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名無しさん@涙目です。(西日本)
名無しさん@涙目です。(東日本)
言葉の誤用をドヤ顔で指摘する奴がウザい。 ( ^ν^)「"姑息"の使い方間違ってるよ」
「女は結婚や出産で仕事を離れるリスクがあるので重要なポストには置かない」←これは差別なの?
ババア「女の自立!男女平等!フェミニズムヽ(^o^)丿」 娘「お姫様になりたい♪」
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言葉の誤用をドヤ顔で指摘する奴がウザい。 ( ^ν^)「"姑息"の使い方間違ってるよ」
143 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 07:32:15.82 ID:n//QW6il0
「情けは人のためならず」という諺の意味の解釈が、日本人の間で変化しつつある。
これは、福祉国家の理念が破綻し、新自由主義が台頭するという時代の流れを反映したものである。
つまり、若い世代の日本人は、自助自立・自己責任・受益者負担といった新自由主義的原則を当然視しているということである。

文化庁が2001年1月に行った「国語に関する世論調査」に、「情けは人のためならず」という諺の意味を問う二者択一の設問があった。

(ア)人に情けをかけておくと,巡り巡って結局は自分のためになる

(イ)人に情けをかけて助けてやることは,結局はその人のためにならない

どちらが正しいか。

正解はアである。正解率は47.2%だった。60歳以上の回答者の正解率は65.2%で、年齢が下がるにつれて正解率は下がる傾向にある。
こういう結果が出ると、とかく年配の国語学者たちは「近頃の若者は…」と眉をひそめるものだが、言語一般がそうであるように、
諺も時代や文化によって意味が変わることがある。

例えば、“A rolling stone gathers no moss”(転石苔むさず)という諺は、もともと「転職ばかりしていると成功しない」という意味で使われていたのだが、
最近では「常に活動している人は新鮮で沈滞しない」という意味で使われることが多い。
古い伝統を尊重するイギリスとフロンティア精神を尊重するアメリカとの文化の違いもあるが、
終身(定年)雇用制の崩壊というグローバルな規模で起きている現代の雇用革命を反映している。
言葉の誤用をドヤ顔で指摘する奴がウザい。 ( ^ν^)「"姑息"の使い方間違ってるよ」
144 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 07:33:12.69 ID:n//QW6il0
「情けは人のためならず」の旧解釈(ア)に対して新解釈(イ)が台頭しているのは、どのような時代的背景によるものだろうか。
「人に情けをかけておくと、巡り巡って結局は自分のためになるから、情けをかけなさい」という旧解釈と
「人に情けをかけて助けてやることは、結局はその人のためにならないから、情けをかけてはいけない」という新解釈は、
結論こそ逆だが、「人に情けをかけることは、利他的行為ではない」という認識で一致している。
では、なぜ情けをかけることは利他的行為ではないのか。

「ネガティブな交換の貨幣は何か」で、苦痛に対して苦痛をお返しするネガティブな交換について説明した。復讐は不等価交換を等価交換にする。
損害を受けたにもかかわらず、復讐したり、補償を求めたりしなければ、それは不等価交換であるように見える。
しかし、もし加害者の罪を恩着せがましく許してやって、周囲から「あの人は寛大で慈悲深い人だ」という評価を受けるようになれば、
その人は経済的損失と交換に人望という政治的資本を手に入れたこととなる。経済的損失が大きければ大きいほど、
入手できる政治的資本は大きくなるから、これは等価交換である。もしその政治資本を元本にして、
失った経済的損失以上の利益を手にすることができるとするならば、情けをかけることは、高利回りの投資ということになる。
言葉の誤用をドヤ顔で指摘する奴がウザい。 ( ^ν^)「"姑息"の使い方間違ってるよ」
145 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 07:33:28.23 ID:n//QW6il0
では、なぜ、情けをかけることは、情けをかけられた本人のためにならないのか。
情けをかけられたほうは、A.負い目を感じるか、B.そうでないかのどちらかであるので、場合分けして考えよう。

A.  恩を売られたほうは、借りができるので、恩人に頭が上がらなくなる。だから情けをかけられた人は、経済的利益と交換に自由を売ったことになる。
  仮に恩を返したとしても、負い目の一部は残る。それは、元本とは別に支払わなければならない利子である。
  だから、情けをかけられたほうは、決して得をしているわけではないのである。

B.  人によっては、情けをかけられても、当然であるかのように何食わぬ顔をしているものもいる。
  そうした人は自分の行為に対する反省がないので、悪行を繰り返すことになり、いつかは手痛い仕打ちを受けることになるだろう。
  この場合、情けをかけることは、教育的観点から言って、本人のためにはならない。

以上、AとBより、情けをかけることは、相手の利益を考えた利他的行為ではなく、利己的な戦略であることがわかる。
情けをかけるという一見利他的な行為が実は利己的で、情けをかけないという一見利己的な行為が実は利他的なのである。
言葉の誤用をドヤ顔で指摘する奴がウザい。 ( ^ν^)「"姑息"の使い方間違ってるよ」
146 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 07:34:10.56 ID:n//QW6il0
「情けは人のためならず」を互酬的モデルではなく、再分配的モデルで解釈する方法もある。
経済的弱者に仕事や補助金を与え、所得の再分配を行えば、すべての労働資源が活用され、
有効需要が増大し、経済全体が活性化するから、経済的強者のためにもなるというケインズ的解釈である。

ケインズ的なマクロ政策は、福祉国家の破綻によって現在有効性を失っている。
「弱きを助け、強きを挫く」という理念は、構造的弱者を作り出す。
構造的弱者とは、弱いがゆえに援助されるというよりも、援助されるがゆえに弱くなった、
いわば福祉国家や社会主義によって構造的に作られた弱者である。
「情けは人のためならず」の新解釈台頭の背景には、こうした構造的弱者の弊害が顕在化したことがある。

現在の先進国の経済は、前近代的互酬経済でも社会主義的あるいは福祉国家的再配分経済でもなく、市場経済である。
市場経済のルールは、自助自立である。
だから、「人に情けをかけて助けてやることは、結局はその人のためにならないから、
情けをかけてはいけない」という新自由主義的解釈が支持されるのである。

情けは人のためならず
http://www.systemicsarchive.com/ja/a/laissez_faire.html
「女は結婚や出産で仕事を離れるリスクがあるので重要なポストには置かない」←これは差別なの?
96 :名無しさん@涙目です。(西日本)[sage]:2011/09/16(金) 12:35:04.06 ID:n//QW6il0
結局男で出世できない奴もいるんだから性別じゃなくて個人でしょ。
ババア「女の自立!男女平等!フェミニズムヽ(^o^)丿」 娘「お姫様になりたい♪」
119 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 12:41:59.87 ID:n//QW6il0
人々は、フェミニズムをジェンダー・フリーな平等主義と誤解することで、フェミニズムが持っている欺瞞的性格を覆い隠してきた。
フェミニズムと平等主義を区別しながら、なぜフェミニズムが女性を解放しないのかを明らかにしよう

