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文責・名無しさん
マスコミ教える日韓の真実の歴史

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マスコミ教える日韓の真実の歴史
662 :文責・名無しさん[sage]:2019/08/21(水) 23:08:03.68 ID:rnJN9KeK0
www.wastours.jp/web_tabihiro/hyakka_ryoran/2012/120409.html

ホーム旅のひろば WEB旅の百科撩乱2012年朝鮮王朝の歴史と文化(前編)
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2012年4月9日更新 朝鮮王朝の歴史と文化(前編)


足利義満によって南北朝統一が達成された室町幕府に一時的な安定がもたらされた1392年、朝鮮半島では武将の李成桂(イ・ソンゲ)が朝鮮(チョソン)王朝を樹立しました。

王朝前期は内政面でも、外政面でも安定期であり、当時の東アジア地域の中でも有数の高い文化を誇りました。その後、侵略や内乱などで破壊された歴史的な建築物はその多くが再建されています。


建国から豊臣秀吉による朝鮮半島侵入(1592〜99年)までの王朝前半期は内政、外政ともに安定し、農業や商業、手工業が発達しました。


李成桂は仏教信徒であったといわれています。しかし、前王朝である高麗時代末期には仏教と政治が癒着したことで、政治的混乱を招いたことから、李王朝は崇儒排仏政策を推進しました。
李成桂の実子で第3代王の太宗(1400〜18年)の時代までには、王を頂点として両班が行政を担う中央集権的な政治体制を構築し、国家財政と国防を強化していきました。

また、世宗の時代にはさまざまな技術が発達しました。降雨量を測定する測雨器が発明され、農業の発展に貢献しました。
さらに金属活字が発達し、火薬武器や造船技術が大きく発展、医療関係の改善などが行われ、文化や生活の質が向上しました。
 
マスコミ教える日韓の真実の歴史
663 :文責・名無しさん[sage]:2019/08/21(水) 23:09:03.26 ID:rnJN9KeK0
 
■壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)

第14代王の宣祖(1567〜1608年)の時代になると両班の間で党争が激化し、王朝の内政は慢性的な混乱を引き起こしました。
さらに1592〜99年には、日本統一を達成した後の豊臣秀吉が2度にわたって朝鮮半島へ侵入し、朝鮮王朝の経済、社会に甚大な被害を与えました。

日本で文禄・慶長の役と名づけられているこの戦乱は、朝鮮半島では当時の干支を取って、それぞれを壬辰倭乱、丁酉倭乱と呼んでいます。秀吉の軍勢によって一時的に半島全域が制圧されたものの、
名将、李舜臣の活躍と農民や僧侶、儒学者らによる義兵軍によって秀吉軍は撃退されます。しかし、景福宮や昌徳宮、宗廟など多くの文化財がこの戦いで失われました。

この頃、日本では織田信長や秀吉をはじめ、多くの武将が茶の湯をたしなみ、半島で作られる高麗茶碗が大変な人気を集めていました。
華やかな高麗青磁から発展した素朴な粉青沙器(三島)、さらに白土で焼かれた質の良い白磁の2種類がこの時期、朝鮮半島では盛んに作られていました。

ただし、粉青沙器の担い手が日本に連行されたこともあり、日本との間の戦乱後、粉青沙器は廃れ、また白色は韓民族の象徴であり、朱子学の清廉さを表す色でもあったため、半島では白磁が中心に焼かれるようになりました。

一方、この戦乱に敗れた日本の武将らは帰国の際、多くの陶工を強制的に日本に連れ帰りました。その数は、数万人規模にも及んだとされ、陶工らは伊万里焼や高取焼、薩摩焼、萩焼などの基礎を築いたといわれています。
当然、戦乱で窯場を破壊され、多くの陶工を一度に失った朝鮮半島の陶器文化は衰退していきました。こうしたことから、壬辰・丁酉倭乱は、別名「茶碗戦争」「焼き物戦争」ともいわれています。


参考文献  図説 韓国の歴史
  (監修/金両基 河出書房新社 2002年)
 


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