- 【話題】日本を牛耳る「田布施システム」とは…山口県の小さな町が日本を影で支配している?★4 ©2ch.net
924 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 05:47:25.12 ID:HNpPiPJU0 - 今こそ、日本人は維新の真実を知るべき。明治の原動力になった長州や薩摩は日本の朝鮮化した地域だったんだよ。
実は、明治維新自体が、イギリスがロシアと対抗するために朝鮮人を操って 実行したクーデターだった。 まず、薩長がイギリスと戦争して負けて藩内クーデター起きてるだろ。 イギリス人は陶器貿易で、朝鮮人が下級武士になっているのを知ってたんだよ。 そいつらを利用した。 長州は、戦国時代まえから守護や戦国大名自体からして、百済王の子孫を称する大内氏や陶氏など帰化人だらけだった。 また、毛利氏は山城国の日置族大江広元の四男李光の子孫であり、薩摩藩主の祖島津忠久は武蔵国の日置族比企禅尼の長女丹後局の子だから渡来系。薩摩の陶工の村が日置市にあるのは偶然ではない。 また、長州人は本人たちが朝鮮人の子孫と思っていたから、 安土桃山時代に朝鮮出兵した際に降伏した朝鮮人捕虜を連れて帰ってきてどんどん仕官させている。 だから、江戸時代の長州藩士も帰化人だらけ。 例えば、長州藩の御典医の「李家」は、李氏朝鮮の武臣李慶甫の子孫が御殿医として長州藩に仕えた。 子孫の李家 隆介(慶応2年8月(1866年) - 1933年7月23日)は、日本の内務官僚となり、県知事、錦鶏間祗候、下関市長となった。 下関にリトル釜山がありウォンが通用するのも当然だ。 薩摩の奴らは大久保やら鹿児島市高麗町出身がいる。 で、現在、西郷隆盛の子孫の西郷隆文は日置市で窯元を営み、鹿児島県陶業協同組合初代理事長なんだ。 信じがたいだろうけど、大久保利通や西郷隆盛の嫡男の西郷寅太郎も朝鮮出兵の時に連れてきた薩摩焼の陶工を集めた鹿児島市高麗町の出身。生家は百メートルも離れていない。 1600年代の半ばから後半には高麗町の陶工は郊外の日置市に集団移転した ことになっているが、その最後のタイミング(1680年代)で大久保の先祖も高麗町から郊外に移転している。しかし100年後後にまた高麗町に戻っている。 http://ichikikushikino-takara.net/takara/2013/05/post-18.html また、西郷も大久保も1600年代半ばに薩摩藩に先祖が仕官しているが、先祖は仕官前の数代は不明。 大久保利通の父の利世は、琉球貿易のための琉球館の通関職員だった。 薩摩は漂着を偽装した朝鮮との密貿易もしていたから朝鮮語か広東語を話せただろう。 天保13年(1842年)、この年までは高麗町に住んでいたことが、『鹿児島城下絵図散歩』で判る。後に琉球館付役に就任、琉球館内の屋敷に転居。 彼らの家系図は適当に繋いだ偽物の可能性が高い。
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927 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 05:48:36.81 ID:HNpPiPJU0 - 長州家臣で帰化人の例
李家氏 - 李家元宥の子孫、朝鮮王家流裔、禄高は浮米500石
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928 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 05:49:15.69 ID:HNpPiPJU0 - 同和やら部落やら言うのは誤解のもと。
薩摩や長州では差別はなく、郷士や庄屋だった。 ただし、薩摩や肥前では官窯として接触が遮断されていた。特に薩摩では服装や髪型、言語も幕末まで維持された。 それで、薩摩では密貿易のための通詞として活躍していた。藩校では年に二回朝鮮語のスピーチ大会していた。
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946 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 06:24:00.01 ID:HNpPiPJU0 - 朝鮮から渡来の時期については各藩によって異なっているようです。肥前では文禄年間、豊前・筑前では慶長年間に渡来したという説が有力だそうです。
薩摩にあっては、文禄の役の際に若干の者が来ているようですが、渡来陶工の大多数は慶長3年(1598)頃に渡来しているようです。 その後、陶工たちは単なる捕虜ではなく、技術者として破格の待遇を受けていたそうです。 ■ 薩摩のはじまり 陶工の上陸地、渡来数、氏名などについては諸説あって必ずしも一致していないそうです。 ここでは『江戸時代人づくり風土記㊻鹿児島』を参照しました。 慶長3年(1598)、朝鮮陶工たちは四つの地点に上陸したそうです。 1.串木野市島平に43人 2.旧東市来町神之川に10人余り 3.鹿児島市の前之浜(旧喜入町の前之浜ではありません)に20人。 この20人は、高麗町(鹿児島市)に住むようになったようです。 この中に李金光という人物がありましたが、朝鮮国王の親族ということから朝鮮へ送り帰したそうです。 4.旧加世田市小湊に数人の陶工とその家族 渡来した陶工たちに、しばらくの間援助が差し伸べられることはなく、大変な苦労をしたようです。 というのも、当時の薩摩は朝鮮出兵の後始末、庄内の乱、関ヶ原の戦後処理など問題が山積していたからでした。 それでも、串木野に上陸した43人は自活していったようです。 ■ 薩摩焼最初の窯と苗代川 串木野島平に上陸した43人は、農業のかたわら島平東方の丘陵地に「串木野窯」を開きました。 慶長4年のこと、これが薩摩焼最初の窯となるそうです。 しかし、半農半陶の生活は周辺住民との間に諍いを生むようになったそうです。 慶長10年頃、串木野窯を操業しながら、周辺で粘土や釉薬となる原料を探していました。 そうして、苗代川を新たな移住地とし、藩の保護を受けて朝鮮式の「元屋敷窯」を築いたそうです。 翌年には朴平意が庄屋となり、陶工たちの生活はしだいに安定していきました。 元和2年(1616)には、苗代川の陶工3人を琉球へ派遣して琉球焼の指導に当たらせました。琉球王尚豊が、陶工派遣方を薩摩に要請したものだそうです。 琉球へ渡ったのは張一六・安一官・安二官の3人。 このうち張一六だけは琉球に残り、名前を仲地麗伸(なかちれいしん)と改めました。 仲地は雍正8年(享保10)、新禄を賜ったそうです。 元和9年頃、朴平意の長男貞用(ていよう)は白薩摩の原料を薩摩で発見するに至りました。原料となる粘土には指宿の白土と加世田の軟弱陶石、釉に津貫(南さつま市)の京之峯石を発見、白薩摩の製造が可能となったのでした。 寛文9年頃になると、相当安定したらしく、藩は城下高麗町にいた25家族の生活を安定させるため苗代川に移住させました。ここに「五本松窯」を築かせたそうです。 寛文12年頃には、苗代川の中心となる御仮屋が設けられ、藩主島津光久公がたびたび訪れるようになったそうです。 その後、苗代川は活況にあふれるとともに人口も増えてきました。そこで藩では、宝永元年(1704)34家族160数人を鹿屋笠野原に移住させ、「笠野原窯」を築かせたそうです。 苗代川は、藩直営の窯として操業され、製陶技術の開発が進んでいったようです。 そうして白薩摩や黒薩摩のほかに染付白磁も焼いていたそうです。 これ以降も明和元年(1764)の御定式窯、弘化3年(1846)の南京窯の築造がありましたが廃藩によって保護がなくなり頓挫してしまいました。 明治にはいると玉山陶器会社という組織をつくりましたが、西南戦争に陶工たちが参加して戦死したことによって壊滅的な影響を受けてしまいました。 しかし、沈寿官や鮫島訓石、東郷寿勝などの窯から、慶応3年(1867)のパリ万国博覧会へ朴正官の大花瓶を出品。 また、明治6年(1873)のウィーン万博博覧会に沈寿官の大花瓶の出品などによって、薩摩焼は欧米で大人気を得たそうです。
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947 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 06:24:25.60 ID:HNpPiPJU0 - 田布施システムの「田布施」とフルベッキ写真を強調しすぎると誤解を生みやすいから要注意とおもう。
まず、田布施システムだけど、薩摩は田布施出身は少なくて、メインの朝鮮人集落は薩摩焼の苗代川。 本質は、薩長土肥の土佐を除くと、薩摩焼、萩焼、有田焼の焼き物産地であること。 つまり、朝鮮人集落のあること。 あと、追記すると鹿児島や佐賀の幕末産業遺跡を見るとわかるが、反射炉や化学、電気の施設のために窯業技術が基盤になっている。 朝鮮人陶工は近代化の基盤でもあった。 だから、子孫の安倍や麻生は世界遺産登録したと思うが。 また、フルベッキ写真は異論あるし、フルベッキ写真なくても、朝鮮人マイノリティ支配は証明できるからシステム議論からは、むしろ外して議論したがよい。 なんといっても薩摩の東郷外相が明確な鍵になる。
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948 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 06:25:08.42 ID:HNpPiPJU0 - 安倍は帰化人だ。
以下は韓国の雑誌から翻訳。 このような事実は金忠植(キム・チュンシク)東亜日報論説委員が最近発刊した本『悲しい列島−永遠の異邦人四百年の記録』(ヒョヒョン出版)で明かされたことで、 壬辰の乱直後の1598年日本に連行された陶工で日本の陶磁器宗家を成すまでになった 沈寿官家門の14代子孫をインタビューする過程で明らかになった。 「佐藤さんの言うことは 驚くべきことでした。私に'あなたは日本へ来てからどれくらいになりましたか'と問うので、400年近くなったと言ったら、'私たちの家門はその後に渡って来た家'というのです。 半島のどの故郷からいつ来たかは詳らかに分からないが、自分の先祖が朝鮮から渡って来て山口 に定着した、という話だったです。」 論語の述而編に出る表現という。 (中略)この揮毫から、佐藤元総理の心情を推し量ることができる。 このように見る時、岸総理と佐藤総理はもちろん安倍長官にも韓国人の血統が混じっているわけだ。 これと共に安倍長官の父親で同時に80年代4期連続日本外相を引き受けた安倍晋太郎にも韓国系が 多い山口県出身という事実は、安倍に韓国人の血が濃く流れていることを傍証する。 佐藤は彼に「言葉にせず黙々とあっていても、認めることはすべて認めて通じる」と言う意味の「黙而識之」という言葉を書いて去った。 「対韓半島タカ派の先頭走者が 韓民族後裔だなんて…」 金委員は本で 「日本総理の靖国神社参拜を積極支持するナショナリスト(国家主義者)に韓半島血統 が伝えられているということはまことに皮肉だ」と言った。 (後略) ソース(証拠の佐藤栄作の揮毫写真あり): プレシアン(韓国語)2006年5月17日 日本次期総理1順位安倍晋三は韓国系 http://megalodon.jp/2016-0805-1952-07/m.pressian.com/m/m_article.html?no=49423 http://m.pressian.com/section_view.html?no=49423
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949 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 06:26:31.39 ID:HNpPiPJU0 - 帰化人一族である岸家の真実とは?
