- 【日本人専門家】 長江文明からもたらされた稲作が日本の社会や文化を決定した [9/21] [仮面ウニダー★]
577 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん[sage]:2023/09/21(木) 19:18:29.06 ID:80CXdFHD - ◆遺伝子に見る日本人のルーツ
ミトコンドリアDNAのハプログループを確認する限り 日本人のルーツは多種多様である。 この中でも最も割合が高いのが D型(D1a2a型)で、日本人全体のの32〜39%に見られる。 アイヌの75%〜88%、琉球人の56%もこれに属する。 タイの西側に浮かぶアンダマン諸島南部では100%を占めている。 このハプログループに近似しているのが チベット人の50%、中国西部遊牧民の羌族の18%、 中国南西部のミャオ族の9%を占めるD1a1型であり、 D1a2型はそこから分かれたものとみられている。 ちなみに漢民族はハプログループO型が78.3% N型が9.0%と この2つだけで圧倒的多数を占め、 D型は西域の甘粛省を覗けばほとんど見られない。 朝鮮民族もO型が70% (O1b型:30%、O2型:40%)、 C型が16%を占め、D型は2%しかない。 漢民族と朝鮮民族の大部分を占めるハプログループO型は 反対に日本人にはほとんど見られないのだ。 左翼の連中は科学的な根拠など全く無しに 日本人のルーツは大陸や半島から日本にわたっていた 中国人や朝鮮人であると政治的な理由から決めつけたがるが これは全くの嘘であり、 日本人は中国・朝鮮とは全く別のグループなのだ。
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580 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん[sage]:2023/09/21(木) 19:19:26.42 ID:80CXdFHD - ◆日本人はユダヤ人と兄弟民族
なお日本人特有の遺伝子がYハプログループ染色体Dである。 これは近隣の朝鮮半島や中国ではほとんど見つかる事はない。 対して日本人男性からは40%の確率で発見される。 ハプログループDには遺伝子の一部に著しい特徴があり、 これを「YAP」と呼ぶ。 実はハプログループDの他に、 もうひとつYAPの遺伝子を持つグループがある。 先に述べた人種的ユダヤ人が含まれるパプログループEである。 両者はともに時代を遡ればハプログループDEという 同一グループを形成していたとみられ、 突然変異でYAP遺伝子が生じた一人の男の子孫である事がわかっている。 昔から古代日本の文化はユダヤに影響を受けてきたとする、 「日猶同祖論」が唱えられてきた。 表のアカデミズムはこれに対し、 ただのこじつけであり、でたらめだという見解をとってきた。 しかし実際のところ、日猶同祖論は事実だった。 表面上いくら否定するスタンスを取ったところで、 科学的調査による遺伝子の特異な類似性という 消し去る事ができない膨大な物的証拠の存在により 既に裏付けらていると言っても過言ではないのだ。
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581 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん[sage]:2023/09/21(木) 19:21:44.97 ID:80CXdFHD - ◆中国に稲作を齎したのは日本人
日本人のルーツは中東からやってきた民族であり その途中で、チベットに居住して大きなグループとなったのが 現在のチベット族である。 そこから分かれ、中国に稲作をもたらしたのが倭人である。 倭人はチベットから雲南地方に流入し 後に黄河文明と比肩される長江文明を生み育てた。 彼らは川を下り、長江の上流域の貴州、 四川一帯に領土を広げた。 『史記』の中に記述されている夜郎、且蘭、昆明、蜀、巴などなどの国は、 いずれも倭人によって建てられた可能性があると 中国の最高行政機関・国務院の発展研究センターの 歴史学者・張雲方氏が述べ、 「人民中国」2008年10月5日号に掲載している。 一部の倭人は北上し、山東半島に到達し、 ここで徐、淮、呂、奄、莱などの小国を建国した。、 漢代にはこれらの国々は異民族であるとして「東夷」と呼ばれた。 もっと前に北上したグループは朝鮮半島や日本に渡ったようだ。 だから「昔わが国の領土だった場所は全て中国領」という中国式理論で言えば 中国領土のいくつかも日本の領土という事になる。
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587 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん[sage]:2023/09/21(木) 19:28:43.55 ID:80CXdFHD - ◆周王朝に朝貢していた倭人国歌
