- 【Netflix】イカゲーム/Squid Game【イ・ジョンジェ パク・ヘス】 Part.4
478 :Anonymous (ワッチョイ 22e8-/PVD)[sage]:2021/10/28(木) 12:38:06.83 ID:TiqwMP4x0 - 加害者と被害者は明確に分けられないところがあり、
加害者側であっても被害者の側面があり、 被害者も加害者の側面がある。 「悪の組織」が解体されたとき、責任を追及する段になって 「責任を背負い得る主体」がほとんどそこにないことに人類は気付く。 ナチスドイツやスターリンのソ連、毛沢東の中国、ポルポトのカンボジアなどは まだ悪意ある個人によって起こっているのでその点マシだが、 独裁者無しで「やってしまった」場合、その責任は誰も負えないとなりがち。 大日本帝国の場合はどうか?「植民地侵略をしたこと」「作戦で失敗を重ねたこと」 と2つに分けるなら、前者は相当難しい議題なの並みの教養人レベルでは踏破困難だろう。 後者なら… まだ攻略を試みやすいところではある。 作戦の失敗について軍人を捕まえて問いただしてみても、 責任を負える主体は存在しないかのようだった。 これは日本人の精神年齢が低いということなのか? 一面でそれも言えるが、そうではない面もある。 その核心は「ラグ」という言葉で簡潔に言い現すことができる。 個人が意志をもってから組織で実現するまでの「個人の手間と時間と手続きのラグ」。 個人が自らの責任をぼかすために組織を隠れ蓑にして意図を通した場合の「主体のラグ」。 方針を考えた者と、実地で実行に移す所の距離の「組織の手間のラグ」。 伝言ゲームで最初の言葉と似ても似つかぬ言葉が一人歩きを始めるように、 組織の意思は個人の意思とは関係なく一人歩きを始める。 イケゲームの場合、金持ち連中を捕まえて制裁を加えれば済む問題なのか。 そうかも知れないしそうではないかも知れない。 やりすぎてもいけないしやらなすぎてもいけない。「正解」はあるのか?
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- 【Netflix】ヴィンチェンツォ/Vincenzo【ソン・ジュンギ】 Part.2
351 :Anonymous (ワッチョイ 22e8-/PVD)[sage]:2021/10/28(木) 12:54:07.90 ID:TiqwMP4x0 - ライターを犯行現場の残すのは、
あえて個人を特定出来るようにそうしている可能性がある。 イタリアでは警察に捕まってもすぐ釈放にできる、と仮に考えると、 捕まることはまったく怖くない。 怖いのは、自分が殺した人間や壊した組織について知らない者が 自分にたてついてきて、また同じことをやらなければならなくなる場合では。 自分がやったと明確に示しておけば、何も知らない格下の犯罪ルーキーが 自分にたてつくようなことは起こらない。 イタリアでは「誰がやったかわかるようにする」ことが最適解なのかもしれない。
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- 【Netflix】イカゲーム/Squid Game【イ・ジョンジェ パク・ヘス】 Part.4
481 :Anonymous (ワッチョイ 22e8-/PVD)[sage]:2021/10/28(木) 13:03:55.17 ID:TiqwMP4x0 - 資本主義で、「意思を持って作った方」がどれほど責任を負えるか、
という問題が難題。 何から何まで個人が企図したのではない、意思主体と行動主体にラグがある。 というのと同じように、 いじめの問題でも「意思をもってやった者」がどれほど責任を負えるか、」 という問題がある。首謀者のいるいじめといないいじめがある中、 首謀者のあるいじめであっても、「子供だから」という理由で、 大人と同じ責任を負わせることはまずいという考えがある。 法的に考えれば「意思主体」ではあるのだが「100%責任主体」とはなりえないと考えるべきだろう。 しかし、そう考えるからこそいじめが起こってしまうという考え方もある。 あえて見せしめとして加害者の人生を潰すことで世界は良くなるという考えもまた合理性がある。 ではイカゲームはどうか。金持ち6名も、200年も1000年も生きていたわけではない。 誰かのレールに乗せられてここまでやってしまったという側面もある。 100%の意思主体とは言い切れない。 制裁はやりすぎてもいけないしやらなすぎてもいけない。
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- 【Netflix】イカゲーム/Squid Game【イ・ジョンジェ パク・ヘス】 Part.4
483 :Anonymous (ワッチョイ 22e8-/PVD)[sage]:2021/10/28(木) 13:54:36.40 ID:TiqwMP4x0 - >>482
そういう徹底した処置がすべて正しいとは限らない。 それにそういう処置をするにしても、ナチスドイツの 「対ユダヤ人ホロコースト」「国際法違反の併合や植民地化」「国内への民主主義の、ある一線を越えた阻害工作、メディア工作」 の3つのどれに対する罰かでも、妥当か妥当でないかが変わってくる。 徹底した処置のうち一部は妥当だが一部はやりすぎということもあり得る。
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