岸家と佐藤家にまつわる余談の挿話だが、「郷里田布施の選挙戦のとき佐藤派はなんとかして岸信介にケチをつけたいと頭をひねった。 思いついたのが、土地に古くから言い伝えられていた“ガン”の故事である。 もともと岸家は悪代官の家系ではないか、とだれかが言い始めた。 というのは、毛利元就が陶晴賢と厳島沖で戦って大勝を収めた際、寝返って毛利方についた船の調達人が“ガン”と称する帰化人であったという。 周防長門を手中におさめた毛利公は、その功績によって“ガン”を田布施周辺の代官に召し立てた。 ところがこれが悪代官で、年貢はきびしく取り立てるし、女を囲う、金を貯める。 このガンの子孫こそ、ほかならぬ“岸(がん)”ではないか、というのであった。選挙戦となると、佐藤陣営はこの昔話を“岸家”にこじつけて“岸信介は悪代官の子孫だ!”と、喚きたてた。 龍太郎も最初のうちは、そうだ、そうだ、と同調していたが、しだいに照れくさくなって言わなくなった。 …考えてみると信介が岸家に養子にいったのは事実だがそれ以前に信介栄作の父佐藤秀助は岸家から佐藤家へ養子に来た男である。 栄作にも、そして龍太郎にも岸家の血が流れている。悪代官の子孫だ、と佐藤派の者が叫ぶたびにヘンな気がしてきたという。天にツバするとはこのことか。 岸家と佐藤家は、異なるようで同じく、同じようで違う。両者“悪代官”の果てかどうかは定かでないが、この挿話は両家の関係をよくあらわしている」[110]という。 引用 110] ^ 岩川隆 1984, pp. 58-59.忍魁・佐藤栄作研究 (徳間文庫)
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951 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 06:27:26.56 ID:HNpPiPJU0 - 実は明治維新は征韓論、朝鮮併合、満州建国、開戦と繋がっていた。
それは、朱子学、儒家神道などを推進し明治維新を起こした薩長の下級武士は帰化人だったからだ。 彼らは、北部中国(満州)、半島、日本にまたがる大高麗の復活を一貫して目指している。 そして、今も薩長支配は復活しつつある。麻生は大久保利通子孫。安倍は、岸の子孫。 彼らは集団的自衛権や日韓トンネルで大高麗復活を目指している。
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953 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 06:28:45.07 ID:HNpPiPJU0 - お前らは、長州と岸信介と韓国の繋がりの深さを知らんのか?
岸が満州国の設計者の1人だったのは流石に知っているだろう。 岸を含め満州の二キ三スケの三スケは長州出身だ。満州は長州支配なんだよ。 この時の満州にはクネの親父の朴 正煕が満州国の軍人としていた。また、大同学院という日本人と朝鮮人が一緒に学び満州国の官僚を育成する学校が新京あった。 満州国は、日本人と朝鮮人が、支配階級になる予定の国だったからだ。 というか、満州こそ岸や朝鮮人の発祥地だったから、満州と半島で大高麗を再建するつもりだった。 これが、大日本帝國の大陸進出の真実だ。 朴 正煕の後を継いだ大統領の崔圭夏は大同学院の卒業生。大同学院出身の朝鮮人が韓国の政治、経済、軍の基盤を作った。 昭和49年に韓国で大同学院の同窓会を初めて開いた時には、大蔵、外務、司法の長官が同窓生だったという。 この満州人脈が集まるのが善隣協会という組織。善隣協会の会長が岸。 朴 正煕はクーデター成功後、訪日し善隣協会を訪問し、「維新の志士のつもりでやる気だ」と岸に報告したという。 だから、韓国ではこのクーデター後の新憲法は「維新憲法」と名付けられた。
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954 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 06:29:12.13 ID:HNpPiPJU0 - 満州は、長州閥の支配下にあった。
特に鮎川義介・岸信介・松岡洋右の3人は満州三角同盟とも呼ばれ東條内閣を倒閣するなど、最終的には力があった。 東條は満州三角同盟が使った表向き用のコマでしかない。 弐キ参スケ(にキさんスケ、2キ3スケ)は、満州国に強い影響力を有した軍・財・官の5人の実力者のこと。 メンバー 以下の5人の実力者を指す。「弐キ参スケ」は彼らの名前の末尾からつけられた。 東條英機(とうじょう ひでキ、在満期間:1935年 - 1938年、離満前役職:関東軍参謀長) 星野直樹(ほしの なおキ、在満期間:1932年 - 1940年、離満前役職:国務院総務長官) 鮎川義介(あいかわ よしスケ、在満期間:1937年 - 1942年、満業(満州重工業開発株式会社)社長)←山口 岸信介(きし のぶスケ、在満期間:1936年 - 1939年、離満前役職:総務庁次長)←山口 松岡洋右(まつおか ようスケ、在満期間:1921年 - 1930年、1935年 - 1939年、離満前役職:満鉄総裁)←山口 第二次世界大戦終結後、5人ともA級戦犯容疑者として逮捕された。鮎川・岸の2人は不起訴となったが、東條・星野・松岡の3人は起訴された。東京裁判において、松岡は公判中に病死し、東條には死刑、星野には終身刑の判決が下った(星野は後に釈放)。 「弐キ参スケ」は、当時の満州国での実力者を並べ称したものであり、彼ら全員に同盟関係があったというわけではない。岸は東條内閣の閣僚となったが、倒閣工作を行い閣内不一致で東條内閣を退陣に追い込んでいる。 東條は表のコマの一つにすぎない。 5人のうち、鮎川義介・岸信介・松岡洋右の3人は満州三角同盟とも称された。3人共山口県周防地方の生まれ・育ちである。 姻戚関係 鮎川義介・岸信介・松岡洋右の間には姻戚関係もある。 松岡の妹の夫は、岸の母方の叔父である。岸の実弟である佐藤栄作は、叔父夫妻の長女で松岡の姪の寛子と結婚して婿養子となっている。 のちのことになるが岸の長男の妻は、鮎川の従兄の娘である。
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956 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 06:30:15.64 ID:HNpPiPJU0 - 改憲も集団的自衛権も靖国も半島まで飛べる長距離輸送機オスプレイも事故原因のオスプレイの空中給油も朝鮮戦争介入準備だよ。
安倍のゴールは朝鮮統一と日本併合だ。すべてそれを目指している。 統一教会の関係者の発言を分析すると朝鮮戦争再開は2019年予定。 日本は巻き込まれ敗戦解体される大高麗連邦となる。 予想しておく。 このレスを読んだ人は覚えて置いてほしい。 またそのために拡散して欲しい。 2019年に開戦したら統一教会と安倍が原因だ。 結局、安倍はクネともマッチポンプで問題を世界中に周知拡散しながら、統一教会の教え通りに動いている。 統一教会の教えのポイントは3つ 1 半島統一のためには戦争が必要だ。 →安保関連法で半島へ自衛隊を送る 2 日本はサタンの国として未来永劫世界から批判されなければならない。 →靖国参拝問題、軍艦島ユネスコ登録、慰安婦問題 3 サタン国家、日本の富は半島のために使われ、エバの国である日本は解体されアダムの国である半島国家に併合されるべき。 →パチンコ、北朝鮮制裁解除、(今から)韓国も入るTPP、半島統一支援、移民 文鮮明「環太平洋摂理」 韓半島が男性の生殖器ならば、日本は女性の生殖器です。 これらは一つにならざるを得ないというのです。 これらが一つになってこそ統一天下の時代が来るのです。 それで、韓国を「アダム国家」、日本を「エバ国家」と言うのです。 文鮮明 「環太平洋摂理」 http://books.google....mp;pg=PA326&lpg= PA326&dq=%E7%92%B0%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%91%82%E7%90%86%E3%80%80%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%80%80&source=bl&ots=yNG6ld0mQC&sig=IEyXtKdDdEyL0Wy3Hg_Dxo3pNMk&hl= ja&sa=X&ei=N-LaU96dB9Lj8AXru4CoCA&ved=0CBwQ6AEwAA#v=onepage&q&f=false P273 アダムとエバが一つにならなければなりません。 アダム国家が兄、エバ国家が妹でしょう。 P283 日本の経済投入し南北を統一しなければ、日本は滅びるのです。
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958 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 06:31:17.12 ID:HNpPiPJU0 - 国政介入:崔順実氏と統一教会系「世界日報」の奇妙な関係
2016/10/28 09:33 ドイツに滞在中の崔順実(チェ・スンシル)氏が26日、世界基督教統一神霊協会維持財団(統一教会財団)系の新聞「世界日報」の単独インタビューに応じ、崔氏と統一教会の関係に関する指摘が相次いでいる。 世界日報は2014年11月にも崔氏の元夫、鄭允会(チョン・ユンフェ)氏が韓国大統領府で通称「十常侍」と呼ばれる秘書官らと秘密会合を持つなど国政に介入していたと単独で報じたことがある。 崔氏の娘、チョン・ユラ氏は統一教会財団が運営するとされる景福初等学校、ソンファ音楽英才アカデミーに通った。 在米ジャーナリストのアン・チヨン氏は同日、ブログで消息筋の話として、「崔氏が朴槿恵(パク・クンヘ)政権発足後、統一教会の元欧州総責任者で、 新聞社社長を務めたS氏を駐イタリア大使に推薦したが、当時の趙応天(チョ・ウンチョン)大統領府公職紀綱担当秘書官(現・共に民主党国会議員)の反対で実現しなかった」と指摘した。 アン氏はS氏について、「1975年から統一教会に心酔し、統一教会の創始者である文鮮明(ムン・ソンミョン)総裁の最側近とされた人物。 鄭允会氏とは同郷で、統一教会の欧州総責任者を長く務め、世界日報社長を歴任した人物で、ドイツに長く住んでいた。崔順実・鄭允会夫婦と親しい」と説明。 「消息筋によれば、世界日報のインタビュー記事はS氏が仲介したものだった」と主張した。 http://www.chosunonline.com/m/svc/article.html?contid=2016102800773