前漢の司馬遷が撰述した『史記』によると、 紀元前11世紀に周の武王が殷王朝を滅ぼすために挙兵する。 酒池肉林として知られる過度の放蕩や暴政をしていた 殷の最後の王である帝辛(紂王)は 牧野の戦いで武王に敗北し、 首都の朝歌に撤退した後に鹿台に上り、焼身自殺した。 紂王の叔父で宰相だった箕子とその一族は、 武王の好意により処刑される事なく朝鮮半島に亡命した。 そこで彼は現在の北朝鮮のあたりに「箕子朝鮮」を建て、 周に臣従の礼をとったという。 箕子は東夷と周の仲立ちをした。 そして1世紀に王充が著した思想書『論衡』には、 周王朝2代目・成王の時代に「倭人が暢草を貢した」と書かれている。 外交記事における「貢」とは、 国レベルの貢献交渉があった時にのみ適用される語なので、 周代には倭人の国があった事を意味する。 それがどこなのかは明らかではないが、 中国東北部から朝鮮半島、今の日本列島にまたがる いずれかの地域にあった可能性がある。
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594 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん[sage]:2023/09/21(木) 19:32:57.33 ID:80CXdFHD - ◆倭人文化にみられる周文化
古代の倭人社会には周王朝の影響が色濃くみられる。 たとえば南朝宋の范曄432年完成させた『後漢書』には 倭人の使節は「大夫」を自称すると記されている。 西晋の陳寿が280年頃に著した『三国志』も同様で、 「古より中国にやってくる倭の使節は、 皆大夫を自称する」と記している。 "大夫"とは何か。 周代の卿・大夫・士という官職制度の称号の一つである。 そもそも「古」なる語は、『三国志』が編まれた魏晋時代においては、 上古の夏・殷・周を指す。 したがって大夫を称する倭人が 何度も周王朝にやって来ていた事を表している。 更に『三国志』を読むと、倭人の習慣に 「すなわち骨を灼きて卜する所を告ぐ。其の辞は令亀法の如く…」 と書かれた箇所がある。 「令亀の法」とは『周礼』春官で述べられる"大卜"のことで、 周代に盛んに行なわれていた呪法だ。 同様に、「搏手」についても書かれている。 これも周代の古法で、神社で打つかしわ手として現代に残っている。 「籩((へん)」「豆(とう)」といったものも挙げられている。 神社の祭礼で用いられる高杯(たかつき)に似た物で、周代特有の祭器だった。
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597 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん[sage]:2023/09/21(木) 19:35:02.47 ID:80CXdFHD - ◆日本に渡ろうとした孔子
対して"韓"を含めた東夷諸国の条では、周の古法への言及はほとんど無い。 このような対比からすると、日本列島だけ 周王朝の文化やシステムで統治がなされていたとみられる。 弥生時代に一大集落があり、稲作が最も早く開始されたのは北九州とみられるが、 九州島の「九州」とは、周代における中国本土を意味し、 太宰府の「太宰」も周代における国の最高執政官の呼称である。 この点についても周王朝の影響がみられる。 おそらく弥生時代のクニグニの中枢には 周の人間がいたのではないだろうか。 また、先に述べた、1世紀に後漢の班固・班昭が著した 『漢書』倭人の条の冒頭にはこのように書かれている。 「故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。楽浪海中有倭人…」 孔子は道が行なわれないことを悼み、 渡海して九夷(東方の野蛮な諸国)に住むことを欲した。 特に楽浪から海を越えた先にある倭人の島に移住しようとしていた。 という意味であり、ここから倭人の紹介に入っている。 孔子が住んでいたのは山東半島のつけ根の魯国で、 始皇帝と徐福が出会った山東省の一角でもある。 紀元前6世紀半ばの孔子が日本列島への渡海を希望していたという話は 300年後にこの地から日本に渡った徐福と無関係ではないだろう。 既に孔子の時代に日本列島の事は知られ、 山東半島を起点とする日本列島への 渡海ルートも開拓されていたと思われる。
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603 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん[sage]:2023/09/21(木) 19:37:09.53 ID:80CXdFHD - ◆紀元前10世紀に始まっていた日本の稲作
