- 【うなぎ2】静岡の奥様78人目【寸又峡3】
558 :幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP (ニククエ b17a-MKsy)[kotchian]:2020/03/29(日) 13:39:23.43 ID:8NcHe5dA0NIKU - 832幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP 2020/03/29(日) 13:26:16.70ID:TRuOV6rR
二本の音叉を叩くとうなりが発生するが、根元と先っちょで全然違うわ。 833幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP 2020/03/29(日) 13:27:44.26ID:TRuOV6rR うなりとは http://www.wakariyasui.sakura.ne.jp/p/wave/unari/unari.html 振動数がわずかに異なる2つの音を同時に鳴らすと「ゥワーン、ゥワーン」と音が大きくなったり 小さくなったりする不思議な現象が起こります。この現象をうなりといいます。お寺の鐘の音も よく聞くとうなりが感じられます*。* たとえば、440Hz の音と 444Hz の音を鳴らすと、2つの音の中間の高さの音が 4Hz の振動で 大きくなったり小さくなったりします。うなりが発生する原理は数学的に説明することができます*。
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625 :幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP (ニククエ b17a-MKsy)[kotchian]:2020/03/29(日) 15:03:24.79 ID:8NcHe5dA0NIKU - 131幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP 2020/03/29(日) 14:37:52.84ID:8NcHe5dA0
隣近所の連中は必至で雪かきしてるわ。どうせすぐに融解するだろ。もうじき四月だ。 132可愛い奥様2020/03/29(日) 14:43:27.48ID:Ehaywj1x0 >>37 どうぞお大事になさってください 133幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP 2020/03/29(日) 14:59:38.12ID:8NcHe5dA0 やっぱり女は年齢だよね♪ 134幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP 2020/03/29(日) 15:02:51.22ID:8NcHe5dA0 La Señora Cucaracha - Las Canciones de la Granja de Zenón 1 https://www.youtube.com/watch?v=HeoBvMNf3FQ
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626 :幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP (ニククエ b17a-MKsy)[kotchian]:2020/03/29(日) 15:06:08.29 ID:8NcHe5dA0NIKU - 第一八五節
ヴェーダのサンヒターは、ウパニシャッドと同じ作者の手になるものでもなく、時代も違っている可能 性がある。ローゼンの訳したリグ・ヴェーダのサンヒター第一巻とスティーヴンソンの訳にかかるサ マ・ヴェーダのそれをあわせ読むと、そういう確信が得られる。いずれも祈祷と祭式からなっている が、かなり素朴な星辰崇拝の趣がある。ここで呼びかけられる最高神はインドラであり、インドラとと もに太陽・月・風・火があげられる。あらゆる讃歌をつうじ、これらのものにきわめて卑屈な追従の言 葉がささげられ、また犠牲もささげられる。牛・飲食・戦勝などに対する懇願もある。讃えられる唯一 の徳は、犠牲と、僧に施しものをすることだけである。 オルムズド(のちにこれがエホバになった)は(J.J.シュミットによれば)もともとインドラで あり、さらにミトラも太陽神であるから、ゾロアスター教徒の拝火はたぶんインドラとともにペルシア 人に渡ったものであろう。――ウパニシャッドは、まえにも述べたとおり、最高の人間叡智の産物であ る。これはまた学識のあるバラモンだけがひもとくべきことになっている。だからデュペロンも「ウパ ニシャッド」を「秘すべき神秘」(奥義書)と訳している。これに反しサンヒターは秘伝でなく、間接的 であるが一般人のためのものである。典礼、すなわちおおやけの祈祷や犠牲の儀式がその内容だから だ。したがって、右にあげた訳から判断すると、味のない読みものだ。もちろんコールブルックも『ヒ ンドゥー教徒の宗教的儀式について』と題する論文で、サンヒターの他の諸巻から讃歌を訳してくれて いるが、これはウパニシャッドに似た精神のいぶきを呼吸している。とりわけ第二の論文『形をとった精 神』などにある美しい讃歌はそうで、これはわたしが第一一五節で訳出しておいたところである。