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959 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 06:31:56.69 ID:HNpPiPJU0 - 安倍首相側近らが続々と統一教会詣での“怪”
2014/11/27 07:00 週刊朝日集票力に陰りが見える企業団体に代わり、注目されるのが、宗教票の行方だ。 そんな時勢もあってか、統一教会、その友好団体と接近する自民党議員の姿が目立つようになった。なかには、安倍首相の懐刀もいる。 東京・八王子市芸術文化会館大ホール で「祝福原理大復興会」なる催しが開催されたのは、10月11日。 この聞き慣れない奇妙な名のイベントを主催したのは世界基督教統一神霊協会(以下、統一教会)多摩東京教区だ。 今回のイベントでは、信者による“証し”と呼ばれる信仰告白などが行われたが、メインは日本統一教会の徳野英治会長の特別講演会、「世界の平和は祝福結婚から」だ。 「祝福」は「国際合同祝福結婚式」の略称で、歌手の桜田淳子らが1992年、参加して物議をかもした統一教会の重要な宗教行事の一つだ。 徳野会長は合同結婚式について「家庭は愛の学校」「祝福結婚から世界平和が実現する」などと熱弁を振るったが、 このイベントになんと、安倍首相側近である自民党の現職国会議員らが来賓として出席したというのだ。 今までに統一教会の友好団体とされる「国際勝共連合」や「世界平和連合」の集会に参加した国会議員がいたことが何度か判明しているが、 統一教会主催のイベントに国会議員が出席するのは極めてまれだ。 本誌が入手した資料によると、来賓挨拶の欄には、自民党総裁特別補佐の萩生田光一衆院議員(東京24区)、参議院議院運営委員長の中川雅治参院議員(東京)の名前が記されていた。 萩生田衆院議員は安倍首相の懐刀として従軍慰安婦問題に関し河野談話の「骨抜き」発言でも注目を集めた。 一方、中川議員は昨年の参院国家安全保障特別委で特定秘密保護法案を強行採決した委員長だ。元大蔵官僚で憲法改正推進本部副本部長、税制調査会幹事などを務める知恵袋的存在だ。会場にいた信者が語る。 「会場には国会議員だけでなく、自民党の近藤充都議なども来賓として出席。信者800人以上が参加していたので超満員でした。 国会議員が『今日はこんなにたくさんの方が集まっていただきありがとうございます』『家庭の教育が大事』などと壇上から統一教会に気を使った内容の挨拶をすると、大きな拍手がわき起こりました」 ちなみに、中川参院議員は昨年10月、さいたまスーパーアリーナで2万人の信者を集めて開催された統一教会創始者の文鮮明師(2012年に死去)の妻、 韓鶴子氏の講演会にも大阪選出の自民党参院議員と招待されていたという。 統一教会は文鮮明師が死去して以降も、妻である韓鶴子氏が第2教主として君臨し、日本にも数十万人の信者がいるとされる。 (ジャーナリスト・鈴木エイト 本誌・小泉耕平)
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960 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 06:32:47.50 ID:HNpPiPJU0 - 実は「靖国は朝鮮カルトだ」 !
靖国と韓国だけが死者の招魂を現代でもやっている。 靖国神社の前身は長州の「招魂社」だ。 「招魂」とは神道ではなく、朝鮮朱子学の葬礼儀式だ。 死人の魂をこの世に留めて守り神のような「鬼」として使役するための儀式だ。 「招魂 朱子学 朝鮮」で検索。 「死して護国の鬼になる」と言うだろ。これが「招魂」の効果だよ。 因みに日本では死んだ人を招魂することは禁忌で、日本書記以来、生者に対してのみ行う治療術であった。 日本書記には天武天皇14年11月24 日(丙寅)条に「是日為天皇招魂之」とあり生きている天皇のために行っている。 死者に対して行うことは禁止されていた。禁を破った者は罰せられた(『左経記』1025年8月23日条)。 中国では、『晋書』によれば東海王・司馬越の死に際して、その遺骸が焼かれてしまったため、 その遺族が「招魂葬」を嘆願したという記録がある。しかし、中宗が「塚は遺体を蔵すものであり、廟は神を安んずるものである。 招魂葬なるものは神を理める行為である。」という博士の意見を容れて「礼に失する」ということで太興元年(318年)に禁止したとされている。 朝鮮のみ過去から現在も死者に招魂を行っている。 また、招魂(초혼)を韓国語wikiで調べて翻訳した。 招魂は、魂を呼ぶ民間の意識である。ゴボク(皐復)とも呼ばれている。 今日、民間では庭で「 ○○同里の○○○服・スーツ・スーツ」と呼んで死んだ者の上着を屋根の上に投げる。 その投げられた服を屋根からひっくり返したご飯と一緒に母屋の外側に置いておいたり、納屋の隅にたたみ入れたり、 死体の胸の上においたたりする。 これは人が死ぬことを魂が抜けたと信じ 出て行った魂を呼び死者を復活させるせようとする信仰に由来した行為である。 <Youtubeによる映像> 韓国原曲「招魂(초혼)」(2010年)・・・韓国固有の信仰(巫俗)をベースにした映像 http://milestone-milestone.blogspot.jp/2012/10/blog-post_23.html?m=1 参考 http://japanese.joins.com/article/348/128348.html
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964 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 06:38:56.11 ID:HNpPiPJU0 - 小泉純一郎の従兄弟が池口。
池口 恵観(いけぐち えかん、1936年11月15日 - )は、単立烏帽子山最福寺法主。高野山真言宗・鹿児島高野山・最福寺 住職。高野山真言宗大僧正・伝灯大阿闍梨。 俗名・鮫島 正純(さめじま まさずみ)。 戦後初のクーデター未遂である三無事件に連座。三無事件(さんむじけん・さんゆうじけん)は、1961年12月12日に日本で発覚したクーデター未遂事件。 旧日本軍の元将校らが画策した事件で、初めて破壊活動防止法の適用により、有罪判決が下された。池口は不起訴。 池口は、鹿児島の単立烏帽子山最福寺法主。 同寺には弁才天(高さ18.5メートル)と、北朝鮮の初代指導者である金日成主席を尊敬する意 から金日成主席観世音菩薩が鎮座している。 金日成観世音菩薩ソース http://www.saifukuji.or.jp/ekan_history.html ←平成22年11月を確認! 現総理である安倍晋三など多くの政治家と親交があることから永田町の怪僧の仇名がある。サウスチャイナ・モーニング・ポストは暴力団関係者であり、指定暴力団住吉会や指定暴力団九州誠道会と密接な関係にあると報じた。
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966 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 06:40:13.67 ID:HNpPiPJU0 - 薩摩長州帰化人支配は小泉、安倍に続いている。あるブログから引用。
ソースは証言だから仮説として後は調べて欲しい。 伏「僕がずっと前から気になっていたことで、ネットにも色々な情報が流れてるんだけど、前の総理大臣の小泉純一郎の実父の鹿児島出身の小泉純也、旧姓、★鮫島純也★は朝鮮人だって噂があるんだけど、 何か聞いてる?。」 東「そうだよ。鮫島純也は加世田の朝鮮部落の出身者で、純粋の朝鮮人だよ。ついでに言えば、鮫島っていう姓は嘘っぱちで、自分で勝手に名乗っているだけだよ。 本当の姓は、はっきり覚えてないけど、朴だったけかな〜金だったけかな〜忘れちまった(笑)、どっちみち朝鮮人は姓の数が少ないからな〜ほら、 よく日本人で海外で詐欺師を働く奴が、近衛や、有栖川とか名のったりするだろう、あの類よ(笑)」 彼は、あっさりと、小泉純也朝鮮人説を肯定した。 いささか、拍子抜けした。 伏「有難う。疑問が氷解したよ。」 東「なに、地元では公然の秘密さ(笑)小泉が総理になってからは、タブー化しつつあるけどね。」 伏「と言うことは、純也は在日朝鮮人なの?」 東「いわゆる、「在日朝鮮人」とは違う。公式記録によると小泉純也は1904年生まれだ。丁度日露戦争が勃発した年だよ。 「在日朝鮮人」とは、1910年の日韓併合後、大日本帝国の臣民となり、日本本土に移住してきた半島出身者で、1945年の日本敗戦で、大日本帝国が消滅した時に、日本国籍を失った人たちだよ。」 伏「よくわかりにくいけど、もっと詳しく説明してくれないか。」 東「小泉純也・・・ややこしいな、取りあえず朴純也としておこう。朴純也が生まれ育った、鹿児島、加世田の朝鮮人部落と言うのは、 日本でも珍しい独特の歴史があるんだ。これは、薩摩藩島津家の公式記録である「島津家文書」にもちゃんと記載されている事実なんだけれども・・・」 伏「どういうこと?」 東「発祥は、豊臣秀吉の時代、安土桃山時代に遡るんだ。秀吉の朝鮮征伐の時に、薩摩藩主の島津義弘、僕たちは維新公と言って親しんでいるんだけど、朝鮮に出征して、1598年に休戦帰国する時に、多数の朝鮮人捕虜を連行して薩摩に帰国したんだ。 その中には李氏朝鮮で武士階級(引用注:朝鮮では正確には武官でしかない)だったもの、職人だったもの、単なる荷駄の運搬に使った労務者もいる。連れ帰った捕虜の中には、手に素晴らしい技術を持つ者がいた。 彼らが後世に伝えたものが、“薩摩焼き”だ。産物に乏しい薩摩藩は、陶芸技術を持つ朝鮮人は、苗代川と言う所に集めて、集落を作らせ、薩摩焼の生産に専念させた。 薩摩焼は、薩摩藩が藩外に輸出して、貨幣を稼ぐ貴重な生産品だったので、藩は彼らを手厚く保護して、集落内は広範な自治を認めたんだよ。 藩から優遇されプライドも保たれた、彼らは朝鮮人であることを隠さなかった。収入も良く、生活ぶりも豊かな彼らは、 明治維新後は、薩摩士族の株を買って、 士族になるものもあらわれた。その有名な例が、東条内閣で外務大臣を務めた東郷茂徳さんだよ。」