1. フェミニズムは平等主義ではない
アメリカでは、1973年に徴兵制が廃止されて志願兵制になってから、多くの女性兵士が誕生したが、
女性が戦闘行為にまで参加することがよいかどうかをめぐってフェミニストたちの間で意見が分かれた。
男女の完全な平等を実現するためには、女性兵士も、男性兵士と同様に銃を手に前線で戦うべきだと
賛成する女性もいれば、戦争は男性原理に基づくもので、女性自ら戦争に荷担することは、
フェミニズムの敗北だと言って反対する女性もいた。
こうした論争は、フェミニズムと呼ばれている思想に、狭義のフェミニズムと平等主義という対立する二つの立場があることを示している。
平等主義は、「もし男性が戦場で戦うことが許されるのなら、女性にも同じことが許されるべきである」とする形式的な理念であって、
戦争を許容するかどうかという実質的な価値判断に関してはニュートラルである。
しばしばフェミニズムとは、男女差別を撤廃し、ジェンダーフリーな社会を作ろうとする平等主義のことだと思われているが、
フェミニズムは直訳すると「女性主義」であり、名前自体が<男女平等=ジェンダーフリー>でない。
たんなる男女の平等を目指す立場は、フェミニズムではなくて、エガリタリアニズム(egalitarianism 平等主義)と呼ばれるべきである。
ババア「女の自立!男女平等!フェミニズムヽ(^o^)丿」 娘「お姫様になりたい♪」
120 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 12:43:08.97 ID:n//QW6il0
1960年代後半から1970年代前半までの女性解放運動は、女性が男性と同じになることを目指していた。
しかし70年代後半から80年代にかけて、女性解放運動家たちは、そうした要求は、女性的価値に対する
男性的価値の優位を前提にしており、ヨーロッパ系言語に見られる《男=人間》の観念に追従するものだと考えるようになった。
こうして、「男らしさ」と「女らしさ」の差異を解消するのではなくて、両者の異質性を強調し、両価値の平等を、
さらには後者の優位を説くラディカル・フェミニズムが登場する。
女性解放運動の目的が、女性の権利から女性のアイデンティティの確立へと変質していったのである。
その典型が、70年代に盛んになった環境保護運動と連動したエコフェミニズムである。
エコフェミニストは、近代資本主義社会による資源の搾取と自然破壊を男性の女性に対するレイプに喩え、母性原理による地球の保護を訴える。
彼女たちは、母性対父性の二元論を優しさ対勇ましさ、自然対文明、協調対競争、平和対戦争、感情対理性などの二元論へと重ね、
男たちが「男らしい」と賞賛する力の論理を批判する。
「男らしさ」に対する「女らしさ」の優位を説くエコフェミニストは、男尊女卑のセクシスト(sexist 性差別主義者)のたんなる裏返しではない。
伝統的な男尊女卑のセクシストは、女性が男らしくなることに嫌悪感を示すが、エコフェミニストは、男性が女性的になることに好感を示す。
セクシズムがたんなるエゴイズムであるのに対して、フェミニズムには思想がある。
ババア「女の自立!男女平等!フェミニズムヽ(^o^)丿」 娘「お姫様になりたい♪」
122 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 12:44:22.81 ID:n//QW6il0
ラディカル・フェミニズムのもう一つの潮流として、マルクス主義的フェミニズムがある。
マルクス主義的フェミニストは、男性/女性の関係をブルジョワ/プロレタリアンや先進国/発展途上国といった
搾取/被搾取の関係で捉えているため、男性であってもプロレタリアンや第三世界の人々に連帯意識を感じている。
セクシストとフェミニストの違いを説明するためには、セックスとジェンダーが異なることを説明しなければならない。
セックスが生物学的な性であるのに対して、ジェンダーは社会的・文化的な性である。
生物学的な性が男性でも、ジェンダーは女性でありうる。
フェミニストは、ジェンダー・コンシャスではあるが、必ずしもセックス・コンシャスではないと言うことができる。
しかしそうは言っても、ジェンダーはセックスと無関係というわけにはいかない。
マーガレット・サッチャーのような、競争原理を肯定する女性が増えてくれば、
もはやジェンダーのレヴェルでも、弱者切り捨てや競争原理が男の論理だとは言えなくなる。
ジェンダー・コンシャス・フェミニズムの最大の問題は、女性を女らしさに閉じ込め、選択の自由を奪うところにある。
私たちは、生まれる前に、自分の意志で男性になるか女性になるかを決めたわけではない。
また性転換技術が不十分な現時点では、生後にも性を選択する自由がない。
生物学的な性とジェンダーレヴェルでの性自認が異なるトランスジェンダーにとって、
性差極大主義者(maximizer)であるフェミニストあるいはマスキュリニストは、迷惑な存在である。
性同一性障害者が、乳房やペニスを切り落とそうとするのは、がん患者ががん細胞を切り落とそうとする場合とは異なって、
社会や文化がジェンダー・コンシャスであるからである。
ババア「女の自立!男女平等!フェミニズムヽ(^o^)丿」 娘「お姫様になりたい♪」
123 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 12:45:20.32 ID:n//QW6il0
フェミニズムと同じ弊害をオリエンタリズムが抱えている。
近年欧米の哲学者たちは、従来の西洋=ロゴス中心主義を反省し、東洋思想に関心を持ち始めている。
しかし東洋思想に関心のない日本の哲学者である私は、こうした傾向を嬉しくは思わない。
カントを研究している日本の哲学史研究者がドイツに行って、カントをテーマにした講演をしようとしたが、
誰も聞いてくれないので、予定を変更して禅をテーマにしたところ、ドイツ人は珍しがって聞きに来てくれたという話がある。
女性の社会学者も、フェミニストと自称した方が、マスコミで取り上げてもらえる確率が高くなる。
しかし「日本人」も「女性」も、本人が自由意志に基づいて選んだ属性ではない。
種の個性が、個人の個性と異なる時、種の個性が賞賛されても、本人は疎外感を感じるだけである。
話をエコフェミニズムに戻そう。
先進国の豊かな生活にあこがれているアフリカの人にとって、アフリカの豊かな
自然を賛美するヨーロッパの「進歩的知識人」の言説は偽善に満ちたものに聞こえる。
「アフリカの自然がそんなに良いのなら、なぜあなたたちは、アフリカに定住せずに、
逆にアフリカ人労働者のヨーロッパへの移住を拒否するのか」とそのアフリカ人は問い返すだろう。
エコフェミニズムは、古き良き《女らしさ》や《処女的な自然》を賛美することによって、
当事者に抑圧感を持たせることなく、女性原理を保存しようとする巧妙な手口なのである。
ババア「女の自立!男女平等!フェミニズムヽ(^o^)丿」 娘「お姫様になりたい♪」
124 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 12:46:19.22 ID:n//QW6il0
かつて人種差別にフラストレーションを感じた黒人たちは、自分たちを心の温かい太陽の人、
白人を心の冷たい氷の人と呼んで、価値観を逆転させようとした。
こうした試みは、人種差別という最も是正しなければいけないところを是正せず、
白人と黒人のどちらが上かというどうでもよいところだけを逆転させるきわめて皮相な抵抗運動である。
同様に、ラディカル・フェミニズムも少しもラディカルではない。
ラディカルであるためには、「男らしさと女らしさのどちらが優れているか」という問題意識そのものを止揚しなければいけない。
90年代以降、女性の社会進出に反比例するように、フェミニズムは衰退していった。
このことは、21世紀が「女性の時代」などではなくて「個人の時代」であることを示している。


フェミニズムとは何か
http://www.systemicsarchive.com/ja/a/feminism.html
ババア「女の自立!男女平等!フェミニズムヽ(^o^)丿」 娘「お姫様になりたい♪」
132 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 12:57:55.15 ID:n//QW6il0
1999年に男女共同参画社会基本法が成立し、2001年には内閣府男女共同参画局が設置され、国も自治体も女性の社会進出に向けて取り組んでいる。
だが、政府が推進する男女共同参画社会とは、左翼系フェミニストが期待しているような、女性労働者の地位の向上を保証する平等な社会ではなく、
むしろ資本家を儲けさせるための格差社会である。

1. 男女共同参画社会基本法はなぜ成立したのか
女性を家事と育児に固定する性別分業は、憲法で謳われている男女平等の理念に反するとして、フェミニストたちから長らく批判されてきた。
彼女たちは、立法や行政を司る国会議員や官僚のほとんどが男性であることから、女性解放は困難と当初は見ていたようだが、
1985年に女子差別撤廃条約が批准され、男女雇用機会均等法が成立し、1999年には、男女共同参画社会基本法が成立するなど、
女性の職場進出に向けての法的整備は着々と行われている。
以下のグラフは、昭和55年(1980年)から平成19年(2007年)までの間での、専業主婦がいる世帯の数と共働きの世帯との数の推移を描いているが、
これをみれば、女性の社会進出が、法的整備を背景に、着実に進んでいることがわかる。
http://www.systemicsarchive.com/ja/a/gender_free_two-income.png
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134 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 12:59:21.50 ID:n//QW6il0
フェミニストたちも、男女共同参画社会を推し進める政府の積極的な姿勢に驚いているようだ。
男女共同参画審議会委員の大沢真理との対談の中で、フェミニストの上野千鶴子は、
1996年7月に、男女共同参画審議会が、男女共同参画ビジョンを答申したことについて、次のように言っている。

  かつて国連で女性差別撤廃条約が締結された時、条約の文言を読んで日本の現実とのあまりの落差に茫然自失しました。
  こんなものに署名してきた日本政府代表って、おいおい、本気かよ、字が読めなくなって署名してきたんじゃないのか(笑)と
  思うぐらいの大きなショックがありましたけど、これはそれと同じくらいの落差があります。
  ジェンダーの解消を目指す私たちにとっては願ってもない歓迎すべきゴールですけれど、
  それが今日の時点における政府の審議会で合意形成されたという、その事実そのものが、にわかには信じがたい(笑)。[上野 千鶴子 他:ラディカルに語れば?―上野千鶴子対談集, p.26]

これに対して、大沢は、その時代背景を次のように分析している。

  男女共同参画室と審議会が設置され、北京会議に備えるという体制が作られたのは羽田内閣から村山内閣に変わる境目の頃なんですね。
  やっぱりあの頃、戦後五十年決議であれ、なんであれ、いろいろ言われても、自民党単独政権ではとてもなされないだろうようなことがいろいろなされてきた。
  私はそういう九十年代連立政治の一つの結果であるというふうに思っています。[上野 千鶴子 他:ラディカルに語れば?―上野千鶴子対談集, p.14]
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136 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 13:01:18.14 ID:n//QW6il0
大沢は、このように、男女共同参画社会の実現には、社さの閣外協力が追い風になったと考えている。
では、自民党の保守主義者は、社会主義者たちとは異なって、女性の社会進出に消極的だったかと言えば、必ずしもそうではない。
男女共同参画社会基本法を成立させたのは、純粋な保守政党である。
女子差別撤廃条約を批准したり、男女雇用機会均等法を成立させたのは、タカ派の保守主義者として知られる中曽根康弘が首相のときだった。

大沢は、対談の後にできた男女共同参画社会基本法案について次のように述べている。

  一九九八年夏の参議院選挙を境に「自社さ」から「自自(自民党と自由党)」へと変わった政権のもとで、法案がどのようなものになるか懸念していたが、
  意外にもいくつかの点で審議会答申よりも踏み込んだ法案となったことを、やや驚きながら歓迎した覚えがある。[上野 千鶴子 他:ラディカルに語れば?―上野千鶴子対談集, p.78]

自由党というのは、1998年から2003年にかけて存在した、小沢一郎を中心とした保守政党である。
上野は、1999年に、男女共同参画社会基本法が、日の丸・君が代を国旗・国歌として法制化する法律とともに成立した後、次のように感想を述べている。

  この法律は、「君が代・日の丸」国会で、超党派の満場一致で成立しました。
  「君が代・日の丸」法案を通した同じ議員が通したんですよ、信じられます?[?]よう通したな、こんな過激な法律を[上野 千鶴子 他:ジェンダーフリーは止まらない!―フェミバッシングを超えて, p.35-36]

