- マスコミ教える日韓の真実の歴史
663 :文責・名無しさん[sage]:2019/08/21(水) 23:09:03.26 ID:rnJN9KeK0 -
■壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役) 第14代王の宣祖(1567〜1608年)の時代になると両班の間で党争が激化し、王朝の内政は慢性的な混乱を引き起こしました。 さらに1592〜99年には、日本統一を達成した後の豊臣秀吉が2度にわたって朝鮮半島へ侵入し、朝鮮王朝の経済、社会に甚大な被害を与えました。 日本で文禄・慶長の役と名づけられているこの戦乱は、朝鮮半島では当時の干支を取って、それぞれを壬辰倭乱、丁酉倭乱と呼んでいます。秀吉の軍勢によって一時的に半島全域が制圧されたものの、 名将、李舜臣の活躍と農民や僧侶、儒学者らによる義兵軍によって秀吉軍は撃退されます。しかし、景福宮や昌徳宮、宗廟など多くの文化財がこの戦いで失われました。 この頃、日本では織田信長や秀吉をはじめ、多くの武将が茶の湯をたしなみ、半島で作られる高麗茶碗が大変な人気を集めていました。 華やかな高麗青磁から発展した素朴な粉青沙器(三島)、さらに白土で焼かれた質の良い白磁の2種類がこの時期、朝鮮半島では盛んに作られていました。 ただし、粉青沙器の担い手が日本に連行されたこともあり、日本との間の戦乱後、粉青沙器は廃れ、また白色は韓民族の象徴であり、朱子学の清廉さを表す色でもあったため、半島では白磁が中心に焼かれるようになりました。 一方、この戦乱に敗れた日本の武将らは帰国の際、多くの陶工を強制的に日本に連れ帰りました。その数は、数万人規模にも及んだとされ、陶工らは伊万里焼や高取焼、薩摩焼、萩焼などの基礎を築いたといわれています。 当然、戦乱で窯場を破壊され、多くの陶工を一度に失った朝鮮半島の陶器文化は衰退していきました。こうしたことから、壬辰・丁酉倭乱は、別名「茶碗戦争」「焼き物戦争」ともいわれています。 参考文献 図説 韓国の歴史 (監修/金両基 河出書房新社 2002年)
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