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972 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 06:48:43.06 ID:HNpPiPJU0 - >>968
中国では、『晋書』によれば東海王・司馬越の死に際して、その遺骸が焼かれてしまったため、 その遺族が「招魂葬」を嘆願したという記録がある。しかし、中宗が「塚は遺体を蔵すものであり、廟は神を安んずるものである。 招魂葬なるものは神を理める行為である。」という博士の意見を容れて「礼に失する」ということで太興元年(318年)に禁止したとされている。
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975 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 06:52:26.51 ID:HNpPiPJU0 - >>965
韓国支援に朝鮮半島に自衛隊は進撃する。 北朝鮮はチャイナと相互援助条約あるからチャイナは日本に当然戦線布告し沖縄離島に進出。 その後チャイナが核で脅迫し講和。 こうなる。
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978 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 06:53:58.85 ID:HNpPiPJU0 - >>973
しかし、靖国に合祀されている開戦時と終戦時の外相が朝鮮移民子孫で妻がユダヤ人だったことは、 だれも否定できない事実。 ソース 元外相東郷茂徳記念館 〒899-2431 鹿児島県日置市東市来町美1690-4 電話:099-274-4370 館のご紹介 鹿児島県を代表する工芸品である薩摩焼の技法を、美山に花咲かせた陶工たちの末裔で外交官として身を立て、太平洋戦争の開戦・終戦時に外務大臣を務めた東郷茂徳氏の生涯を、時代背景とともに遺品・パネル・マルチ画面で展示紹介する施設です。 開館時間 9:00〜16:30 料金 一般200(160)円、小中高生100(80)円 ※( )内は20名以上の団体割引料金 休館日 月曜日、年末年始(12月29日〜1月3日) アクセス ●JR「東市来」駅より徒歩20分、車で約3分 ●西回り自動車道(高速道路)「伊集院I.C.」より車で約10分 http://www.museum.or.jp/modules/im_museum/?controller=museum&input%5Bid%5D=7679
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980 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 06:55:30.18 ID:HNpPiPJU0 - >>979
日本書記には天武天皇14年11月24 日(丙寅)条に「是日為天皇招魂之」とあり生きている天皇のために行っている。 死者に対して行うことは禁止されていた。禁を破った者は罰せられた(『左経記』1025年8月23日条)。
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987 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 06:58:10.53 ID:HNpPiPJU0 - >>981
死者に招魂をこの千年しているのは朝鮮と靖国だけw
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990 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 07:01:03.43 ID:HNpPiPJU0 - >>986
それ、生きてる人が元気になる用の招魂。 物知らずだなw
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993 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 07:03:35.70 ID:HNpPiPJU0 - >>986
こは鎮魂にはあらず、陰陽家にて別に招魂祭とて為る方 → これは鎮魂ではなく、陰陽道で別に招魂祭と言われる方 陰陽道の招魂祭って健康増進法なんだが?
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995 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 07:05:45.13 ID:HNpPiPJU0 - 田布施システムの「田布施」とフルベッキ写真を強調しすぎると陰謀論との誤解を生みやすいから要注意と思うよ。
まず、田布施システムだけど、薩摩は田布施出身は少なくて、メインの朝鮮人集落は薩摩焼の苗代川。 本質は、薩長土肥の土佐を除くと、薩摩焼、萩焼、有田焼の焼き物産地であること。 つまり、朝鮮人集落のあること。 あと、追記すると鹿児島や佐賀の幕末産業遺跡を見るとわかるが、反射炉や化学、電気の施設のために窯業技術が基盤になっている。 朝鮮人陶工は近代化の基盤でもあった。 だから、子孫の安倍や麻生は世界遺産登録したと思うが。 また、フルベッキ写真は異論あるし、フルベッキ写真なくても、朝鮮人マイノリティ支配は証明できるからシステム議論からは、むしろ外して議論したがよい。 なんといっても薩摩の東郷外相が明確な鍵になる。
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1000 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 07:08:36.59 ID:HNpPiPJU0 - >>997
日本の招魂は生者向けしかないのは分かったかw すり替えで逃げるなw
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25 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 10:17:58.85 ID:HNpPiPJU0 - 田布施システムの「田布施」とフルベッキ写真を強調しすぎると誤解を生みやすいから要注意とおもう。
まず、田布施システムだけど、薩摩は田布施出身は少なくて、メインの朝鮮人集落は薩摩焼の苗代川。 本質は、薩長土肥の土佐を除くと、薩摩焼、萩焼、有田焼の焼き物産地であること。 つまり、朝鮮人集落のあること。 あと、追記すると鹿児島や佐賀の幕末産業遺跡を見るとわかるが、反射炉や化学、電気の施設は耐熱レンガや瓶など窯業技術が基盤になっている。 朝鮮人陶工は近代化の基盤でもあった。 だから、子孫の安倍や麻生は世界遺産登録したと思うが。 また、フルベッキ写真は異論あるし、フルベッキ写真なくても、朝鮮人マイノリティ支配は証明できるから「薩長の朝鮮帰化人による支配システム」の議論からは、むしろ外して議論したがよい。 なんといっても薩摩の東郷外相が明確な鍵になる。
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27 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 10:18:35.97 ID:HNpPiPJU0 - 安倍は帰化人だ。
以下は韓国の雑誌から翻訳。 このような事実は金忠植(キム・チュンシク)東亜日報論説委員が最近発刊した本『悲しい列島−永遠の異邦人四百年の記録』(ヒョヒョン出版)で明かされたことで、 壬辰の乱直後の1598年日本に連行された陶工で日本の陶磁器宗家を成すまでになった 沈寿官家門の14代子孫をインタビューする過程で明らかになった。 「佐藤さんの言うことは 驚くべきことでした。私に'あなたは日本へ来てからどれくらいになりましたか'と問うので、400年近くなったと言ったら、'私たちの家門はその後に渡って来た家'というのです。 半島のどの故郷からいつ来たかは詳らかに分からないが、自分の先祖が朝鮮から渡って来て山口 に定着した、という話だったです。」 論語の述而編に出る表現という。 (中略)この揮毫から、佐藤元総理の心情を推し量ることができる。 このように見る時、岸総理と佐藤総理はもちろん安倍長官にも韓国人の血統が混じっているわけだ。 これと共に安倍長官の父親で同時に80年代4期連続日本外相を引き受けた安倍晋太郎にも韓国系が 多い山口県出身という事実は、安倍に韓国人の血が濃く流れていることを傍証する。 佐藤は彼に「言葉にせず黙々とあっていても、認めることはすべて認めて通じる」と言う意味の「黙而識之」という言葉を書いて去った。 「対韓半島タカ派の先頭走者が 韓民族後裔だなんて…」 金委員は本で 「日本総理の靖国神社参拜を 積極支持するナショナリスト(国家主義者)に韓半島血統 が伝えられているということはまことに皮肉だ」と言った。 (後略) ソース(証拠の佐藤栄作の揮毫写真あり): プレシアン(韓国語)2006年5月17日 日本次期総理1順位安倍晋三は韓国系 http://megalodon.jp/2016-0805-1952-07/m.pressian.com/m/m_article.html?no=49423 http://m.pressian.com/section_view.html?no=49423
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30 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 10:23:17.99 ID:HNpPiPJU0 - >>18
鍛冶屋町が由来で鍛冶屋町になる前は甲突川の両岸が高麗町だった。 あと、参考だが佐賀の唐人町の朝鮮人の商売は荒物屋だった。
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31 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 10:24:21.04 ID:HNpPiPJU0 - 実は「靖国は朝鮮カルトだ」 !
