- 日本で洋楽が流行らない原因は面倒なファンと音楽性
202 :名盤さん[]:2023/12/11(月) 08:57:03.88 ID:RHjxsqhB - ミス・コロムビア
松原 操(まつばら みさお、1911年3月28日 - 1984年6月19日)は 主に戦前期に活躍した女性流行歌歌手。 戦前までは ミス・コロムビアという名でも活躍した。1939年に 歌手・霧島昇(本名:坂本栄吾)と結婚。 当時、ビクターの小林千代子がデビュー当時に「金色仮面」として売り出したところ話題を呼び、 後にヒット歌手となったことから、 コロムビアも松原操を売り出すために ★「ミス・コロムビア」という覆面歌手★として、 宣伝の写真にも目隠しをして『浮草の唄』で彼女をデビューさせた。 戦後、コロムビアは女性歌手のPR としてミス・コロムビアの流れを汲む 「コロムビア・ローズ」を誕生させ、 現在に至るまで、3代のコロムビア・ローズがデビューしている。 『浮草の唄』(昭和8年(1933年)) 『愛国行進曲』(昭和13年(1938年))共唱:霧島昇、伊藤久男、二葉あき子 他 『兵隊さんよありがとう』(昭和14年(1939年))共唱:飯田ふさ江 『愛馬進軍歌』(昭和14年(1939年))共唱:霧島昇 『愛染草紙』(昭和14年(1939年))共唱:霧島昇 『荒野の夜風』(昭和14年(1939年)) 『愛染夜曲』(昭和14年(1939年))共唱:霧島昇 『目ン無い千鳥』(昭和15年(1940年))共唱:霧島昇 『三百六十五夜』(昭和23年(1948年))共唱:霧島昇 等
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203 :名盤さん[]:2023/12/11(月) 08:58:48.95 ID:RHjxsqhB - コロムビア・ローズ(アルファベット表記:Columbia Rose)は
日本コロムビアの女性歌手で、2015年6月時点で3人存在。 三代目が2015年7月に移籍し芸名返上、2020年8月16日に二代目が死去した為2020年6月3日現在は、 初代がステージで使用する。 初代コロムビア・ローズ 本名は松本マツ江(旧名:斉藤まつ枝、1933年1月4日 - )、群馬県桐生市生まれ。 戦前にデビューした 松原操が東京音楽学校(現:東京芸術大学)に在学中だったことから、素顔を出さない覆面歌手の「ミス・コロムビア」として活躍し成功した例を参考に、★「戦後初の覆面歌手」★として会社の宣伝戦略から計画された。 1951年、「第2回日本コロムビア全国歌謡コンクール」で 優勝、日本コロムビアに入社。 芸名の「コロムビア・ローズ」は会社名と、 第二次世界大戦中、日本軍による連合国向けプロパガンダ放送を担い、 連合国軍将兵から「東京ローズ」と呼ばれた女性アナウンサーをヒントに名付けられた。 1952年、「娘十九はまだ純情よ」でデビュー。「どうせ拾った恋だもの」や 「東京のバスガール」など数々のヒット曲を生み、1960年には紺綬褒章を受章。 ステージ、映画、テレビ、ラジオと幅広く活躍するが、1961年に突如引退する。 その後、1964年、日本コロムビア社員の松本巌と結婚し2004年に死別、 長女は舞台女優、次女はダンス指導者となる二人の娘に恵まれる。 昭和40年代の懐メロブームを機に歌手活動を再開、その後もステージ活動とともに、カラオケ教室の歌唱指導や 歌謡コンクールの審査員、作曲家活動など、マイペースで活動している。 NHK紅白歌合戦に5回連続出場している。 2005年、一般財団法人・古賀政男音楽文化振興財団より日本大衆音楽の発展に貢献した功績を顕彰され、「大衆音楽の殿堂」入り。 「娘十九はまだ純情よ」(1952年4月) 「リンゴの花は咲いたけど」(1952年10月) 「哀愁日記」(1954年9月) 「渡り鳥いつ帰る」(1955年2月) 「どうせ拾った恋だもの」(1956年11月) 「こころの小雨(心の小雨)」(1956年11月) 「東京のバスガール」(1957年10月) 等
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204 :名盤さん[]:2023/12/11(月) 09:02:12.01 ID:RHjxsqhB - 覆面歌手のルーツをさぐる その3「初代コロムビア・ローズ」
コロムビア・レコードは、ミス・コロムビアの活躍でかなりおいしい思いをした……かどうかは知らないが、 1952年にミス・コロムビアの妹分のような存在として、 初代コロムビア・ローズをデビューさせる。 やっぱり覆面歌手である。 最初は「初代」なんて付いていなかったと思うのだが、 このあと二代目、三代目と襲名させていくことになり、 いつからか最初のローズは“初代”コロムビア・ローズと 呼ばれるようになったのだ。 さて、その初代コロムビア・ローズは、1933年1月9日、群馬県桐生市に生まれた。本名は斉藤マツ枝だが、 引退後に日本コロムビア社員の松本巌氏と結婚し、松本光世と改名している。 https://maneater.hateblo.jp/entry/20090416/p1