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627 :幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP (ニククエ b17a-MKsy)[kotchian]:2020/03/29(日) 15:06:38.15 ID:8NcHe5dA0NIKU - 第一八六節
巨大な石の寺院がインドに建てられた時代には、おそらく物を書く術はまだ発明されておらず、この 寺院に住む多数の僧侶たちがヴェーダの生きた容器であったのだろう。つまりひとりひとりの僧ある いは各派で、その一部を暗記して伝えたのである。ドゥルイド僧がやったように。のちになって、やは りこの寺院で、したがってきわめてふさわしい環境のなかで、ウパニシャッドは起草されたのであろう。 第一八七節 サーンキヤ哲学は仏教の先駆とみられているが、われわれはウィルソンの完訳でイーシュヴァラ・ク リシュナの『サーンキヤ・カーリカー』(数論頌)にこれを見ることができる。(この訳もやはり不完全 で、霧をとおして見る思いではあるが)。この哲学は、あらゆるインド哲学の主要な教義、たとえばこ の悲しい存在から救われることが必要であるとか、行動に比例して魂が移りゆくとか、悟りこそ救済の 根本要件であるなどということを詳細に、また厳粛に説いているかぎりにおいて、興味ぶかく、また教 訓的である。インドでは数千年らい、こうした教義に心を向けることに、きわめて真剣なものがあった のだ。 この哲学がとかくするうちに、ひとつの誤った根本思想、すなわちプラクリティとプルシャに分か れる絶対二元論によって台なしにされるのをわれわれは見る。これがまたサーンキヤがヴェーダからは なれていく点でもある。
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628 :幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP (ニククエ b17a-MKsy)[kotchian]:2020/03/29(日) 15:08:09.65 ID:8NcHe5dA0NIKU - ――プラクリティとは明らかに「能産的自然」であると同時に物質それ自体で
ある。すなわちいっさい形をとらないから、考えられるだけで、具体的には見ることのできない物質そ のものなのだ。こういうふうに解釈してみると、すべてのものがそこから生まれてくる意味で、プラク リティは「能産的自然」とまったく同一視してさしつかえない。ところでプルシャとは認識主体であ る。なぜならこれは知覚するものであり、行動しない単なる傍観者であるからだ。ところでこの二つの ものは、絶対的差異をもったもの、たがいに無関係なものと受けとられている。そのため、どうしてプ ラクリティがプルシャの救済のために骨を折るのか、その説明が不十分になってくる(六〇詩節)。さ らにプルシャの救済こそ究極の目的であるということが、全作品をつうじて説かれている。ところが (六二、六三詩節では)とつぜん、救済されるべきはプラクリティであるとなっている。――こうした 矛盾は、プラクリティとプルシャには共通の根があるのだと仮定すれば、すべてなくなるであろう。教 祖カピラの意に反することではあるが、全体はなんといっても、そういう共通の根を示唆しているの だ。あるいはプルシャはプラクリティのひとつの変態だと仮定してみるのだ。そうすればいずれに しても二元論は解消することになろう。――わたしは事をわかりやすくするために、プラクリティに意 志を、プルシャに認識主体を見ざるをえない。 サーンキヤに見られる独特なせせっこましさと形式的拘泥は、数論、すなわちあらゆる特性その他を 数えあげ番号をつけることだ。しかしこれは、仏典などにも同じ行き方が見られるから、インドでは普 通に行なわれていることのように思われる。
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629 :幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP (ニククエ b17a-MKsy)[kotchian]:2020/03/29(日) 15:09:51.51 ID:8NcHe5dA0NIKU - 第一八八節
インドのあらゆる宗教に見られる輪廻の道徳的意味は、われわれが犯すあらゆる不正に対して、われ われはつぎに生まれかわったときにつぐないをつけなければならない、というだけではなく、われわれ がこうむるあらゆる不正は、前世におけるわれわれの非行のむくいとして、当然なものと見なければな らない、ということでもある。 第一八九節 インドの四姓のうち上の三つがふたたび生まれた者とよばれる理由は、普通いわれるように、若者た ちの成年式にあたって神聖な血統に従ってそれぞれの世襲階級に編入することが、いわば第二の誕生で ある、ということから説明されるかもしれないが、じつは本当の理由は、前世において顕著な功績をあ げた結果としてのみ、生まれながらにそのカーストに属するのであった、つまり前世でもすでに人間とし て存在したのに相違ないのにひきかえ、最下層ないしは、もっと卑賤な身分に生まれた者は、前世では 畜生であったかもしれない、というにあるのだ。 