2000年12月の講演では、上野はこう言ったと伝えられている。

  男女共同参画社会基本法が可決された。しかも全会一致で!私はこのように思った。
  この男女共同参画社会基本法がどのようなものか知っていて通したのかよー、と[?]これにより後で保守系オヤジどもを地団駄踏んで悔しがらしてやる
  [西尾 幹二 他:新・国民の油断 「ジェンダーフリー」「過激な性教育」が日本を亡ぼす, p.214]

上野も大沢も、男女共同参画社会基本法の成立で女性の地位が向上すると喜びつつも、
なぜフェミニストの敵と思われている保守本流のオヤジ議員たちが、誰も、これ反対しなかったのか、理解できず、不思議に思っているようだ。
ババア「女の自立!男女平等!フェミニズムヽ(^o^)丿」 娘「お姫様になりたい♪」
137 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 13:03:32.60 ID:n//QW6il0
上野は、しかしながら、男女共同参画基本法に全面的に賛成しているわけではない。
彼女は、法の名前に、「男女平等社会」ではなくて、「男女共同参画社会」が採用されていることに文句を言っている。
たしかに、「男女共同参画」の英語訳が“gender equality”となっていることを考えると奇妙であるが、
日本国憲法で平等の理念が謳われているにもかかわらず、「男女平等」という言い回しいは当初から慎重に避けられていた。

ちなみに、1987年に制定された「西暦2000年に向けての新国内行動計画」では「男女共同参加型社会」という表現が使われていた。
しかし「参加」では、付け足しのようなイメージが強いので、「参画」という言葉が使われた。大沢はこう回顧している。

  財界の人たちは、法制度がどうこうより、要は能力と努力によって差がついているだけなので、それに不満を言い立てるなんてとんでもないと。
  男女平等という言葉に男性のお偉方のアレルギーが強いということを考慮して、平等とは言わないで、男女共同参加とか共生と言ってきた。
  参画と言うようになったのは、日本では参加、参加で大衆動員するので、それよりは意思決定過程に参与することを強調する意味で
  参画を使おうということになって出てきた言葉ですね。[上野 千鶴子 他:ラディカルに語れば?―上野千鶴子対談集, p.17]

ここからわかるように、委員たちは、財界人の圧力を受けて、男女平等という文言を入れないことで、
この法律が《結果の平等》を保証しているかのような印象を払拭し、保証しているのはあくまでも《機会の均等》だけだというメッセージを名称に込めたのである。
同じことは、所謂「男女雇用機会均等法」、つまり、「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律」にも当てはまる。
どちらの法律も、本文には、日本国憲法に言及した箇所以外では、「平等」という言葉は出てこない。
この言葉の問題が、政府とフェミニストの思惑のずれを象徴している。
ババア「女の自立!男女平等!フェミニズムヽ(^o^)丿」 娘「お姫様になりたい♪」
139 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 13:05:28.73 ID:n//QW6il0
フェミニズムというのは、たんに男女が対等であることを主張しているだけの形式的な思想ではない。
それは、女性原理を尊重し、エコロジーや社会主義と親近性を持つ、実質的な内容を持った思想である。
だから、自由競争のような男性原理を肯定する、自由主義的な機会均等主義者は、フェミニズムとは言わない。
上野自身、ブルジョワ的で自由主義的な女性解放思想は、フェミニズム理論に含めることはできないと言っている [上野 千鶴子:家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平, p.12] 。

上野は、マルクス主義的フェミニストである。
マルクス主義的フェミニズムは、男性/女性の関係をブルジョワ/プロレタリアンや先進国/発展途上国といった
搾取/被搾取、強者/弱者の関係で捉え、後者の前者からの解放を主張する。
マルクス本人がフェミニストであったわけではないが、フェミニストたちは、自由競争という男性原理を否定し、
弱者を救済するという点を評価して、マルクス主義を女性原理で染め上げた。
ババア「女の自立!男女平等!フェミニズムヽ(^o^)丿」 娘「お姫様になりたい♪」
141 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 13:07:14.44 ID:n//QW6il0
上野は、リベラリズム(アメリカ的な意味ではなくて、イギリス的な意味でのリベラリズム)を、資本主義のイデオロギーとして批判する。

  リベラリズムは「自由主義」と訳します。自由主義ってカッコよく響きますが、
  自由主義の自由って何かというと、資本家が金を儲ける自由のことです。
  この自由を守れというのがリベラリズムというのものなんです。[上野 千鶴子 他:フェミニズムの最前線―上野千鶴子講演会記録, p.42]

上野は、男女雇用機会均等法は、女を自由競争に巻き込むという理由で、この法律に反対している。

  ヨーイドンの競争で、最後に結果に差がつけば、これまではヨーイドンの競争に入れてもえら[ママ]なかったから
  男女格差がついていたように見えたけれど、ヨーイドンの結果、「勝ち組」の女と「負け組み」の女ができるだけでしょう。
  そうすると勝った女を「いいわね、あの人は。でも私はしょせん、頑張らなかったから−」と、
  女が自分の劣位に同意をする、同意を調達するシステムに、女がより深く巻き込まれていくだけでしょう。[上野 千鶴子 他:フェミニズムの最前線―上野千鶴子講演会記録, p.49]

最近では、さすがに上野も「マルクス主義」を口にしなくなったが、相変わらず、競争のない社会主義的な平等社会を理想としている。
だが、現在日本で実現されつつある男女共同参画社会は、そうした理想とは全く逆の社会である。
ババア「女の自立!男女平等!フェミニズムヽ(^o^)丿」 娘「お姫様になりたい♪」
143 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 13:09:13.13 ID:n//QW6il0
なぜ、自民党や元自民党の保守主義の議員たちは、男女共同参画社会基本法に賛成したのか、
その理由を考える前に、「男女共同参画社会」の実現が何をもたらすのかを考えよう。
上野は、こういう予測を立てている。

  国内で女性の労働力参加を促進する政策を取ることは、一国国内的な経済性や生産性の効率のためにはプラスかもしれません。
  ですが、国内で上がりすぎた男女の人件費は、安い労働力を求める資本移動をとめることはできません。
  福祉国家とかあるいは一国内ジェンダー・ディストリビューション・ジャスティス(ジェンダーによる資源の分配公正)を、
  域内平和として達成することは可能かもしれないけれども、気がついたらとっくに国内の雇用の空洞化が起きていた、ということにもなりかねません。[上野 千鶴子 他:ラディカルに語れば?―上野千鶴子対談集, p.68]

ここからもわかるように、上野は、もしも女性が本格的に職場に進出するなら、
女性の賃金が男性の水準にまで上昇すると予想し、
その結果、資本は低賃金による搾取を海外に求めるようになるのではないかと懸念している。
ババア「女の自立!男女平等!フェミニズムヽ(^o^)丿」 娘「お姫様になりたい♪」
145 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 13:10:47.72 ID:n//QW6il0
しかし、私は、上野が考えているのとは全く逆の事態になるだろうと予測している。
それまで家庭の中で眠っていた女性の労働力が、労働市場に出てくれば、
労働力の供給が増えるのだから、賃金水準は下がることはあっても上がることはない。
女性労働者の待遇を今の男性労働者なみに良くするのではなくて、
男性労働者の待遇を今の女性労働者なみに悪くすることで男女格差を解消し、
同時に、国内の雇用の空洞化を阻止することが、男女共同参画社会実現の結果である。

女性の社会進出は、賃金水準の切り下げを媒介としつつ、ポジティブフィードバックによって促進されるだろう。
夫の賃金が下がれば、それまで専業主婦でやっていけた妻も、家計を維持するために、働きに出なければならなくなる。
より多くの専業主婦が、労働市場に出れば、賃金水準はさらに下がる。
そうなれば、さらにより多くの専業主婦が...というように。

上野のような左翼のフェミニストは、ワークシェアリングによる福祉国家の実現を夢見ているのであろう。
確かに、女性が労働市場に進出しても、男女の労働時間を短縮すれば、賃金水準の値崩れを防ぐことができるだろう。
しかし、日本の雇用政策は、世界的なトレンドに合わせて、福祉国家的ないしフォーディズム的な労使協調を終わらせる方向で動いている。
ババア「女の自立!男女平等!フェミニズムヽ(^o^)丿」 娘「お姫様になりたい♪」
147 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 13:13:14.88 ID:n//QW6il0
1999年から施行された改正男女雇用機会均等法では、男女の均等取扱いとひきかえに、
女子保護規定が撤廃され、女性の残業・休日労働・深夜業規制がなくなった。
男女の労働者に、現在の男性なみの厳しい労働条件で、かつ、現在の女性なみの
安い賃金水準で働いてもらうことで男女間の格差を解消したいというのが資本家たちの本音である。
そして、資本家から多額の政治献金を受けている自民党や元自民党の保守主義の議員たちが、
資本家の利益になる政策に賛同するのは当然である。

フォーディズム的な労使協調の終焉は、たんに賃金水準を切り下げるだけでなく、雇用形態の変更をもたらす。
雇用者は、社会保険や福利厚生費を削減するために、あるいは雇用の硬直化を防ぐために、非正規雇用を増やしつつある。
非正規雇用といっても、正規雇用と比べて必ずしも労働時間が短いわけではなく、
むしろ時間給が低い分、長時間働かなければいけないというのが現実である。
企業は、非正規の雇用を増やすことで、一人当たりの労働時間を減らそうとしているわけではなくて、
企業にとって重要でない従業員の一生の面倒を見ることを放棄しようとしているのである。

