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七つの海の名無しさん
【イラク】フセイン時代、懐かしむイラク市民 テロ・汚職に失望 [無断転載禁止]©2ch.net

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【イラク】フセイン時代、懐かしむイラク市民 テロ・汚職に失望 [無断転載禁止]©2ch.net
34 :七つの海の名無しさん[]:2016/09/13(火) 11:33:51.16 ID:L3Hx6U5M
サダムの2人の息子は、馬鹿息子だったから、未来は暗かったよ。

サダムノ息子達2人は、街で美人のイラク娘をナンパして、断られると
腹いせに、超法規的処置で処刑していたからな・・・・
【イラク】フセイン時代、懐かしむイラク市民 テロ・汚職に失望 [無断転載禁止]©2ch.net
35 :七つの海の名無しさん[]:2016/09/13(火) 11:37:22.36 ID:L3Hx6U5M
 イラク共和国大統領サダム・フセインの長男として、父親の権力を背景に極悪非道の限りを尽くした暴君ウダイ。
 その影武者として生きることを余儀なくされた男、ラティフ・ヤヒア氏の自伝を映画化した『デビルズ・ダブル −ある影武者の物語−』
 映画公開された。これを機にヤヒア氏が来日。インタビューに応じた。


 『デビルズ・ダブル −ある影武者の物語−』では、ウダイの常軌を逸した行動が描かれ、観客の背筋を凍らせる。
例えば街中で目を付けた女子高生を拉致し、死へと至らせる。
結婚式のさなかに花嫁を強姦し、自殺へと追い込む。
父親の側近をパーティーの最中、客の面前で斬殺……。そのありさまはエジプトのムバラク前大統領に「異常者」と言わしめたほどだ。

http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20120112/1039309/?rt=nocnt
【イラク】フセイン時代、懐かしむイラク市民 テロ・汚職に失望 [無断転載禁止]©2ch.net
37 :七つの海の名無しさん[]:2016/09/13(火) 11:42:15.31 ID:L3Hx6U5M
フセインには、馬鹿息子がいた。 その名前は、ウダイという。

湾岸戦争はウダイにとって予想外の出来事だったらしく、彼は戦争になるとは思っていなかったという。
91年1月、イラク軍占領下のクウェートを訪問中、イラクがイスラエルを弾道ミサイルで攻撃したというニュースが飛び込んでくると、ウダイはイスラエルの報復攻撃を恐れて狼狽し、
急いでバグダードに引き返した。その途中、ウダイの乗った車列が多国籍軍の爆撃を受けたが、本人は難を逃れた。

湾岸戦争終結後に南部シーア派住民による反政府暴動が起きた際には、意外にも「シーア派の人間を殺す気にはなれない」と言い、南部に行くことを拒否したという。
イラクが国連による経済制裁を受ける中、ウダイは義兄弟のフセイン・カーミル・ハサンと共に「アル=アミール社」を設立し、かつての敵国イランと食料や石油密輸、
兵器売買などの密貿易で私腹を肥やした。

例えば、国連からの人道支援物資を闇市に横流ししたり、日本から送られた児童用ミルクの荷札を張り替えて売り飛ばした。
このことは、その後、米軍がバグダードを制圧した際に、ウダイが経営する企業の倉庫から大量の人道支援用の粉ミルクが発見されたことから明らかになっている。
また、キプロスを経由して密輸タバコも売っていた。

このことを聞きつけた父のサッダームにより、同社は解散させられたが、ウダイはすでにイランだけでは無く、ヨルダン、シリア、トルコなどにも密輸ルートを独自に確保していた。
また、イラクで唯一のペプシコーラ製造工場や、ファーストフード店も経営していた。また、ロシアン・マフィアや南米の麻薬組織とも関係が深かったと言われる。
このころのウダイはイラクでもっとも裕福な男となっており、個人資産は数億ドルあるとされた。
【イラク】フセイン時代、懐かしむイラク市民 テロ・汚職に失望 [無断転載禁止]©2ch.net
39 :七つの海の名無しさん[]:2016/09/13(火) 11:47:26.38 ID:L3Hx6U5M
長男の、ウダイが、イラク・オリンピック委員長時代、
成績不振のスポーツ選手に対して日常的に拷問が行われ、52人ものスポーツ選手が彼の拷問によって命を落としたと言われ、
のちにアメリカ軍によってイラク制圧後にウダイが利用していたとされる拷問用のマスクなど多数の拷問器具が発見されている。
また、ウダイと対立したサッカー・イラク代表監督はウダイから自宅にロケット砲を撃ち込まれている。

1993年に行われたFIFAワールドカップ・アメリカ大会アジア地区最終予選の日本対イラク戦(ドーハの悲劇)でも、もしイラク代表が日本代表に敗北していた場合、
メンバーに対し全員鞭打ちの刑に処せられることになっていた、と当時のイラク代表のメンバーが語っていた。
前半を一点ビハインドで折り返した際、ハーフタイム中にロッカールームにウダイが現れ「お前たち、分かっているだろうな」と敗戦後の拷問をほのめかしたという。
後半は打って変わって激しいフィジカルコンタクトを前面に押し出したサッカーを終始続け、終了間際に同点ゴールを決めたことで鞭打ちの刑が回避された。
この時のイラクの選手たちの様子をラモス瑠偉は「前後半でまるで違うチームになった」と述懐している。

1997年、イラクは、第1シードとして、仏W杯アジア1次予選グループ9でカザフスタンとパキスタンと同じ組になったが、カザフスタンがイラクの成績を上回り、イラクの予選敗退が決まった。
1997年6月29日、1次予選最終戦のアウェイでのカザフスタン戦でイラクが敗退し、イラク代表選手たちが帰国すると、イラクサッカー協会会長を兼務していたウダイが代表選手たちを軍事施設に連行し、
鞭打ちした。
また、コンクリートむき出しの狭い拷問部屋(立って歩けない程の低い天井で、狭く、更に部屋中に無数のコンクリートの柱がひしめき合うように立っていた)に選手を閉じ込めたりした。
この事件をイギリスの新聞がセンセーショナルに報道したことで、後に国際サッカー連盟(FIFA)が調査したが、「暴行は無かった」と報告した。
しかし、2003年のイラク戦争で、フセイン政権が倒れると、報道されたウダイの拷問の全てが事実であったことが判明した[3]。

また、自ら設立したメディア機関で、ターハー・ヤースィーン・ラマダーン、ターリク・ミハイル・アズィーズなどのバアス党内の古参幹部や
時のアフマド・フセイン・フダイル内閣の経済政策、外交政策を辛辣に批判し、
政府の人事や政策にも大きく影響した。
1994年、ウダイはサッダームの異父弟で叔父にあたるバルザーン・イブラーヒーム・ハサンの娘サジャーと結婚した。サッダームは結婚によってウダイの性格が丸くなることを望んだが、
結婚生活は長く続かず、僅か4日後にウダイはバグダードの高級ホテルで売春婦と暮らし始めた。
結局、1年足らずで事実上の離婚となった。

1995年にはイッザト・イブラーヒームの娘と結婚したが、長くは続かず、翌年離婚した。


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