きみたちは仏教の永遠であるカルパを馬鹿にしている! ――キリスト教のとった立場からは須臾の 時が見渡せるだけだが、仏教の立場からは、無限の時間と空間のうちにあらわれてきて、その主題とな るのだ。―― ラリターヴィスタラもはじめは単純・自然なものであったのに、次から次へと宗教会議のたびごとに 新しく改訂されて、複雑にして驚異すべきものとなったのだ。同じことは教義自体についてもいえる。 単純・壮大なわずかな教説が、しだいに綿密に仕上げられ、空間的・時間的に叙述され、擬人化を受 け、経験的に制限されたりして、しだいに多彩・乱雑・複雑となったのだ。それというのも、それが大 衆の好みに合うからだ。大衆の精神は幻想的な仕事をほしがる。単純で抽象的なことには満足させられ ないのである。
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631 :幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP (ニククエ b17a-MKsy)[kotchian]:2020/03/29(日) 15:24:33.15 ID:8NcHe5dA0NIKU - ――わたしは事をわかりやすくするために、プラクリティに意志を、プルシャに認識主体を見ざるをえない。
プラクリティとは口語で、プルシャとは、すぐに消えた原人だ。
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641 :幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP (ニククエ b17a-MKsy)[kotchian]:2020/03/29(日) 17:36:11.48 ID:8NcHe5dA0NIKU - さてわれわれがこうした実地の応用はひとにまかせ、われわれの本来の見地、すなわち、倫理的・形
而上学的な見地に帰るならば、第四一章の内容と本章の内容とを結びつけることによって次のような結 論が生じよう。この結論は、あくまで経験を超越したものであるが、しかし直接の経験によって保証せ られている。――先祖から現在の嫡男にいたるまで一族のすべての子孫のなかに生きているものは、同一 の性格、すなわち、個別的に規定された同一の意志である。しかしこれらの子孫のなかのどの子孫の 場合も彼には別の知性が、すなわち、程度においても種類においても異なる別の認識が授けられている。 そのためこれらの子孫のなかのどの子孫の場合も生が彼にたいし別の側面から別の光に照らされて現わ れる。彼は生の新しい根本的見解、新しい啓示を獲得する。なるほど、知性は個人とともに滅び去るた め、この意志は、一代で獲得した知見を他の代で獲得されるごとに、その結果として彼の意欲自 身が別の方向を与えられ、またその方向によって変化を受け、こうして、これが大事なことであるが、こ の変化に応じてあらためて生を肯定するか、否定するかしなければならない。こうして、生殖のために 男女の両性が必要であるということから生ずる自然の配備、すなわち、意志と知性の組合せがつねに変 わるという自然の配備が、救済の秩序の基礎となる。というのは、この秩序のおかげで、生は意志(その 模像と反映が生である)にたいしたえず新しい面をさし向け、いわば、彼の見守るまえで休みなく回転 して見せるのであり、生を肯定するか否定するかはともに彼の自由であるが、この両者いずれかを生の 見方の変わるごとに彼を決断させるために、手を変え品を変え絶えず別の生の見方をもちだし、彼に たいしてその効果を試みさせるのである。
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642 :幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP (ニククエ b17a-MKsy)[kotchian]:2020/03/29(日) 17:36:28.00 ID:8NcHe5dA0NIKU - ただし、彼がいったん否定の方向の道を決断したとなれば、彼のまえに見られる
全現象は死とともに消滅する。そこで同一の意志にたいし救済の道を開いておくものが、 新しい世界観を授けるほかならぬ知性の不断の更新と完全な変化であり、しかも知性は母親から伝えら れるのであるから、これが深い理由をなすものと思われるが、あらゆる民族(例外は非常に少なく、い や、例外かどうか、それもあいまいなくらいである)は兄弟姉妹間の結婚を忌避し、これを禁止してい る、いやそれどころか、実際に男女の愛は兄弟姉妹間に生じないのである。ただし、彼のうちの一方が 私生児か、でなければ衝動の不自然な倒錯にもとづく非常にまれな例外の場合は別であるが。というの は、兄弟姉妹間の結婚が行われれば、両者ともに両親のなかにすでにある同一の意志と同一の知性が 結びつき、そのため、すでに存在している現象をあてもなくくり返すだけだからである。
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