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230 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:25:14.26 ID:9lXhHd9y - われわれの利害や誇り、あるいは願望をひどく害する事柄を考えるのが、われわれにとっていかにい
やなことであるか、こうしたことを自分自身の知性でいっそう厳密かつ真剣に調べてみようと決心す ることがわれわれにとっていかに困難であるか、ところが無意識のうちにそこから飛びだすか、あるい はこっそり逃げだすほうがわれわれにとっていかに容易であるか、またこれと逆に、愉快な事柄はまっ たく自然にわれわれの心に浮かび、追い払えばまたしても忍び寄ってきて、そのためわれわれが数時間 もそのことを反芻することがある、などということを思い出せば、狂気の発生に関して正編で述べてお いたことが、いっそうよく理解できるであろう。
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232 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:25:24.25 ID:9lXhHd9y - 意志は、自分の心に染まぬことを知性によって照らし
だすことに抵抗するのであるが、この抵抗が、狂気が精神に襲いかかることのできる場所である。すな わち、新しい出来事はどんないやな出来事でも、知性によって同化せられねばならないとしても、つま り、その出来事のために、いっそう満足な事柄が、その事柄のいかんを問わず追いだされねばならない としても、われわえの意思とその関心に関係のあるもろもろの真理の体系のなかに、このいやな出来事 も席を獲得しなければならない。これがなされてしまえば、この出来事の与える苦痛は、はるかに減少 する。ところがこの同化の操作そのものがしばしば非常に苦しいもので、しかもそれがたいてい、抵抗 を受けながらおもむろにしか逆行しない。ところで、この操作がそのつど正確に遂行される場合にか ぎって、精神が健全だと言いうるのである。これに反し、或る特殊な場合に、認識した事柄の受容にた いする意志の抵抗ともがきが激しくなりかの操作が障害なく遂行されなくなると、そのため或る種の出 来事や事情が知性に完全に隠蔽されることになる。それは、意志がそれを見るのに堪えることができな いからである。そしてつぎに、このために生じた空隙が、関連が必要なため勝手に埋められることにな る。
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236 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:25:35.77 ID:9lXhHd9y - ――こうして狂気が現われる。というのは、知性が意志の歓心を得るためにその本性を放棄したか
らである。人はいまや、ありもしないものを想像する。とはいえ、こうして生じた狂気が、いまは、忘 れがたい苦悩を忘却させるレーテの河となる。狂気こそ、苦悩を性とするもの、すなわち意志にたいす る、最後の救治療であったのだ。 ついでながら、わたしの見解にたいする注目すべき証拠を、ここで述べよう。カルロ・ゴッツィは、 戯曲『トルコの怪物』第一幕・第二場で、忘却をもたらす魔法の飲料を飲んだひとりの人物を登場させ ているが、この者の所作を見れば、まったく狂人同様である。
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240 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:25:48.19 ID:9lXhHd9y - そこで以上述べたところに従って、なにか或る事柄をむりやり「自分の頭から叩きだす」ことが狂
気のもとである、と見ることができる。ところがこの「自分の頭から叩きだす」のは、なにか或る他の 事柄を「自分の頭のなかに押しこむ」ことによってのみ可能なのである。これより稀なのは、経過が逆 になることである。すなわち、「自分の頭のなかに押しこむ」のが第一で、「自分の頭から叩きだす」の が第二になる。しかし、こういう経過をたどるのは、そのために発狂するにいたった誘因となるものを つねに念頭に置き、それから脱れることができない場合である。たとえば、多くの恋狂い、色情狂の場 合がそうである。この場合には、誘因となったものが終始頭にこびりついて離れない。また。とつぜん 生じた驚愕すべき出来事から起こった狂気の場合もそうである。こういう患者は、一度思いこんだが最 後、偏執的にそれに執着し、そのため、ほかの考えが、少なくともそれに対立する考えが、どうしても 思い浮かばないのである。しかしこの二つの経過を見ても、狂気の本質は同じである。すなわち、追憶 がむらなく連なりあうことが不可能なのである。ところでこのような追憶が、われわれの健全な、理性 的な思慮の基礎である。――ことによると、ここで述べた、狂気の起こり方に見られる対立は、よく判 断して用いれば、真の妄想を鋭くかつ深く分類するための証拠の代わりにならぬものでもあるまい。
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245 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:26:02.59 ID:9lXhHd9y - ところでわたしがこれまで考察してきたのは、もっぱら狂気の精神的な起源、すなわち、外的・客観