靖国と韓国だけが死者の招魂を現代でもやっている。 靖国神社の前身は長州の「招魂社」だ。 「招魂」とは神道ではなく、朝鮮朱子学の葬礼儀式だ。 死人の魂をこの世に留めて守り神のような「鬼」として使役するための儀式だ。 「招魂 朱子学 朝鮮」で検索。 「死して護国の鬼になる」と言うだろ。これが「招魂」の効果だよ。 因みに日本では死んだ人を招魂することは禁忌で、日本書記以来、生者に対してのみ行う治療術であった。 日本書記には天武天皇14年11月24 日(丙寅)条に「是日為天皇招魂之」とあり生きている天皇のために行っている。 死者に対して行うことは禁止されていた。禁を破った者は罰せられた(『左経記』1025年8月23日条)。 中国では、『晋書』によれば東海王・司馬越の死に際して、その遺骸が焼かれてしまったため、 その遺族が「招魂葬」を嘆願したという記録がある。しかし、中宗が「塚は遺体を蔵すものであり、廟は神を安んずるものである。 招魂葬なるものは神を理める行為である。」という博士の意見を容れて「礼に失する」ということで太興元年(318年)に禁止したとされている。 朝鮮のみ過去から現在も死者に招魂を行っている。 また、招魂(초혼)を韓国語wikiで調べて翻訳した。 招魂は、魂を呼ぶ民間の意識である。ゴボク(皐復)とも呼ばれている。 今日、民間では庭で「 ○○同里の○○○服・スーツ・スーツ」と呼んで死んだ者の上着を屋根の上に投げる。 その投げられた服を屋根から ひっくり返したご飯と一緒に母屋の外側に置いておいたり、納屋の隅にたたみ入れたり、 死体の胸の上においたたりする。 これは人が死ぬことを魂が抜けたと信じ 出て行った魂を呼び死者を復活させるせようとする信仰に由来した行為である。 <Youtubeによる映像> 韓国原曲「招魂(초혼)」(2010年)・・・韓国固有の信仰(巫俗)をベースにした映像 http://milestone-milestone.blogspot.jp/2012/10/blog-post_23.html?m=1 参考 http://japanese.joins.com/article/348/128348.html
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34 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 10:27:44.76 ID:HNpPiPJU0 - 肥前の帰化人の話。
李宗歓は、天正15年(1587)郷里(現朝鮮民主主義人民共和国)の海岸で舟遊びに興じていた折、突然の旋風により船が破損し、日本(現北九州市)に流れ着いた。 天正19年(1591)、大宰府にて鍋島藩家臣龍造寺家晴と成富兵庫茂安と出会い、これをきっかけに佐賀城下へ赴いたところ、藩主鍋島直茂にその才を見込まれ、重用されることとなった。 『葉隠聞書』や『御用唐人町荒物唐物屋職御由緒書』によると、朝鮮遠征に同行した帰途、宗歓は主君の命を受けて陶工を6〜8人連れ帰り、陶器の製造に着手した。直茂公は慶長4年(1599)、 宗歓が連れ帰った高麗人などを佐賀城下の十間堀川以北、愛敬嶋村に住まわせ、唐人(異国人)の住む町「唐人町」と名づけた。宗歓は、唐物の繊維品、陶器類、金物類、海産物、荒物など日本にない珍しいものを直輸入し、 これらを扱う商人が集まって、今日の唐人町の基礎を形成していった。 九山道清は、『更紗秘伝書』ならびに『江頭家系図』によれば、慶長3年(1598)、直茂公が朝鮮遠征より帰国する際に連れ帰った高麗人13人のうちの1人である。 道清は漢方医の家柄の出であることから、製薬の技法にも優れていた。漢方薬の原料となる薬草は染料となる植物としばしば同一のものであり、 それらの高価な材料が、宗歓の海外貿易により比較的容易に入手できたことが、鍋島更紗の創始、発展に重要な役割を果たした。 http://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=5101
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36 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 10:29:00.25 ID:HNpPiPJU0 - 今こそ、日本人は維新の真実を知るべき。明治の原動力になった長州や薩摩は日本の朝鮮化した地域だったんだよ。
実は、明治維新自体が、イギリスがロシアと対抗するために朝鮮人を操って 実行したクーデターだった。 まず、薩長がイギリスと戦争して負けて藩内クーデター起きてるだろ。 イギリス人は陶器貿易で、朝鮮人が下級武士になっているのを知ってたんだよ。 そいつらを利用した。 長州は、戦国時代まえから守護や戦国大名自体からして、百済王の子孫を称する大内氏や陶氏など帰化人だらけだった。 また、毛利氏は山城国の日置族大江広元の四男李光の子孫であり、薩摩藩主の祖島津忠久は武蔵国の日置族比企禅尼の長女丹後局の子だから渡来系。薩摩の陶工の村が日置市にあるのは偶然ではない。 また、長州人は本人たちが朝鮮人の子孫と思っていたから、 安土桃山時代に朝鮮出兵した際に降伏した朝鮮人捕虜を連れて帰ってきてどんどん仕官させている。 だから、江戸時代の長州藩士も帰化人だらけ。 例えば、長州藩の御典医の「李家」は、李氏朝鮮の武臣李慶甫の子孫が御殿医として長州藩に仕えた。 子孫の李家 隆介(慶応2年8月(1866年) - 1933年7月23日)は、日本の内務官僚となり、県知事、錦鶏間祗候、下関市長となった。 下関にリトル釜山がありウォンが通用するのも当然だ。 薩摩の奴らは大久保やら鹿児島市高麗町出身がいる。 で、現在、西郷隆盛の子孫の西郷隆文は日置市で窯元を営み、鹿児島県陶業協同組合初代理事長なんだ。 信じがたいだろうけど、大久保利通や西郷隆盛の嫡男の西郷寅太郎も朝鮮出兵の時に連れてきた薩摩焼の陶工を集めた鹿児島市高麗町の出身。生家は百メートルも離れていない。 1600年代の半ばから後半には高麗町の陶工は郊外の日置市に集団移転した ことになっているが、その最後のタイミング(1680年代)で大久保の先祖も高麗町から郊外に移転している。しかし100年後後にまた高麗町に戻っている。 http://ichikikushikino-takara.net/takara/2013/05/post-18.html また、西郷も大久保も1600年代半ばに薩摩藩に先祖が仕官しているが、先祖は仕官前の数代は不明。 大久保利通の父の利世は、琉球貿易のための琉球館の通関職員だった。 薩摩は漂着を偽装した朝鮮との密貿易もしていたから朝鮮語か広東語を話せただろう。 天保13年(1842年)、この年までは高麗町に住んでいたことが、『鹿児島城下絵図散歩』で判る。後に琉球館付役に就任、琉球館内の屋敷に転居。 彼らの家系図は、適当に繋いだ偽物の可能性が高い。
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38 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 10:29:36.72 ID:HNpPiPJU0 - 薩摩長州帰化人支配は小泉、安倍に続いている。あるブログから引用。
ソースは証言だから仮説として後は調べて欲しい。 伏「僕がずっと前から気になっていたことで、ネットにも色々な情報が流れてるんだけど、前の総理大臣の小泉純一郎の実父の鹿児島出身の小泉純也、 旧姓、★鮫島純也★は朝鮮人だって噂があるんだけど、 何か聞いてる?。」 東「そうだよ。鮫島純也は加世田の朝鮮部落の出身者で、純粋の朝鮮人だよ。ついでに言えば、鮫島っていう姓は嘘っぱちで、自分で勝手に名乗っているだけだよ。 本当の姓は、はっきり覚えてないけど、朴だったけかな〜金だったけかな〜忘れちまった(笑)、どっちみち朝鮮人は姓の数が少ないからな〜ほら、 よく日本人で海外で詐欺師を働く奴が、近衛や、有栖川とか名のったりするだろう、あの類よ(笑)」 彼は、あっさりと、小泉純也朝鮮人説を肯定した。 いささか、拍子抜けした。 伏「有難う。疑問が氷解したよ。」 東「なに、地元では公然の秘密さ(笑)小泉が総理になってからは、タブー化しつつあるけどね。」 伏「と言うことは、純也は在日朝鮮人なの?」 東「いわゆる、「在日朝鮮人」とは違う。公式記録によると小泉純也は1904年生まれだ。丁度日露戦争が勃発した年だよ。 「在日朝鮮人」とは、1910年の日韓併合後、大日本帝国の臣民となり、日本本土に移住してきた半島出身者で、1945年の日本敗戦で、大日本帝国が消滅した時に、日本国籍を失った人たちだよ。」 伏「よくわかりにくいけど、もっと詳しく説明してくれないか。」 東「小泉純也・・・ややこしいな、取りあえず朴純也としておこう。朴純也が生まれ育った、鹿児島、加世田の朝鮮人部落と言うのは、 日本でも珍しい独特の歴史があるんだ。これは、薩摩藩島津家の公式記録である「島津家文書」にもちゃんと記載されている事実なんだけれども・・・」 伏「どういうこと?」 東「発祥は、豊臣秀吉の時代、安土桃山時代に遡るんだ。秀吉の朝鮮征伐の時に、薩摩藩主の島津義弘、僕たちは維新公と言って親しんでいるんだけど、朝鮮に出征して、1598年に休戦帰国する時に、多数の朝鮮人捕虜を連行して薩摩に帰国したんだ。 その中には李氏朝鮮で武士階級(引用注:朝鮮では正確には武官でしかない)だったもの、職人だったもの、単なる荷駄の運搬に使った労務者もいる。連れ帰った捕虜の中には、手に素晴らしい技術を持つ者がいた。 彼らが後世に伝えたものが、“薩摩焼き”だ。産物に乏しい薩摩藩は、陶芸技術を持つ朝鮮人は、苗代川と言う所に集めて、集落を作らせ、薩摩焼の生産に専念させた。 薩摩焼は、薩摩藩が藩外に輸出して、貨幣を稼ぐ貴重な生産品だったので、藩は彼らを手厚く保護して、集落内は広範な自治を認めたんだよ。 藩から優遇されプライドも保たれた、彼らは朝鮮人であることを隠さなかった。収入も良く、生活ぶりも豊かな彼らは、 明治維新後は、薩摩士族の株を買って、士族になるものもあらわれた。その有名な例が、東条内閣で外務大臣を務めた東郷茂徳さんだよ。」
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39 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 10:31:38.70 ID:HNpPiPJU0 - 朝鮮から渡来の時期については各藩によって異なっているようです。肥前では文禄年間、豊前・筑前では慶長年間に渡来したという説が有力だそうです。
