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文責・名無しさん
中共の批判をまったく報道しないマスゴミ [無断転載禁止]©2ch.net
朝日新聞と中国との関係 その16 [無断転載禁止]©2ch.net
産経抄ファンクラブ第248集
憲法9条があるために侵略や戦争や拉致が起きた

書き込みレス一覧

中共の批判をまったく報道しないマスゴミ [無断転載禁止]©2ch.net
606 :文責・名無しさん[]:2018/11/09(金) 00:18:35.85 ID:0iK0p3NC0
 1949年10月1日、中華人民共和国の建国式典において、整然と編隊を組んだ飛行部隊が天安門の上空をかすめるように飛んだ。
かつて「粟飯プラス小銃」という厳しい条件のなかにあった解放軍が、こんなにも速く優れた戦闘能力を身につけた空軍を所有す
ることは奇跡だと、世界は驚嘆した。この奇跡の陰には、数多くのエピソードがある。

 王海さんは1946年6月、東北民主連軍航空学校に入学した。入学してまもなく、主任教官の名は林保毅であると聞いたが、この
林教官がかつて日本の「帝国軍人」であったことは知らなかった。
 林教官は本名を林弥一郎といい、もとは関東軍第2航空部隊第4練成飛行隊の隊長であった。日本の敗戦後、彼の部隊は東北民主
連軍に包囲され、武器を引渡して投降した。その後、部隊に所属していた軍人たちは農家に分宿し、厚遇を受けた。

 農民たちは、日本人は米が好きだと知ると、モミや野菜、鶏まで担いで持ってきた。林さんは、これらのモミが来年の種モミで
あり、民主連軍と農民たちはコーリャンやトウモロコシを食べていたということを後で知り、日本の軍人として、深く感動すると
ともに、内心忸怩たる思いだった。
中共の批判をまったく報道しないマスゴミ [無断転載禁止]©2ch.net
607 :文責・名無しさん[]:2018/11/09(金) 00:18:53.39 ID:0iK0p3NC0
 1949年10月1日、中華人民共和国の建国式典において、整然と編隊を組んだ飛行部隊が天安門の上空をかすめるように飛んだ。
かつて「粟飯プラス小銃」という厳しい条件のなかにあった解放軍が、こんなにも速く優れた戦闘能力を身につけた空軍を所有す
ることは奇跡だと、世界は驚嘆した。この奇跡の陰には、数多くのエピソードがある。

 王海さんは1946年6月、東北民主連軍航空学校に入学した。入学してまもなく、主任教官の名は林保毅であると聞いたが、この
林教官がかつて日本の「帝国軍人」であったことは知らなかった。
 林教官は本名を林弥一郎といい、もとは関東軍第2航空部隊第4練成飛行隊の隊長であった。日本の敗戦後、彼の部隊は東北民主
連軍に包囲され、武器を引渡して投降した。その後、部隊に所属していた軍人たちは農家に分宿し、厚遇を受けた。

 農民たちは、日本人は米が好きだと知ると、モミや野菜、鶏まで担いで持ってきた。林さんは、これらのモミが来年の種モミで
あり、民主連軍と農民たちはコーリャンやトウモロコシを食べていたということを後で知り、日本の軍人として、深く感動すると
ともに、内心忸怩たる思いだった。
中共の批判をまったく報道しないマスゴミ [無断転載禁止]©2ch.net
608 :文責・名無しさん[]:2018/11/09(金) 00:19:10.63 ID:0iK0p3NC0
 林弥一郎さんら6人は1985年1月、招待に応じて北京を訪問した。当時、全国人民代表大会常務委員会委員長だった彭真氏は
彼らと接見し、「空軍の航空学校創設の際には、困難な情況にありながら、さまざまな障害を克服し、工夫に工夫を重ねて、空
軍の中核的な力を育成してくださった。その功績はまことに大きい。中国人民はあなたがたに深く感謝しています。私たちは必
ず、あなたがたの功績を中国の空軍史に記録し、子々孫々まで伝え、永遠に忘れません」と話した。

 86年2月には、林さんは中国人民解放軍空軍司令部を訪問した。当時、空軍司令官だった王海さんは、林さんの両手を固く握
りしめながら「日本人教官の方々が教えてくれた操縦技術のおかげで、今日の私たちがあるのです。私たちは心から日本人の先
生方に感謝しています。林先生、帰国されたら、私たちの感謝の気持ちを必ず日本の先生方にお伝えください」と言った。

