- 織田信成は織田信長の子孫だったぁああ!!
36 :名無しさん[]:2011/02/17(木) 01:53:03 ID:y8AtExBY - 本家嫡流も曲者「織田信雄」
信長の次男信雄は織田家中で「三介殿のなされることよ・・・」と、たえず陰口を叩かれる存在だった。 信雄は父信長の伊勢平定の戦略の一環として伊勢国北畠具房の養嗣子となる。 ところが、天正七年、隣国の伊賀国へ父信長の許可なく無断で攻め入り、伊賀衆の奇襲攻撃に遭い、重臣をはじめとする多くの将兵を失った。 信長はこの“不肖のせがれ”の愚行に激怒し「絶縁する」とまで言って側近の者らを慌てさせた。 信雄が家康と組んで秀吉と戦った小牧長久手合戦では、家康に無断で秀吉と単独講和。 秀吉の天下が定まったのちには、家康の旧領(三河・駿河・遠江・甲斐・信濃・五カ国)を与えると、秀吉に厚く遇されながらも 「尾張は先祖の遺伝、伊勢は北畠世襲の国」と駄々をこね、命に従わなかった。怒った秀吉は信雄の領地を召し上げ、蟄居させる。 その後、家康のとりなしで秀吉の相伴衆に列した信雄は、家康に恩義を感じていたはずだった。 ところが、秀吉の逝去後に天下が風雲急を告げると、三成派の増田長盛に「清洲城(東軍方:福島正則の居城)攻めの、将帥に推したい。 黄金一千貫をお送りしますゆえ、それで兵士をお募りなさい。」とそそのかされ、黄金一千貫に目が眩んで西軍加担を約束する。 しかし、西軍から支給されたのは黄金ではなく白銀。「話が違う」と信雄は憤り動かなかった。 とはいえ、白銀を受け取ったのは事実だから、家康に西軍方とみなされ。合戦後改易の憂き目をみる。 その後は、大阪城の豊臣家から禄を受けるが、一種のスパイとなり豊臣方の情報を徳川方に伝えた功により、上総国小幡などで五万石を与えられる。 この信雄の家系が織田宗家を継ぎ、子孫は天童藩主(山形県)となって、明治まで生き抜いたのである。
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