- 1984年日本シリーズを語ろう!広島×阪急!
105 :神様仏様名無し様[sage]:2010/12/11(土) 03:34:10 ID:c7VbN/ro - この年の阪急は第2期上田政権の4年目。上田監督は復帰した81年から新旧交代に力を注いだ。
復帰1年目、まず遊撃に弓岡敬二郎を抜擢した。34歳のベテラン大橋穣の攻守の衰えが目立ってきていた。 弓岡は全試合に出場、以後8年連続で100試合以上出場の名遊撃手となった。前年限りで退団したバーナード・ウィリアムスに代えて 4年目の小林晋哉を起用したのもこの年だ。翌82年には島谷金二のいた三塁に松永浩美が定着、オフには球団創設以来初の秋季キャンプを 行い若手を育成。さらに折り合いが悪いと噂された加藤英司を広島へ、在籍8年の優等生助っ人ロベルト・マルカーノをヤクルトへ放出した。 83年はブーマー・ウェルズを獲得。84年には山森雅文、福原峰夫、藤田浩雅らが台頭しラインナップに名を連ねた。 約3年間で黄金期のメンバーをほぼ一掃し新たなVメンバーを作り上げた。当時は西武が勢力を伸ばしていた頃。上田はV戦士に対して感傷に 浸っている時間はないと言わんばかりにチーム刷新を図った。 シリーズでは福原や松永、村上信一や弓岡が活躍。投手でも山口高志に代わる速球派山沖之彦が敢闘賞。初シリーズの“ヤングブレーブス”が成長の跡を見せた。 一度は逆王手をかける力になった若き勇者たちも痛いミスは多々あった。中でも第1戦の逆転負けは8回に出た弓岡の失策、福原の悪送球が 招いたもの。新人王捕手の藤田もリードに若さが出たか広島の主力に何度も痛打を喰らった。攻撃面でも弓岡、小林ら走塁ミスがよく出た。 このあたりは円熟期に入っており“大胆かつ慎重”の広島ナインが場慣れの面でも一枚上だった。
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- 【1975〜】第1次長島巨人【〜1980】
177 :神様仏様名無し様[sage]:2010/12/11(土) 12:16:34 ID:c7VbN/ro - 助っ人外国人が一人もいなかったV9時代とは打って変わっての毎年による外国人補強を行った長島時代の巨人。
しかし>>168の通り、勝ち続けていた川上とて即戦力が欲しいのは当たり前。「哲のカーテン」に反抗していたマスコミからは 「外国人を獲らないのは川上の外国人嫌いのせい」だとされた。しかし川上はそれに真っ向反論した。 「とんでもない。外国人を獲ってくれと何度も訴えた。しかし正力(松太郎)さんも務台さんからも日本人だけでやれと命令された」 毎年のような五番打者獲りや金田ら他球団の主力投手補強はグループの意向で国産ジャイアンツを余儀なくされた影響からだった。
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- 1984年日本シリーズを語ろう!広島×阪急!
107 :神様仏様名無し様[sage]:2010/12/11(土) 19:55:12 ID:c7VbN/ro - 「打点差1」
このシリーズを語る上で四番の差は外せない。シリーズ前から注目されていた三冠王・ブーマーは打率.214。 6安打中長打も本塁打どころか二塁打が一本だけだった。山根和夫、北別府学、川口和久といった主力を打てず、相手のミーティング通りに仕留められた。 対して広島・山本浩二は第1戦一時同点となる適時打、第2戦はこれも一時追加点となる適時打 第3戦は先制アーチで第4戦は9回決勝の適時二塁打。シリーズ4連続試合打点は当時史上8人目のシリーズタイ記録だった。 山本は第5戦以降尻すぼみでその4打点のみに終わったが打率.370、前半の貢献度は十分に高かった。ブーマーも3打点あったが 第3戦、5戦と勝負の行方がほぼ決まった段階での一打と第6戦高橋慶彦の失策かと思わせる強襲安打の適時打での打点だった。 野村克也も「シリーズを知っている簑田を四番にした方がよかったのでは」と言った。 しかしその三番・簑田も主砲の不振の影響かブーマーより少ない5安打、打率.227、1本塁打、4打点に終わった。 全体にクリーンアップの差が顕著だった。広島の7本塁打17打点に対し阪急は2本塁打10打点。チーム通算得点は28と同じだったことから 中軸の一打の重要性がここからでもわかる。MVP・長嶋清幸の10打点は78年大杉勝男に並ぶシリーズタイ記録である。 古葉は「(長嶋は)ラッキーボーイ。第3戦の満塁ホームランが呼び水になって他の主力がポンポン打った」 第1戦の“神風アーチ”以上に敵地初戦でのシリーズ第2号を讃えた。この一発はシリーズ初先発の川口を完投させた意味でも大きかった。
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