 王海さんの家には、日本人形など数多くの日本の友人からのプレゼントが保存されている。毎年の新年には、当時製図を教わっ
ていた西亜夫さんから年賀状が届く。

 「日本の友人からいただいたものは、こういったプレゼントだけではありません。彼らは私を大空へ飛ばせてくれたのです。
彼らの仕事をおろそかにしない態度、堅忍不抜の精神から多くの影響を受けました。これは私の貴重な財産です。林さんをはじ
め、たくさんの日本の友人たちは、中国の革命や建設、そして両国の友好に大きな貢献をしました。中国人民はこのことを永遠
に忘れません」
中共の批判をまったく報道しないマスゴミ [無断転載禁止]©2ch.net
609 :文責・名無しさん[]:2018/11/09(金) 00:25:15.83 ID:0iK0p3NC0
 一式戦は日本軍以外の軍隊で最も運用された日本製戦闘機でもある。大戦中には「友好国」であった満洲国軍やタイ王国軍に供与さ
れ、両軍では連合軍機を相手に幾度となく戦闘を行っている。タイ王国軍は一式戦に国籍標識として「白象」を垂直尾翼に描き、中村
三郎大尉ほか第64戦隊員により運用の指導が行われ(それらの模様は1944年4月27日の日本ニュース第204号『タイ空軍「隼」戦闘
機で訓練』に収録)、バンコク空襲では日本軍機とともに迎撃戦に参戦している。第二次大戦後も数年間、アメリカ製戦闘機が配備さ
れるまで使用されていた。
 外地で終戦を迎えた一式戦はフランス軍、インドネシア軍、中華民国軍(国民革命軍・国民党軍)、中国人民解放軍(紅軍・共産党
軍)、朝鮮人民軍に接収された上で使用されている。
 フランスは第一次インドシナ戦争において二つの部隊で二型を対ゲリラ戦に、インドネシアではインドネシア独立戦争において二型
を対イギリス軍・オランダ軍に実戦投入している。これら各国では、敗戦により武装解除を受け捕虜となった日本軍操縦者により操縦
方法を伝授されていた。
 中国では共産党軍が関東軍の第4練成飛行隊長林弥一郎元少佐ら日本軍人による東北民主連軍航空学校での指導の下に、国共内戦に
おいて使用。一方の国民党軍においても自軍の国籍標識を付けた機体が複数存在したが、アメリカからの全面的な支援を受けていた国
民党軍においてこれらがどの程度実用されていたのかは明らかでない。
 朝鮮人民軍では戦後の一時期、創設間もない航空部隊の訓練用に二型を運用しており、ソ連機が配備されるまで使用された。

http://ki43.on.coocan.jp/oversea/gunpaku/gunpak.html

中華人民共和国の成立は、旧日本軍の功績が大ですな!
中共の批判をまったく報道しないマスゴミ [無断転載禁止]©2ch.net
610 :文責・名無しさん[]:2018/11/09(金) 00:33:22.21 ID:0iK0p3NC0
【賞賛されていた陸海軍 知られざる日本】日本に感謝していた毛沢東 兵器提供や空軍創設にも尽力 2014.10.03
 「何も申し訳なく思うことはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれました。
みなさんの皇軍なしには、我々が権力を奪取することは不可能だったのです」
 これは、誰あろう中華人民共和国建国の父、毛沢東主席の言葉(毛沢東著『毛沢東思想万歳』下巻、三一書房)だ。1964年7
月10日、訪中した日本社会党の佐々木更三委員長が、過去の戦争について謝罪したとき、毛主席が語ったという。
 習近平国家主席からは口が裂けても出てこないだろうが、毛主席は日本軍が中国建国を助けたことを感謝していたのだ。
 もう1つ、日本軍の兵器が中国を助けた事実も忘れてはならない。
 北京の中国人民革命軍事博物館には、蒋介石率いる国民党軍と国共内戦で戦った、中国共産党軍(中共軍)の兵器がズラリと並ん
でいる。その多くが、日本陸軍の兵器であることに驚かされる。
 97式中戦車をはじめ、日本陸軍の野砲や機関銃などが、中共軍の主力兵器として使用されたのである。つまり日本軍が残してい
った兵器があったからこそ、中共軍は蒋介石との国共内戦に勝利できたのだ。
 中でも、「功臣号」(こうしんごう)と命名された97式中戦車改は、中共軍が初めて保有した戦車であり、この1両のみで同軍
初の戦車部隊「東北特縦坦克服大隊」が編成された。その後、日本軍から接収した97式中戦車改で本格的な戦車部隊が編成され、
各地で国民党軍を打ち破ったのである。
 「功臣号」は1949年2月3日、北京入りを果たした。そして、59年まで使われたのだ。
https://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20141003/dms1410031140007-n1.htm
https://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20141003/dms1410031140007-n2.htm
朝日新聞と中国との関係 その16 [無断転載禁止]©2ch.net
623 :文責・名無しさん[]:2018/11/09(金) 00:36:34.24 ID:0iK0p3NC0
【賞賛されていた陸海軍 知られざる日本】日本に感謝していた毛沢東 兵器提供や空軍創設にも尽力 2014.10.03
 「何も申し訳なく思うことはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれました。
みなさんの皇軍なしには、我々が権力を奪取することは不可能だったのです」
 これは、誰あろう中華人民共和国建国の父、毛沢東主席の言葉(毛沢東著『毛沢東思想万歳』下巻、三一書房)だ。1964年7
月10日、訪中した日本社会党の佐々木更三委員長が、過去の戦争について謝罪したとき、毛主席が語ったという。
 習近平国家主席からは口が裂けても出てこないだろうが、毛主席は日本軍が中国建国を助けたことを感謝していたのだ。
 もう1つ、日本軍の兵器が中国を助けた事実も忘れてはならない。
 北京の中国人民革命軍事博物館には、蒋介石率いる国民党軍と国共内戦で戦った、中国共産党軍(中共軍)の兵器がズラリと並ん
でいる。その多くが、日本陸軍の兵器であることに驚かされる。
 97式中戦車をはじめ、日本陸軍の野砲や機関銃などが、中共軍の主力兵器として使用されたのである。つまり日本軍が残してい
った兵器があったからこそ、中共軍は蒋介石との国共内戦に勝利できたのだ。
 中でも、「功臣号」(こうしんごう)と命名された97式中戦車改は、中共軍が初めて保有した戦車であり、この1両のみで同軍
初の戦車部隊「東北特縦坦克服大隊」が編成された。その後、日本軍から接収した97式中戦車改で本格的な戦車部隊が編成され、
各地で国民党軍を打ち破ったのである。
 「功臣号」は1949年2月3日、北京入りを果たした。そして、59年まで使われたのだ。
https://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20141003/dms1410031140007-n1.htm
https://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20141003/dms1410031140007-n2.htm
朝日新聞と中国との関係 その16 [無断転載禁止]©2ch.net
624 :文責・名無しさん[]:2018/11/09(金) 00:37:02.47 ID:0iK0p3NC0
 一式戦は日本軍以外の軍隊で最も運用された日本製戦闘機でもある。大戦中には「友好国」であった満洲国軍やタイ王国軍に供与さ
れ、両軍では連合軍機を相手に幾度となく戦闘を行っている。タイ王国軍は一式戦に国籍標識として「白象」を垂直尾翼に描き、中村
三郎大尉ほか第64戦隊員により運用の指導が行われ(それらの模様は1944年4月27日の日本ニュース第204号『タイ空軍「隼」戦闘
機で訓練』に収録)、バンコク空襲では日本軍機とともに迎撃戦に参戦している。第二次大戦後も数年間、アメリカ製戦闘機が配備さ
れるまで使用されていた。
 外地で終戦を迎えた一式戦はフランス軍、インドネシア軍、中華民国軍(国民革命軍・国民党軍)、中国人民解放軍(紅軍・共産党
軍)、朝鮮人民軍に接収された上で使用されている。
 フランスは第一次インドシナ戦争において二つの部隊で二型を対ゲリラ戦に、インドネシアではインドネシア独立戦争において二型
を対イギリス軍・オランダ軍に実戦投入している。これら各国では、敗戦により武装解除を受け捕虜となった日本軍操縦者により操縦
方法を伝授されていた。
 中国では共産党軍が関東軍の第4練成飛行隊長林弥一郎元少佐ら日本軍人による東北民主連軍航空学校での指導の下に、国共内戦に
おいて使用。一方の国民党軍においても自軍の国籍標識を付けた機体が複数存在したが、アメリカからの全面的な支援を受けていた国
民党軍においてこれらがどの程度実用されていたのかは明らかでない。
 朝鮮人民軍では戦後の一時期、創設間もない航空部隊の訓練用に二型を運用しており、ソ連機が配備されるまで使用された。