薩摩にあっては、文禄の役の際に若干の者が来ているようですが、渡来陶工の大多数は慶長3年(1598)頃に渡来しているようです。 その後、陶工たちは単なる捕虜ではなく、技術者として破格の待遇を受けていたそうです。 ■ 薩摩のはじまり 陶工の上陸地、渡来数、氏名などについては諸説あって必ずしも一致していないそうです。 ここでは『江戸時代人づくり風土記㊻鹿児島』を参照しました。 慶長3年(1598)、朝鮮陶工たちは四つの地点に上陸したそうです。 1.串木野市島平に43人 2.旧東市来町神之川に10人余り 3.鹿児島市の前之浜(旧喜入町の前之浜ではありません)に20人。 この20人は、高麗町(鹿児島市)に住むようになったようです。 この中に李金光という人物がありましたが、朝鮮国王の親族ということから朝鮮へ送り帰したそうです。 4.旧加世田市小湊に数人の陶工とその家族 渡来した陶工たちに、しばらくの間援助が差し伸べられることはなく、大変な苦労をしたようです。 というのも、当時の薩摩は朝鮮出兵の後始末、庄内の乱、関ヶ原の戦後処理など問題が山積していたからでした。 それでも、串木野に上陸した43人は自活していったようです。 ■ 薩摩焼最初の窯と苗代川 串木野島平に上陸した43人は、農業のかたわら島平東方の丘陵地に「串木野窯」を開きました。 慶長4年のこと、これが薩摩焼最初の窯となるそうです。 しかし、半農半陶の生活は周辺住民との間に諍いを生むようになったそうです。 慶長10年頃、串木野窯を操業しながら、周辺で粘土や釉薬となる原料を探していました。 そうして、苗代川を新たな移住地とし、藩の保護を受けて朝鮮式の「元屋敷窯」を築いたそうです。 翌年には朴平意が庄屋となり、陶工たちの生活はしだいに安定していきました。 元和2年(1616)には、苗代川の陶工3人を琉球へ派遣して琉球焼の指導に当たらせました。琉球王尚豊が、陶工派遣方を薩摩に要請したものだそうです。 琉球へ渡ったのは張一六・安一官・安二官の3人。 このうち張一六だけは琉球に残り、名前を仲地麗伸(なかちれいしん)と改めました。 仲地は雍正8年(享保10)、新禄を賜ったそうです。 元和9年頃、朴平意の長男貞用(ていよう)は白薩摩の原料を薩摩で発見するに至りました。原料となる粘土には指宿の白土と加世田の軟弱陶石、釉に津貫(南さつま市)の京之峯石を発見、白薩摩の製造が可能となったのでした。 寛文9年頃になると、相当安定したらしく、藩は城下高麗町にいた25家族の生活を安定させるため苗代川に移住させました。ここに「五本松窯」を築かせたそうです。 寛文12年頃には、苗代川の中心となる御仮屋が設けられ、藩主島津光久公がたびたび訪れるようになったそうです。 その後、苗代川は活況にあふれるとともに人口も増えてきました。そこで藩では、宝永元年(1704)34家族160数人を鹿屋笠野原に移住させ、「笠野原窯」を築かせたそうです。 苗代川は、藩直営の窯として操業され、製陶技術の開発が進んでいったようです。 そうして白薩摩や黒薩摩のほかに染付白磁も焼いていたそうです。 これ以降も明和元年(1764)の御定式窯、弘化3年(1846)の南京窯の築造がありましたが廃藩によって保護がなくなり頓挫してしまいました。 明治にはいると玉山陶器会社という組織をつくりましたが、西南戦争に陶工たちが参加して戦死したことによって壊滅的な影響を受けてしまいました。 しかし、沈寿官や鮫島訓石、東郷寿勝などの窯から、慶応3年(1867)のパリ万国博覧会へ朴正官の大花瓶を出品。 また明治6年(1873)のウィーン万博博覧会に沈寿官の大花瓶の出品などによって、薩摩焼は欧米で大人気を得たそうです。
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41 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 10:32:15.48 ID:HNpPiPJU0 - 薩摩藩に朝鮮帰化人集落があり、朝鮮通詞が存在し、朝鮮と密貿易をしていたことはあまり知られていない。
朝鮮通詞の制度は朝鮮との貿易を幕府から許可された対馬藩以外にみられないと思われていたからであり、薩摩藩に朝鮮通詞が存在していたことは驚くことであるが、 意外にも薩摩藩朝鮮通詞はその職制や役料、漂着朝鮮船への派遣など制度として確立していたといえるのである。 朝鮮通詞という職掌自体、苗代川という地域に付随した職能集団から派生し、ある一人の人物の熱意が朝鮮通詞という職を興し、 それを受け継ぐ形で指南家ともいえる家柄が生まれた。それは朝鮮通詞の系譜とも呼べる李家の努力によるもので、 その功なって苗代川の朝鮮語は維持され、同時に藩も漂流民救助の必要から朝鮮通詞の確保の目的に合致した結果、 朝鮮通詞の養成や継承が藩の全面的支援のもとでなされた。そのため、李家の継承者が代々通詞を務めたことで歴代通詞と呼ばれ、世襲的な通詞制度が堅持された。 朝鮮通詞の役割は通訳という補助的職務であるようにみえるが、貿易や漂流民救助において重要な職掌であったことはいうまでもない。 頻繁に往来する唐船とは違い、極めて稀に漂着する朝鮮船を対象とするものではあったが唐通事同様に朝鮮通詞への藩の命令系統や対応する諸役、 漂着現地での対応や聴取内容の報告の手順などは漂着唐船に準じた体制であった。 また、藩の学問の殿堂造士館講堂での年2回の朝鮮語対談をはじめ、藩は異国方書役の役人2名に朝鮮語学習のため苗代川に30日の長期にわたる出張を命じるなど藩庁の力の入れようも窺われる。 このように限られた状況史料から推察することになるが、これらの事情を勘案すると、朝鮮漂流漁船だけに対処する組織体制というより、 もっと広汎な朝鮮船の往来を物語っていることが考えられるのではないだろうか。 http://www.toyo-keizai.co.jp/news/culture/2009/post_146.php
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44 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 10:34:16.64 ID:HNpPiPJU0 - 西国諸藩の朝鮮人集落は隔離され幕末まで朝鮮語と服装や髪型を維持していた。
薩摩に連行された陶工達の歩んだ歴史は二つに分けられる。地域に融合した人々と藩の保護を受け地域社会を形成した「苗代川」(現在は美山)の人々である。 薩摩藩の「苗代川」が特別な歴史的意味をもつ理由は、同じように朝鮮陶工を連行した九州諸藩諸地域と村落形成過程や藩との関係がかなり違うことにある。 その特質を内藤雋輔(ないとう・しゅんすけ)氏は「多くは早く日本の風土や民俗に同化融和してしだいに朝鮮の氏姓を捨て、日本人と一体となっているのであるが、 旧薩摩藩のうち、特に苗代川地区とその分派の笠之原と萩塚の被虜人のみが藩主の特別な保護政策のもとに故国の旧風を保存し、集団生活を長く営んで明治維新におよんでいることが著しい対照をなしている」と、 「苗代川」の地域性を指摘し、「苗代川」地域形成を藩との関わりで論じた。 これまでの研究史では、朝鮮出兵により連行されてきた朝鮮の人々によって形成された「苗代川」村落は藩の保護のもとに異例の陶工による職能集団として認識されてきた。 だが、内藤氏は論考で、「苗代川」地域社会が持つ文化技術は、これまで論じられてきた焼物だけではないことを指摘している。他にも後述する朝鮮通詞(通訳)とその体制、 幕末薩摩藩の代表的輸出品である樟脳(しょうのう)精製技術、石工技術の存在、蜂蜜技術など今後研究すべき素材があるように思われる。 http://www.toyo-keizai.co.jp/news/culture/2009/post_146.php
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46 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 10:34:45.94 ID:HNpPiPJU0 - 何故東郷は大日本帝国を滅亡させたか分かる記事。
東郷茂徳 (とうごうしげのり) 韓人の子孫として 1882年12月10日、東郷茂徳は鹿児島に生まれた。詳しく言えば、伊集院村苗代川の出身である。 ここは鹿児島ではあったが、異国の集落であった。三百年程も昔、豊臣秀吉が朝鮮遠征に兵を出した時、薩摩の島津義弘公が韓人の陶工数百名を連れて帰ってきた。その子孫が住み着いた村であったのだ。 茂徳も、子供の頃の姓は朴という韓国姓。富裕な陶器商人であった父が、困窮した武士からその株(武士となる権利)を買って、東郷の姓に変えたのである。 ここの陶工たちが製造する薩摩焼は、高い評価を受けており、薩摩藩では彼らの技術を高い水準に保つため、手厚く保護した。 藩内では尊敬され、一目置かれる存在であったのだ。誇り高き人々で、江戸時代まで、韓式の衣装をまとい、韓国語を話していた。 しかし、明治になって様相は一変した。近代化を推し進めた結果、近代化の遅れた中国や朝鮮を侮蔑する差別感情が生まれた。 鹿児島も例外ではない。かつては敬称であった苗代川出身という立場は、侮蔑の対象に成り下がったのである。 時に暴力を伴ったこの差別感情は、少年の心を傷つけた。同じ日本人なのに、なぜ殴られなければならないのか。 三百年前の出自のゆえに受ける差別。溢れ出る屈辱感に茂徳は耐えなければならなかった。それを忘れようとひたすら勉学に打ち込んだ。彼の成績は常に首席であったという。 差別の壁 東京帝大(現在の東大)に入学した東郷は、ドイツ文学科へ進んだ。いずれ小説家にでもなろうとした。受けてきた差別ゆえに、人生の意味を探求せずにはおれなかったのだ。 人生の進路を変える事件が起こる。在学中、肺結核を患い、療養生活を余儀なくされた時のことだ。彼は1年間大学を休学し、日光の中禅寺湖で療養生活を始めた。ふとしたことから一人の女学生と出会う。 名は美津、一流旅館の娘である。生まれて初めて東郷は、女性に恋心を抱いた。美津に会っていると、過去の苦い思い出も吹き飛び、病気療養の身であることも忘れてしまう。 生きる力が漲り溢れてくるのを感ずるのであった。 療養生活を終えた後も、美津との交際は順調に進み、結婚を約束する仲になっていた。全てが順風満帆、後は美津を迎えるだけである。彼は美津の両親に長文の手紙を書き、結婚を申し入れた。しかし3ヶ月経っても返事はなかった。 実は、美津の両親は興信所(身許などを秘密に調査する会社)を使って、東郷家の身許を調べ上げていた。 彼らは三百年前の先祖の血を問題にして、この結婚を阻止したのである。このことが東郷に与えた衝撃は大きかった。忘れかけていた少年時代の傷が生々しく蘇ってくる。 理不尽な差別の壁を前にして、立ちすくむばかりであった。 美津との破局は、東郷に一大決心をもたらした。差別の壁が厳然としてある以上、そこから逃げるわけにはいかない。 正真正銘の日本人になろう。それには命がけでこの国のために貢献するしかない。まず文学を捨てる決断をした。現実の世界で貢献するためである。そして当時日本で最難関とされた外交官試験に挑戦し、3度目にして合格した。 http://megalodon.jp/2016-0905-1458-33/ifsa.jp/index.php?togoshigenori http://ifsa.jp/index.php?togoshigenori