この終身雇用制の崩壊もまた、男女間格差を是正することになる。
これまで女性の賃金水準が男性の賃金水準よりも低く抑えられていたのは、かならずしも経営者の性的偏見が原因とは言えない。
女性従業員は、結婚や出産でいつ辞めるかわからないので、スキルアップのための長期投資や、
企業秘密を漏らすことになる経営参画の対象にはなりにくかった。
つまり、女性従業員の賃金水準が安いのは、男性アルバイト従業員の賃金水準が安いのと同じ理由なのである。
しかしながら、長期にわたって働く女性が増えてくると、そうした差別は根拠を失うことになる。
ババア「女の自立!男女平等!フェミニズムヽ(^o^)丿」 娘「お姫様になりたい♪」
149 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 13:15:13.31 ID:n//QW6il0
以下のグラフは、男性一般労働者(正規雇用労働者)の時給を100とした時の、女性一般労働者(正規雇用労働者)、
男性短時間労働者(非正規雇用労働者)、女性短時間労働者(非正規雇用労働者)の時給の相対値の推移を示したものである。
平成元年(1989年)においては、男性の非正規雇用労働者の時給水準は、女性の正規雇用労働者の時給水準に近かったが、
その後、下落して、女性の非正規雇用労働者の時給水準に近づきつつある。
正規雇用と非正規雇用の格差が厳然と維持される一方で、
正規雇用においても、非正規雇用においても、男女の格差は縮小しつつある。
http://www.systemicsarchive.com/ja/a/gender_free_transition.png
ババア「女の自立!男女平等!フェミニズムヽ(^o^)丿」 娘「お姫様になりたい♪」
151 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 13:16:56.71 ID:n//QW6il0
男女格差だけでなく、日本と世界平均との格差も縮小しつつある。
発展途上国と比べて高い日本の労働賃金の水準は、今後とも下がっていくだろう。
但し、下がるといっても、それはあくまでも平均的に下がるというだけであって、
個別に見るなら、少数の勝ち組と多数の負け組みに二極分化することになるだろう。
では、勝ち組の条件は何かといえば、それは、将来ロボットやコンピュータによる
オートメーション化が進んでも、それらによって代替されることがない仕事をしている人たちである。

男女共同参画社会による、労働賃金水準の下落は、究極的には、オートメーション化によって惹き起こされている。
かつて主婦の仕事は、成人のフルタイムの仕事に相当するほど多かったが、家電製品の自動化により、格段に省力化されるようになった。
女性の労働市場への進出は、家庭内オートメーション化によって浮いた労働力が家庭外に補充されることを意味している。

ロボットやコンピュータによって代替できない仕事は、誰にでもできるような単純な仕事ではないのだから、
誰もが仕事をする能力があることを前提にしている社会主義的なワークシェアリングは適切ではない。
自由競争により、機械によって代替できる人間と、そうした人材ないし機械を使いこなすことができる人間とに選別する必要が出てくる。
福祉国家崩壊後の新自由主義(新保守主義とも呼ばれる)は、そうした考えに基づいて現れてきたのである。



男女共同参画を推進する本当の狙いは何か
http://www.systemicsarchive.com/ja/a/gender_free.html
未開発の女児16人の下半身に指を挿入し舌で舐め回した鈴木正哉さん 懲役13年
81 :名無しさん@涙目です。(西日本)[sage]:2011/09/16(金) 13:34:51.24 ID:n//QW6il0
おまえらうらやま死刑とか脳が活動してないような定型レスして思考停止してるけど本当にそう思ってるのか自問自答してみたほうがいいぞ。
未開発の女児16人の下半身に指を挿入し舌で舐め回した鈴木正哉さん 懲役13年
84 :名無しさん@涙目です。(西日本)[sage]:2011/09/16(金) 13:50:43.58 ID:n//QW6il0
 
バイエルン州立歌劇場、団員百人が日本行き拒否
221 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 14:40:20.00 ID:n//QW6il0
すべての個人には選択の自由がある。
大阪府教育委員会「大阪維新の会キチガイ過ぎワロタ・・・ もう総辞職するしかない」
164 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 15:25:45.29 ID:n//QW6il0
橋下はやってることが違う。
効率の公募なんて愚策mのいいところ。
権力握って公立校を支配したいという欲望に駆られてるんじゃないか。

必要なのは効率を全部民営化して私学助成を全廃することだ。
学校の責任で優秀な人材を集める。ダメなやつをクビにする。
市場原理によって淘汰されるのが橋下の望むものだろ。
大阪府教育委員会「大阪維新の会キチガイ過ぎワロタ・・・ もう総辞職するしかない」
169 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 15:33:06.81 ID:n//QW6il0
知事が学校の方針に口出しするのは社会主義。
全部民営化して教育バウチャーにしろ。
ゆとり問題って教育問題だよね 失策を世代批判にすり替えてる老害共は早く土下座しろよ
361 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 15:43:35.38 ID:n//QW6il0
1980年代、日本が世界最強の経済大国だった頃、「日本のサラリーマンは働きすぎだ」
あるいは「日本の子供は勉強しすぎだ」といった非難が海外から浴びせられた。
海外から指摘されるまでもなく、過労死につながるような長時間労働や、
青少年から考えるゆとりを奪ってしまうような受験勉強は望ましくない。
その意味で、ゆとり教育とゆとり労働は理念としては間違っていない。
しかし、日本政府がこの理念を実現するためにとった政策手段は、賢明なものだったとは言い難い。

1. なぜリゾート開発は失敗するのか

まず、働き中毒の問題から考えていこう。
日本政府は、週休二日や有給休暇などの制度が普及しているにもかかわらず、
日本人の働き中毒がいっこうに治らないのは、国内に余暇を楽しむことができるリゾートが少ないからだと考えた。
田中角栄の日本列島改造論が挫折した後、新しいタイプの国土開発を模索した日本政府は、
80年代の後半から、太平洋ベルト地帯に集中する生産拠点を地方に移転するという従来型の地域経済振興策に替えて、
都市住民が長期間滞在できる保養・娯楽施設を地方に建設するリゾート開発を推進した。

日本政府がリゾート開発を推進した背景には、別の思惑によるアメリカ政府からの外圧があった。
当時、対日貿易赤字に頭を痛めていたアメリカ政府は、日本が内需を増やすことにより輸出を減らすことを画策した。
内需を増やすといっても、生産力増強につながる投資型の消費では困るわけで、生活関連の、それも娯楽のような、
できるだけくだらないものに、貿易黒字で貯め込んだ貯蓄を浪費してもらいたいというのがアメリカの要求である。
ゆとり問題って教育問題だよね 失策を世代批判にすり替えてる老害共は早く土下座しろよ
362 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 15:45:08.82 ID:n//QW6il0
このアメリカの要求を受けて、1986年に「国際協調のための経済構造調整研究会報告」、
通称「前川リポート」が作成され、翌年「総合保養地域整備法」、通称「リゾート法」が制定された。
この法律により、営利企業であっても、国から承認を受ければ、第三セクターとして事業税を減免されたり無
利子で融資を受けられたりして優遇され、以前は厳しく規制されていた国立公園内の開発や国有林の伐採なども許可された。
ちょうどこの頃、アメリカをブラック・マンデーの危機から救うための日銀の低金利政策が始まり、過剰流動性相場の中、
行き場を失った資金は、不動産投機に流れ込んだ。所謂不動産バブルである。

バブルは、1990年の年初に崩壊したが、バブルの崩壊で、リゾート開発が下火になったわけではなかった。
バブル崩壊後の不況を克服するための公共事業として、官主導のリゾート開発が行われたのである。
1990年2月の日米構造協議で、アメリカは、日本にGNP比10%の公共投資を行うことを要求し、以後日本政府は公共投資を増やしつづけた。

しかし、いくら政府がアクセスを改善しようと地方に空港やら高速道路やらを造っても、
肝心のリゾート施設に対する需要がなければ、利用者は増えない。
初めてリゾート法の適用を受け、1993年に開業した宮崎県のシーガイアが、
2001年に3261億円の負債を抱えて倒産し、話題を集めたが、リゾート法によって急増した
第三セクターの事業体は、現在80%が赤字経営で、破綻は時間の問題と言われている。
熱狂的に推し進められたリゾート開発がもたらしたものは、期待されたような
本格的な余暇時代の到来ではなくて、自然破壊と不良債権の山であった。

2. 効率を上げない限りゆとりは生まれない

日本政府は、日本人もやがてフランス人のように、長期間リゾートでバカンスを楽しむ時代が来るものと予測していた。
確かに、日本人の平均的な労働時間は形式的には短縮される傾向にある。
しかし、実際には、サービス残業や休日出勤や有給休暇の返上などにより、本当の余暇はそれほど増えていない。
そして、それは、日本にリゾート施設が少ないからではなく、日本の労働者に余暇を楽しむだけの時間とお金がないからだ。
ゆとり問題って教育問題だよね 失策を世代批判にすり替えてる老害共は早く土下座しろよ
363 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 15:46:40.12 ID:n//QW6il0
余暇をテーマにしたあるラジオ番組で、フランスの会社から日本の会社に転職したあるフランス人がゲストとして出演し、
「あなたのようなフランス人から見れば、日本人はさぞワークホリック(働き中毒)に見えることでしょうね」という
司会者の問いかけに、「全然そうは思わない」と答えていた。
彼によれば、日本人は、仕事時間中にほとんどまともに仕事をしていないとのことだ。
日本の職場では、社員(と呼ばれている従業員)が、お茶を飲みながら仕事と関係のない
世間話をする光景がよく見られるが、欧米の職場ではこのような時間の浪費は許されない。
他方、日本の労働者は、職場の外でも、付き合いと称して、飲食店やゴルフ場で、
仕事なのか遊びなのかよくわからない時間を浪費することを強制される。
要するに、日本では、仕事の中に余暇があり、余暇の中に仕事がある。
余暇で薄められているために、仕事の効率は大幅に低下しているのだ。

