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七つの海の名無しさん
【フィリピン】日本人戦犯に恩赦与えたキリノ元大統領の遺体、英雄墓地に埋葬[03/01] [無断転載禁止]©2ch.net

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【フィリピン】日本人戦犯に恩赦与えたキリノ元大統領の遺体、英雄墓地に埋葬[03/01] [無断転載禁止]©2ch.net
11 :七つの海の名無しさん[]:2016/03/17(木) 05:12:15.71 ID:SzitbQSW
>>9
柴田直治
1979年朝日新聞社入社、マニラ支局長、アジア総局長、論説副主幹などをへて国際報道部機動特派員。2015年12月に
定年退社し、2016年1月からマニラ新聞編集顧問に就任。
http://www.huffingtonpost.jp/naoji-shibata/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E7%9B%B4%E6%B2%BB

『選択』 2016年3月号
ロムロ将軍の思い出
皇室の風(連載91) 岩井克己
ttp://www.sentaku.co.jp/series/post-4387.php

 ロムロは、当時、マニラ市内の病院に入院中で予断を許さぬ病状だったが、「十五分程度」との約束で、日本から来た
若い記者に会ってくれた。

 筆者は十日ほどでフィリピンを離れタイ、マレーシア、韓国と回り、同年十二月十五日、慶州の旅館でロムロ死去の
ニュースをラジオで知った。元「将軍」のいかめしい肩書とは程遠い、気さくな話しぶり、人懐こい眼差しが蘇った。
 それから三十年。今回の天皇訪問の取材で、マニラ市街戦の惨状と、その中で妻と幼い娘たち三人を日本軍に惨殺された
キリノ大統領が、憎しみと赦しの狭間で苦しみ悩んだ結果、日本人戦犯の特赦に踏み切ったことを初めて知った。
 しかもロムロは、米軍とともに戦闘終了直後のマニラ旧市街にジープで入り、瓦礫の山と化して燻る市街を見て回っていた。
日本軍の暴虐の情報や証拠を集めるのは彼の仕事だった。多くの友人の遺骸とともに、友人キリノの邸宅で日本軍に惨殺
された妻子の躯が路上に転がっている光景も目撃していたことも初めて知った。対日講和会議で語り草となった鋭い発言を
繰り広げるロムロの脳裏には、この記憶があったかもしれない。
「自分が謦咳に接した最後の記者だったのではないか」「もっと聞いておくべきだった」と、当時の自分の無知が今更ながら
悔まれるのである。

岩井克己
ジャーナリスト。朝日新聞特別嘱託。1947年生まれ、71年入社。94年から2012年5月まで朝日新聞編集委員。
http://webronza.asahi.com/authors/2010052600043.html
http://ja.dosuko.wikia.com/wiki/%E5%B2%A9%E4%BA%95%E5%85%8B%E5%B7%B1
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/mass/1285849165/93

朝日新聞記者はこんな奴ばかりだな。
何が「当時の自分の無知」だ?今も昔もお前は無知なんだよ。それともデマを流してるのか?
いずれにせよ、お前は何も悔むことはない。
【フィリピン】日本人戦犯に恩赦与えたキリノ元大統領の遺体、英雄墓地に埋葬[03/01] [無断転載禁止]©2ch.net
12 :七つの海の名無しさん[]:2016/03/17(木) 05:14:37.37 ID:SzitbQSW
月刊正論2016年4月号
折節の記 高山正之

 マニラで日本軍が市民10万人を虐殺したという話は敗戦から1か月目にGHQが日本の新聞に載せさせた「比島日本兵の暴状」が初出だ。
 その年の2月初めから1か月続いたマニラ市街戦で1万余の日本軍将兵が激戦の合間に「10万市民を虐殺し、数百人の婦女を暴行」したと
いう内容だ。
          (中略)
 実際、インチキだらけだ。日本側は戦闘に先立ち2月5日、サントトーマス大に抑留していた欧米人市民3700人を米側に引き渡した。市内が
黄色い人間だけになった途端、米軍は無差別砲爆撃を始める。市街は破壊され、日本側は戦死1万余、わずかが撤退した、全滅だった。
          (中略)
 このGHQ製の噂話は追いかけるように「マニラの悲劇」の名で出版された。ただし表紙のタイトルは「長崎の鐘」。被爆した永井隆医師が
原爆の惨さを綴った書の題名だ。
 式場隆三郎がそれを出版しようとしたが、GHQが許さない。結局、長いが原爆症で病床に伏していた昭和24年、GHQはわずか90ページの
「長崎の鐘」に120ページの「マニラの悲劇」を合本することを条件に許可した。
          (中略)
 かくて「日本軍はマニラでも大虐殺」が歴史に定着しそうになった1967年、カルメン・ゲレロ・ナクビルの衝撃の詩が発表された。
「叔母の首が転がっていた/血まみれの従妹が/側溝から這い出して…」
 米軍の爆撃で当時の高級住宅街エルミタ地区が一瞬にして地獄と化した姿を淡々と伝えた詩がなぜ衝撃かというと、戦後ずっとタブーだった
「マニラを破壊した真犯人は米軍だった」ことを初めて語ったからだった。
 フィリピン人は以来、それを躊躇いなく語りだした。
          (中略)
 で、困ったのはエルミタにいたキリノだ。彼は「フィリピン人政治家」で「妻子を日本軍に殺された」「子供は放り上げられて銃剣で刺された」と
言った。「でも戦犯を特赦してくれた慈悲深い人」とNHKの中田整一が言っていた。
 それに一片の真実もない。彼はスペイン人と華僑の混血でフィリピン人の血は入っていない。
 彼は戦後、日本に法外な80億ドルの賠償を要求した。日本が躊躇うとモンテンルパにいたBC級戦犯14人を一晩で吊るした。金を出せや。
支那人の血が濃い男だった。ダレスが飛んできて強欲キリノを叱り、BC級戦犯は釈放された。妻子の話もでっち上げだとカルメンの詩が暴いた。
 そのマニラに天皇皇后両陛下が慰霊の旅をされた。米軍を追い落とした後、日本軍はマニラの競馬場に宿営し、市民の言えは接収しなかった。
ハイアライの競技もすぐ再開され、市民が喜んだとフランコ将軍の言が残る抑留民間人の解放も含め、50万将兵は日本軍の形を守った。
 陛下はそんな日本軍を慰霊されたが、キリノの孫にもお会いになったと朝日にあった。処刑された14人の英霊はそれをどう見たか。まだ嘘が
罷り通る世が悲しい。


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