- 【蝦夷】薩長への恨み、未だ消えず? 安倍政権が東北で「不人気」の謎★8©2ch.net
683 :名無しさん@1周年[]:2016/08/08(月) 23:16:36.23 ID:d8x7fZQr0 - 今こそ、日本人は維新の真実を知るべき。明治の原動力になった長州や薩摩は日本の朝鮮化した地域だったんだよ。
実は、明治維新自体が、イギリスがロシアと対抗するために朝鮮人を操って 実行したクーデターだった。 まず、薩長がイギリスと戦争して負けて藩内クーデター起きてるだろ。 イギリス人は陶器貿易で、朝鮮人が下級武士になっているのを知ってたんだよ。 そいつらを利用した。 長州は、戦国時代まえから守護や戦国大名自体からして、百済王の子孫を称する大内氏や陶氏など帰化人だらけだった。 何しろ長州人は本人たちが朝鮮人の子孫と思っていたから、安土桃山時代に朝鮮出兵した際に降伏した朝鮮人捕虜を連れて帰ってきてどんどん仕官させている。 だから、江戸時代の長州藩士も帰化人だらけ。 例えば、長州藩の御典医の「李家」は、李氏朝鮮の武臣李慶甫の子孫が御殿医として長州藩に仕えた。 子孫の李家 隆介(慶応2年8月(1866年) - 1933年7月23日)は、日本の内務官僚となり、県知事、錦鶏間祗候、下関市長となった。 下関にリトル釜山がありウォンが通用するのも当然だ。 薩摩の奴らには大久保やら鹿児島市高麗町出身がいる。 で、現在、西郷隆盛の子孫の西郷隆文は日置市で窯元を営み、鹿児島県陶業協同組合初代理事長なんだ。 信じがたいだろうけど、大久保利通や西郷隆盛の嫡男の西郷寅太郎も朝鮮出兵の時に連れてきた薩摩焼の陶工を集めた鹿児島市高麗町の出身。生家は百メートルも離れていない。 1600年代の半ばから後半には高麗町の陶工は郊外の日置市に集団移転した ことになっているが、その最後のタイミング(1680年代)で大久保の先祖も高麗町から郊外に移転している。しかし100年後後にまた高麗町に戻っている。 http://ichikikushikino-takara.net/takara/2013/05/post-18.html また、西郷も大久保も1600年代半ばに薩摩藩に先祖が仕官しているが、先祖は仕官前の数代は不明。 大久保利通の父の利世は、琉球貿易のための琉球館の通関職員だった。 薩摩は漂着を偽装した朝鮮との密貿易もしていたから朝鮮語か広東語を話せただろう。 天保13年(1842年)、この年までは高麗町に住んでいたことが、『鹿児島城下絵図散歩』で判る。後に琉球館付役に就任、琉球館内の屋敷に転居。 彼らの家系図は適当に繋いだ偽物の可能性が高い。
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684 :名無しさん@1周年[]:2016/08/08(月) 23:17:00.70 ID:d8x7fZQr0 - 豊臣期に起こった朝鮮の役後、九州や長州などの大名たちはこぞって陶工たちを連れて来ました。 豊臣期に起こった朝鮮の役後、九州や長州などの大名たちはこぞって陶工たちを連れて来ました。
渡来の時期については各藩によって異なっているようです。肥前では文禄年間、豊前・筑前では慶長年間に渡来したという説が有力だそうです。 薩摩にあっては、文禄の役の際に若干の者が来ているようですが、渡来陶工の大多数は慶長3年(1598)頃に渡来しているようです。 その後、陶工たちは単なる捕虜ではなく、技術者として破格の待遇を受けていたそうです。 ■ 薩摩のはじまり 陶工の上陸地、渡来数、氏名などについては諸説あって必ずしも一致していないそうです。 ここでは『江戸時代人づくり風土記㊻鹿児島』を参照しました。 慶長3年(1598)、朝鮮陶工たちは四つの地点に上陸したそうです。 1.串木野市島平に43人 2.旧東市来町神之川に10人余り 3.鹿児島市の前之浜(旧喜入町の前之浜ではありません)に20人。 この20人は、高麗町(鹿児島市)に住むようになったようです。 この中に李金光という人物がありましたが、朝鮮国王の親族ということから朝鮮へ送り帰したそうです。 4.旧加世田市小湊に数人の陶工とその家族 渡来した陶工たちに、しばらくの間援助が差し伸べられることはなく、大変な苦労をしたようです。 というのも、当時の薩摩は朝鮮出兵の後始末、庄内の乱、関ヶ原の戦後処理など問題が山積していたからでした。 それでも、串木野に上陸した43人は自活していったようです。 ■ 薩摩焼最初の窯と苗代川 串木野島平に上陸した43人は、農業のかたわら島平東方の丘陵地に「串木野窯」を開きました。 慶長4年のこと、これが薩摩焼最初の窯となるそうです。 しかし、半農半陶の生活は周辺住民との間に諍いを生むようになったそうです。 