もちろん、中には、仕事か余暇かわからないような時間を長々と過ごすことを好む人もいるだろう。
そいういう人にとって、職場は一種のリゾートである。
時給は低いが楽しいリゾートのような職場を選ぶことも、一つの選択であり、それはそれで良い。
だが、労働時間をできるだけ濃縮して、浮いた時間を本当の余暇として使いたいという人もたくさんいるはずだ。
そうした人に選択の自由がないのは、問題ではないのか。
日本の職場では、てきぱきと仕事を片付け、他の社員(特に先輩)が全員夜遅くまで残業しているというのに、
一人だけさっさと早く帰ってしまう社員に対して、周囲は尊敬のまなざしどころか冷たい視線を振り向ける。
つまり、仕事の効率を上げようとすると、「付き合いが悪い」と言って非難されるのだ。これでは、いつまでたっても仕事の効率は上がらない。
ゆとり問題って教育問題だよね 失策を世代批判にすり替えてる老害共は早く土下座しろよ
364 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 15:49:21.73 ID:n//QW6il0
では、生産量を減らすことなく所定外労働時間を短縮する、すなわち生産性を向上するにはどうすればよいのか。
答えは一つしかない。終身雇用制の廃止である。
終身雇用制(厳密に言えば定年雇用制)は一種の奴隷制度である。
奴隷は、食事を与えられる代わりに、自由を放棄し、主人から命令されたとおり働く。
同様に、日本の企業奴隷も、一生の生活を保障してもらう代わりに、自由を放棄し、会社から命令されたとおり働く。
だから、残業を命じられても、断れないのだ。
労働者の転職が容易になれば、企業は人的資源を浪費しにくくなる。
有能な人材ほど、非効率な職場を捨てるので、生産性の低い企業は淘汰される。
政府は、終身雇用制を前提とした社会保障制度を個人単位のポータブルな制度に変え、
中途採用を理由に差別待遇を与えることを法律で禁止することにより、労働市場の流動化を促進するべきである。
そうすれば、有能な労働者は、ゲマインシャフト型の会社からゲゼルシャフト型の会社に転職するようになるだろう。

ゲマインシャフトとは、機能ではなくて所属に価値を置く共同体のことである。
賃金は、成果に対してではなく労働時間に応じて支払われる。
また、その共同体に忠誠を示して、長く所属すればするほど地位は高くなる。
賃金が、所定の労働時間に対して支払われるので、時間あたりの生産性を向上させようとするインセンティブが働かない。
このため、仕事の効率が低下し、残業するはめになるのだが、もともと「みんなと一緒にいる」ということに価値を置いているので、
労働時間がだらだらと長くなっても、苦情はない。

これに対して、ゲゼルシャフトは「何であるか」ではなくて「何をするか」に重きをおく。
賃金は、労働時間ではなくて、成果に対して支払われる。
能率を上げれば、いくらでも労働時間を短縮する、つまり時給を増やすことができる。
有能な労働者がゲゼルシャフト型の職場を求めるのは、自分の能力にふさわしい高い時給を求めからだ。
ゆとり問題って教育問題だよね 失策を世代批判にすり替えてる老害共は早く土下座しろよ
365 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 15:51:45.34 ID:n//QW6il0
労働の供給曲線は、後方屈曲供給曲線と呼ばれる。
横軸に労働時間、縦軸に時給をとると、右上に伸びる労働の供給曲線が、
途中で左上へと方向を変えるので、そう呼ばれている。

http://www.systemicsarchive.com/ja/a/efficiency.jpg
後方屈曲供給曲線
賃金がwからw'へと上昇すると、労働時間は、BからB'へと増えるが、賃金がw'からw''へとさらに増えると、労働時間はB'からB''へと減る [西村和雄:ミクロ経済学, p.73]。

そのグラフが意味するところを言葉で説明しよう。
時給が安すぎると、労働者は「これなら生活保護で暮らした方がましだ」ということで、働かない。
フリーターの若者なら、「親のすねをかじって生活した方がましだ」と言って、アルバイトをしない。
しかし、時給が高くなるにつれて、労働時間を増やそうとするようになる。
しかし時給が十分高くなると、労働時間を増やすことによって得られる限界効用よりも、
余暇を増やすことによって得られる限界効用のほうが高くなるので、逆に労働時間を減らそうとするようになる。

この法則は、労働時間を自ら選ぶ自由のない企業奴隷には当てはまらないが、
成果報酬制度のもとで労働時間の長さを決める自由がある労働者には当てはまる。
不況が長引く中、あまり働かないフリーターの数が増えているが、これは、後方屈曲供給曲線の低位に当てはまる《貧しさゆえの余暇》である。
日本が目指すべき方向は、労働の供給曲線が後方に屈曲するがゆえに生まれる《豊かさゆえの余暇》でなかればならない。
《豊かさゆえの余暇》が実現するならば、つまり労働者にお金と時間ができるのなら、
天下りの役人がセンスのないリゾートを造らなくても、民間の企業が採算の取れるリゾートを造るようになる。
ゆとり問題って教育問題だよね 失策を世代批判にすり替えてる老害共は早く土下座しろよ
366 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 15:53:08.80 ID:n//QW6il0
3.「ゆとり教育」はなぜゆとりを奪うのか

次に「ゆとり教育」の方を取り上げよう。
現在、学力低下を惹き起こしているとして非難されている「ゆとり教育」という方針を日本の文部省(当時)が打ち出したのは、
70年代後半からで、80年代以降、「ゆとり労働」と並行して推進されたが、「ゆとり労働」とは異なって、バブル崩壊後も強力に推し進められた。
極めつけは、2002年度から実施された新学習指導要領で、文部科学省は、学習内容を三割削減し、代わりに「総合的な学習の時間」と称する、
勉強か遊びかよくわからない意味不明の時間を増やし、非効率だった公教育を一段と非効率にした。

文部科学省は、自分たちの裁量で、日本の子供たちの勉強の負担を軽減させることができると考えていたようだが、
グローバルな競争を強いられる現代では、それは不可能なことである。
いくら公権力が、労働基準法で労働時間を短くしようとしても、労働の非効率性という根本問題を直さなければ、
日本の労働者は、グローバルな競争で生き残るために、残業という非公式な形で、労働時間を増やさなければならない。
同様に、いくら公権力が、学習指導要領で勉強時間を短くしようとしても、教育の非効率性という根本問題を直さなければ、
日本の生徒たちは、グローバルな競争で生き残るために、私教育という非公式な形で、勉強時間を増やさなければならない。
ゆとり教育がゆとりを奪うと言われる所以である。

もっとも、文部科学省だけを責めるわけにはいかない。
かつて、マスコミや民間の教育評論家たちは、受験戦争や詰め込み教育を激しく批判していたのであり、
文部科学省は、こうした批判に迎合する形で「ゆとり教育」が登場してきたのだから。
教育評論家たちは、「子供が夜遅くまで進学塾に通って、遊ぶことができないのはかわいそうだ」と過熱する受験競争を批判した。
それなら、子供たちを、教育機関として機能していない公教育の学校に行かせるのをやめて、
昼間から私塾にのみ通わせればよいではないか。
ゆとり問題って教育問題だよね 失策を世代批判にすり替えてる老害共は早く土下座しろよ
367 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 15:55:12.37 ID:n//QW6il0
ゆとり労働を可能にするには終身雇用制を廃止しなければならなかったように、
ゆとり教育を可能にするには、公教育を廃止しなければならない。
一度入ってしまうと転職できない職場では、非効率な人材活用が放置されるし、
一度入ってしまうと転校できない学校では、生徒に対する非効率な授業の押し付けが放置されることになる。
もし、労働者に職場を選ぶ自由を与えるならば、非効率な職場は淘汰されるだろうし、
生徒に学校を選ぶ自由を与えるならば、非効率な学習を強いる学校は淘汰される。
冒頭述べたように、ゆとり労働もゆとり教育も、理念としては間違っていない。
だが、その理念の実現は、アメリカがかつて画策したような、日本の国力を削ぐ形で行うべきではない。
生産と教育の水準を下げることなく、余暇を増やす方法をとらなければならない。


ゆとり教育とゆとり労働
http://www.systemicsarchive.com/ja/a/efficiency.html
ゆとり問題って教育問題だよね 失策を世代批判にすり替えてる老害共は早く土下座しろよ
368 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 15:57:49.28 ID:n//QW6il0
日本の公教育は、高等教育は別として、初等教育と中等教育に関しては、うまく機能しており、それが戦後の日本経済の成長に大きく寄与した。
しかし、工業社会から情報社会へと社会の構造が変化するにつれて、公教育のシステムが機能不全になり始めた。
ポスト工業社会における教育システムはどうあるべきかを考えよう。

1. 公教育が機能不全に陥った時代背景
現在日本の経済大国としての地位は危機的状況にある。
1970年代の石油危機と公害の深刻化をきっかけに、資本集約的工業社会は知識集約的情報社会への構造転換を余儀なくされたが、
日本は資源問題や環境問題の技術的克服に成功したためにかえって構造的克服が遅れ、工業社会的体質を温存させることになった。
これに対してアメリカは、80年代に脱工業化への構造改革の苦痛を耐え抜いた結果、90年代には情報社会をリードできる立場となった。
新しい時代において日本が再び経済的リーダーとなるためには、いち早く情報革命を進める必要がある。

