事に関する役職の総称で、事務職は「役方」と言われていた。
番方は言わば、戦時における将軍の親衛隊、幕臣はここに入ること(御番入)が出世街道のスタートだった。
「大番」「書院番」「小姓組」は各番あたり50名程度×10組、「新番」「小十人組」は20名程度×10組
およそ2,000人の中に入れるか否か、そしてここから実績をあげ、旗本は泰平の世の出世を目指していった。
大岡忠相も25歳で書院番、田沼意次は16歳で西の丸小姓、長谷川平蔵は30歳で西の丸書院番からスタートした。 

https://setaroku.exblog.jp/24545157/


*4 藤田東湖 
先祖は常陸国那珂郡飯田村の百姓。曽祖父・与左衛門の代に水戸城下に移り、商家に奉公してのれん分けを
許され店を開いた。祖父・与右衛門(言徳)は水戸城下の奈良屋町で屋号「藤田屋」という古着屋を営んで
いたが、学問を好んだ。その次男が東湖の父・幽谷で、幼少時より学才高く神童とうたわれ、立原翠軒の
私塾に入門した。さらに彰考館の館員となって頭角を現し、水戸藩士分に列した。(以後略)
【2021年大河ドラマ】青天を衝け PART12
101 :日曜8時の名無しさん[]:2021/02/28(日) 14:33:25.38 ID:3CbJ4v1H
つくづく武士は大変だと思う。
世のため人のために尽くすため、厳しい昇進試験を通り抜け、身を立て、名をあげ、
励みに励んでも、意見の合わない上司と対立すれば罷免。切腹。憤死。暗殺。
もったいないなあ。(泣)
【2021年大河ドラマ】青天を衝け PART12
565 :日曜8時の名無しさん[]:2021/02/28(日) 22:39:24.57 ID:3CbJ4v1H
>>433
ニシンから油などを搾った残り。
北前船で蝦夷から大阪に運び、米作の肥料に使った。
小樽の博物館で北前船の特集をしていて、ニシン肥料は
米作りのほかに、藍栽培に必須の肥料だったと紹介していた。


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