- 新【たった一人の反乱】太田述正 目指せ!日本独立
156 :文責・名無しさん[sage]:2010/10/21(木) 13:55:42 ID:Nfj4um8mO - >米国のインドシナ(ベトナム)への本格介入が遅すぎ、かつまた撤退が早すぎたことがまずかったのです
これは日本のシベリア出兵にも当て嵌まる事だと思いますが、そう考えると「シベリア出兵(その2)」での、 >この時点で、日本は、世界で最もグローバルにものを考えていた、主要国中もっとも傑出した政治家を指導者として擁していた、というのが私の見解です。 という、原敬の高い評価は疑問に思うのですが・・・・・・。 Wikipediaの項目には、原敬は消極的出兵論者であり出兵に賛成していたかのように書いてありますが、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%87%BA%E5%85%B5 以下のようにWikipediaの記述はおかしいです。 「・・・アメリカの反対を押して出兵決行をはかる本野外相をはじめとする自主的出兵論者の立場に対して、 山県有朋、寺内正毅首相らの立場も、また外交調査会(臨時外交調査委員会)に拠る原敬、牧野伸顕らの立場も一様に出兵反対の線をもってこれに対峙するが、 これらを協調的出兵の立場をもって一括<する事には、問題があるのではないだろうか>。」 「・・・戦略上の観点から対米協調の必要性を説く山県らの協調的“出兵”論の立場と対米“協調”に判断の力点がおかれ、 場合によっては出兵もまたやむなしとする原敬らの“協調的”出兵論の立場とではその間に本質的<差異がある。>」 細谷千博著『シベリア出兵の史的研究』 岩波現代文庫 pp5〜6
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157 :文責・名無しさん[sage]:2010/10/21(木) 13:56:49 ID:Nfj4um8mO -
「・・・原敬は、元来日本の対外政策の基調として日米提携を重視しており、これと矛盾する日本の大陸政策強行については、かねてから批判的立場をとっていたのである。」 「<外交調査>委員のひとりとしての彼は、アメリカ政府が出兵に反対の態度をとっている以上、 日本政府はその意向を無視して、出兵を強行することの不可なる所以を、くり返し力説していたのである。」 「アメリカ政府から限定出兵方式による、ウラディヴォストークへの共同出兵の提議が日本政府になされ<た時>、原敬はここで、従来の出兵反対論を撤回する。 それは、彼の目に共同出兵行動は、『将来日米提携の端緒』として映ったからに他ならなかったからである。」 細谷千博著『ロシア革命と日本』 p100 原敬の評価には些か検討が必要だと思います。 ちなみに、引用した本の著者である細谷千博もシベリア出兵とベトナム戦争の歴史的相似性を示唆しています。
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158 :文責・名無しさん[sage]:2010/10/21(木) 22:03:49 ID:Nfj4um8mO - 疑問はシベリア出兵“構想”における原敬の行動に集中していたので、疑問が氷解した今は特に何もありません。
(太田さんの政治家に対するスタンスも納得行くものだと思いました。) ただ質問した手前、一応、他の読者にもわかるように、英文についての補足を最低限しておきます・・・・・・。 【共同出兵におけるアメリカの瑕疵】 「<米国シベリア派遣軍司令官のグレイブスは>極東ロシアでのパルチザン活動は、その目標を主として、 コサック勢力(およびその背後の日本軍)の駆逐に向けられているものと見ており、 したがって彼らが鉄道運行に阻害をあたえないかぎり、これに武力を行使することを拒否する態度をとっていた・・・」 「とくに三月四日、有力なパルチザン部隊に遭遇して苦戦に陥っている日本軍の救援が乞われたにもかかわらず、これをアメリカ側が拒否し、 つづいて三月二○日、スーチャン炭坑でのボリシェヴィキ派労働者の武力蜂起に対し、アメリカ軍は鎮圧に乗り出さないばかりか、むしろ好意的態度をとったとみられた・・・」 「アメリカ軍の対ボリシェヴィキ闘争における非協力は、シベリア出兵の大規模な反ソ軍事行動への発展をひそかに期待し、 またコルチャク政権の強化に力を入れていたイギリス政府の失望を引き起こ<した>」 細谷千博著 『ロシア革命と日本』 pp66〜68 「<また>アメリカ政府の撤兵決定は、・・・打ち切りの通告が、国際慣行に違反した、非友宜的な方式でなされた・・・ すなわち、国務省からの正式の通告に先立ってグレイブスは一月十八日、日本派遣軍当局に撤退通告を行い、その実行に着手した・・・ それは国務省、参謀本部、派遣軍三者間のコミュニケイションの欠陥にもとづく手落ちであったものの、<日本側に対米不振を募らせた。>」 細谷千博著 『ロシア革命と日本』 p76
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159 :文責・名無しさん[sage]:2010/10/21(木) 22:22:31 ID:Nfj4um8mO - 【原内閣とシベリア出兵】
「・・・干渉政策に批判的な言辞を弄していた原と内田は、政権につくと前任者の政策をひとまず継承した・・・」 原暉之著 「シベリア出兵 革命と干渉 1917-1922」p408 「原内閣のシベリア政策<は>新しい方向を示唆<していた>、・・・<それは>日本のシベリア政策がようやくソヴィエト政権への敵対的性格を露骨にし、 革命の覆滅を直接意図する、本質的意味での干渉的性格をおびはじめた<事である。>」 細谷千博著 『ロシア革命と日本』 pp108〜109 「シベリアの情勢ばかりでなく、日本の政治的支配下にある地域の政治情勢も・・・ボリシェヴィキの影響力を遮断するために、適当な対策をとる必要を促していた・・・」 「世界的大変乱二伴フ国民思想ノ動揺ハ未タ楽観スヘカラサルモノアリ況ンヤ朝鮮二於テハ帝国ハ既二諸派<=ボリシェヴィキ派> ノ侵襲ヲ受ケタルヲ自覚シ今二於テ大二之二処スルノ途ヲ講セサルヘカラサルナリ」(八月十三日、外交調査会での田中陸相の覚書) 細谷千博著 『ロシア革命と日本』 pp72 「・・・政府の対露政策は・・・朝鮮・満州を防衛するための緩衝地帯を確立しボリシェヴィキの極東露領侵入を阻止する、というものである。」 原暉之著 「シベリア出兵 革命と干渉 1917-1922」p507 「日本政府は原首相<1921年11月暗殺>と田中陸相のイニシアティヴで一九二一年五月に撤兵政策を決定していたが、撤兵完了期日の明示を回避し続け・・・ 「<原の後を継いだ高橋内閣も>ワシントン会議<1921年11月〜1922年2月、や>大連会議<1921年8月〜1922年4月>での撤兵要求を拒否した。・・・」 原暉之著 「シベリア出兵 革命と干渉 1917-1922」p567
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