稲作によって始まる日本の弥生時代の開始時期は 紀元前3世紀頃とされている。 だが2003年に千葉県佐倉市にある 国立歴史民俗博物館の発表によると、 放射性炭素年代測定法で 弥生式土器付着の炭化物の測定をした結果、 弥生時代のはじまりは約600年早い 紀元前1000年頃に遡る可能性があるという。 放射性炭素年代測定法は年代の狂いが大きく、 過去に遡れば遡るほど不正確になるので あまり信憑性はないため、 発表当時は研究者の間でも賛否両論があった。 だが現在では多くの研究者が 弥生時代の開始年代を遡って考えるようになっている。
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606 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん[sage]:2023/09/21(木) 19:39:24.17 ID:80CXdFHD - ◆弥生時代の始まり
では、紀元前10世紀頃に日本列島の倭人は どこから稲の種籾を手に入れ、どこから稲作の技術を習得したのか? 箕子朝鮮の勧めで周と交わった結果、 周王朝から入手した可能性が高い。 先に述べた通り中国に稲作を始めたのは倭人であり、 倭人の領域は長江流域から山東半島付近にまで広がっていた。 先に日本列島に移住していた者たちは そこに住まう倭人たちと交流し、 彼らの一部を技術指導者として日本列島に迎え入れた可能性もある。 ただし紀元前10世紀頃の日本で 幹線水路、井堰、取排水溝、畦畔など 大規模な水田の遺跡が発見されているわけでもないので 稲作の始まりは紀元前10世紀であっても、 やはり本格的な水稲耕作の始まりは3世紀頃と見ていいだろう。
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607 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん[sage]:2023/09/21(木) 19:40:19.72 ID:80CXdFHD - ◆朝鮮半島は倭人の領土だった
朝鮮半島の南部、今でいう韓国は 遅くとも紀元前10世紀には倭人の領土だった。 邪馬台国の時代に帯方群を出た魏の遣いが立ち寄った 朝鮮半島南岸の「狗邪韓国」もまた倭国の領土であり、 これは『魏志倭人伝』の記述からも確認される。 1世紀から中国東北部〜北朝鮮を支配していた高句麗は強く、 404年には帯方地方で 倭国は高句麗の好太王(広開土王)に大敗したものの、 未だに南部に広い領地を持っていた。 478年には中国南北朝の南朝の国・宋に倭国が遣いを送り、 順帝は倭王武を 「使持節都督 倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍」 に除している。 つまり倭国が朝鮮の大部分を武力で支配している事を公認しているのだ。 その後聖徳太子の時代まで倭国は定期的に朝鮮に軍隊を派遣し 朝鮮南部にある自国の領土を守ってきた。 しかしついに完全に撤退し、朝鮮半島の領地を失い、今に至る事となる。
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621 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん[sage]:2023/09/21(木) 19:53:07.54 ID:80CXdFHD - ◆佐賀県と徐福
ユダヤ人である始皇帝と徐福の密約、 なぜ彼が不老不死の妙薬を突然欲し始めたのか、 日本列島へ船団を派遣した本当の理由は何か── については語ると非常に長くなるので省くとして、 徐福船団は1度目の航海では 日本の丹後半島に上陸し、富士山に向かった。 一旦秦国に戻った後の2度目の航海では、 沖縄を経由した徐福船団が上陸したのが九州である。 九州各地に上陸伝説があるが、 最有力地は全域に徐福伝承が及んでいる佐賀県である。 特に伊万里市の波多津町が船団の最初の 上陸地点として有力視されている。 地名からもわかるように秦氏の町である。 徐福は南下して佐賀郡諸富町寺井津を訪れたようだ。 ここには徐福御手洗井戸があり、井戸の水で身を清めた後、 徐福たちは金立山(きんりゅうさん)へ向かったという。
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625 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん[sage]:2023/09/21(木) 19:55:05.29 ID:80CXdFHD - ◆金立山と徐福