情報革命とは、単なる情報関連機器の技術革新のことではない。農業や工業を含めた全産業の知識集約化のことである。
知識集約的産業では、物への投資よりも人への投資が重要だ。もちろん日本はこれまでも人への投資に努めてきた。
明治以来、日本の教育システムは、工業社会に適合する人材を育ててきたし、資源に乏しい我が国が経済的繁栄を築きえたのは優秀な人材のおかげだと言える。
しかしその「優秀さ」には「工業社会での」という限定が必要である。
ゆとり問題って教育問題だよね 失策を世代批判にすり替えてる老害共は早く土下座しろよ
369 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 15:59:08.77 ID:n//QW6il0
日本の学校教育が理想とする秀才の条件と良いコンピュータの条件は奇妙に一致する。
即ち、1.記憶容量が大きくて、2.情報処理速度が速く、3.バグ(ミス)が少ない人間が、
あらかじめ出題範囲が指定された、制限時間のある、減点方式のテストで、知的エリートとして選ばれる。
また日本の道徳教育および体育教育は、命令されたとおりに従順に動くロボット型の人間を作ってきた。
だから日本の知徳体の教育は、優秀なコンピュータ代用物と優秀なロボット代用物を量産することによって工業社会に貢献してきたわけである。
ところが70年代以降、産業用ロボットの導入によるオートメーション化とコンピュータ導入による事務作業の軽減化が進み、
人間にはロボットやコンピュータにはできないような複雑系の仕事が求められるようになった。
その結果労働市場では従来型秀才の価値が大幅に下落してしまったわけである。

これまで工業社会では、企業は画一的商品を大量生産してきたし、学校は画一的労働商品を大量生産してきた。
大量生産の際、複製にコストがかかる時、このコストを下げる労働はそれなりの付加価値を持つ。
日本企業は、これまで欧米から基本的なアイデアを輸入し、欧米と同じ物を、より効率的に、
つまりより安く、そしてより精確に模造複製することによって世界市場での競争力を付けてきた。
ところが、情報産業の生産物の場合、コンピュータソフトやインターネットコンテンツを例に取ればわかるように、
複製や流通にはほとんどコストがかからないので、オリジナルを作成した者のみが利益を独占する。
横並びで他者の物まねをやっている者は淘汰される。独創性があり、他とは違う個性を持つ個人だけが生き残るのである。

よく日本人には独創性がない、集団に埋没して個性がない、製造業は強いが非製造業は弱いなどと言われる。これらは根拠なき偏見だ。
アニメの宮崎駿、映画の北野武、音楽の坂本龍一など、非製造業分野でも世界的な評価を受けるような独創的仕事をしている日本人がいるではないか。
こうした天才的個人は、娯楽産業が比較的自由な分野だから日本からも輩出されるわけだが、出る杭を打つ現在のシステムを改めれば、
さらに幅広い分野から現れるはずだ。
ゆとり問題って教育問題だよね 失策を世代批判にすり替えてる老害共は早く土下座しろよ
370 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 16:00:59.86 ID:n//QW6il0
もちろん文部省も中央教育審議会も、現在の公教育が時代に合わなくなってきたことを知っているからこそ、
「教育の多様化」や「個性の尊重」などのスローガンを掲げて何回となく教育改革を手がけてきたのである。
だが政府の教育改革は、公教育の維持を前提としているので、何をやっても制度いじりの域を出なかった。

そうこうしているうちに、公教育は完全に機能不全に陥ってしまった。
60年代の末から大学紛争が始まり、70年代の半ばから高校生の荒廃が社会問題化し、
70年代の後半には中学校で校内暴力の嵐が吹き始め、80年代の半ばから、校内暴力に代わって
いじめがクローズアップされ、そして現在小学校で学級崩壊が始まっている。
アメリカでも公教育は半ば見捨てられ、チャータースクールや自宅で学習する子供の数が増大している。
工業社会の終焉とともに公教育は歴史的使命を終えたといわなければならない。

2.教育への市場原理の導入
現在の公教育には、1.学校が教育機能と同時に評価機能までを持つために、在籍が自己目的化し、同時に教育が殿様商売化する、
2.生徒には選択の自由がほとんどなく、自分の個性や能力に合った教育を受けることができないという二つの問題がある。
多くの教育改革論者は、2番目だけを強調するのだが、1番目の問題が解決しなければ、2番目の問題は解決不可能である。
公教育の維持を前提とするならば、何をやっても制度いじりの域を出ないのはこのためである。

1番目で謂う所の評価機能とは、個人が一定の能力を持っていることを保障する権威付与機能のことで、
普遍的な、つまり超組織的な妥当性があるために、就職や昇進などの際の人選のコストを削減する、資格やコンテストの賞が持っているような機能である。
教育機関が評価機能までを持つ弊害がもっともはなはだしいのは高等教育だ。
日本の大学で重要なことは、そこで何を学ぶかではなく、そこに四年間在籍することである。
それは、入学試験が評価機能を持ち、その後の四年間が評価の対象外になるからだ。
社会が大学に求めるものが、教育機能ではなくて評価機能であるから、いかに学力のない学生が
学力を身に付けるかによってではなく、いかに優秀な学生が入学するかによって大学の価値が判定されるのである。
ゆとり問題って教育問題だよね 失策を世代批判にすり替えてる老害共は早く土下座しろよ
371 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 16:04:09.47 ID:n//QW6il0
学歴は、資格試験やコンテストと同様に評価機能を持つが、教育機能との抱き合わせであるから機能が純粋ではない。
学歴には、英検のような学歴を前提としない資格試験と比較すると次のような問題点がある。

第一に資格試験の場合、特定の学校に通う必要はない。実力さえあればそれでよいのである。
ところが学歴の場合、本来独学で成果を出せる人の方が他人から教わらなければ成果を出せない人より
優秀であるにもかかわらず、前者の能力はまったく評価されない。

第二に、現在の職業を放棄して大学に通うことは困難だから、学歴社会のもとでは、十八歳の勝負で人生が決まり、敗者復活が認められない。
これに対して、資格試験は、受験者の年齢を問題としないので、生涯学習を促進する。

第三に学歴が保証する能力は漠然としすぎている。こ
れまで日本の銀行は、偏差値50の大学の経済学部卒業生よりも偏差値60の大学の文学部卒業生を採用してきた。
経済学部でも文学部でも入学試験の中身はほとんど同じで、銀行が期待するのは専門的知識ではなくて、潜在的な能力だからである。
ところが雇用形態が、ジェネラリストの終身雇用からスペシャリストのアウトソーシングへと変化して行くと、
特殊な才能を保証する評価機能が求められるようになる。

第四に、入学試験の難易度は年度ごとに変動する。
仮に大学審議会が提案するように、単位認定や学位授与を厳しくして、卒業に評価機能を持たせたとしても、
教授の講義は個人色が強く、教授ごと大学ごとに評価基準がまちまちであるから、学位の価値にばらつきが出てしまう。
出身大学による人物判定は、資格試験のような普遍性がないし、学閥という形で業績原理が帰属原理に転化することによって、
経済の活性化を阻害する危険がある。
ゆとり問題って教育問題だよね 失策を世代批判にすり替えてる老害共は早く土下座しろよ
372 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 16:05:25.25 ID:n//QW6il0
教育機関が同時に評価機関でもある弊害は、大学院の場合さらに深刻だ。
大学院では進学や専門職への就職は、教授の一存で決まるので、学生は誰も教授を批判できない。
有能な学生ほど無能な教授に対して批判的でありうるわけだが、無能な教授ほど無能なイエスマンを弟子にすることを好む。
かくして無能の再生産が始まる。訪日する欧米の研究者は、日本の大学院生や助手が教授に奴隷のようにこき使われているのを見て驚く。
学問の世界では、既存の学説に対する批判精神が重要なのだが、日本のアカデミズムは、若手研究者の独創的な学説を叩き潰し、
彼らに分相応を自覚させることが教育だと思っている。この抑圧構造を打破しなければ、日本の大学は世界的水準に到達できない。

高等教育の下の中等教育では、教育者と教育の目標である入学試験の実施者とが分離されているので、比較的問題がなかった。
ところが近年中学校では内申書(調査書)が重視されるようになった。
従来内申書の評価は、業者テストで得られた偏差値に基づく客観的学力評価が主であったから、
一発勝負の入試のリスクを分散させる機能しかなかったのだが、平成5年に文部省が通知を出して以来、
担任教師による主観的評価の占める割合が増加するようになった。
一般入試では、その内申点と学力試験の得点が、一対一の比率で評価される。
さらに中央教育審議会は、『21世紀を展望した我が国の教育の在り方について』の中で、内申だけで決まる推薦入学の枠を広げようとしている。

このため中学生は、内申点を稼ぐために、解答を丸写ししてまで提出物を出したり、老人ホームでボランティア活動をやったりするようになった。
ボランティアの英語の語源が「自発的意志」であることを考えれば、明らかに不健全だ。
直接中学生から聞いた話だが、今の中学生は、先生に知らないことではなく知っていることを質問しに行くと言う。
知らないことを聞いて、理解できなければ先生の気分を害してしまう。だからわざと知っていることを質問し、
熱心に説明を聞くふりをして、「先生の御説明でとても良くわかるようになりました。ありがとうございます」と言って頭を下げる。
すると先生はうぶだから、にこにこしながら内申点を上げてくれるのだそうだ。
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375 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 16:07:05.83 ID:n//QW6il0
文部省は、さらに大学受験にまで学力試験を伴わない推薦入学の制度を普及させようとしている。
文部省の『中高一貫教育、来年度より選択的導入へ』によると、平成十一年度より選択的に導入される中高一貫教育も、中
教審は「受験競争の低年齢化につながることにならないよう、特に、公立学校では、学力試験は行わず、
それぞれの学校の特色に応じて、面接、実技、推薦、抽選等の方法を組み合わせて行う」と言っているが、
狙いは名門公立校を作り、小学校教師にまで推薦権を与えることにある。
小学校の教員から大学院担当の教授にいたるまで、およそ教師にとって、生徒の推薦権は、一度手にすると手放せなくなるほどおいしい既得権益である。
内申点を上げてもらうために生徒の父母が商品券を贈るなどはよくあることで、女子高生の中には、志望大学への推薦をもらうために担任と肉体関係を持つものまでいる。
かくして公教育は権力癒着の早期教育の場と化す。

