- 【アニメ】日本では青少年に見てもらいたい番組の「ドラえもん」、バングラデシュでは批判されている?
115 :なまえないよぉ〜[sage]:2012/07/04(水) 15:56:43.59 ID:vEanUwoT - 小松左京 (作家)
「オバケのQ太郎」から「ドラえもん」まで、 藤子さんの作品は、終始一貫子供を中心とした、明るくて健全な日常性がテーマになっている。これは実にめずらしいことだ。 ところが、明るくて健全な日常性をベースにしたまんがは、強くて、かっこいいキャラクターやおどろおどろしい世界でひっぱっていく 刺激の強いまんがにくらべた場合、意外にもの足りなさを読者に感じさせがちである。 事実、戦後、日常性に立脚したまんがの多くは、刺激の強いまんがとの人気競争で消えていった。 しかしながら、藤子さんは、過去に刺激の強いまんがを描く機会があったのではないかと思われるが、 現在に至るまで子供にとってわかりやすい日常性というテーマをくずしていない。 それでいて、たくさんの読者を熱狂させていることは、まさに驚異に値する事実ではないだろうか。 特に「ドラえもん」は、退屈で平板な日常の中に、子供自身が持っているイマジネーションを働かすだけで、 いろいろな楽しい世界がいくらでもあることに気づかせてくれるまんがである。 この無限に広がる想像力は、刺激の強いまんが以上に、子供におもしろさ、楽しさを与えて、子供を虜にしてしまう。 ドラえもんにとって、このことが読者を強力に引きつける魅力になったのではないだろうか。 日常性をテーマにまんがを描くことは、大変むずかしく、熟練したテクニックを必要とすることは確かだが、 藤子さんはこの世界が性に合っているみたいだし、一番大切なことだと考えているようだ。 藤子さんのもう一つの魅力は、オバケとか未来から来たロボットが、ごく自然に日常生活の一員になっていることである。 オバQの時は、人間とちょっとケタの違うところが、魅力だったけれど、 ドラえもんの場合は、ポケットからいろんな道具を出したり、タイムマシンで時空を越えたり、どこでもドアで別世界に行ったりする。 「家族の一員としての“妖精”」というのは、まさに二十世紀後半的で、そのアイディア、おもしろさ、題材からして、見事にSF的だといえよう。 これらの様々なSF的小道具の導入は、いろんな冒険やシチュエーションの要素を大きく拡大し、まんがの奥行きを深いものにしている。 ドラえもんは、このSF的小道具の導入と日常性が自然にからみ合い、おとなしくなりがちなまんがそのものを、生き生きとしたすばらしい作品にしているといっても過言ではない。 こういった基本的に大事なものをコツコツと守り続けてきている藤子さんの創作姿勢こそ、ながい人気の持続につながっており、一つの魅力の支えになっているのではないかと思う。 それは、とりもなおさず、子供の世界に奇異をてらった激しさでなく、普遍的で明るく活気にみちた風俗まんがを確立させる要因となったのではないだろうか。
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- 【アニメ】日本では青少年に見てもらいたい番組の「ドラえもん」、バングラデシュでは批判されている?