http://ki43.on.coocan.jp/oversea/gunpaku/gunpak.html

中華人民共和国の成立は、旧日本軍の功績が大ですな!
朝日新聞と中国との関係 その16 [無断転載禁止]©2ch.net
625 :文責・名無しさん[]:2018/11/09(金) 00:37:46.77 ID:0iK0p3NC0
 1949年10月1日、中華人民共和国の建国式典において、整然と編隊を組んだ飛行部隊が天安門の上空をかすめるように飛んだ。
かつて「粟飯プラス小銃」という厳しい条件のなかにあった解放軍が、こんなにも速く優れた戦闘能力を身につけた空軍を所有す
ることは奇跡だと、世界は驚嘆した。この奇跡の陰には、数多くのエピソードがある。

 王海さんは1946年6月、東北民主連軍航空学校に入学した。入学してまもなく、主任教官の名は林保毅であると聞いたが、この
林教官がかつて日本の「帝国軍人」であったことは知らなかった。
 林教官は本名を林弥一郎といい、もとは関東軍第2航空部隊第4練成飛行隊の隊長であった。日本の敗戦後、彼の部隊は東北民主
連軍に包囲され、武器を引渡して投降した。その後、部隊に所属していた軍人たちは農家に分宿し、厚遇を受けた。

 農民たちは、日本人は米が好きだと知ると、モミや野菜、鶏まで担いで持ってきた。林さんは、これらのモミが来年の種モミで
あり、民主連軍と農民たちはコーリャンやトウモロコシを食べていたということを後で知り、日本の軍人として、深く感動すると
ともに、内心忸怩たる思いだった。
朝日新聞と中国との関係 その16 [無断転載禁止]©2ch.net
626 :文責・名無しさん[]:2018/11/09(金) 00:38:05.64 ID:0iK0p3NC0
 ほどなくして、民主連軍の指導者は林部隊を瀋陽に呼び寄せ、自ら林さんと面会した。中国共産党中央東北局の彭真書記は、
「中国空軍の創設に協力していただきたい」と要請した。林さんはそれに対し、「私たちは捕虜ですよ」と驚いて答えた。そばに
座っていた民主連軍の伍修権参謀長は、「われわれはあなたを全面的に信頼しています」と言った。

 王海さんは、「日本人教官は真面目で、厳しく自らを律し、訓練生に対しても厳格でした。冬は朝目が覚めると唇に白い霜が付
いているほど寒かったのですが、日本人の地上係員たちは、私たちの正常な訓練を保証するために、毎朝早く零下40度の厳寒の中
で、飛行機の検査・調整を行っていました。本当に頭が下がる思いです」と当時を振りかえる。

 中国人訓練生の勇敢さも、日本人教官から称賛された。「隼」の訓練科目には、上昇しながら機体をひっくり返すものがあるが、
十分に注意しないと事故につながる。

 王海さんがこの動きを練習したとき、飛行機が突然失速し、急速に回転しながら墜落し始めた。しかし王さんは冷静に状況を見
極め、方向舵操作ペダルを踏み、操縦桿を押して、機体を正常な状況に回復させた。着陸して飛行機から降りた際、日本人教官は
親指を立て、「王君、良かったぞ。とても勇敢だ」とほめてくれた。
朝日新聞と中国との関係 その16 [無断転載禁止]©2ch.net
627 :文責・名無しさん[]:2018/11/09(金) 00:38:24.84 ID:0iK0p3NC0
 林弥一郎さんら6人は1985年1月、招待に応じて北京を訪問した。当時、全国人民代表大会常務委員会委員長だった彭真氏は
彼らと接見し、「空軍の航空学校創設の際には、困難な情況にありながら、さまざまな障害を克服し、工夫に工夫を重ねて、空
軍の中核的な力を育成してくださった。その功績はまことに大きい。中国人民はあなたがたに深く感謝しています。私たちは必
ず、あなたがたの功績を中国の空軍史に記録し、子々孫々まで伝え、永遠に忘れません」と話した。