公教育は、教育としては死んだも同然である。
公教育がまともな教育をしてくれないから、中学生は進学塾へ、高校生は予備校へ、大学生は専門学校へ通うというダブルスクール現象が起きる。
権威だけで中身のないフォーマルな教育と権威はないが中身のあるインフォーマルな教育の両方に出費しなければならないことは、大変な浪費ではないだろうか。

私教育に求められるのは教育機能だけであるから、もし生徒が教師や教育方針に不満があるのなら、いつでも退塾できる。
ところが公教育、なかんずく義務教育には、選択の自由はほとんどない。
たとえ勉強が嫌いでも、教師と人間関係がうまくいってなくても、「友人」から頻繁にいじめられても、
人生の落ちこぼれにならないためには、子供は学校へ行かなければならない。
それでも、子供は多種多様なのに公教育は全国画一だから、当然の事ながら不適合を起こす子供も出てくる。
近年の登校拒否や保健室登校の増大は、もはや一部の特殊な子供が学校に合わなくなったのではなく、
学校自体が時代に合わなくなってきたことを示している。
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376 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 16:09:06.29 ID:n//QW6il0
学校や教師に拒絶反応を示す子供を自分たちの支配下へ置くために学校と教師が使う強制手段は、校則と体罰である。
体罰は学校基本法によって禁止されているが、相変わらずなくならない。校内暴力への対策として体罰とともに強化されたのが校則である。
覚えられないほど細分化された校則は、生徒の服装から学校生活の一挙手一投足にいたるまでを規制する。
中には「掃除の時、男子が一、二、女子が三、四と声をかけて掃除をしなければならない」(千葉県の中学校)とか、
「異性との交際は成績五十番以内に限る」(奈良県の高校)とか、「出席番号奇数のものは奇数時限後に、
偶数のものは偶数時限後にトイレに行くように」(兵庫県の中学校)といった噴飯物の校則まである。
どんなにナンセンスでも、きめ細かな校則はないよりあった方がよいと管理教育主義者は考えている。
校則が多い方が、違反者を注意する機会が増え、不良の早期是正ができるというわけである。
「服装の乱れは心の乱れ」とは管理教育主義者が好んで口にする格言だが、問題は他人と違う服を着たいという個性の自己主張が、
矯正されるべき不健全な欲望なのかどうかである。

70年代後半から荒れ始めた中学校とは対照的に、小学校ではこれまで生徒に選択の自由を認めない画一的教育がうまくいってきた。
ところが今その小学校で学級崩壊という深刻な問題が起きている。
学級崩壊の引き金となっているのは、注意力欠如多動性症候群の子供たちであるという説が有力である。
この症状の子供たちは、授業を理解するだけの集中力がなく、じっと椅子に座っていることすらできず、
授業中立ち歩き、注意されるとかっとなって衝動的な行為に走る。教師はこの子供に振り回されてまともに授業ができず、
おとなしい普通の子供までが私語を始めるようになる。いったん授業秩序が崩壊すると、もう元には戻らなくなる。これが学級崩壊である。
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377 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 16:10:33.46 ID:n//QW6il0
注意力欠如多動性症候群は、日本のみならず世界各地の子供で観察されるようになった新種の病気で、
環境ホルモンの一種が脳の制御能力を低下させることによって起こるのではないかという説も出されているが、
原因についてはまだ何もわかっていない。
少なくとも言えることは、従来の画一的な教育システムでは対応できない子供が現れてきたということである。
注意力欠如多動性の子供たちは、彼らに適した個別対応の学校に行く必要がある。
そう言うと、同和教育論者たちは「差別だ」「隔離だ」と反発するだろうが、学歴社会に反対する彼らは、
学校を教育手段ではなく、在籍そのものに意味がある共同体と考えている点で、学歴社会擁護論者と同じ地平にある。
もし学校が予備校のように、権威付与機関ではなくて教育機関だとするならば、能力別学級編制を含め、
生徒が自分の能力に合ったコースを選ぶことにはなんの抵抗もないはずである。

従来、「障害者は特殊学校に行け」と主張してきた人たちは、それを批判する人たちと同様に、
《障害者が通う特殊学校》を《健常者が通う通常学校》と対置し、後者は前者よりも優れているという価値観を暗黙の前提にしていた。
しかし、私たちは、この前提を疑わなければならない。
そもそも、いかなる人にも、何らかの欠点があるのだから、すべての人は障害者である。
そして、教育が行うべきことは、障害を克服させることにより、子供たちを理想化された
健常者へと金太郎飴的に標準化することではなくて、比較優位のある才能への集中的な投資により、
希少価値のある人材を育てることである。
私が言いたいことは、「障害者は特殊学校に行け」というよりも、「すべての人は、障害者なのだから、すべての学校は、特殊学校でなければならない」ということなのだ。
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379 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 16:13:16.29 ID:n//QW6il0
公教育も一つの公共事業であるのだから、こうした権力腐敗の指摘は陳腐なことかもしれないが、
農道空港やダムの建設の場合と違って、たんにコスト高だけではなく、教育への悪影響が懸念される。
先ほど、公教育は権力癒着の早期教育の場となっていると言ったが、せめて生徒だけでも官僚的な利権体質に染まって欲しくないものである。

私塾との競争に敗れて、学校はもはや勉強を教えてくれるところではなくなったが、公教育の先生たちは自分の雇用を守るため、
それでも公教育には生活指導や道徳教育などの仕事が残っていると主張する。
だが謂う所の「生活指導や道徳教育」とやらが、労働市場から相手にされなくなった画一的ロボットの量産であり、
権力癒着の早期教育であるとするならば、公教育に存続の理由などないと結論付けるべきである。

私は、教育機能と評価機能を分離し、教育機関をすべて私教育化することを提案する。教育は民に任せ、官は試験だけする。
すなわち、小学校から大学院にいたるまでの科目をすべて難易度に応じた数の単位にし、文部省実施の資格試験にする。
例えば小学校四年の国語は日本語初等教育三級試験、高校三年の数学は数学中等教育一級試験、
大学一年の経済学は経済学高等教育六級試験の合格によって単位が認定されるというように。
資格試験であるから、通学の有無や年齢は一切関係ない。一年に複数回実施されるので、
得意科目は平均より速く進めばよいし、苦手科目は平均よりゆっくりと進むか、あるいはペンディングにしておけばよい。
昔興味がなかった科目でも、後で学習する気になることはよくあるからだ。
現在文部省は、学年制の弾力化を検討中だが、飛び級にせよ留年にせよ、それがフルセット式であるところに問題がある。
フルセット式は、スペシャリストの時代にはふさわしくないし、生徒に不必要な優越感や劣等感を与えることになる。
だから生徒の個性を尊重して、単位修得はアラカルト式にするべきである。

アラカルト式で単位数の合計が一定に達したら、初等教育修了などの卒業証書を出す。
高等教育の場合、学位授与のためには単位とは別に論文が必要である。
学位論文はいったん文部省に集め、名前を伏して全国の適任の研究者に送って審査させればよい。
ゴーストライターを防ぐためにも、口頭試問も必要である。
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381 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 16:15:07.13 ID:n//QW6il0
このように公教育から評価機能を取り上げて民営化すれば、どこの学校にいっても取れる資格(学位)は同じであるから、
生徒は学校を従来のように形式的権威ではなくて、教育の中身で選ぶようになる。
それは教師にとって良い刺激となるはずだ。また入学者を制限する入学試験もなくなると予想される。
客の数を自分から減らそうとする企業はないのであって、近くの貸ビルの一室を借りてでも、学校は生徒を受け入れようとするであろう。

いくら多種多様な学校ができても、自宅から通おうと思えば、学校の数が限られているので、選択の自由も限られている。
だから公教育を廃止したら、全寮制の学校が増えるようになるであろう。これにはいろいろなメリットがある。
労働人口の減少により、女性の社会進出は必須であるので、「暇な母親」は減少し、家庭で子供の面倒を見ることはできなくなる。

もちろん半世紀前も、子供の数が多かったので、また別の意味で親は子供の面倒をいちいち見れなかった。
だが兄弟の中で年長者は年下の面倒を見ることはできた。ところが少子化が進み、近所の子と遊ぶ場もなくなり、
代わって各子供に自分の部屋が与えられるようになると、子供たちは自室でゲームに興じたり、漫画を読むようになる。
子供のコミュニティがなくなるのである。独りで過ごす時間が増えれば増えるほど、子供のコミュニケーション能力は落ちて行く。
寮で生活をともにすれば、一方で人間関係の能力が、他方で両親から自立する能力が身に付くようになる。
多くの子供にとって、両親は毎日顔を合わせたくない存在であるから、週末に帰ってくるぐらいでちょうどよいのである。
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382 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 16:17:02.61 ID:n//QW6il0
なお公教育の廃止は、義務教育の廃止を含意しない。
貧しい家庭に産まれることは子供の責任ではないのだから、教育の機会均等は守られなければならない。
ただ従来のように、国や地方公共団体が、特定の学校(公教育機関)に金を出す制度を改め、
六歳から十五歳までの子供に直接、家庭の所得の少なさに応じてバウチャーを発行すればよい。

政府によって認められた特定の財やサービスを民間部門から購入するために個人に支給されるクーポン券のことをバウチャー(voucher)という。
経済戦略会議でも、失業対策として、職業訓練のためのバウチャーを発行することを提言している。
従来の補助金方式だと、政治家や官僚と癒着している特定の民間部門が、消費者のニーズに合わない
財やサービスを提供しているにもかかわらず、恩恵を受けるという事態が生じる。
バウチャー方式は、どの民間部門から財やサービスを購入するかを消費者の選択に委ねることによって、
従来の補助金方式の弊害を取り除くという長所を持っている。