金立山には山頂に奥宮があり、そこから下って 本宮、中宮、下宮という4つの金立神社があり、 徐福やニニギノ命の父のオシホミミ命や 穀物神の保食神を祀っている。 保食神は伊勢神宮外宮の主祭神・ 豊受大神と同一神と言われる。 境内には徐福が不老不死の薬草を授かったという 「甲羅弁財天」がある。 保食神を祀る神社は日本中にあるが 特にこの神社は徐福船団による 日本への二度目の稲作伝来を象徴している。 また金立神社は、日本海側において最も格式が高い、 出雲大社の真の本殿である籠神社と構造的によく似ている。 丹後半島の付け根の籠神社も 境内に「亀」に乗った倭宿禰の像が鎮座し ニニギノ命の父のホホデミ神や、穀物神の豊受大神を祀る。 徐福の上陸伝説がある点も同じだ。 つまり金立山は九州に作られた 第二の籠神社とも言えるのである。
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626 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん[sage]:2023/09/21(木) 19:55:55.40 ID:80CXdFHD - ◆稲作文化を齎した徐福
徐福は金立山を蓬莱山とみなしたという。 佐賀市の重要文化財に指定されている「金立神社縁起図」には、 金立山にやってきた徐福一行の様子が描かれている。 金立山の麓から東に8km地点に、大規模な弥生時代の 群生集落跡地で有名な『吉野ヶ里遺跡』がある。 徐福は始皇帝から五穀の種を賜って出航したというが、 ちょうど徐福の時代は 九州北部で大々的な稲作が始まった時期と一致している。 さらに稲の種類から分析して、 日本の稲作は中国の江南が起源である事もわかっている。 また、吉野ヶ里遺跡の特徴は環濠集落もさることながら、 何といっても膨大な数の甕棺にある。 九州北部にだけ見られる甕棺文化は、不老不死の神仙思想が 元になっているためだとされている。。 五穀を携えて日本に渡来した徐福が稲作を広め、 弥生文化を大きく発展させたとすれば、 まさに金立山と吉野ヶ里遺跡がその発祥地だったことになる。 その意味で、金立山の"徐福王子"伝説は 日本のみならず中国のアカデミズムからも注目されている。
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643 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん[sage]:2023/09/21(木) 20:06:12.31 ID:80CXdFHD - ◆九州北部の物部王国
九州にはその他の地域にも広く徐福伝説がある。 記紀によると、宮崎で生まれた神武天皇はある日、東征を開始する。 日向を発ち、大分の宇佐を経て筑紫に至るが、 この際に遠賀川(おんががわ)の河口周辺とみられる場所に岡田宮を造営している。 遠賀川流域で発掘される弥生式土器の特徴から、 このあたりは弥生文化の発祥地ではないかと言われている。 なお、遠賀川の河口周辺には 十市物部、芹田物部、島戸物部、弦田物部、二田物部、 狭竹物部、馬見物部など、物部氏が多数集まっていた。 物部氏ルーツを辿れば徐福船団が連れてきた一族である可能性が高い。 九州に上陸した徐福の末裔が畿内に東遷した証拠のひとつとして 大阪・奈良に大量にみられる物部氏に由来する地名と 遠賀川の河口周辺の物部の地名が、名前や位置ともに一致する点がある。 古代史研究家の太田亮氏は、福岡県久留米市にある 高良(こうら)大社が元々物部氏の祖神を祀っていた事をつきとめ、 九州北部に原物部王国ともいうべき一大勢力地があり、 高良大社がその中心地であったと主張している。 https://i.imgur.com/8Mrd0X7.jpg
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646 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん[sage]:2023/09/21(木) 20:07:25.24 ID:80CXdFHD - ◆九州各地の徐福伝説
久留米市から12kmほど南下した場所には、 九州説の学者によって邪馬台国の都があった場所ともいわれる 福岡県八女市がある。 その山際に徐福の墓だという童男山古墳がある。 名前の由来となっているのは徐福の引き連れてきた童男童女だ。 調査では6世紀の横穴式墳墓とされ、歴史的に合わないのだが、 地元の郷土史家たちは徐福の墓があったところに 後世、古墳を建造したのではないかと指摘している。 薩摩半島の坊津町や串木野市にも徐福伝説がある。 第8代孝元天皇の時代、島平浦の照島にある秦波止に上陸した徐福は、 冠岳に登ると山頂に祭壇を築き、 天の神を祀る「封禅の儀」を執り行ったという。
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