- 蓮實重彦 Chapitre 20
592 :名無シネマさん[sage]:2011/09/21(水) 20:36:42.04 ID:L4sY1jap - >>569
蓮實が>>566みたいなことを言ったのは映芸(1997春号)での立木祥一郎との 対談において。これは何処かの単行本にも入ってるんじゃないの? ちょっと長いけど一部を引用してあげる(途中は相当に端折りました) >蓮實 それと同時に、映画はオタクを作りやすい体質でもあります。オタクの 作りやすさは、映画のもっている本質的な力だから、これはしょうがない。映画には オタクが生まれるように構造が作られているからです。 >蓮實 シネフィルというのも、やはり一種のオタクなんです。なぜかというと、 殆ど同じものの中で、ほんのちょっとした見分け難い差異によって一人の作家 を擁護するというのが「作家理論」だからです。 >そうしたシネフィルは、おそらく二〇年代のハリウッド映画だけを観ていても なかなか出にくいだろう。おそらく、三〇年代以降の、それぞれの国の映画の スタンダード化という現象が、シネフィルという名前のオタクを作ったと思うんです。 例えば、三〇年代以後のハリウッドの映画は、個人の介入なしに、黙っていても 自然にできてしまう商品です。 >ゴダールがすごいのは、彼がシネフィルではないですから。シネフィルという言葉の 一番健康な形での定義は、おそらく、ジョージ・キューカーの『フィラデルフィア物語』 を擁護するか否かにかかっています。
|
- 蓮實重彦 Chapitre 20
593 :名無シネマさん[sage]:2011/09/21(水) 20:37:43.88 ID:L4sY1jap - >シネフィルという匿名のグループが成立するというのは、『フィラデルフィア物語』
のように、物語としては他の作品とまるで同じようでいながら、しかし、演出の 繊細さによってやっぱりどこか違うということを証明しなければならないような 作品に対してなのです。ジョージ・キューカーのような作家が救われるのが、 あくまでシネフィリーという現象によってなのです。当時の作られ方の通りに 作られていても、風向き、体温、気温、光線だけが違うことから、その相対的な 差異だけに支えられたある種の作家性が擁護に価するというわけです。 >それは、シネフィルの自立的な力によってできあがったものではなくて、映画が そのような量産体制に入り、標準化したという資本主義の必然だったわけです。
|
- 蓮實重彦 Chapitre 20
594 :名無シネマさん[sage]:2011/09/21(水) 20:38:48.47 ID:L4sY1jap - >>564 >>590
蓮實のシネフィル観は実際にはものすごく屈折している。つまりある意味で「誰が撮っても同じ」の たかが商業映画をわざと作家性的に分析するみたいな感覚。弟子たちがいまだに 現代ハリウッド監督を論じてジェームズ・マンゴールドがどうのトニー・スコットがどう のといった傍目にはただの言葉遊びに興じるのもその延長上にある。 もちろんそんなのはいまやただの格付けゲームでしか無いわけだけど。 >それは、具体的には、ホークスやヒッチコックを美的に評価しても、それを成立せしめていた産業的な文脈、興行価値を捨象していた、ということ 例えばヒッチコックなんかも50〜60年代はただのハリウッドの商業監督でしょ? 当時は他の監督は避けていたようなえげつない演出さえ厭わずとにかくヒット作を 出せる商業監督。そういうものをわざわざ「作家」として持ち上げて同時代の古株の フランス人映画監督を下げるみたいなのが当時の若いフランス人たちの戦略だったわけでしょ? ただそういうゲームがまさに蓮實たちの手で70〜80年代の日本に強引に輸入されて 「それを成立せしめていた産業的な文脈、興行価値を捨象」した「ある種のカテゴリーの映画だけが特権的に映画的とされる因習」 に基づいたただの格付けゲーム・ディレッタントに堕落したということでしょうね。
|