教育バウチャーは不正に使用されないように、子供の住民票コード入りの電子マネーで配る。
十六歳以上の青年には、学校民営化によって得られる売却益を基金にして奨学金制度を充実させ、学費を貸与する。
子供はその金で好きな学校と好きな教師を選ぶことができる。
その結果学校側には生徒獲得の競争が起きる。各学校は文部省に規制されることなく、
自らの教育理念に従って自由に教育できるが、生徒が集まらなければ経営は破綻し、
より競争力のある学校によって買収されることになる。
ゆとり問題って教育問題だよね 失策を世代批判にすり替えてる老害共は早く土下座しろよ
384 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 16:17:57.21 ID:n//QW6il0
単位の資格試験化と並んで、資格試験の単位化も必要である。
就職に密着した既存の実用技能検定などにも、その難易度に応じて単位数を振り分ける。
またコンテストなどで一定以上の成績を上げた者にも単位を出す。
このように単位修得の選択肢を増やせば、子供たちの多様な才能を早い段階で引き出すことができるようになる。
これに対応してクラブ活動も、プロを指導者とする有料オプションコースとして充実するであろう。
学歴・コネ社会から資格・受賞社会へというのが時代の流れなのである。

もしどの大学で学位を得るかではなくて、いつ学位を得るかが競争の目標となるならば、
早熟教育が加熱して、今以上に「ゆとり」がなくなるのではないのかと心配する向きもあるかもしれない。
だが人間は、好きなことなら寝食を忘れて熱中することができる。
勉強をつまらないものと決め付けた上で、勉強量を減らすことが子供の健全な発育を可能にすると考えている「ゆとり」の教育家たちは、
労働をつまらないものと決め付けた上で、労働時間の短縮が労働者の「解放」になると考えている労組の運動家と同様に、前提が間違っているのである。
「たけしは韓国の血が入っている」「カールルイスは韓国系」 韓国起源説の恐怖
65 :名無しさん@涙目です。(東日本)[]:2011/09/16(金) 16:22:50.36 ID:n//QW6il0
>>27
マジ?
どうりでここ最近の嫌韓の流れに日本人らしいコメントが出てこないわけだ
ゆとり問題って教育問題だよね 失策を世代批判にすり替えてる老害共は早く土下座しろよ
391 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 16:30:39.29 ID:n//QW6il0
3.教育への市場原理の導入

最後に、大学には、教育以外にも研究の機能があるので、公教育を廃止した時、どのように大学の研究へ公的資金を補助するかについて論じたい。
現在、科学研究費の配分審査は、文部大臣の諮問機関である学術審議会に設けられた科学研究費分科会で行われている。
また大学院生などの若手研究者への支援には、日本学術振興会の事業として特別研究員制度が設けられている。
いずれも文部省が言うように「適切な審査・評価に基づいて選択的に配分される資金」かどうかは極めて疑わしい。
研究が実際に成果を上げるかどうかはあらかじめわからないから、資金の配分比率の決定は官僚や教授たちの政治的な取り引きとなってしまうのが現状だ。

実際科学研究費は、旧帝国大学などの官僚の出身校に「重点的に」配分されている。
官僚による天下り先企業の重用が先輩優遇策であるとするならば、旧帝大等への科学研究費の重点配分は後輩優遇策であると言える。
文部官僚に言わせれば、旧帝大には優秀な教官や院生がいるから、そこに重点的に投資した方が効果的であるとのことである。
旧帝大にのみ優秀な教官がいるわけではないのだが、仮にそうだとしても、大学で配分比率が決まるのなら、
研究者にとって研究費は研究へのインセンティヴにはならない。
ゆとり問題って教育問題だよね 失策を世代批判にすり替えてる老害共は早く土下座しろよ
393 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 16:32:09.10 ID:n//QW6il0
研究者の業績ではなく、地位に対して研究費を与えているから、日本の大学には、十年間に一本も論文を書かないような無能教授がごろごろいることになる。
そんな無能教授が人事権と弟子たちへの資金配分権を独占して研究室内では絶対者として君臨している。
無能教授に限って、指導と称して若手研究者の自由を蹂躪しておきながら、自分の業績が査定されるとなると、
「学問の自由が侵される!」と声高に叫んで大学改革に反対するものなのである。日本が技術立国で経済大国であるにもかかわらず、
そして潜在的には優秀な人材がいるにもかかわらず、日本の大学が世界的に二流の評価しか受けないのは、
日本の大学が社会主義的停滞と官僚的硬直化に陥っているからだと断定してよい。

研究活動を活性化させるためには、「有望な」計画への予算としてではなく、優れた研究成果に対する賞金として研究費を出せば良い。
具体的には、レフェリーの付いた学会誌で採用された論文に対する掲載費という形で出す。
そうすれば、研究者は競って論文を書くようになるであろうし、実績を上げることができた研究者にのみ資金が提供されるし、
研究費の使い道に関して官僚が介入することもなくなるから、自由な研究ができるようになる。
このほか、実学の場合、企業からの資金協力を求めるとか、実学でない場合は、印税で資金作りをするなど、研究費は自分で稼ぐという姿勢が必要である。

以上、ここで述べたことを要約すれば、教育と研究を活性化させるためには、公教育を廃止して市場原理を導入するべきだというこの一点に尽きる。
それはたんに行政改革のために必要であるだけではなく、産業が知識集約化する世界の潮流の中で日本経済が世界の最先端の地位を保持し続けるために必要なのである。


教育改革はどうあるべきか
http://www.systemicsarchive.com/ja/a/education.html
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395 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 16:36:06.68 ID:n//QW6il0
末は博士かホームレスか

もしもあなたが日本の大学院の博士課程に進学すれば、周囲からこうささやかれるだろう。
なぜならば、たとえ博士号を取得できたとしても、ホームレスにしかなれないぐらいに、今後、余剰博士の問題は深刻になるからだ。
「末は博士か大臣か」と言われた時代は終わった。余剰博士問題はなぜ起きるのか、その根本的な原因を考えながら、問題の解決策を探ろう。

1. 大学院重点化で量産された博士

余剰博士問題が深刻化した原因を作ったのは、文部科学省の大学院重点化政策である。
1996年に大学審議会は、「大学院の一層の量的な拡大が求められる中で,
質的な面での抜本的な充実と改革が必要となっている」[文部科学省:大学院の教育研究の質的向上に関する審議のまとめ] と
大学院重点化の理念を語ったが、量的拡大を行った結果、質が大幅に低下したというのが現実である。

大学院生の数は、この10年で倍近くにまで増え、その結果、大学院の入学試験は大幅に易しくなり、修士論文の水準は、10年前の卒業論文の水準以下になった。
このため、技術系社員を修士課程の修了者から採用している企業は、質の低下に頭を抱えている [日本経済新聞:大学院肥大化のツケ, 2005/02/25;2005/02/26] 。

理系の修士課程修了者は、就職できるだけまだましである。大学院重点化の弊害は、博士課程で顕著である。
文部科学省の『学校基本調査報告書』(平成14年度)によると、理系大学院博士課程修了者の内、
大学教員等になれた者は、12.6%で、何らかの形で就職できたのは、62.7%である。

博士号取得者の就職率が低いのは、民間企業が、「博士は、社会経験が乏しくて、視野も狭く、プライドばかり高くて、役に立たない」と考えているからだ。
実学色の強い工学系分野で比較すると、米国の博士課程修了者の民間営利企業への就職割合が約59%であるのに対して、
日本のそれは約26%で、大きな差がある[文部科学省:博士号取得者の就業構造に関する日米比較の試み]。
ゆとり問題って教育問題だよね 失策を世代批判にすり替えてる老害共は早く土下座しろよ
396 :名無しさん@涙目です。(西日本)[]:2011/09/16(金) 16:37:26.52 ID:n//QW6il0
博士号を取れなかった退学者の就職は、もちろん、これよりももっとひどいはずである。
また、文系の場合、博士号をとることなく、博士課程を修了するのが一般的だが、
民間にあまり需要がないこともあって、就職状況は理系よりも悪い。
2003年の博士全体の就職率は54.4%で、この10年間で約10%低下している [読売新聞 2004/07/18] 。

政府は、余剰博士の救済策として「ポストドクター等1万人支援計画」を進め、年間1万人の博士に、
公的機関が一時的に職を与えたり、数年間にわたって研究費や生活費を助成したりしている。
ポストドクターの数は、2004年度で12500人で、「社会保険の加入状況から推定すると、
常勤研究者並みの待遇のポスドクは半数程度しかいない」[読売新聞 2005/05/02] 。
しかも、ポストドクターの中には、任期終了後、就職できずに、路頭に迷う人が少なくない。

余剰博士の問題は、今後ますます深刻になっていく。
今後、少子化の影響を受けて、大学や短大が次々に廃校に追いやられ、研究職は減り続けていくであろう。
しかるに、博士の大量生産はこれまで通り行われる。ますます減り続けるイスをめぐって、ますます多くの博士が競争することになるだろう。
しかも、政府も、財政難のため、ポストドクターにばらまく金を増やすわけにはいかない。

かつては、就職できない博士の受け皿となった塾や予備校も、少子化のために倒産が相次ぎ、
しかも、最近では、社会経験を積んだ講師の方が人気があるからということで、博士を採らなくなってきている。
長年禁欲的に研究に励み、奨学金という借金を背負い、教授の奴隷としてこき使われたあげくに、
就職できずに破産し、ホームレスとなって、最後は自殺か野垂れ死にか … これが博士課程進学者の悲しい末路である。
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