慶長10年頃、串木野窯を操業しながら、周辺で粘土や釉薬となる原料を探していました。 そうして、苗代川を新たな移住地とし、藩の保護を受けて朝鮮式の「元屋敷窯」を築いたそうです。 翌年には朴平意が庄屋となり、陶工たちの生活はしだいに安定していきました。 元和2年(1616)には、苗代川の陶工3人を琉球へ派遣して琉球焼の指導に当たらせました。琉球王尚豊が、陶工派遣方を薩摩に要請したものだそうです。 琉球へ渡ったのは張一六・安一官・安二官の3人。 このうち張一六だけは琉球に残り、名前を仲地麗伸(なかちれいしん)と改めました。 仲地は雍正8年(享保10)、新禄を賜ったそうです。 元和9年頃、朴平意の長男貞用(ていよう)は白薩摩の原料を薩摩で発見するに至りました。原料となる粘土には指宿の白土と加世田の軟弱陶石、釉に津貫(南さつま市)の京之峯石を発見、白薩摩の製造が可能となったのでした。 寛文9年頃になると、相当安定したらしく、藩は城下高麗町にいた25家族の生活を安定させるため苗代川に移住させました。ここに「五本松窯」を築かせたそうです。 寛文12年頃には、苗代川の中心となる御仮屋が設けられ、藩主島津光久公がたびたび訪れるようになったそうです。 その後、苗代川は活況にあふれるとともに人口も増えてきました。そこで藩では、宝永元年(1704)34家族160数人を鹿屋笠野原に移住させ、「笠野原窯」を築かせたそうです。 苗代川は、藩直営の窯として操業され、製陶技術の開発が進んでいったようです。 そうして白薩摩や黒薩摩のほかに染付白磁も焼いていたそうです。 これ以降明和元年(1764)の御定式窯、弘化3年(1846)の南京窯の築造がありましたが廃藩によって保護がなくなり頓挫してしまいました。 明治にはいると玉山陶器会社という組織をつくりましたが、西南戦争に陶工たちが参加して戦死したことによって壊滅的な影響を受けてしまいました。 しかし、沈寿官や鮫島訓石、東郷寿勝などの窯から、慶応3年(1867)のパリ万国博覧会へ朴正官の大花瓶を出品。 また明治6年(1873)のウィーン万博博覧会に沈寿官の大花瓶の出品などによって、薩摩焼は欧米で大人気を得たそうです。
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685 :名無しさん@1周年[]:2016/08/08(月) 23:18:13.72 ID:d8x7fZQr0 - 信じがたいが、朝鮮帰化人陶工集落の美山がある日置市ではいまだ廃仏棄釈をしてる。
明治維新という偉業の影で、今日まであまり語られることのなかった廃仏毀釈。 以下、仏教側の嘆き ここ薩摩、鹿児島県では、神仏分離令により、庶民の信仰の寺はもちろん、修剣道、歴代薩摩藩主が保護してきた島津家ゆかりの禅寺までことごとく破壊されました。 曹洞宗、島津義弘公菩提寺妙円寺、島津家歴代藩主菩提寺福昌寺、 大本山総持寺の末寺、皇徳寺・慈眼寺・島津貴久公の南林寺(大中寺)・ 出水の竜光寺・豊久の天昌寺・しんこ団子発祥の深固院、臨済宗の由緒ある禅寺、感応寺、真言宗の大寺、一乗院、そして篤姫の生家、今和泉島津家の菩提寺、光台寺も…。 この鹿児島の特異な寺壊しの原因は、一部の神道派薩摩役人と、歴代島津氏の圧倒的な仏教信仰により、 明治まで身分が低く、僧侶の下に置かれていた、明治政府の神仏分離令に乗じた神官(神主・宮司)達の先導による反乱だったようです。 あの明治初期のファナティックな神道派による寺こわしの中で、例えば日置市の徳重神社に関して言えば、 なぜ神仏分離に矛盾する行為、つまり妙円寺を焼き払った後、島津義弘公の仏像を欲しがり、無理矢理、御神体としたのでしょうか…私には解せません。 そして“妙円寺参り”または“妙円寺詣り”と称し、当寺の寺号を無断で使い徳重神社に参る。 徳重神社は妙円寺の如く振舞う。更に驚くことには、日置市伊集院町という自治体も、徳重神社をまるで妙円寺のように語り、徳重神社隣に明治13年には復興した妙円寺は無きものにする。 という理不尽で滑稽な行事が、100年以上、平成19年現在でも続けられているのです。 廃仏毀釈とは本当に過去のものなのでしょうか。 http://myoenji.jp/haibutukisyaku.html
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688 :名無しさん@1周年[]:2016/08/08(月) 23:18:49.09 ID:d8x7fZQr0 - 会津武士道をふくめ江戸から明治にかけての朱子学も武士道も神道も朝鮮の影響が強く、日本の伝統ではない。