 86年2月には、林さんは中国人民解放軍空軍司令部を訪問した。当時、空軍司令官だった王海さんは、林さんの両手を固く握
りしめながら「日本人教官の方々が教えてくれた操縦技術のおかげで、今日の私たちがあるのです。私たちは心から日本人の先
生方に感謝しています。林先生、帰国されたら、私たちの感謝の気持ちを必ず日本の先生方にお伝えください」と言った。

 王海さんの家には、日本人形など数多くの日本の友人からのプレゼントが保存されている。毎年の新年には、当時製図を教わっ
ていた西亜夫さんから年賀状が届く。

 「日本の友人からいただいたものは、こういったプレゼントだけではありません。彼らは私を大空へ飛ばせてくれたのです。
彼らの仕事をおろそかにしない態度、堅忍不抜の精神から多くの影響を受けました。これは私の貴重な財産です。林さんをはじ
め、たくさんの日本の友人たちは、中国の革命や建設、そして両国の友好に大きな貢献をしました。中国人民はこのことを永遠
に忘れません」
産経抄ファンクラブ第248集
354 :文責・名無しさん[]:2018/11/09(金) 00:42:27.87 ID:0iK0p3NC0
【賞賛されていた陸海軍 知られざる日本】日本に感謝していた毛沢東 兵器提供や空軍創設にも尽力 2014.10.03
 「何も申し訳なく思うことはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれました。
みなさんの皇軍なしには、我々が権力を奪取することは不可能だったのです」
 これは、誰あろう中華人民共和国建国の父、毛沢東主席の言葉(毛沢東著『毛沢東思想万歳』下巻、三一書房)だ。1964年7
月10日、訪中した日本社会党の佐々木更三委員長が、過去の戦争について謝罪したとき、毛主席が語ったという。
 習近平国家主席からは口が裂けても出てこないだろうが、毛主席は日本軍が中国建国を助けたことを感謝していたのだ。
 もう1つ、日本軍の兵器が中国を助けた事実も忘れてはならない。
 北京の中国人民革命軍事博物館には、蒋介石率いる国民党軍と国共内戦で戦った、中国共産党軍(中共軍)の兵器がズラリと並ん
でいる。その多くが、日本陸軍の兵器であることに驚かされる。
 97式中戦車をはじめ、日本陸軍の野砲や機関銃などが、中共軍の主力兵器として使用されたのである。つまり日本軍が残してい
った兵器があったからこそ、中共軍は蒋介石との国共内戦に勝利できたのだ。
 中でも、「功臣号」(こうしんごう)と命名された97式中戦車改は、中共軍が初めて保有した戦車であり、この1両のみで同軍
初の戦車部隊「東北特縦坦克服大隊」が編成された。その後、日本軍から接収した97式中戦車改で本格的な戦車部隊が編成され、
各地で国民党軍を打ち破ったのである。
 「功臣号」は1949年2月3日、北京入りを果たした。そして、59年まで使われたのだ。
https://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20141003/dms1410031140007-n1.htm
https://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20141003/dms1410031140007-n2.htm
産経抄ファンクラブ第248集
355 :文責・名無しさん[]:2018/11/09(金) 00:42:53.90 ID:0iK0p3NC0
 一式戦は日本軍以外の軍隊で最も運用された日本製戦闘機でもある。大戦中には「友好国」であった満洲国軍やタイ王国軍に供与さ
れ、両軍では連合軍機を相手に幾度となく戦闘を行っている。タイ王国軍は一式戦に国籍標識として「白象」を垂直尾翼に描き、中村
三郎大尉ほか第64戦隊員により運用の指導が行われ(それらの模様は1944年4月27日の日本ニュース第204号『タイ空軍「隼」戦闘
機で訓練』に収録)、バンコク空襲では日本軍機とともに迎撃戦に参戦している。第二次大戦後も数年間、アメリカ製戦闘機が配備さ
れるまで使用されていた。
 外地で終戦を迎えた一式戦はフランス軍、インドネシア軍、中華民国軍(国民革命軍・国民党軍)、中国人民解放軍(紅軍・共産党
軍)、朝鮮人民軍に接収された上で使用されている。
 フランスは第一次インドシナ戦争において二つの部隊で二型を対ゲリラ戦に、インドネシアではインドネシア独立戦争において二型
を対イギリス軍・オランダ軍に実戦投入している。これら各国では、敗戦により武装解除を受け捕虜となった日本軍操縦者により操縦
方法を伝授されていた。
 中国では共産党軍が関東軍の第4練成飛行隊長林弥一郎元少佐ら日本軍人による東北民主連軍航空学校での指導の下に、国共内戦に
おいて使用。一方の国民党軍においても自軍の国籍標識を付けた機体が複数存在したが、アメリカからの全面的な支援を受けていた国
民党軍においてこれらがどの程度実用されていたのかは明らかでない。
 朝鮮人民軍では戦後の一時期、創設間もない航空部隊の訓練用に二型を運用しており、ソ連機が配備されるまで使用された。

http://ki43.on.coocan.jp/oversea/gunpaku/gunpak.html

中華人民共和国の成立は、旧日本軍の功績が大ですな!
産経抄ファンクラブ第248集
356 :文責・名無しさん[]:2018/11/09(金) 00:43:14.99 ID:0iK0p3NC0
 1949年10月1日、中華人民共和国の建国式典において、整然と編隊を組んだ飛行部隊が天安門の上空をかすめるように飛んだ。
かつて「粟飯プラス小銃」という厳しい条件のなかにあった解放軍が、こんなにも速く優れた戦闘能力を身につけた空軍を所有す
ることは奇跡だと、世界は驚嘆した。この奇跡の陰には、数多くのエピソードがある。

