- 【また炎上】 日本共産党の女性候補 「天皇家は殺戮の果てに残ってきた氏族」 [135350223]
332 :トラ(東京都) [KR][]:2022/01/14(金) 09:01:49.86 ID:wK7aE1A20 - 中央政権による地方制圧
https://pds.exblog.jp/pds/1/201907/20/25/f0300125_21581552.jpg 中央から地方へ派遣された征討軍のルートが、横穴墓の分布と近似しています。以下、中央政権による地方制圧の記事を『日本書紀』『古事記』から見ていきたいと思います。 九州島は横穴墓が広範囲に分布していますが、景行天皇の九州行幸ルートとほぼ合致します(第8図)。『日本書紀』には、景行天皇12年7月に熊襲が朝貢しないため、景行天皇は九州行幸(西征)に発っています。 その経由地・滞在地を記すと、娑麼(さば)から、豊前国長峡縣(ながをのあがた)、碩田国(おほきたのくに)、速見邑(はやみのむら)、來田見邑(くたみのむら)、日向国高屋宮(たかやのみや)に移り、そこに留まって襲国(そのくに)の熊襲梟帥(くまそたける)を討ち、 その後、子湯縣(こゆのあがた)、夷守(ひなもり)、熊縣(くまのあがた)、葦北(あしきた)から海路で、八代縣の豊村、高來縣(たかくのあがた)、玉杵名邑(たまきなのむら)、阿蘇国、御木(みけ)、八女縣(やめのあがた)、的邑(いくはのむら)を経て大和に還っています。 第8図のように、横穴墓の分布とほぼ一致しています。しかも、佐賀県や長崎県、宮崎県以南に横穴墓が分布しないという点でも合致しています。 東海道から東山道の太平洋側の横穴墓の分布は、日本武尊の東征ルートと合致しています(第9図)。 若干の異同はありますが、『日本書紀』『古事記』共に記されています。『日本書紀』で見ますと、日本武尊は景行天皇40年10月に都を出て、伊勢神宮から駿河の焼津、相模を経て馳水(はしるみず)を渡り、上総国に入り、海路で葦浦、玉浦を巡り、「蝦夷の境に至」っています。 陸奥国の竹水門(たたのみなと)で蝦夷の賊首(ひとごのかみ)、嶋津神・國津神等を制圧・虜とし、日高見国で転じて常陸に戻り、新治(にひばり)・筑波を経て、甲斐国酒折宮(さかおりのみや)に入っています。 そこから北に向かい武蔵国、上野国を経て碓日坂(うすひのさか)から信濃国に入り、信濃坂を越えて美濃国・尾張に還っています。 このルート上では、静岡県の焼津から甲斐国酒折宮の間が、横穴墓が稠密に分布する地域となります。 焼津は最初の戦闘地域であるのに対して、酒折宮で日本武尊は「蝦夷の凶(あ)しき首(ひとども)、咸(ことごとく)に其の辜(つみ)に伏(したが)ひぬ」と当初の目的が達成したと述べています。 このように、焼津から酒折宮までの間で征討行為がなされていたと考えられ、横穴墓が稠密に分布しているのです。
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333 :トラ(東京都) [KR][]:2022/01/14(金) 09:02:12.19 ID:wK7aE1A20 - 四道将軍の地方制圧
https://pds.exblog.jp/pds/1/201907/20/25/f0300125_21595221.jpg 北陸道および山陰道東部の横穴墓の分布は、いわゆる四道将軍の派遣先と合致します(第10図)。 『日本書紀』では崇神天皇10年10月に大彦命(おおびこのみこと)を北陸(くぬがのみち)に、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海(うみつみち)に、吉備津彦を西道(にしのみち)へ、丹波道主命(たにはのちぬしのみこと)を丹波(たには)に派遣しています。 翌年の11年4月には各地の賊を平定したことを天皇に奏じています。西道以外の派兵先は横穴墓が造られた地域となっています。 山陰道中央部にも横穴墓が稠密に分布していますが、この方面にも派兵がなされています。『日本書紀』崇神天皇60年に、出雲振根(いずものふるね)が弟の飯入根(いひいりね)を殺したことに対して、吉備津彦と武渟川別を遣わしています。 『古事記』にはこの記事はありませんが、倭建命が熊襲を平定した帰途に出雲に立ち寄り、出雲建(いずもたける)を誅したとしています。 このように、中央から地方にたびたび征討軍が派遣され、征討軍が派遣されたルート上や目的地に横穴墓が濃密に分布しています。両者には何らかの関係があったと想定されます。 中央から地方へ征討軍が派兵された結果、新たな階層が生み出されたと考えられるのです。
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- 【また炎上】 日本共産党の女性候補 「天皇家は殺戮の果てに残ってきた氏族」 [135350223]
335 :トラ(東京都) [KR][]:2022/01/14(金) 09:02:30.39 ID:wK7aE1A20 - 池田次郎『日本人のきた道』より