特に明治維新以降の国家神道は、日本の伝統神道を破壊して出来た新興カルト。 日本の伝統に反する国家神道を進める神社本庁は解体されるべきだと思う。 下剋上ありの武士道と神仏習合こそ朝鮮の影響なしの日本の伝統だから神仏習合に戻るべき。
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689 :名無しさん@1周年[]:2016/08/08(月) 23:19:14.51 ID:d8x7fZQr0 - まず、江戸時代の朝鮮朱子学からきた儒家神道を起源とする国家神道は、新興宗教に近い。
ちなみに、靖国は完全な新興宗教。 神仏分離だけじゃなく江戸時代半ばから明治初期に多くの神社で祭神変わっているんだよ。 「合祀令」で検索。 有名なとこでは神田明神なんて平将門は本殿からはずされた。 また、品川神社は江戸時代は牛頭天王が祭神だった。出雲大社ですら江戸半ばに祭神が変更をされてる。 記紀神話の天皇につながる神以外はジェノサイドされたんだよ。 そして新興宗教の靖国とか作られた。 それぞれの神社の古地図をみろ。名前も祭神も違う。あなたの知識は改変後の神道を古来の神道とするものでしかない。 品川神社が牛頭天王だった話。 http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/hp/page000010700/hpg000010623.htm 神田明神に平将門が居なかった話。 http://www.news-postseven.com/archives/20121228_162646.html 出雲大社の祭神がスサノオだった話。 http://www.izumo-murasakino.jp/yomimono-010.html
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693 :名無しさん@1周年[]:2016/08/08(月) 23:20:42.25 ID:d8x7fZQr0 - 笑えるw
靖国神社の宮司は無資格の元電通マンでもなれる。 http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1264725 ◆毎日新聞:インタビュー記事「靖国神社第9代宮司の南部氏に聞く」(2004/12/29)(ネットソース) 今年9月に靖国神社の第9代宮司に就任した南部利昭氏(69)に現状と課題を聞いた。 明治維新で「賊軍」とされ(中略)広告代理店電通に約23年間勤務したという異色の経歴の持ち主だ。〔略〕
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694 :名無しさん@1周年[]:2016/08/08(月) 23:21:04.77 ID:d8x7fZQr0 - 靖国神社は薩長帰化人グループが作った明治からの新興宗教w
江戸時代以前に「英霊」という熟語はない。 日本にも漢籍にも。 反論あるやつは過去の事例もってこいよw 東大史料編纂所 http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/db.html と 台湾の漢籍全文資料庫 http://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/ihp/hanji.h で検索! 「英靈」も調べてみろよw 国のために死んだ「英霊」の例なんてないw 驚いたかw 英霊って、日本の伝統とかに関係ない造語だったんだ! 明治の人もびっくりしただろうな。 平成の俺らが急に「国のために死んだら秀霊になるから祀ってやるよ!」って言われてびっくり!「秀霊ってなんだよ?」 みたいな感じw 全く新しい祭神の宗教の教義を言われたんだからなwww
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696 :名無しさん@1周年[]:2016/08/08(月) 23:21:47.41 ID:d8x7fZQr0 - 戦前は靖国では戦前は天皇陛下の勅許を経て祭主を陛下として、英霊は靖国に合祀だった。
戦後、陛下の意思に反して合祀したのだから連続性はない。 天皇陛下の意思に反して松岡や白鳥を合祀し、 批判されると、分祀を神道で他の神社に実例が一社もない教理で否定する靖国は、もはや伝統から逸脱した新興カルト というのが実態だな。
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699 :名無しさん@1周年[]:2016/08/08(月) 23:22:28.49 ID:d8x7fZQr0 - 「靖国神社は朝鮮カルトだ」 !