 王海さんは1946年6月、東北民主連軍航空学校に入学した。入学してまもなく、主任教官の名は林保毅であると聞いたが、この
林教官がかつて日本の「帝国軍人」であったことは知らなかった。
 林教官は本名を林弥一郎といい、もとは関東軍第2航空部隊第4練成飛行隊の隊長であった。日本の敗戦後、彼の部隊は東北民主
連軍に包囲され、武器を引渡して投降した。その後、部隊に所属していた軍人たちは農家に分宿し、厚遇を受けた。

 農民たちは、日本人は米が好きだと知ると、モミや野菜、鶏まで担いで持ってきた。林さんは、これらのモミが来年の種モミで
あり、民主連軍と農民たちはコーリャンやトウモロコシを食べていたということを後で知り、日本の軍人として、深く感動すると
ともに、内心忸怩たる思いだった。
産経抄ファンクラブ第248集
357 :文責・名無しさん[]:2018/11/09(金) 00:43:30.14 ID:0iK0p3NC0
 ほどなくして、民主連軍の指導者は林部隊を瀋陽に呼び寄せ、自ら林さんと面会した。中国共産党中央東北局の彭真書記は、
「中国空軍の創設に協力していただきたい」と要請した。林さんはそれに対し、「私たちは捕虜ですよ」と驚いて答えた。そばに
座っていた民主連軍の伍修権参謀長は、「われわれはあなたを全面的に信頼しています」と言った。

 王海さんは、「日本人教官は真面目で、厳しく自らを律し、訓練生に対しても厳格でした。冬は朝目が覚めると唇に白い霜が付
いているほど寒かったのですが、日本人の地上係員たちは、私たちの正常な訓練を保証するために、毎朝早く零下40度の厳寒の中
で、飛行機の検査・調整を行っていました。本当に頭が下がる思いです」と当時を振りかえる。

 中国人訓練生の勇敢さも、日本人教官から称賛された。「隼」の訓練科目には、上昇しながら機体をひっくり返すものがあるが、
十分に注意しないと事故につながる。

 王海さんがこの動きを練習したとき、飛行機が突然失速し、急速に回転しながら墜落し始めた。しかし王さんは冷静に状況を見
極め、方向舵操作ペダルを踏み、操縦桿を押して、機体を正常な状況に回復させた。着陸して飛行機から降りた際、日本人教官は
親指を立て、「王君、良かったぞ。とても勇敢だ」とほめてくれた。
産経抄ファンクラブ第248集
358 :文責・名無しさん[]:2018/11/09(金) 00:43:49.50 ID:0iK0p3NC0
 林弥一郎さんら6人は1985年1月、招待に応じて北京を訪問した。当時、全国人民代表大会常務委員会委員長だった彭真氏は
彼らと接見し、「空軍の航空学校創設の際には、困難な情況にありながら、さまざまな障害を克服し、工夫に工夫を重ねて、空
軍の中核的な力を育成してくださった。その功績はまことに大きい。中国人民はあなたがたに深く感謝しています。私たちは必
ず、あなたがたの功績を中国の空軍史に記録し、子々孫々まで伝え、永遠に忘れません」と話した。

 86年2月には、林さんは中国人民解放軍空軍司令部を訪問した。当時、空軍司令官だった王海さんは、林さんの両手を固く握
りしめながら「日本人教官の方々が教えてくれた操縦技術のおかげで、今日の私たちがあるのです。私たちは心から日本人の先
生方に感謝しています。林先生、帰国されたら、私たちの感謝の気持ちを必ず日本の先生方にお伝えください」と言った。

