- 【バチカン】ローマ法王、死刑一切認めず カトリック教会、立場変更[08/02]
110 :七つの海の名無しさん[]:2018/08/05(日) 19:33:16.69 ID:vOm1k0NW - >>43
台湾辺りでは、台湾を領有試みたオランダは、倭人と漢人のハーフの海賊に、追い出されたからね。 当時漢人は、マダガスカルや喜望峰を回って貿易さえしていた。 フィリピンでさえ、南部フィリピンは、ミンダナオ島は先にムスリム商人の布教によって、 かなり前からイスラム化していたので、キリスト教に対する耐性が付いていた。 だから、その後のスペイン帝国の統治でも、ミンダナオでは300年間、 山の中の部族連中を、スペインはついに屈服させる事は出来なかった。 ムスリムの進出がまだ浅かったセブ島辺りでも、マゼランはムスリムの酋長に殺されたしね。 アジアは少なくとも、西欧が産業革命を経るまで、植民地化することは不可能だった。 産業革命によって、絶え間ない圧倒的物量による武器生産・武器の消費、兵站の確保が可能になったから。 むしろマニラに居たのが、斜陽になりつつあった帝国スペインだったのは、 日本を含む東アジアにとって幸運だったとすら言える。 もし、アルマダ海戦に勝利した、後進の帝国、大英帝国の拠点がマニラにあったら、 幕末の日本への圧力は、とんでもない事になっていただろう。 史実では、19世紀半ばのアヘン戦争とアロー戦争で、清朝の港を制圧して、 ようやく東アジアの植民地化戦争を遂行する為の拠点を確保したところだった。 17世紀〜18世紀にかけても、ヨーロッパはまだまだ先進諸国とは言い難かった。 あの地域の当時の先進国と言えば、オスマントルコ帝国。 西洋の本拠地であり、西洋文化の都とも言えるウィーンは、1699年迄、オスマン帝国に何度も包囲されていたほど。 インカ文明が、わずか100名のスペイン人の謀略によって滅んだのは、 文明の発展度の問題もあるが、それ以上に不運があった。 300人で補給のないスペイン人が、ガチでインカ帝国の軍隊と戦争していたら、 簡単に全滅していただろう。 インカ側の、「今年は滅びの年である。白い神が到来する。」って信仰もあって、 白人のピサロを神が到来したのだと誤認してしまった。 また、その誤認をもピサロは活用して、王様に付け込んだ。 ある意味、一種のクーデター的な方法で、王を直接人質にした。 https://www.y-history.net/appendix/wh0901-042.html
|