靖国神社の前身は長州の「招魂社」だ。 「招魂」とは神道ではなく、朝鮮朱子学の葬礼儀式だ。死人の魂をこの世に留めて守り神のような「鬼」として使役するための儀式だ。 「死して護国の鬼になる」と言うだろ。 これが「招魂」の効果だよ。 「招魂 朱子学 朝鮮」で検索。 日本の朱子学は朝鮮出兵時の捕虜となった官人 姜の伝えた朝鮮朱子学。 「朱子学 林羅山 姜」で検索。 朝鮮朱子学を取り入れていたのが長州と薩摩藩。 長州も百済王の子孫を称する大内氏や陶氏など帰化人だらけだった。 例えば、長州藩の御典医の「李家」は、李氏朝鮮の武臣李慶甫の子孫が御殿医として長州藩に仕えた。 子孫の李家 隆介(慶応2年8月(1866年) - 1933年7月23日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、錦鶏間祗候、下関市長。 下関にリトル釜山がありウォンが通用するのも当然だ。 因みに驚くだろうが乃木希典も朝鮮人捕虜の子孫。 「乃木希典 朝鮮人」で検索。 また、薩摩も朝鮮朱子学を徹底し、維新前から寺を壊したから今も鹿児島には寺がほとんど無い。 「鹿児島 寺 仁王 壊された」で検索。 まあ、寺を潰しまくり現在も寺の無い朝鮮と同じだ。廃仏棄釈は朝鮮化現象だったんだよ。 薩摩の朱子学は朝鮮出兵の時の捕虜が伝えた。薩摩では捕虜の子孫は、幕末まで朝鮮語や服装を維持し藩の通訳や官窯の職人として郷士待遇だった。 「薩摩 朱子学 陶工」「薩摩 陶工 唄い」で検索。 薩摩での朝鮮人子孫で著名なのは太平洋戦争時の外務大臣の東郷茂徳。 「薩摩 東郷茂徳」で検索。 薩摩と長州は日本の朝鮮化した地域だったんだよ。でその両藩のカルト宗教施政が招魂社であり靖国神社なんだよ。
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701 :名無しさん@1周年[]:2016/08/08(月) 23:24:49.74 ID:d8x7fZQr0 - やたら「会津武士道ガー」とか「会津厨長州厨の争い」とか騒ぐ奴がいるが、そもそも
「薩長↔会津武士道」 って二項対立が思考のワナなんだ。 だいたい、帰化人でない薩長の武士は西南戦争と萩の乱で死んだ。また、帰化人グループは東京に出たから鹿児島や山口は首都にもならず普通の地方でしかない。 本質は、 「薩長帰化人グループ↔一般日本人」 だよ。 日本は、薩長帰化人グループをナチ同様戦争責任で除去するべきだった。 ドイツは国民とナチを分けてナチを除去して国民は騙された被害者として整理した。 日本は国民と戦犯を分離せず、靖国に合祀したりするから戦争責任が国民に付きまとっている。 悪いのは薩長帰化人グループと明確にして国民から分離すべき。 薩長帰化人の故地回復レコンキスタの犠牲のだから一般日本人はドイツ以上に騙されていたのだから。
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704 :名無しさん@1周年[]:2016/08/08(月) 23:26:15.63 ID:d8x7fZQr0 - 日本人は今こそ知れ!