 王海さんの家には、日本人形など数多くの日本の友人からのプレゼントが保存されている。毎年の新年には、当時製図を教わっ
ていた西亜夫さんから年賀状が届く。

 「日本の友人からいただいたものは、こういったプレゼントだけではありません。彼らは私を大空へ飛ばせてくれたのです。
彼らの仕事をおろそかにしない態度、堅忍不抜の精神から多くの影響を受けました。これは私の貴重な財産です。林さんをはじ
め、たくさんの日本の友人たちは、中国の革命や建設、そして両国の友好に大きな貢献をしました。中国人民はこのことを永遠
に忘れません」
憲法9条があるために侵略や戦争や拉致が起きた
190 :文責・名無しさん[]:2018/11/09(金) 00:46:09.97 ID:0iK0p3NC0
【賞賛されていた陸海軍 知られざる日本】日本に感謝していた毛沢東 兵器提供や空軍創設にも尽力 2014.10.03
 「何も申し訳なく思うことはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれました。
みなさんの皇軍なしには、我々が権力を奪取することは不可能だったのです」
 これは、誰あろう中華人民共和国建国の父、毛沢東主席の言葉(毛沢東著『毛沢東思想万歳』下巻、三一書房)だ。1964年7
月10日、訪中した日本社会党の佐々木更三委員長が、過去の戦争について謝罪したとき、毛主席が語ったという。
 習近平国家主席からは口が裂けても出てこないだろうが、毛主席は日本軍が中国建国を助けたことを感謝していたのだ。
 もう1つ、日本軍の兵器が中国を助けた事実も忘れてはならない。
 北京の中国人民革命軍事博物館には、蒋介石率いる国民党軍と国共内戦で戦った、中国共産党軍(中共軍)の兵器がズラリと並ん
でいる。その多くが、日本陸軍の兵器であることに驚かされる。
 97式中戦車をはじめ、日本陸軍の野砲や機関銃などが、中共軍の主力兵器として使用されたのである。つまり日本軍が残してい
った兵器があったからこそ、中共軍は蒋介石との国共内戦に勝利できたのだ。
 中でも、「功臣号」(こうしんごう)と命名された97式中戦車改は、中共軍が初めて保有した戦車であり、この1両のみで同軍
初の戦車部隊「東北特縦坦克服大隊」が編成された。その後、日本軍から接収した97式中戦車改で本格的な戦車部隊が編成され、
各地で国民党軍を打ち破ったのである。
 「功臣号」は1949年2月3日、北京入りを果たした。そして、59年まで使われたのだ。
https://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20141003/dms1410031140007-n1.htm
https://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20141003/dms1410031140007-n2.htm
憲法9条があるために侵略や戦争や拉致が起きた
191 :文責・名無しさん[]:2018/11/09(金) 00:46:28.38 ID:0iK0p3NC0
 一式戦は日本軍以外の軍隊で最も運用された日本製戦闘機でもある。大戦中には「友好国」であった満洲国軍やタイ王国軍に供与さ
れ、両軍では連合軍機を相手に幾度となく戦闘を行っている。タイ王国軍は一式戦に国籍標識として「白象」を垂直尾翼に描き、中村
三郎大尉ほか第64戦隊員により運用の指導が行われ(それらの模様は1944年4月27日の日本ニュース第204号『タイ空軍「隼」戦闘
機で訓練』に収録)、バンコク空襲では日本軍機とともに迎撃戦に参戦している。第二次大戦後も数年間、アメリカ製戦闘機が配備さ
れるまで使用されていた。
 外地で終戦を迎えた一式戦はフランス軍、インドネシア軍、中華民国軍(国民革命軍・国民党軍)、中国人民解放軍(紅軍・共産党
軍)、朝鮮人民軍に接収された上で使用されている。
 フランスは第一次インドシナ戦争において二つの部隊で二型を対ゲリラ戦に、インドネシアではインドネシア独立戦争において二型
を対イギリス軍・オランダ軍に実戦投入している。これら各国では、敗戦により武装解除を受け捕虜となった日本軍操縦者により操縦
方法を伝授されていた。
 中国では共産党軍が関東軍の第4練成飛行隊長林弥一郎元少佐ら日本軍人による東北民主連軍航空学校での指導の下に、国共内戦に
おいて使用。一方の国民党軍においても自軍の国籍標識を付けた機体が複数存在したが、アメリカからの全面的な支援を受けていた国
民党軍においてこれらがどの程度実用されていたのかは明らかでない。
 朝鮮人民軍では戦後の一時期、創設間もない航空部隊の訓練用に二型を運用しており、ソ連機が配備されるまで使用された。

http://ki43.on.coocan.jp/oversea/gunpaku/gunpak.html

中華人民共和国の成立は、旧日本軍の功績が大ですな!
憲法9条があるために侵略や戦争や拉致が起きた
192 :文責・名無しさん[]:2018/11/09(金) 00:46:44.90 ID:0iK0p3NC0
 1949年10月1日、中華人民共和国の建国式典において、整然と編隊を組んだ飛行部隊が天安門の上空をかすめるように飛んだ。
かつて「粟飯プラス小銃」という厳しい条件のなかにあった解放軍が、こんなにも速く優れた戦闘能力を身につけた空軍を所有す
ることは奇跡だと、世界は驚嘆した。この奇跡の陰には、数多くのエピソードがある。

 王海さんは1946年6月、東北民主連軍航空学校に入学した。入学してまもなく、主任教官の名は林保毅であると聞いたが、この
林教官がかつて日本の「帝国軍人」であったことは知らなかった。
 林教官は本名を林弥一郎といい、もとは関東軍第2航空部隊第4練成飛行隊の隊長であった。日本の敗戦後、彼の部隊は東北民主
連軍に包囲され、武器を引渡して投降した。その後、部隊に所属していた軍人たちは農家に分宿し、厚遇を受けた。

 農民たちは、日本人は米が好きだと知ると、モミや野菜、鶏まで担いで持ってきた。林さんは、これらのモミが来年の種モミで
あり、民主連軍と農民たちはコーリャンやトウモロコシを食べていたということを後で知り、日本の軍人として、深く感動すると
ともに、内心忸怩たる思いだった。
憲法9条があるために侵略や戦争や拉致が起きた
193 :文責・名無しさん[]:2018/11/09(金) 00:47:07.09 ID:0iK0p3NC0
 ほどなくして、民主連軍の指導者は林部隊を瀋陽に呼び寄せ、自ら林さんと面会した。中国共産党中央東北局の彭真書記は、
「中国空軍の創設に協力していただきたい」と要請した。林さんはそれに対し、「私たちは捕虜ですよ」と驚いて答えた。そばに
座っていた民主連軍の伍修権参謀長は、「われわれはあなたを全面的に信頼しています」と言った。

 王海さんは、「日本人教官は真面目で、厳しく自らを律し、訓練生に対しても厳格でした。冬は朝目が覚めると唇に白い霜が付
いているほど寒かったのですが、日本人の地上係員たちは、私たちの正常な訓練を保証するために、毎朝早く零下40度の厳寒の中
で、飛行機の検査・調整を行っていました。本当に頭が下がる思いです」と当時を振りかえる。

