- 【フィリピン】日本人戦犯に恩赦与えたキリノ元大統領の遺体、英雄墓地に埋葬[03/01] [無断転載禁止]©2ch.net
12 :七つの海の名無しさん[]:2016/03/17(木) 05:14:37.37 ID:SzitbQSW - 月刊正論2016年4月号
折節の記 高山正之 マニラで日本軍が市民10万人を虐殺したという話は敗戦から1か月目にGHQが日本の新聞に載せさせた「比島日本兵の暴状」が初出だ。 その年の2月初めから1か月続いたマニラ市街戦で1万余の日本軍将兵が激戦の合間に「10万市民を虐殺し、数百人の婦女を暴行」したと いう内容だ。 (中略) 実際、インチキだらけだ。日本側は戦闘に先立ち2月5日、サントトーマス大に抑留していた欧米人市民3700人を米側に引き渡した。市内が 黄色い人間だけになった途端、米軍は無差別砲爆撃を始める。市街は破壊され、日本側は戦死1万余、わずかが撤退した、全滅だった。 (中略) このGHQ製の噂話は追いかけるように「マニラの悲劇」の名で出版された。ただし表紙のタイトルは「長崎の鐘」。被爆した永井隆医師が 原爆の惨さを綴った書の題名だ。 式場隆三郎がそれを出版しようとしたが、GHQが許さない。結局、長いが原爆症で病床に伏していた昭和24年、GHQはわずか90ページの 「長崎の鐘」に120ページの「マニラの悲劇」を合本することを条件に許可した。 (中略) かくて「日本軍はマニラでも大虐殺」が歴史に定着しそうになった1967年、カルメン・ゲレロ・ナクビルの衝撃の詩が発表された。 「叔母の首が転がっていた/血まみれの従妹が/側溝から這い出して…」 米軍の爆撃で当時の高級住宅街エルミタ地区が一瞬にして地獄と化した姿を淡々と伝えた詩がなぜ衝撃かというと、戦後ずっとタブーだった 「マニラを破壊した真犯人は米軍だった」ことを初めて語ったからだった。 フィリピン人は以来、それを躊躇いなく語りだした。 (中略) で、困ったのはエルミタにいたキリノだ。彼は「フィリピン人政治家」で「妻子を日本軍に殺された」「子供は放り上げられて銃剣で刺された」と 言った。「でも戦犯を特赦してくれた慈悲深い人」とNHKの中田整一が言っていた。 それに一片の真実もない。彼はスペイン人と華僑の混血でフィリピン人の血は入っていない。 彼は戦後、日本に法外な80億ドルの賠償を要求した。日本が躊躇うとモンテンルパにいたBC級戦犯14人を一晩で吊るした。金を出せや。 支那人の血が濃い男だった。ダレスが飛んできて強欲キリノを叱り、BC級戦犯は釈放された。妻子の話もでっち上げだとカルメンの詩が暴いた。 そのマニラに天皇皇后両陛下が慰霊の旅をされた。米軍を追い落とした後、日本軍はマニラの競馬場に宿営し、市民の言えは接収しなかった。 ハイアライの競技もすぐ再開され、市民が喜んだとフランコ将軍の言が残る抑留民間人の解放も含め、50万将兵は日本軍の形を守った。 陛下はそんな日本軍を慰霊されたが、キリノの孫にもお会いになったと朝日にあった。処刑された14人の英霊はそれをどう見たか。まだ嘘が 罷り通る世が悲しい。
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