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954 :文責・名無しさん[]:2017/01/10(火) 20:27:32.52 ID:2lVWPTEr0 - (Wikipedia)
尾崎 行雄(おざき ゆきお、1858年12月24日(安政5年[注釈 1]11月20日) - 1954年(昭和29年)10月6日)は、日本の政治家。 -- 明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙で三重県選挙区より出馬し当選、以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくる(これは世界記録でもある)。 伊勢では投票用紙に「尾崎行雄」としか書いたことのない選挙人が二代・三代に渡って少なくない。 この時代の選挙はまさに戦争同然であり、尾崎も何度も刺客に襲われそうになっているが、地元の猪狩の鉄砲隊を組織してこれを追い返したりしている。 ▼政界の麒麟児 日清戦争後の第4回総選挙後は各派とも従来の恩怨を忘れ、挙国一致して外敵に抗する議決を広島の大本営で可決した。 伊藤博文が後に幾多の障害を排して自ら政党の組織に乗り出し、立憲政友会を創ったのは日清戦争における各派の協力ぶりを見て政党敵視の観念を放棄したからだといわれている。 三国干渉に伊藤が屈すると対外強硬派の先頭に立って「政友有志会」を組織して演説した。 ・・・第一次世界大戦後の欧州諸国の現状を見るために欧州視察の外遊に出る。当初は対外硬派として知られたタカ派であったが、このヨーロッパ視察で戦争の悲惨さを見聞して以後は、態度を変化させ一貫した軍縮論者となった。 既に欧州の主流は反軍国主義であり、日本はこれに逆行しようとしていたからである。また、ポピュリズム化を危惧して普通選挙の早期施行には消極的であったが、大正デモクラシーの進展とともに普通選挙運動に参加。 同時に、次第に活発化していた婦人参政権運動を支持し、新婦人協会による治安警察法改正運動などを支援した。また軍縮推進運動、治安維持法反対運動など一貫して軍国化に抵抗する姿勢や、 西尾末広と反軍演説を行った斎藤隆夫の除名に反対の意思を示す(棄権など)など議会制民主主義を擁護する姿勢を示したが、政界では次第に孤立していった[注釈 5]。 憲政会を離党すると、ついに無所属議員となりのち30年あまりを無所属で通した。無所属になったことは政界での尾崎の出世の妨げとなり、閣僚経験は二度の大隈内閣で経験したのみに止まり、 総理大臣はおろか衆議院議長・副議長、戦後国会での常任委員長になることは終に無かった。
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