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205 :名盤さん[]:2023/12/11(月) 09:37:38.57 ID:RHjxsqhB - 覆面歌手のルーツをさぐる その2「ミス・コロムビア」
ビクターの金色仮面がヒットしたその2年後、 ライバルのコロムビア・レコードも覆面歌手を世に送り出してくる。 それが1933年に『浮き草の唄』でデビューしたミス・コロムビアである。 ミス・コロムビアは本名を松原操といい、 1911年、北海道小樽市に生まれた。 奇しくも金色仮面と同じ土地から第二の覆面歌手も生まれたわけで、 覆面歌手なんて日本全国でもそんなにはいないことを考えると、 小樽というのはかなり覆面指数の高い土地だといえるだろう。 同年に松竹映画『十九の春』の主題歌を大ヒットさせると、 以後、ミス・コロムビアは『並木の雨』『秋の銀座』『月のキャムプ』『あの日あの時』 などヒットを連発していく。が、 その一方で、本名の松原操としても『流浪の民』などの声楽曲をリリースしていた。 世間では“美貌と美声を兼ね備え”た歌手だと評判になったというが、 覆面してるのになんで美人だとわかったのかは謎。 火曜サスペンスの「首なし美人 殺人事件」みたいなもんだろうか。 まあ実際のところは松原操名義と並行して活動していたわけだから、 同一人物なのは当時からバレバレだったのかもしれない。 https://maneater.hateblo.jp/entry/20090415/p1
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206 :名盤さん[]:2023/12/11(月) 09:38:34.44 ID:RHjxsqhB - 覆面歌手のルーツをたどる その1「金色仮面」
数あるレコードコレクションのなかで、自分がもっとも力を入れて集めているのが、 いわゆる“覆面歌手”のレコードだ。このブログでもすでに何枚か紹介してきた。 ただ、これまでは覆面歌手といってもちょっと亜流っぽいものばかり紹介してきたので、 ここらで王道というか覆面歌手のルーツについて、きちんと紹介しておきたいと思う。 自分の知る限り、 日本最古の覆面歌手といえるのが「金色仮面(ゴールデンマスク)」である。 1910年、北海道小樽生まれで、本名を小林千代子という。 彼女は1931年(昭和6年)に東洋音楽学校を首席で卒業すると、 松竹少女歌劇団に入団。 と同時に日本ビクター蓄音機に入社し、 同年「金色仮面」としてデビューする。代表曲には 『アリラン』 『涙の渡り鳥』などがある。 デビュー年を見てもわかる通り、 金色仮面が活躍したのは おもに日中戦争以前のこと。 戦前ーーすなわち各家庭にテレビなど普及していない時代だから、 歌手がその存在を庶民にアピールできるのはラジオぐらいしかない。 したがって覆面歌手といっても、 顔を隠す意味はほとんどなかったはずだ。ということは、 「金色仮面」などという芸名もせいぜい話題作りのために名前を伏せてデビューした、 という程度の意味しかなかったのだろう。 実際、デビューしてからわりとすぐに本名での活動に切り替えたようだし……。 https://maneater.hateblo.jp/entry/20090414/p1
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207 :名盤さん[]:2023/12/11(月) 09:41:38.03 ID:RHjxsqhB - 金色仮面(ゴールデン・マスク)
小林 千代子(こばやし ちよこ、1910年7月30日 - 1976年11月25日)は、 日本の戦前期に活動した流行歌歌手・声楽家である。北海道小樽市出身。別名、金色仮面・小林伸江。 東京府立第七高等女学校(現・東京都立小松川高等学校)卒業後、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)に入学。 