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48 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 10:35:13.54 ID:HNpPiPJU0 - 信じがたいが、西郷隆盛の嫡男や大久保利通やは薩摩焼の陶工を集めた
鹿児島市高麗町の出身。 生家は百メートルも離れていない。1600年代の前半には陶工は郊外(日置市苗代川)に集団移転した ことになっているが、西郷も大久保も1600年代半ば薩摩藩に先祖が仕官しているが、先祖は仕官前の数代は不明。 ちなみ西郷隆盛の子孫の西郷隆文はなぜか現在は日置市苗代川で窯元で薩摩焼組合の初代理事長。
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50 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 10:36:33.22 ID:HNpPiPJU0 - 薩摩帰化人東郷から朝鮮防衛密約継承した国家安全保障局初代局長の谷内は、KCIAエージェントのエージェントw
谷内正太郎初代NSC局長と“元KCIAエージェント”との親密交際が発覚! 2013.12.24 18:00 2014年1月に、日本版NSC(国家安全保障会議)の国家安全保障局初代局長に就任する谷内(やち)正太郎・内閣官房参与が、 元KCIAのエージェントとされる在日韓国人実業家と、きわめて近い関係にあることがわかった。 この実業家・K氏は、谷内氏が中心となって発足した勉強会「寛総会」の事務局長を務める人物。 谷内氏は、自らの会社をK氏の関係する会社が複数入っているビルに設立。 2013年5月にはK氏や申珏秀駐日韓国大使(当時)らと高麗神社を訪問、8月にはK氏と青森に旅行するなど、公私にわたって親交がある。 大阪でK氏が営んでいた不動産会社は、1990年代後半、住宅金融専門会社の不良債権が問題化した際、大口融資先として報じられた。 K氏は韓国に太いパイプを持ち、 公安関係者によれば、韓国の情報機関KCIA(現・国家情報院)の元エージェントで、日本国内では韓国大使館の一等書記官の指揮下にあったという。 谷内氏は、週刊文春の取材に事務所を通じて「個人情報に関わることですので回答は控えさせていただきます」と回答。 K氏は弁護士を通じて「事実無根」と回答した。 一方、谷内氏は、韓国でカジノリゾートを建設し、日本国内でのカジノ進出を目指すパチンコ・パチスロメーカー・セガサミー(里見治会長)の顧問も務めている。 アメリカなどの情報機関と 機密情報を共有する日本版NSCの司令塔である谷内氏の“人脈”は、今後も注目を集めそうだ。
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51 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 10:38:06.79 ID:HNpPiPJU0 - 実は明治維新は征韓論、朝鮮併合、満州建国、開戦と繋がっていた。
それは、朱子学、儒家神道などを推進し明治維新を起こした薩長の下級武士は帰化人だったからだ。 彼らは、北部中国(満州)、半島、日本にまたがる大高麗の復活を一貫して目指している。 そして、今も薩長支配は復活しつつある。麻生は大久保利通子孫。安倍は、岸の子孫。 彼らは集団的自衛権やら日韓トンネルで大高麗復活を目指している。
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52 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 10:38:35.61 ID:HNpPiPJU0 - お前らは、長州と岸信介と韓国の繋がりの深さを知らんのか?
岸が満州国の設計者の1人だったのは流石に知っているだろう。 岸を含め満州の二キ三スケの三スケは長州出身だ。満州は長州支配なんだよ。 この時の満州にはクネの親父の朴 正煕が満州国の軍人としていた。また、大同学院という日本人と朝鮮人が一緒に学び満州国の官僚を育成する学校が新京あった。 満州国は、日本人と朝鮮人が、支配階級になる予定の国だったからだ。 というか、満州こそ岸や朝鮮人の発祥地だったから、満州と半島で大高麗を再建するつもりだった。 これが、大日本帝國の大陸進出の真実だ。 朴 正煕の後を継いだ大統領の崔圭夏は大同学院の卒業生。大同学院出身の朝鮮人が韓国の政治、経済、軍の基盤を作った。 昭和49年に韓国で大同学院の同窓会を初めて開いた時には、大蔵、外務、司法の長官が同窓生だったという。 この満州人脈が集まるのが善隣協会という組織。善隣協会の会長が岸。 朴 正煕はクーデター成功後、訪日し善隣協会を訪問し、「維新の志士のつもりでやる気だ」と岸に報告したという。 だから韓国ではこのクーデター後の新憲法は「維新憲法」と名付けられた。
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53 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 10:39:01.19 ID:HNpPiPJU0 - 満州は、長州閥の支配下にあった。
特に鮎川義介・岸信介・松岡洋右の3人は満州三角同盟とも呼ばれ東條内閣を倒閣するなど、最終的には力があった。 東條は満州三角同盟が使った表向き用のコマでしかない。 弐キ参スケ(にキさんスケ、2キ3スケ)は、満州国に強い影響力を有した軍・財・官の5人の実力者のこと。 メンバー 以下の5人の実力者を指す。「弐キ参スケ」は彼らの名前の末尾からつけられた。 東條英機(とうじょう ひでキ、在満期間:1935年 - 1938年、離満前役職:関東軍参謀長) 星野直樹(ほしの なおキ、在満期間:1932年 - 1940年、離満前役職:国務院総務長官) 鮎川義介(あいかわ よしスケ、在満期間:1937年 - 1942年、満業(満州重工業開発株式会社)社長)←山口 岸信介(きし のぶスケ、在満期間:1936年 - 1939年、離満前役職:総務庁次長)←山口 松岡洋右(まつおか ようスケ、在満期間:1921年 - 1930年、1935年 - 1939年、離満前役職:満鉄総裁)←山口 第二次世界大戦終結後、5人ともA級戦犯容疑者として逮捕された。鮎川・岸の2人は不起訴となったが、東條・星野・松岡の3人は起訴された。東京裁判において、松岡は公判中に病死し、東條には死刑、星野には終身刑の判決が下った(星野は後に釈放)。 「弐キ参スケ」は、当時の満州国での実力者を並べ称したものであり、彼ら全員に同盟関係があったというわけではない。岸は東條内閣の閣僚となったが、倒閣工作を行い閣内不一致で東條内閣を退陣に追い込んでいる。 東條は表のコマの一つにすぎない。 5人のうち、鮎川義介・岸信介・松岡洋右の3人は満州三角同盟とも称された。3人共山口県周防地方の生まれ・育ちである。 姻戚関係 鮎川義介・岸信介・松岡洋右の間には姻戚関係もある。 松岡の妹の夫は、岸の母方の叔父である。岸の実弟である佐藤栄作は、叔父夫妻の長女で松岡の姪の寛子と結婚して婿養子となっている。 のちのことになるが、 岸の長男の妻は、鮎川の従兄の娘である。
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60 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 10:42:42.85 ID:HNpPiPJU0 - 小泉純一郎の従兄弟が池口。
池口 恵観(いけぐち えかん、1936年11月15日 - )は、単立烏帽子山最福寺法主。高野山真言宗・鹿児島高野山・最福寺 住職。高野山真言宗大僧正・伝灯大阿闍梨。 俗名・鮫島 正純(さめじま まさずみ)。 戦後初のクーデター未遂である三無事件に連座。三無事件(さんむじけん・さんゆうじけん)は、1961年12月12日に日本で発覚したクーデター未遂事件。 旧日本軍の元将校らが画策した事件で、初めて破壊活動防止法の適用により、有罪判決が下された。池口は不起訴。 池口は、単立烏帽子山最福寺法主。 同寺には弁才天(高さ18.5メートル)と、北朝鮮の初代指導者である金日成主席を尊敬する意 から金日成主席観世音菩薩が鎮座している。 金日成観世音菩薩ソース http://www.saifukuji.or.jp/ekan_history.html ←平成22年11月を確認! 現総理である安倍晋三など多くの政治家と親交があることから永田町の怪僧の仇名がある。サウスチャイナ・モーニング・ポストは暴力団関係者であり、指定暴力団住吉会や指定暴力団九州誠道会と密接な関係にあると報じた。
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62 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 10:44:33.40 ID:HNpPiPJU0 - 安倍が推進する積極的平和主義は、罠だ。
安倍の最大の外交ブレーンで安倍の外交「積極的平和主義」の提唱者の伊藤憲一が、韓国を軸とするアジア共同体主義者なことが判明! 「東アジアの統合を先導する国は韓国だ」と 強調 東アジア共同体評議会議長伊藤憲一氏 http://www.ceac.jp/j/officers_list.htm
