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日曜8時の名無しさん
【2013年大河ドラマ】八重の桜 Part58

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【2013年大河ドラマ】八重の桜 Part58
716 :日曜8時の名無しさん[]:2013/05/22(水) 19:22:44.96 ID:DlP1PMAX
歴史に詳しくない私は、単純に判官びいきで会津藩が好きでした。
ところが先日、歴史に詳しい知人から以下のような側面もあったと聞き愕然としました。
会津藩は幕末の最後の段階で政策を誤り、不義不忠?をして京都守護職のときの栄光を自ら汚した。
会津藩は薩長土のような広い視野を持っておらず、世界の現実や日本の将来が見えていなかった。
会津藩は長年、領民に対して差別意識が高く過酷な施策を採っていたので、領民から恨みを買っており、
会津戦争直後には領民から同情されなかったどころか政府軍を歓迎した領民が反藩政の一揆を起した。
政府軍は一揆側の要求をことごとく容れた民主的な善政を敷いた。
戦死者の遺体放置の件は、会津側だけでなく政府軍側のそれも同様だった。
戦後の遺体処理の件は、それを取り仕切ったのは村役人や他の東北諸藩の役人たちで、
薩長は誰も参加していないし関与していなかった。以前から藩当局や藩士たちに恨みを
抱いていた領民による仕打ちの結果だった。(これは私には意味不明)
戦後、新政府、特に薩摩は会津に同情的で、改易することなく減封・転封処分で済ませた。
また、会津藩の優秀な人材は新政府が重く用いた。普通なら会津藩がしてきたことは、
藩主切腹、お家断絶、藩は取り潰しが当たり前だったのに。
これが本当なら、けっして会津藩が全て正しわけではなく、むしろ薩長のほうに分があることになります。
【2013年大河ドラマ】八重の桜 Part58
718 :日曜8時の名無しさん[]:2013/05/22(水) 19:25:10.64 ID:DlP1PMAX
会津藩は世の中の流れが読めずに、それに逆らったということですね。
利発な西国諸藩と固陋で愚鈍な東北諸藩ということですね。地理的特性なのか風土性なのか教養の違いなのか。
容保は、せっかく孝明天皇から御宸翰を賜るほど活躍したのに、増長したのでしょうか?見苦しいですね。
それに、領民から恨まれていたということは、為政者として失格ですね。
そういえば武士団ができて以降戦国時代ぐらいまでは、負けた場合、トップの者が家臣の助命と引き替え
に自害するのは当たり前のことでしたね。それがいつからか逆になり、第一次・第二次長州征伐や戊辰戦争
などでは、家臣(家老)が藩主を救うために罪を背負って自害するようになっています。なら、藩主って、
権利だけあって責任は取らなくてもよい都合良い存在になります。そんな甘えた考えでは、本当の治世や
忠義なんてできっこありませんよ。
官軍のある幹部が会津藩の降伏の使者に対して、「本当に降伏し謝罪する気があるのなら、容保の首を
持ってくるのが筋だ」と言ったそうですが、まさにその通りですね。
やらなくてもよい戦争を無駄にやって、しかも天皇(官軍)に弓を引いて、家臣を大勢死なせ、
17歳前後の白虎隊士もたくさん死んで、領民に迷惑をかけ、それで家老一人に切腹させて責任を
取らせ、自分は天下りで日光東照宮の宮司におさまってのうのうと生き延びる容保ってホント酷い大名だったのですね。
現在の会津市の人たちや会津ファンの人たちは、そういう真実の歴史を知っているのでしょうか?
【2013年大河ドラマ】八重の桜 Part58
719 :日曜8時の名無しさん[]:2013/05/22(水) 19:28:44.23 ID:DlP1PMAX
会津の搾取ぶりを聞いていた旧幕領の庄屋達は、それぞれの代官達にこれまで通り代官所による統治の据え置きを望み、
代官に会津による支配に反対する建白書を出す事になる。「会津は、奥州若松から七、八十里も離れた魚沼の村々を
守ってくれるとは思えない。越後が戦闘になったら小千谷・小出島・蒲原郡酒屋などの陣屋を焼き払って
会津口を固めるため撤兵するとのことだ。その上、預地となれば調達金や夫役を課せられ
私どもの村々は立ち行かなくなるだろう」以上がその建白の内容だが、いざ北越戦争が始まると
越後の領民が危惧した通り、越後の民衆は会津兵の蛮行に苦しめられること事になるのである。
(十日町市史通史編3)

尚、桑名と高田に対しても支配に対する反対の建白書を出されているが、米沢に対してだけは
その支配に対する反対の建白書が出されていないのが興味深い。
会津の支配に抵抗した庄屋達に対し、四月五日に会津小千谷陣屋から、出雲崎代官領に
「これ以上代官領の引渡しを拒むならば軍勢を差し向ける」との恫喝がされた為、
遂に代官領の領民達も恫喝に屈して、会津藩の支配を受け入れる事になるのである。
他の旧幕領も同じような経緯で、四月には会津による旧幕領の制圧は終わった模様である。
(津南町史通史編)

会津は慢性的な戦費不足から、近視眼的に進駐した各地で民衆から搾取・略奪を始めるのであった。
旧幕領を接収した会津兵がまず行ったのは、戦費調達の為に各村々への御用金の名の元での搾取だった。
この会津の御用金の割当は旧幕領の各地に及び、旧水原代官領での千唐仁村十八両、浮村一五七両
野田新田十八両を始め、前述の小千谷陣屋領での割り当てや、後述する新潟町での御用金の取りたて等
枚挙にいとまがない。
(水原町編年史第一巻)

またこのような組織だった徴発だけではなく、個人の会津兵による略奪も多発した模様である。
初期においては新潟町で強盗を働いた会津兵数人が町民によって捕らえられて処刑されたなどした。
(新潟市史通紙編3)

武器を持ち民衆を恫喝する会津兵や衝鋒隊の兵士達に民衆は次第に手も足も出せなくなる。
「会津勢、妙法寺山中に篭もり居り、度々村里へ出、百姓共へ無心申し掛け、或いは乱暴等いたし候」
(新潟県の百年と民衆 戊辰戦争と民衆 溝口敏麿)


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