 中国人訓練生の勇敢さも、日本人教官から称賛された。「隼」の訓練科目には、上昇しながら機体をひっくり返すものがあるが、
十分に注意しないと事故につながる。

 王海さんがこの動きを練習したとき、飛行機が突然失速し、急速に回転しながら墜落し始めた。しかし王さんは冷静に状況を見
極め、方向舵操作ペダルを踏み、操縦桿を押して、機体を正常な状況に回復させた。着陸して飛行機から降りた際、日本人教官は
親指を立て、「王君、良かったぞ。とても勇敢だ」とほめてくれた。
憲法9条があるために侵略や戦争や拉致が起きた
194 :文責・名無しさん[]:2018/11/09(金) 00:47:28.04 ID:0iK0p3NC0
 林弥一郎さんら6人は1985年1月、招待に応じて北京を訪問した。当時、全国人民代表大会常務委員会委員長だった彭真氏は
彼らと接見し、「空軍の航空学校創設の際には、困難な情況にありながら、さまざまな障害を克服し、工夫に工夫を重ねて、空
軍の中核的な力を育成してくださった。その功績はまことに大きい。中国人民はあなたがたに深く感謝しています。私たちは必
ず、あなたがたの功績を中国の空軍史に記録し、子々孫々まで伝え、永遠に忘れません」と話した。

 86年2月には、林さんは中国人民解放軍空軍司令部を訪問した。当時、空軍司令官だった王海さんは、林さんの両手を固く握
りしめながら「日本人教官の方々が教えてくれた操縦技術のおかげで、今日の私たちがあるのです。私たちは心から日本人の先
生方に感謝しています。林先生、帰国されたら、私たちの感謝の気持ちを必ず日本の先生方にお伝えください」と言った。

 王海さんの家には、日本人形など数多くの日本の友人からのプレゼントが保存されている。毎年の新年には、当時製図を教わっ
ていた西亜夫さんから年賀状が届く。

 「日本の友人からいただいたものは、こういったプレゼントだけではありません。彼らは私を大空へ飛ばせてくれたのです。
彼らの仕事をおろそかにしない態度、堅忍不抜の精神から多くの影響を受けました。これは私の貴重な財産です。林さんをはじ
め、たくさんの日本の友人たちは、中国の革命や建設、そして両国の友好に大きな貢献をしました。中国人民はこのことを永遠
に忘れません」
憲法9条があるために侵略や戦争や拉致が起きた
195 :文責・名無しさん[]:2018/11/09(金) 00:49:16.20 ID:0iK0p3NC0
 ベトナム語で「ングォイ・ベトナム・モイ」、訳すと「新ベトナム人」となる。第二次世界大戦終結後ベトナムに残留し、第一次
インドシナ戦争(1945?1954年。以下抗仏戦争)を戦った外国人の総称である。
 この新ベトナム人の大多数が元日本軍将兵であり、総数は約600名と言われている。
 彼ら新ベトナム人は、それぞれベトナム名を持ち、ベトナム社会に溶け込んでいた。同胞として、ベトミン(ベトナム独立同盟)に
協力し、フランスの再侵略を退けることに尽くしたのである。
 フランスがインドシナの再支配を断念した1954年、彼ら新ベトナム人の多くが日本に帰ったが、ベトナム政府は彼らの抗仏戦争に
対する貢献を積極的に認め、表彰している。近年日越共同の研究が進み、日本ではジャーナリストの井川一久が詳細な研究を明らかに
した。だが今もってこの残留者たちの存在と事績は日本国内での認知が進んだとは言い難い状況にある。

 戦後ベトナムに残留した日本人はベトナム独立闘争史にいかなる足跡を残したのか? ここでは最初にベトミンの来歴を俯瞰し、次
いで二人の新ベトナム人のベトナムにおける履歴を辿って行こう。
憲法9条があるために侵略や戦争や拉致が起きた
196 :文責・名無しさん[]:2018/11/09(金) 00:49:36.11 ID:0iK0p3NC0
 ベトミンの結成は、1941年、中国経由で祖国に帰ったホー・チ・ミンの呼びかけで始まった。彼らはアメリカOSS(=戦略情報局。
CIAの前身)の支援も受けながら、北部仏印の山間でゲリラ戦を展開、「明号作戦」後の日本軍を悩ませるようになっていた。
 そのベトミンが1945年8月15日、日本の敗戦を機に一斉蜂起を決定、同月19日にはハノイ市中で大集会を開き、重要施設の接収を
開始した。彼らはベトナム全土に生じていた権力の空白をついたのである。日本軍の武装解除を行うべき中国国民党軍はまだ、ベトナ
ム北部に到着していなかった。南部の武装解除を担当する英印軍もまた然りだった。
 そして電撃的な権力奪取から間もない9月2日、ハノイでホー・チ・ミンが独立宣言を読み上げ、ベトナム民主共和国が成立した。