日本人が被害者!朝鮮帰化人が加害者! 外務省の薩摩の帰化人血脈が日本を対米戦争に誘導し敗戦させ慰安婦問題をつくりだした。 何百万もの日本人が殺された。 特攻に行かされ、原爆で焼かれた。 日本人こそ朝鮮人支配の被害者。 帰化人子孫の東郷茂徳がルーズベルト親電を握り潰し開戦になった。宣戦布告も遅れた。 そしてその血脈はユダヤ人と融合し、朝日新聞と外務省に流れている。 まさに恐ろしい暗部だ。 日本は朝鮮系帰化人とコミンテルンによって日米開戦に誘導されたのだ。 朝鮮独立と敗戦革命狙いだったんだよ。だから若い男を特攻させたし本土決戦したがった。 ルーズベルトの電報や日本の宣戦布告の伝達をワザと遅らせ開戦させた外務大臣の東郷 茂徳は朴という朝鮮人陶工の子孫。 A級戦犯として靖国に祀られている。 東郷茂徳は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に捕虜になり島津義弘の帰国に同行した朝鮮人陶工の子孫である。陶工達が集められた「苗代川」(現在の日置市東市来町美山)と呼ばれる地域では幕末まで朝鮮語が使われていた。 薩摩藩は苗代川衆を保護、優遇し藩内の身分は士分とした。父・朴寿勝は優れた陶工で、横浜や神戸にも積極的に出かけ、外国人にも焼き物を売り込む実業家としての手腕にも長けていた。 で、郷士株を金で買った。 夫人はユダヤ系ドイツ人のエディ・ド・ラロンド(婚約後に「東郷エヂ」と改名)。 外務省事務次官を務めた東郷文彦は女婿。 双子の孫は外務省と朝日新聞。 外務省の東郷和彦は、外務省で慰安婦問題担当し国費謝罪を主張。 朝日新聞の茂彦は、ちびくろサンボ問題提起記事執筆、雅子妃殿下ご成婚スクープし、 少女に痴漢で逮捕実刑。
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705 :名無しさん@1周年[]:2016/08/08(月) 23:26:48.90 ID:d8x7fZQr0 - 外務省に代々巣食う薩摩の朝鮮系帰化人の東郷一族7つの大罪。
・東郷重徳は、回答期限は付いておらず、「暫定」「交渉基盤」とある単なる強い調子の交渉文であったハル・ノートを「最後通牒」であると偽りの上奏を行った。これを受けた御前会議の決定によって太平洋戦争開戦決定となった。 ・東郷重徳は、陛下宛のルーズベルト親電を握り潰し開戦になった。宣戦布告も遅れ日本が騙し討ちしたことになった。 ・東郷重徳は、小磯国昭内閣で重光葵外相が進めたスウェーデンを仲介者とする和平工作を打ち切ち切った。 ・仮想敵国で対日参戦を伺っているソ連を和平仲介に選び、ポツダム宣言発表後もソ連仲介の和平に固執し続けた。 ・東郷重徳は、ポツダム宣言は拒絶せず少なくともソ連から返事が来るまで回答を延ばすように待つという意見を述べ、それが採用された。その結果、ポツダム宣言の対応が遅れ、2発の原爆投下とソ連の対日参戦を招いた。 ・東郷重徳の双子の孫の東郷和彦は、外務省に入り、慰安婦問題を担当し条約局長までなった。2001年、在オランダ日本国全権大使になり、2009年オランダ、ライデン大学で博士号取得。 2007年にはオランダ下院慰安婦問題謝罪要求決議が決議された。現在では大学教授となり、「慰安婦問題解決の第一歩は政府予算による償い金」という主張をしている。 ・東郷重徳の双子の孫の1人東郷茂彦は、朝日新聞の記者となり、ちびくろサンボ問題提起記事執筆し、雅子妃殿下ご成婚を外務省からリークを受け報道、国会見学に来た少女に痴漢で逮捕。
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709 :名無しさん@1周年[]:2016/08/08(月) 23:27:48.39 ID:d8x7fZQr0 - 何故東郷は大日本帝国を滅亡させたか分かる記事。