116 :なまえないよぉ〜[sage]:2012/07/04(水) 16:05:44.42 ID:vEanUwoT - 山田洋次 (映画監督)
一方ドラえもんときたらこれはもう説明するまでもない摩訶不思議な存在、 姿かたちはお化けだし、魔法使いのような超能力の持ち主です。 しかしこの作品がスーパーマンのようなものと根本的に違うのは、 読者がドラえもんにひたすら人間的な愛情を寄せながら読んでいることです。 別な言い方をすれば、読者にとってドラえもんはさほど不可思議な存在ではないのです。何故でしょうか。 それは、作者が作中の登場人物に優しい愛情を注いで描いているからということに尽きると思います。 藤子不二雄さんは、もしかするとドラえもんは架空の存在ではなく、本当に身近にいるんだという思いを持っているのかもしれません。 作者が登場人物に寄せる人間的な共感が、ありそうもない不思議な話にリアリティーを持たせていくのです。 寅さんという不思議な人間を主人公にして楽しい物語を作る苦心をしている私にはそのことがよくわかるような気がします。 登場人物に作者が愛情を注いで描かなければ、まったく魅力のないものになってしまうということは、なにも漫画や映画に限ったことではないでしょう。 (略) 漫画「ドラえもん」の明るさや暖いユーモア、気持ちのよい読後感は、 作者の藤子不二雄さんの思想が明るいからではないかと思います。 作者が人間をどう見ているか、社会をどう捉えているか、人間の歴史をどう認識しているか、ということと作品は深くつながっているのです。 私は人間を信じている人の話を聞きたいと、いつも思います。 「ドラえもん」に素敵なユーモアがあるのは、作者が人間を愛しているからであり、人間の真実の感情が描かれているからです。 人間が描かれない限り笑いは生まれません。ユーモアとは、人間の真実の感情が描かれている時に思わず起きる共感の笑いだからです。 ドラえもんの表情には何度見ても見あきない人間の感情があります。 藤子不二雄さんはロボットを描いているのではない。ドラえもんは決してロボット漫画ではありません。 寅さんのような友人がいたら楽しいだろうと思うように、子どもたちはドラえもんのような友だちがいたらいいなと思っています。 それはドラえもんが夢をかなえてくれる秘密道具を持っているからではなく、 ドラえもんの人間的な優しさや思いやりや友情に憧れているからです。 ともすると人間らしさを奪われてしまいそうになる過酷な競争社会の中で、 「ドラえもん」のような、人間に愛情を持った作者がきちんと描いた作品がたくさんの人に読まれるのはうれしいことです。 いつまでも読みつづけられてほしいと思います。
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- 【アニメ】日本では青少年に見てもらいたい番組の「ドラえもん」、バングラデシュでは批判されている?
118 :なまえないよぉ〜[sage]:2012/07/04(水) 16:11:32.71 ID:vEanUwoT - 渡部昇一
別種の女性でこのマンガに人間的な深みを与えるのは、のび太の祖母である。 この無限にやさしい老婦人が登場すると、私なども無性に幼年時代が懐かしくなる。 昔の日本には子供に対して無限にやさしい婦人がいっぱいいたものであった。 のび太の祖母は決っしてマンガチックでない。むしろリアルに昔の日本婦人をえがいているのである。 それでいて、、本来ならば荒唐無稽な猫ロボットのマンガに、しっくりと合って、しかも読者に深い感銘を与えるのだから不思議である。 猫ロボットの腹の中からは奇想天外な発明品がぞろぞろ出てくる。その点でどんなSFにも劣らない超科学マンガである。 それが、のび太の母と祖母という、マンガ的でない二人の婦人のために、現実感を失わないで、大人も子供もそのマンガの世界に感情をこめて入りこめるのではないだろうか。 それに反してのび太の父親は、のび太以上にマンガ的である。 戦前には、「コグマのコロスケ」とか、「冒険ダン吉」とか、「カバさん」とか、ほんとうに心がほのぼのとするマンガがあった。 戦後は下品でどぎついものも少くないようである。 しかしその中からドラえもんのような傑作が出たのだ。 その第一の特質は感情の動きがノーマルなことだ。 親も子も、先生も、男も女も、そのところを得ている。 子供はドラえもんを読んでいるうちに、人間関係についてのノーマルな感覚と、ノーマルな人間的感情を涵養されるのではあるまいか。 第二の点は、ドラえもんがロボットであり、面白い発明品をいろいろ出すことである。 私は日本がロボットで世界の先端にたった理由の一つとして「鉄腕アトム」をあげることにしている。 ロボットに親近感のなかったところではロボットの導入は日本のようにうまくゆかない。 ドラえもんもこれからの日本人に無意識のうちにロボットに対する親近感を育てるであろう。 また発明品に対する関心を幼児の時から育てることは、これからの日本のために量ることのできない貴重な知的風土を作っていくことになる。 もちろん藤子不二雄氏はそんな教訓のために描いているのではなかろうが、 結果としては、最も有力で有益な幼児・少年教育になっていると言えよう。 すべての日本の子供たちが、ドラえもんを愛読しつつ育ってくれることを願うものである。
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