的な誘因によって生ずる起源であった。しかし狂気はそれよりも、純粋に身体的な原因、すなわち、脳 やその外皮の畸形、あるいは局部的な解体とか、また他の病的に衰弱した部分が脳髄に及ぼす影響な どにもとづく場合のほうが多い。まちがった感覚的直観や幻覚が現われるのは主として、のちにあげた 種類の狂気の場合である。しかしこれら両種の狂気の原因は、たいていは互いに関係しあい、とくに精 神的原因は、身体的な原因を伴う。これは自殺の場合と同様である。自殺が外的な誘因のみによって生 ずるのは稀であって、或る種の肉体的な苦痛が自殺の根底にあり、この苦痛が達する程度に応じて、必 要とされる外部からの誘因が大きくもなれば小さくもなる。苦痛が最高度に達した場合にのみ、外部か らの誘因がまったく不必要となる。したがって、どれほど大きな不幸であっても、すべての人に自殺を 決心させるとはかぎらず、また、どれほど小さな不幸であっても、それだけでもう自殺へ導く場合があ る。
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248 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:26:19.22 ID:9lXhHd9y - わたしがここに述べたのは、狂気の精神的な発生で、少なくとも外見上はどう見ても健全な人間の
場合に、大きな不幸によって生ずるたぐいのものであった。ところが、身体的に狂気の強い素質をもっ た人間の場合には、非常に些細な不満でも発狂するのにじゅうぶんである。たとえば、精神病院へ入れ られたひとりの男をわたしは覚えているが、その男は兵士だったが上官から「あなた Er」呼ばわりさ れたために、狂ってしまったのである。肉体的な素質が決定的な場合には、この素質が熟しさえすれ ば、発狂する誘因はまったく不必要となる。単に精神的な原因から生じた狂気は、思考の歩みを無 理に逆転させることから生じ、そのため逆転によって、どこかの脳髄の部分に一種の麻痺やその他の変 敗を起こし、これは、早いうちに除かないと、永くあとに残ることになる。したがって狂気は、初期に は治療が可能であるが、かなり時がたてば不可能である。
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249 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:26:19.69 ID:9lXhHd9y - わたしがここに述べたのは、狂気の精神的な発生で、少なくとも外見上はどう見ても健全な人間の
場合に、大きな不幸によって生ずるたぐいのものであった。ところが、身体的に狂気の強い素質をもっ た人間の場合には、非常に些細な不満でも発狂するのにじゅうぶんである。たとえば、精神病院へ入れ られたひとりの男をわたしは覚えているが、その男は兵士だったが上官から「あなた Er」呼ばわりさ れたために、狂ってしまったのである。肉体的な素質が決定的な場合には、この素質が熟しさえすれ ば、発狂する誘因はまったく不必要となる。単に精神的な原因から生じた狂気は、思考の歩みを無 理に逆転させることから生じ、そのため逆転によって、どこかの脳髄の部分に一種の麻痺やその他の変 敗を起こし、これは、早いうちに除かないと、永くあとに残ることになる。したがって狂気は、初期に は治療が可能であるが、かなり時がたてば不可能である。
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251 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:26:30.44 ID:9lXhHd9y - 発狂を伴わない躁病があるということは、ピネルが説き、エスキロルがこれに反対したが、爾来これ
にたいして、賛否両論が大いに戦わされてきた。しかしこの問題は、経験によって決定する以外方法は ない。ところで、こういう状態が実際に現われるとすれば、それは次のことから説明できる。すなわ ち、この場合には、意志は知性の、したがってまた動機の支配と指導から完全に脱れ、そのため意志は 盲目的で凶暴な、破壊的な自然力として登場し、途を塞ぐいっさいの妨害物を壊滅せずんばやまない執 念となって現われるのである。そうなると、このように解放された意志は、堤防を破った河や、騎手を 振り落した馬、制動するねじを抜きとられた時計に等しい。しかし、こういう休止状態に見舞われる のは、理性すなわち反省的な認識だけであって、直観的な認識までそうなのではない。というのは、直 観的な認識までそうだとすると、意志にはなんの指導も与えられず、人間は動くことができないからで ある。むしろ躁病患者は、客観〔事物〕に向かって襲いかかるのだから、客観を知覚しているのである。 また彼は、現在の行為を意識もしておれば、あとになってこれを思い出すこともできる。しかし彼に は、反省、すなわち理性による指導がいっさい欠けており、そこで、現に存在しないもの、すなわち、 過去と未来に関する事柄を熟慮したり顧慮したりすることが、いっさい不可能である。発作が終わり理 性が支配を回復すると、理性の機能は正常に帰る。というのは、この場合には理性自身の活動は狂って もそこなわれてもあらず、ただ意志が、理性からしばらく脱れる手段を発見したにしぎないからである。