卒業後、新宿ムウランルウジュで初舞台を踏むその後、松竹楽劇部(のちの松竹歌劇団)に入団 松竹楽劇部入部と同時に日本ビクター蓄音器株式会社に入社し 「金色仮面」(ゴールデン・マスク)という芸名で音盤界デビュー 「涙の渡り鳥」 (1932.9) 作詞:西條八十/作曲:佐々木俊一/編曲:佐々木俊一 「路傍の花」 (1933.11) 作詞:佐伯孝夫/作曲:加藤しのぶ/編曲:加藤しのぶ 「利根の朝霧」 (1934.8) 作詞:佐伯孝夫/作曲:中山晋平 「カリオカ」 (1934.12) 作詞:ヴィンセント・ユーマンス、エドワード・エリスク、ガス・カーン/日本語詞:原町みつを/作曲:ヴィンセント・ユーマンス/編曲:紙恭輔 「ザ・コンチネンタル」 (1935.5) 作詞:佐伯孝夫/作曲:コン・コンラッド/編曲:アル・ユールス 「椿の丘」 (1935.5) 作詞:西條八十/作曲:佐々木俊一/編曲:佐々木俊一 「夜も昼も」 (1935.9) 作詞:西條八十/作曲:コール・ポーター/編曲:紙恭輔 「銃後の花」 (1937.9) 作詞:長田幹彦/作曲:橋本国彦/編曲:橋本国彦 「人の気も知らないで」 (1938.3) 作詞:入江静雄/作曲:Guy Zoka/編曲:灰田晴彦 「旅のつばくろ」 (1939.9) 作詞:清水みのる/作曲:倉若晴生/編曲:倉若晴生 「女次郎長」 (1940.1) 作詞:藤田まさと/作曲:菊池博/編曲:菊池博 「明け行く大陸」 (1941.9) 作詞:牧喜代司/作曲:細田義勝/編曲:飯田三郎 等
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210 :名盤さん[]:2023/12/11(月) 10:20:10.95 ID:RHjxsqhB - 金色仮面二代目(ゴールデンマスク二代目)
築地 容子(つきじ ようこ、1931年7月12日 - 2013年12月15日)は日本の歌手、女優。本名は西原利枝。東京府東京市(現在の東京都区部(東京23区)に相当)出身。鷗友学園高等女学校在学中、戦争のため、静岡県榛原郡に疎開。榛原高等女学校(現・静岡県立榛原高等学校)を卒業後、東京に戻り、ムーラン・ルージュの歌手になる。 1950年、姫路リエ子の芸名で映画『恋しかるらん』で女優デビュー。翌1951年、大映に入る。 その間の1954年、ビクターレコードに入社。翌1955年「金色仮面(ゴールデンマスク)」(漢字は「黄金仮面」としている資料もある)の芸名で覆面歌手として『ジャニー・ギター』でデビュー。 1958年12月31日、新宿コマ劇場開催第9回NHK紅白歌合戦に初出場 『大砂塵』(だいさじん、Johnny Guitar)ペギー・リーが歌った主題歌『ジョニー・ギター』カバー(1955年) 「ニッポン・トウキョー・ケ・サラ・サラ」(1955年) - with 高島忠夫 作詞:井田誠一/作曲:多忠修 「夜霧のためいき」(1955年) 作詞:宮川哲夫/作曲:吉田正 「モスコウの花売り娘」(1955年) 作詞:井田誠一/作曲:吉田正 「拳銃ブルース」(1955年) 作詞:宮川哲夫/作曲:利根一郎 「ピンク・マンボ・ブルース」(1955年) 作詞:佐伯孝夫/作曲:佐々木俊一 「空の港は霧ふかく」(1956年) - with 高島忠夫 作詞:佐伯孝夫/作曲:渡久地政信 「銀座のミチル」(1956年) 作詞:宮川哲夫/作曲:渡久地政信 「霧の夜の終電車」(1956年) 作詞:佐伯孝夫/作曲:渡久地政信 「青い月夜のランデブー」(1956年) ※第9回NHK紅白歌合戦(1958年)出場曲 作詞:和田隆夫/作曲:清水保雄 「慕情の港町」(1956年) 作詞:長浦ひでお/作曲:渡久地政信 「ヌードのブルース」(1956年) 作詞:石原慎太郎/作曲:宅孝二 「東京の女」(1957年) 作詞:佐伯孝夫/作曲:渡久地政信 等
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211 :名盤さん[]:2023/12/11(月) 11:50:32.01 ID:RHjxsqhB - 二代目コロムビア・ローズ
本名は宗 紀子(むね のりこ、1942年4月29日 - 2020年8月16日)。東京都出身。 初代の引退後、二代目募集オーディションにより応募総数3500人の中から選ばれる。 1962年、二代目コロムビア・ローズとして『白ばら紅ばら』で歌手デビュー。 尚、二代目からは覆面はほぼしていない(笑) 1964年12月31日、 『智恵子抄』で第15回NHK紅白歌合戦に初出場するなど、初代に負けない勢いを誇った。 初代と二代目は公私に渡る親交があり、長年連絡を取りあう仲であり、 初代の歌手活動再開後は共演することも多かった。 1975年に渡米し、ロサンゼルスで歌手活動を行い、日本での活動も請われれば行っていた。 2020年8月16日8時30分頃(JST)、心不全のため神奈川県大和市内の病院で死去 「白ばら紅ばら」(1962年8月発売) 「ミス仙台」(1962年11月発売) 「智恵子抄」(1964年12月31日、第15回NHK紅白歌合戦歌唱曲) 「二十才」 「長い一本道」(1963年5月発売) 「たけくらべ」 「二十四の瞳」 「花狂言/ひそか」(最新曲、アメリカ・カナダ・日本発売)作詞:阿久悠、作曲:喜多嶋修 等
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