大陸からの渡来の波は、古墳時代を通じて断続的に押し寄せたが、それは中央政権の支配が拡大するにつれて、農耕が全国的に普及したためである。 このように渡来形質をもつ農民集団が本土の広い範囲に進出したからといって、古墳人の地域差が縮まったわけではない。 大陸要素の濃度という点からみれば、古墳人の地域差はむしろ拡大している。したがって、古墳人の特徴も、地域を無視して一概には論じられないが、 大ざっぱにいうと、大半の古墳人は現代日本人に類似する特徴を多かれ少なかれもっている。 百々幸雄らは、頭蓋小変異の出現頻度によって、縄文人・渡来系弥生人・古墳人・歴史時代日本人に分割され、現代人の特徴は古墳時代まで遡れると結論している。これらの特徴はすべて大陸に由来するものである。 古墳人骨がほとんど出ていない東海・中部地方・東北北部を除く日本列島を九地域に分けると、古墳人集団は三群に分けられる。 第一群は畿内集団だけで、これには畿内現代人が入る。 第二群は南九州・西九州・北陸の三集団で構成され、これには津雲縄文人、西北九州弥生人が属す。 第三群は第一群と第二群の中間に入るが、第一群により近いグループである。これには北東九州・西中国、東中国・西近畿、四国、南近畿、関東・東北南部の五集団が北九州・山口弥生人とともに含まれる。 第一群と第三群を渡来系古墳人、第二群を在来系古墳人とよんでおく。
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- 【また炎上】 日本共産党の女性候補 「天皇家は殺戮の果てに残ってきた氏族」 [135350223]
337 :トラ(東京都) [KR][]:2022/01/14(金) 09:02:49.58 ID:wK7aE1A20 - 第一群の畿内古墳人は、高顔と鼻根部の平坦性が古墳人のなかでもっともいちじるしく、身長ももっとも高いなど、渡来系古墳人のなかでも渡来形質がとくにきわだっている集団である。
また、短頭性がもっとも強いが、この頭形は現在までうけ継がれている畿内人の地域的特性である。 古墳時代・奈良時代の人口密度がもっとも高く、大和王権の拠点であった畿内は、古墳時代になっても朝鮮半島からの移住者を大量にうけ入れた地域だった。 畿内古墳人が、韓国・朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属し、縄文人からもっとも離れているのもそのためである。 資料の約半数が筑前・筑後・豊前から出ている北東九州・西中国古墳人の中心は福岡の平野部にあり、そこから南へむかっては南九州古墳人の、西へむかっては西九州古墳人の縄文人的特徴への傾斜を示すが、 豊後の山間部だけは特別で、そこには古い体質を保持しつづけた古墳人が居住していたのである。 資料の約八割が関東地方から出ている関東・東北南部古墳人は、顔面平坦度や頭蓋小変異の出現頻度で縄文人と大きく異なる。 身長は畿内古墳人とともに古墳人のなかでも高身長の部類に入り、頭蓋・四肢骨のすべての特徴に大陸的・農耕民的要素が認められる。 頭蓋計測値で第二群に入る北陸古墳人は、鼻根部の平坦度がやや弱く、低身長で、四肢骨の特徴にも縄文人的要素がみられる。 しかし、縄文人との距離は畿内現代人と同じくらい遠く、むしろ第三群の関東・東北南部古墳人に近いので、同じ在来系古墳人でも南九州・西九州の古墳人と同列に扱うことはできない。 頭蓋計測値(11項目)の形態距離に基づく古墳人集団の関係(男性)〔池田次郎〕 渡来…畿内 縄文…南九州・西九州・北陸 中間…北東九州・西中国、東中国・西近畿、四国、南近畿、関東・東北南部
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339 :トラ(東京都) [KR][]:2022/01/14(金) 09:03:31.07 ID:wK7aE1A20 - 古墳時代から奈良・平安時代にかけて、政治・文化の中心部と辺境部の住民のあいだに明瞭な違いがあることは、各地の古墳人の特徴からも明らかである。
奈良時代、大和人にとって言語や風俗習慣の異なる異様な存在は、『古事記』、『日本書紀』など古典にあらわれる隼人・熊襲・肥人・土蜘蛛・国栖・蝦夷など古代の異族であった。 『古事記』、『日本書紀』、『風土記』によれば、土蜘蛛の分布は九州から東北地方までの十〇ヵ国にわたり、そのなかには大和も入っている。 水野祐によれば、『風土記』に記載されている北部九州の土蜘蛛の半数は肥前国西北部の沿岸に居住し、アワビなどをとっていた潜水漁労民で、『魏志倭人伝』にいう倭の水人とはこれらの土蜘蛛だったという。 西北九州弥生人が漁労を主生業とし、縄文人的な形質をもつ在来系弥生人であることを考えると、肥前の土蜘蛛はこれら弥生人の体質を守り通した漁労民だったかもしれない。 残り半数の北部九州の土蜘蛛は、豊後の山間部に住んでいたと伝えられているが、この一族は古い体質を残している豊後古墳人となんらかの関わりがあるのかもしれない。 隼人・熊襲・蝦夷・土蜘蛛は、いずれも辺境の地に割拠していた異族であるが、大和にも国栖とよばれる異族が住んでいた。 吉野川上流域の山岳地帯で狩猟民として独自の文化伝統と体質を守りつづけていた国栖は、大和人と接触する機会が多かったために、その異様な習俗と風貌がとくに目をひき、異族として扱われたのだろう。 池田の説明では弥生から古墳時代にかけての渡来集団は連続的に捉えられています。また、縄文人の形質を残す集団もいます。 なお、池田の扱っている古墳時代の人骨の多くが5世紀以降のもの。
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342 :トラ(東京都) [KR][]:2022/01/14(金) 09:05:04.65 ID:wK7aE1A20 - 各地の古墳時代男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による) +2.12…畿内 +1.47…南近畿 +1.08…四国 +0.76…東中国・西近畿 +0.70…西中国・北東九州 +0.51…関東・南東北 +0.40…北陸 -0.87…南九州・西九州 ※+は弥生(朝鮮)側、-は縄文(アイヌ)側
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