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257 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:27:05.55 ID:9lXhHd9y - 第九章 法学と政治によせて
第一二〇節 自分の足もとにあるようなものを雲の中に求めるのが、ドイツ人特有の欠点だ。哲学の教授諸公が 自然法を取り扱うやり方など、その尤なるものである。自然法の素材になっている単純な人間の生活関 係、すなわち正と不正・所有・国家・刑罰権などを説明するのに、およそ法外な、抽象的きわまる、つ まり最も包括的で最も中身のない概念がもってこられる。そしてこの概念から、それぞれの教授の特殊 な気まぐれに応じて、あれやこれやのバベルの塔が雲のなかに打ち建てられるのだ。かくて、きわめて 明瞭な、単純きわまる、われわれに直接関係する生活の事態が、わけのわからぬものに仕立てあげられ る。こういう学校で教育を受ける若者たちこそ迷惑だ。じつは問題そのものはきわめて単純・明快なの で、それはこの問題についてのわたしの叙述(『道徳の基礎について』第一七節、『意志と表象としての 世界』正編・第六二節)によって納得できよう。ところが、ある種の言葉、たとえば権利・自由・財 産・存在(この無内容な不定形詞の連辞)といった言葉を聞くと、ドイツ人はすっかりめまいを起こし て、たちまち一種の精神錯乱におちいり、最も包括的で最も空っぽな概念を技巧的にならびたてなが ら、なにも言っていないくせに大げさな空言を弄しはじめるのだ。実際は現実にこそ着目すべきであ り、これら抽象概念のもとになっている。したがってその真の内容をなす唯一のもの、事柄や事態を具 体的に見ればいいのに、ドイツ人はそれをやらないのである。
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259 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:27:18.71 ID:9lXhHd9y - 第一二一節
正あるいは権利と言う概念が積極的なものであるにちがいないといった先入見から出発して、これを 定義しようとくわだてる人は、失敗するだろう。つまりそれは影をつかもうとして亡霊を追いかけ、一 種の「非存在」を求めているものだからである。正あるいは法の概念は、自由の概念と同様、否定的・ 消極的概念であって、その内容はたんに一種の否定にとどまるからだ。不正あるいは不法の概念こそ積 極的概念であり、最も広い意味での損傷、つまり「侵害」と同義である。損傷は人にも財産にも名誉に も該当する。――こう考えれば人権を定義することは簡単にできる。各人は、他の人を傷つけないかぎり どういうことをしてもよい権利をもっている、ということになる。――
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261 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:27:30.52 ID:9lXhHd9y - あることへの権利をもつとは、他人を傷つけないかぎり、そのことをしてさしつかえないということ
であり、あることに対する権利をもつというのは、だれかほかの人を傷つけなければ、それを受けとっ て利用してよいという意味にほかならない。――「単純明快さは真理の目じるし」なのだ。――この論 法でゆくと、いろいろな問題が無意味であることがわかる。たとえば、われわれに自殺する権利がある かどうかといった問題だ。他人がわれわれの一身にかんしてもちうる権利の話ならば、これはわれわれ の生命をそこなわないという条件に制約される。だからこの条件がみたされないかぎり、そういう権利 はない。だが、自分ではもう生きていたくないという人に、ひとさまのためにただの機械になって生き つづけるべきだというのは、行きすぎた要求だ。
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264 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:27:39.87 ID:9lXhHd9y - 第一二二節
人の力量には差があって平等ではないが、人間としての権利は平等である。それはこの権利が力量に もとづくものではなくて、権利の道徳的性質からいって、どの人にも、生きんとする同一の意志が、こ の意志の客体化の同じ段階であらわれているためである。しかしこのことは、人が人として有する根源 的・抽象的権利についてのみいえることだ。めいめい各人がその力量によって手に入れる財産とか名誉 などは、この力量の程度と種類しだいであって、その権利の及ぶ範囲は広くなる。つまりこういう問題 では平等ということはなくなる。しかし財産の多い人とか活動的で名誉にめぐまれた人とかは、それだ け獲得するものが多いからといってその権利が大きくなるわけではなくて、権利の及ぶものの数がふえ るだけなのだ。
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267 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:27:50.45 ID:9lXhHd9y - 第一二三節
