- 広岡達朗 その6
778 :神様仏様名無し様[sage]:2012/01/19(木) 04:04:27.39 ID:u2fB2/pr -
広岡の著書と当時のベースボールより 1966年 シーズン後巨人退団 すぐ東京オリオンズの永田にコーチとして 熱心に誘われるが、オリオンズの体質と自分は合わないかと思い断る 1967年 4か月間自費で渡米しメジャー観戦など。 帰国後、また永田に東京のコーチとして誘われる。その途中、産経の水野に サンケイ・アトムズの監督を依頼される。その他中日のヘッドコーチの依頼もくる。 この3球団でサンケイが一番惹かれた。 サンケイのコーチ人事はほぼ納得できるものであったが、1つだけ気がかりがあった。 水野がコーチとして推すある人物(豊田泰光のことか)を引っ張っていく自信がなかった。 気づいたら多摩川に立っていた。まだ巨人の影を追いかけていたのだ。 迷いに迷って断わりをいれ二浪目に突入した。 1970〜1971年 根本の誘いで広島のコーチ就任 苑田などを育ててコーチ業の面白みを覚える。 充実した契約期間2年間を送る。下の子供が3才6才など小さいこともあり、東京に戻る。 広島退団後、川上の元を訪ねて、現状を話し、「多摩川で二軍の選手の面倒を・・・・・」と コーチ就任を願い出るも、のちに川上に「反対者がいたから」と断られる。 1972年 評論家とプロ野球を退団した元選手でプロゴルファーを目指す若者のコーチを務める。
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- 広岡達朗 その6
779 :神様仏様名無し様[sage]:2012/01/19(木) 04:06:32.17 ID:u2fB2/pr - 1973年 オフ、働いているゴルフ場にヤクルトの佐藤球団代表が来て三原退団後のヤクルト
監督就任を依頼される。 ※佐藤球団代表・・・・早大OB、神宮時代から早大広岡のファンで花形の広岡を監督に据えたかった。 また広岡の野球評論や以前雑誌に連載していた「巨人をみつめる」などは球界でも高く評価され 指導者として有望視されていた。 広岡は広島時代でコーチ業の面白さを覚えていたので「選手と泥だらけになって鍛えるコーチ業には 魅力を感じるが・・・・監督の器ではない」と断る。 この年途中から三原監督の元で荒川は打撃コーチ。 「僕は若造。先輩の荒川さんを差し置いて監督になることはできない。」そうした広岡とヤクルト球団の やりとりが数回続いた。 逆に荒川は「俺は広岡に監督をやってもらいたいよ」と公言しており お互いに新監督の座を譲り合う 奇妙な状態になった。 広岡は広岡なりの計算で三原監督のあと即監督を務めても結果を残すのは難しいという読みがあった のかもしれない。ヤクルトの球団の再三の説得で広岡は「荒川さんが監督で僕がコーチなら・・・・」と ヤクルト球団のコーチに就任するに至る。 広岡の西武時代に出した本とS48年12月付近の週刊ベースボールより 読んで内容は完全に一致しています。手に入れられたら読んでみてください。 荒川がヤクルト監督をやっていたから、広岡がコーチ、監督になれたとか、、 マイナーなラジオ関東の解説者全然オファーがなかった、ようやく 広島からだけオファーきたとか、 川上が睨みを利かせていたから他球団の監督・コーチになれなかったんだろう、とか 妄想だと思います。
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- 〓西鉄・太平洋クラブ・クラウンライター〓Vol.17〓
549 :神様仏様名無し様[sage]:2012/01/19(木) 21:18:39.46 ID:u2fB2/pr - 阪急ファンの映画監督とか南海ファンの作家とか探せば意外といたよ
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