- 【長編文章】鬼子SSスレ2【巨大AA】
264 :老犬の見た夢[sage]:2010/12/04(土) 06:30:17 ID:doweKDqM -
明くる早朝。着なれた灰色の和服に袖を通した日本狗は静かに玄関の戸を開け、外に出た。 薄暗い空には雲一つなく、立ち上った冬の陽は、薄絹のような柔らかさと暖かさで彼の身体を抱き包んでくれるだろう。 これ以上ない好天になるはずだ。しかし彼には、ひどく残酷な現実に思えた。早く行けと、空に急き立てられているような気がした。 足音を忍ばせながら、彼は生涯の大半を過ごした家を離れる。荷物など何一つなかった。欲している物は全てあの家に置いてきた。 持ち出すことができたのは、想い出だけだ。 朝靄の漂う山林を、無心で歩き続ける。当てなどなかった。とにかく、この山から離れたどこかへ―― 衰えた聴覚が、自分以外の足音を察知した。 行く手の先だ。このまま進み続ければ顔を合わせる。獣道から更に外れた彼は、木の陰に身を潜めた。 一定の間隔。明らかに歩き慣れた者の足運びだった。 恐怖はあった。しかし微かに期待している自分に気付いた彼は、それ以上の失望を味わっていた。何もかも断ち切って出てきたつもりなのに、と。 規則正しい足音が止んだ。それほど近くはない。しかし遠くもない。 「――最初に断っておくけど、これは徹夜で鬼退治をしてきた者の独り言だからね」 涼やかなその声を聞いただけで、心拍数が上がっていくのが判った。 「あなたが決めたことなら、私は止めない。元々口出しする権利なんて持ってないもの」 彼女の姿を見ることを自制するので、彼は必死だった。見たら終わりだ。 「でもせめて、理由くらいは聞かせてほしい」 ひどく迷った末、彼は口を開いた。 「……誇りや尊厳、それに敬愛という価値観を多少なりとも持っているなら、飼い主に死に目を見せたいとは思いません。猫と同じです」 「あなたは狗でしょ」 呆れたような声だった。 「今なら猫の気持ちが判ります」 しかし彼自身は、ひどく真摯に胸中を吐露したつもりだった。これ以上の醜態は晒せない。自分の余命が幾許もないことは、自分が一番知っている。 「小日本は知ってるの?」 「いえ。何も」 「一生恨まれるわよ」 「気にしていません。私に残された生など長くはない。その点に限っては、自分の欠点に感謝しています」 「私も恨む……と言うのは違うわね」 鬼子は訂正した。 「今だって恨んでる。気を使ってくれてるのかもしれないけど、はっきり言って有難迷惑もいいところ」 「私の我がままです。そしてその我がままもこれが最後なので、どうか見逃して下さい」 溜め息だけが返ってきた。 「あなたがたにとっては短い時間に感じられたかもしれませんが、私があの家で過ごした時間は一生に匹敵します。 その一生に近い間、あなた達と共に過ごせたことは、私の生涯で一番の幸福でした」 「……こんなに腹が立ったの、生まれて初めての経験かもしれない」 殺気だった声が出たのも一瞬でしかなかった。 「だからこの場で、あなたに呪いをかける」 そして女は、淡々と告げた。 「私はあなたのことを愛していたわ。いえ。今でも愛してる」 「……偽りの言葉では、呪いになりませんよ」 「いいえ。この呪いは必ず効力を発揮する。なぜなら私の言葉は真実だから。見た目も寿命も関係ない。 変質するという特性、あなたの言うところの欠点も含めて、あなたという個体そのものに私は惹かれたんだから」 僅かに早口になって鬼子は続ける。 「小日本だって同じはずよ。あなたがどんな姿形の時だって、あの子があなたへの接し方を変えたことはないもの。 一人で悩んで勝手に出て行って、残された者の気持ちも汲んでくれないの?」 「私の気持ちも汲んで下さい。最期の日に、小日本様に目の前で泣かれるのは、死ぬことよりも恐ろしく辛い」 「……待ってるからね。いつまでも」 最後の言葉は、更なる呪いだった。 そして足音だけが遠ざかってゆく。 それが聞こえなくなる頃には、手足はすっかり感覚を失っていた。もう自由には動かせないかもしれない。次に眠れば、二度と目覚めない可能性もある。 空を見上げた。相変わらずの晴天だ。 ――雲が見たい。 痺れた手で鬼子に貰った首輪を外してその場に置くと、覚束ない足取りで一歩踏み出す。 この空を、ほんの一部でも覆ってくれる何かが見たい。そうすれば、少しは救われるような気がした。 今の自分には、このくらいちっぽけな夢が丁度良い。 夜も明けきらぬ冬の朝、一匹の老犬が旅立った。 おわり
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