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64 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 10:45:19.96 ID:HNpPiPJU0 - 未だに賠償ビジネスで慰安婦を喧伝しているのは薩摩帰化人の戦犯の東郷茂徳の孫の東郷和彦。
国費謝罪を主張し安倍の償い金10億円謝罪のベースになった。 東郷重徳の双子の孫の東郷和彦は、外務省に入り、慰安婦問題を担当し条約局長までなった。2001年、在オランダ日本国全権大使になり、2009年オランダ、ライデン大学で博士号取得。 なんと、東郷が赴任中のオランダでは、2007年にはオランダ下院慰安婦問題謝罪要求決議が決議された。 現在では大学教授となり、「慰安婦問題解決の第一歩は政府予算による償い金」という主張をしている。 https://www.amazon.co.jp/歴史認識を問い直す-靖国、慰安婦、領土問題-角川oneテーマ21-東郷-和彦/dp/404110453X
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67 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 10:46:07.85 ID:HNpPiPJU0 - 「討薩檄」(とうさつのげき)は、戊辰戦争に際し、米沢藩士・雲井龍雄が全軍の士気を鼓舞するために起草した檄文。
薩摩は、最初攘夷を主張して、幕府の開国を貶めて批判していたのに、自分が権力を握ると開国を主張し始めた。 なんの一貫性もなく、当初攘夷を主張していたのは自分の野望を遂げるためであった。この罪を問わなくてはならない。 鳥羽伏見の戦いも、もし本当に正当な戦争を起こそうとするならば、天下の公論を定めて、罪を明らかにしてから起こすべきなのに、 急に錦の御旗を利用して策謀によって幕府を朝敵に陥れて戦争を起こし、諸藩を脅迫してさらなる戊辰戦争に駆り立てている。 薩摩の軍隊は、東日本に侵攻して以来、略奪や強姦をほしいままにし、残虐行為は限りない。 しかるに、官軍を名乗って、それを太政官の規則と称している。これは、今の天皇に暴君の汚名を負わせるものだ。 その罪を問わなくてはならない。 諸般の、親子兄弟同士のいろんな大名たちを戦争に駆り立てさせている。そのことを、飾り立てた言葉で正当化しているけれど、 これこそ最も残酷な道徳に反することだ。その罪を問わなくてはならない。 道徳を破壊し、長い伝統や制度を破壊している。 再三朝廷にその不当を訴えてきたが、天皇にはその旨は届かなかった。 もし、手をこまねいて薩摩を討たなければ、天下はどうして再び晴れることがあろうか。 よって、勝ち負けや利害を問わずに、この義挙を主張する。天下の諸藩は、もし本当に忠や誠を持っているならば、 奥羽列藩同盟に協力して、日本のために薩摩を倒し、失われた道義を復活させ、万民を塗炭から救い、外国からの侮りを絶ち、 先祖たちの心を安んじて欲しい。天下の諸藩は、勇気ある決断をして欲しい。
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70 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 10:46:57.18 ID:HNpPiPJU0 - そもそも江戸時代の朝鮮朱子学からきた儒家神道を起源とする国家神道は、新興宗教に近い。
ちなみに、靖国は完全な新興宗教。 神仏分離だけじゃなく江戸時代半ばから明治初期に多くの神社で祭神変わっているんだよ。 「合祀令」で検索。 有名なとこでは神田明神なんて平将門は本殿からはずされた。 また、品川神社は江戸時代は牛頭天王が祭神だった。出雲大社ですら江戸半ばに祭神が変更をされてる。 記紀神話の天皇につながる神以外はジェノサイドされたんだよ。 そして新興宗教の靖国とか作られた。 それぞれの神社の古地図をみろ。名前も祭神も違う。あなたの知識は改変後の神道を古来の神道とするものでしかない。 品川神社が牛頭天王だった話。 http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/hp/page000010700/hpg000010623.htm 神田明神に平将門が居なかった話。 http://www.news-postseven.com/archives/20121228_162646.html 出雲大社の祭神がスサノオだった話。 http://www.izumo-murasakino.jp/yomimono-010.html
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71 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 10:47:30.73 ID:HNpPiPJU0 - 神道は日本の神仏混淆の伝統宗教に朝鮮朱子学が背乗りしてできた新興宗教。
大義名分論を強調した李退渓の学説は、その系統を嗣ぐ姜(カンハン)という学者が、16世紀末に日本の捕虜となって日本に連れて行かれ、後に京都に招かれて藤原惺窩と交流し、強い影響をあたえた。 藤原惺窩によって取り入れられた朱子学は林羅山らによって江戸時代の公認の学問とされることになった。 そして儒教側からも「儒家神道」と呼ばれる合体論が多く生まれたのである。江戸初期の朱子学者である藤原惺窩にはじまり、その門人の林羅山によって、 神道と儒教の一致を説く思想が積極的に提唱された。羅山はその著『本朝神社考』の序文において、 従来の本地垂迹説や神仏混淆説を批判し、「日本が神国であり、神武天皇が天神(あまつかみ)のあとを継ぎ、その道を広めた。これがすなわち神道であり、王道である」とし、この王道こそはシナの聖賢の道と同一のものであることを唱えた。 この「神道即王道」の観念によって神儒一致論を主張した羅山は、その考えを『神道伝授』において一歩進め、自らその神道説を「理当心地神道」と名づけたのである。 http://www.heisei-shin.com/writings_box/religion_page/religion_26_3.html
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74 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 10:50:41.44 ID:HNpPiPJU0 - 天皇崇拝および日本崇拝(忠君愛国教)は、その日本の新しき宗教であって、もちろん自発的に発生した現象ではない。
二十世紀の忠君愛国という日本の宗教は、まったく新たなものである。 一般の人民はなおも仏教に対して愛情を抱いていたし、一般の祭礼も仏式であり、死者を葬るところも仏寺であった。 しかし支配階級はこのすべてを変えようとした。天皇は太陽女神の直系の子孫であり、彼自身は地上の生き神 (現神 あきつかみ)で あって、自分の臣民に対して絶対的な忠誠を当然に要求できるものである、という神道の教義を主張した。 神話と古代史と称するものが同一の書物に記載され、どちらにも同じようにありうるべからざる奇蹟が麗々しくでて いる。年代記は明白に虚偽である。古代の天皇の口から出たという勅語は、中国の古典から抜粋した寄せ集めである。 日本国民は、その支配者の超自然的美徳にあやかるところがあって、『武士道』と称して、劣等の国々には知られて いない高尚なる騎士道によって特に秀でていると主張している。 官僚階級があらん限りの力を 用いて組み立てようとしている思想の構造は、以上のごとくものである。 『日本事物誌』バジル・ホール・チェンバレン http://masterlow.net/?p=2012
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75 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 10:51:12.47 ID:HNpPiPJU0 - 朝鮮帰化人陶工集落の美山がある日置市ではいまだ廃仏棄釈をしてる。
明治維新という偉業の影で、今日まであまり語られることのなかった廃仏毀釈。 以下、仏教側の嘆き ここ薩摩、鹿児島県では、神仏分離令により、庶民の信仰の寺はもちろん、修剣道、歴代薩摩藩主が保護してきた島津家ゆかりの禅寺までことごとく破壊されました。 曹洞宗、島津義弘公菩提寺妙円寺、島津家歴代藩主菩提寺福昌寺、 大本山総持寺の末寺、皇徳寺・慈眼寺・島津貴久公の南林寺(大中寺)・ 出水の竜光寺・豊久の天昌寺・しんこ団子発祥の深固院、臨済宗の由緒ある禅寺、感応寺、真言宗の大寺、一乗院、そして篤姫の生家、今和泉島津家の菩提寺、光台寺も…。 この鹿児島の特異な寺壊しの原因は、一部の神道派薩摩役人と、歴代島津氏の圧倒的な仏教信仰により、 明治まで身分が低く、僧侶の下に置かれていた、明治政府の神仏分離令に乗じた神官(神主・宮司)達の先導による反乱だったようです。 あの明治初期のファナティックな神道派による寺こわしの中で、例えば日置市の徳重神社に関して言えば、 なぜ神仏分離に矛盾する行為、つまり妙円寺を焼き払った後、島津義弘公の仏像を欲しがり、無理矢理、御神体としたのでしょうか…私には解せません。 そして“妙円寺参り”または“妙円寺詣り”と称し、当寺の寺号を無断で使い徳重神社に参る。 徳重神社は妙円寺の如く振舞う。更に驚くことには、日置市伊集院町という自治体も、徳重神社をまるで妙円寺のように語り、徳重神社隣に明治13年には復興した妙円寺は無きものにする。 という理不尽で滑稽な行事が、100年以上、平成19年現在でも続けられているのです。 廃仏毀釈とは本当に過去のものなのでしょうか。 http://myoenji.jp/haibutukisyaku.html
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76 :名無しさん@1周年[]:2017/01/08(日) 10:51:40.02 ID:HNpPiPJU0 - 神道と統一教会を一体化しようとするものもいる。
▲伍堂輝雄(JAL=日本航空元会長) 「八紘一宇」は、日本の建国の精神であると同時に、神道の根本理念である。 中略) それは、統一教会の創始者・文鮮明師の理想とされる世界の諸宗教の融和ないし統一とその根底において一致するものである、と私は考える。 http://www.chojin.com/person/jp.htm
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