ベトミンはやがて再来するだろうフランスに対抗すべく、軍事力の増強を懸命に急いだ。それももっとも直截的な方法で──
 彼らは敗戦の虚脱にある日本軍将兵を自軍に勧誘し始めたのである。
 「日本に帰ってアメリカの兵隊の顔を見るのが嫌だったんですよ」
 ベトナム南部で敗戦を迎えた日本軍の元将校は、現地に残留した理由をそのように説明した。
 この元将校の名は加茂徳治。ガダルカナル島、ビルマ、中国・雲南、仏印と戦場を渡り歩いた第二師団に所属していた。軍で使って
いたベトナム人通訳から残留を勧められ、軍刀と着替えだけを携えて軍を離脱(=脱走)、ベトミン軍に参加して抗仏戦争の戦列に加
わった。
 「思想? そんなものはありませんでしたよ」と明言するように、加茂はベトミンを率いるホー・チ・ミンが奉じる共産主義思想に
対するシンパシーなど持ち合わせていなかった。
憲法9条があるために侵略や戦争や拉致が起きた
197 :文責・名無しさん[]:2018/11/09(金) 00:49:56.34 ID:0iK0p3NC0
 南部の町ファンティエットで軍を離脱した加茂はまず、他の軍離脱者と組んでベトミン民兵に訓練を施した。ほどなくして日本軍
の軽機関銃や小銃を使い、仏印軍を撃破する実績を上げた。
 その戦闘に先立つ指示を加茂はよく憶えている。軍事に未熟なベトミンの実像──それが彼の証言にも表れている。
 「どこでもいいからとにかく撃て、喚声を上げよと、そんなことを身振り手振りで伝えましたよ。身振り手振りは万国共通ですか
ら」 民兵らにとって、自分たちの手で仏印軍を倒したことで得た達成感は、強烈なものだったようだ。「フランス人が殺されるの
を初めて見た!」と興奮して話す者がいた。この成果により加茂らは「フランス人をやっつけた人たちだ」と他のベトナム人に紹介
されるようにもなった。
 やがて加茂は中部における抗仏戦争の拠点、クアンガイの町に入った。1946年の4月頃だった。丁重に彼を迎えたベトミン幹部
からは、「わたしたちのために、陸軍中学をつくって下さい」と言われたという。クアンガイでは、現代ベトナム独立闘争史上でも
異彩を放つ、日本人教官による「クアンガイ陸軍中学」が創設されようとしていたのである。
 「教育はすべて日本人がやる、そう最初から決まっていました」と加茂は語る。
 このクアンガイ陸軍中学創設のため、同地には元日本軍将兵30名が集まっていた。総数約400名のベトナム人学生を軍の中級幹部
に仕立てること、これが学校の目的だった。教育にあたって4個中隊がつくられ、加茂は第4中隊を担当した。教官は将校、助手は
下士官が務めた。このあたりの編成・職制は、日本陸軍の制度を模したのだろう。
憲法9条があるために侵略や戦争や拉致が起きた
198 :文責・名無しさん[]:2018/11/09(金) 00:51:38.43 ID:0iK0p3NC0
 「共産党員であること、戦歴があること、地方の党委員会による推薦を得ていること、だいたい年齢は20歳前後でしたかね」
 集まってきた学生像を加茂は思い起こし、「我慢強い、音を上げない、どんなつらいことがあっても人民のために、という気
概を持っていた」と賛嘆する。軍の幹部候補生として、彼らの気構えは申し分なかった。だが一方で、軍事に関しては日本軍の
新兵よりも未熟な状態にあったようだ。
 「学生はほとんどが中学を卒業した者です。当時のベトナムで中卒と言ったらエリートですが、とにかく動作が鈍いんですよ。
気をつけもできない。だから教育は気をつけ、休め、回れ右、敬礼といった基本的な軍隊用語と動作を教えることから始まりま
した」
 加茂が語るように、陸軍中学の教育は基礎の基礎からスタートした。まず号令のかけ方、基本姿勢(気をつけ、休め、解け)、
基本動作(匍匐、匍匐前進、横転、横進)を習得させた。
 次いで銃の操作、銃剣術、手榴弾投擲、散開、立哨、警備巡回といった個人的技術の訓練を施した。また昼間・夜間戦闘、白
兵戦、奇襲、偵察、陣地構築、通信、兵站確保の他、分隊・小隊規模での軍事技術と指揮方法を教え、指揮官が必要とする技能
と知識を学ばせ、最後に集中的に戦闘式の演習を実施した。
憲法9条があるために侵略や戦争や拉致が起きた
199 :文責・名無しさん[]:2018/11/09(金) 00:52:30.77 ID:0iK0p3NC0
 次いで銃の操作、銃剣術、手榴弾投擲、散開、立哨、警備巡回といった個人的技術の訓練を施した。また昼間・夜間戦闘、白兵
戦、奇襲、偵察、陣地構築、通信、兵站確保の他、分隊・小隊規模での軍事技術と指揮方法を教え、指揮官が必要とする技能と知
識を学ばせ、最後に集中的に戦闘式の演習を実施した。
 クアンガイ陸軍中学の教育は同年11月には早くも終わりを迎える。フランス軍の北部ハイフォン上陸を受けて、ホー・チ・ミン
が「全国抗戦宣言」を発し、ベトミンは北部山岳地帯での抗戦を決定したのだ。
 加茂は北上して抗戦拠点入りし、その後も教育に携わり、「軍訓局」という訓練専門の部署で働き続けた。その貢献が高く評価
されていたのだろう、加茂に対する軍上層部の態度は常に礼儀正しかったという。
 そんな加茂に対し、ベトナム政府は第一級戦功勲章、第二級戦功勲章の二つをもって報いている。
 昭和20年(1945年)、第二次世界大戦終結後間もなく、ベトナムのサイゴンの街ではフランスの自警団とベトミン(ベト
ナム独立同盟)の小競り合いが続いていました。日本陸軍宣伝部に文官として従軍していた佐野裕二氏は軍籍を離れ、同和火災の
事務所から友人と銃撃戦を見物していました。いろんな性能の銃で撃ち合うので銃声がバラエティに富んでいます。あるとき「ど
どっ、どどっ」と新たな銃声が響きました。
「日本軍の軽機関銃が出てきたよ」
 日本軍の軽機関銃は断続して射撃し、射撃を中止するとき、弾丸の詰まりを防ぐための指の引き金離れは熟練を要します。日本
兵がベトミンに参加していたのです。
 80年もの間、ベトナムはフランスの植民地にされていましたが、植民地にされるときの戦い、されてからの抗戦で一度も勝て
ませんでした。それを日本軍は明号作戦で一夜にしてフランス軍を駆逐したのですから、ベトミンは日本軍の戦闘能力に目をつけ
ました。ベトミンはベトナム全土で勧誘活動を行いました。妙齢のベトナム女性が毎晩のように日本軍将兵収容所に現れて勧誘し
たり、好条件(二階級特進、高給、結婚斡旋)など)で参加を求めるベトミンのビラがサイゴン市内にまで張り出したりしていま
した。中には拉致して強制的に参加させられた例もあります。


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