東郷茂徳 (とうごうしげのり) 韓人の子孫として 1882年12月10日、東郷茂徳は鹿児島に生まれた。詳しく言えば、伊集院村苗代川の出身である。 ここは鹿児島ではあったが、異国の集落であった。三百年程も昔、豊臣秀吉が朝鮮遠征に兵を出した時、薩摩の島津義弘公が韓人の陶工数百名を連れて帰ってきた。その子孫が住み着いた村であったのだ。 茂徳も、子供の頃の姓は朴という韓国姓。富裕な陶器商人であった父が、困窮した武士からその株(武士となる権利)を買って、東郷の姓に変えたのである。 ここの陶工たちが製造する薩摩焼は、高い評価を受けており、薩摩藩では彼らの技術を高い水準に保つため、手厚く保護した。 藩内では尊敬され、一目置かれる存在であったのだ。誇り高き人々で、江戸時代まで、韓式の衣装をまとい、韓国語を話していた。 しかし、明治になって様相は一変した。近代化を推し進めた結果、近代化の遅れた中国や朝鮮を侮蔑する差別感情が生まれた。 鹿児島も例外ではない。かつては敬称であった苗代川出身という立場は、侮蔑の対象に成り下がったのである。 時に暴力を伴ったこの差別感情は、少年の心を傷つけた。同じ日本人なのに、なぜ殴られなければならないのか。 三百年前の出自のゆえに受ける差別。溢れ出る屈辱感に茂徳は耐えなければならなかった。それを忘れようとひたすら勉学に打ち込んだ。彼の成績は常に首席であったという。 差別の壁 東京帝大(現在の東大)に入学した東郷は、ドイツ文学科へ進んだ。いずれ小説家にでもなろうとした。受けてきた差別ゆえに、人生の意味を探求せずにはおれなかったのだ。 人生の進路を変える事件が起こる。在学中、肺結核を患い、療養生活を余儀なくされた時のことだ。彼は1年間大学を休学し、日光の中禅寺湖で療養生活を始めた。ふとしたことから一人の女学生と出会う。 名は美津、一流旅館の娘である。生まれて初めて東郷は、女性に恋心を抱いた。美津に会っていると、過去の苦い思い出も吹き飛び、病気療養の身であることも忘れてしまう。 生きる力が漲り溢れてくるのを感ずるのであった。 療養生活を終えた後も、美津との交際は順調に進み、結婚を約束する仲になっていた。全てが順風満帆、後は美津を迎えるだけである。彼は美津の両親に長文の手紙を書き、結婚を申し入れた。しかし3ヶ月経っても返事はなかった。 実は、美津の両親は興信所(身許などを秘密に調査する会社)を使って、東郷家の身許を調べ上げていた。 彼らは三百年前の先祖の血を問題にして、この結婚を阻止したのである。このことが東郷に与えた衝撃は大きかった。忘れかけていた少年時代の傷が生々しく蘇ってくる。 理不尽な差別の壁を前にして、立ちすくむばかりであった。 美津との破局は、東郷に一大決心をもたらした。差別の壁が厳然としてある以上、そこから逃げるわけにはいかない。 正真正銘の日本人になろう。それには命がけでこの国のために貢献するしかない。まず文学を捨てる決断をした。現実の世界で貢献するためである。そして当時日本で最難関とされた外交官試験に挑戦し、3度目にして合格した。 http://ifsa.jp/index.php?togoshigenori
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712 :名無しさん@1周年[]:2016/08/08(月) 23:28:27.35 ID:d8x7fZQr0 - 帰化人東郷のサボタージュにより開戦になった。
「ルーズベルト親電」伝達遅れ、GHQ徹底調査 ルーズベルト元米大統領 終戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)のため、連合国軍総司令部(GHQ)に設置された国際検察局が、 昭和16(1941)年の日米開戦直前にルーズベルト米大統領から昭和天皇に宛てた親電の伝達が遅れた経緯を詳しく調査していたことが、7日公開の外交文書で明らかになった。 GHQは昭和天皇が親電を早期に受け取ったら「戦争は避け得ることができた」と認識しており、 外務省職員らへの事情聴取は開戦当時の東郷茂徳外相が親電伝達を意図的に遅らせたとして「同大臣の開戦責任に関する証拠固めを目的とするもの」としている。 職員への尋問は21年8月1日実施。同日付文書によると、国際検察局の担当者2人が外務省を訪れ、 開戦前日の16年12月7日に同省電信課で勤務していた電信官2人から話を聞いた。 検察局側は、外務省が親電の写しを入手し開戦準備を進める陸海軍に報告していたため時間がかかったと推測、 尋問で東郷氏に言及した。親電が速やかに天皇に手渡されれば「戦争は避けることができたに違いない」と感じていたようだとの電信官の尋問後の感想が記されている。 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130307/plc13030712510009-n1.htm
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