わたしの主著(続編・第四七章)で説明しておいたとおり、国家は本質的に単なる防衛施設である。 対外的には国全体を外的の攻撃から守り、対内的には個人がおたがいに攻撃しあうことをふせぐための 施設なのだ。以上のことから結論されることは、国家が必要なゆえんは、つまるところ、天下周知の人 間の不正にあるということだ。人間が不法なことをやらなければ、国家など考えられもしないだろう。 そうなれば自分の権利をおかされはしまいかと思う人もなくなるわけだし、たんに野獣の攻撃をふせい だり天災を避けたりするためのただの団体というのだったら、国家と似ても似つかないものになるはず だからだ。大げさな美辞麗句を使って、国家こそ人間存在の最高の目的であり精華であるなどと述べた とて、俗物根性讃美まるだしにしている似非哲学者どもの馬鹿さかげんと平板さは、この観点からすれ ばはっきりわかる。
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268 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:28:01.50 ID:9lXhHd9y - 第一二四節
もしこの世に正義が行なわれていれば、家を建ててしまえばそれでじゅうぶんで、明白な所有権以外 に、べつだん防衛を必要としないことになろう。ところが不法がまかりとおっているから、家を建てた 人はそれを守るだけの力をもつことが要求されるのだ。力がなければ、その人の権利は事実上、不完全 ということになる。侵略者は強者の権利をもっているからだ。強い者は暴力をふるう権利をもっている というのが、ほかならぬスピノザの法概念だ。彼は他の権利を認めないで、「各人はその有する力の量 に応じて、それだけの権利を有する」(『政治論』第二章・第八節)と言い、また「各人の権利はその有 する力によって規定される」(『エティカ』第四部・定理三七、注一)と述べている。――こういう法概 念の手引きをスピノザにあたえたのは、ホッブス、とりわけその『市民論』第一章・第一四節であるよ うに思われる。この個所でホッブスは、神さまが万物に対して権利をおもちなのは、なんといってもそ の万能の力によるのだ、という奇妙な説明をつけ加えている。――
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270 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:28:12.13 ID:9lXhHd9y - 市民社会では、こういう法概念は理
論面でも実践面でもすでに廃棄されたが、政治の世界では、理論的に葬られたとはいえ、実践面では 依然として通用している。現に最近、北アメリカ人のメキシコ掠奪行によって、この法概念は輝かしく も実証されたばかりだ。もっともこれをはるかに凌駕するものに、フランス人が首領ボナパルトのもと に全ヨーロッパを掠奪した昔の例があるけれども。ただこうした征服者は、掠奪行そのものよりもはる かにしゃくにさわることの多い、例の公式の嘘で事態を言いつくろったりしないで、むしろ堂々と厚か ましくマッキャヴェッリの学説を採用すべきであろう。というのは、この学説から引きだせることは、 個人どうしのあいだでは、また個人に対する道徳や法学では「他人が汝に加えることを欲しないことは 他人になすなかれ」という原則が通用するけれども、政治においては、その逆の「ひとが汝に加えるこ とを欲しないことこそ他にむかってやるべし」という原則が妥当するからだ。屈服するのがいやなら、 機を見て、つまり相手の弱みにつけこんで、ただちに隣のやつを制圧せよ。
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272 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:28:27.03 ID:9lXhHd9y - というのは、もしきみがその機を逸する場合、いつの日か、それは敵陣に寝返りを打って、隣のやつの好機
となり、きみが制圧される羽目に追い込まれるからだ。もちろん好機を逸したいまの世代の罪のつぐないは、 次の世代が背負うことになるわけだ。このマッキャヴェッリ的原則は、大統領演説なんかに見られるみえす いた嘘のトリックなどより、掠奪をくるむ覆いとしては、はるかに品のよいものだ。ましてや、兎のほうから 犬に襲いかかったという有名なお話に帰着するようなまっかな嘘などより、礼節にかなっている。要するに すべての国家は他の国を、好機到来と見るやただちに襲いかかる強盗の集団と見ているわけである。 第一二五節 ロシアなどの農奴制度とイギリスあたりの大地主制度の違い、一般に農奴と小作人・借家人・抵当 権設定者などとの違いは、実質よりも形式にある。百姓そのひとが農奴として自分のものであろうと、 小作人が食ってゆく土地そのものが自分のものであろうと、あるいは鳥とその餌、果実とその木のどち らが自分の所有に属しようと、本質的にはあまり違いがない。現にシェークスピアもシャイロックに言 わせている。
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274 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:28:37.28 ID:9lXhHd9y - わたしの食ってゆく手段をおとりあげになれば、
あなたはわたしの生命をおとりあげになることになる。 自由な百姓はいくらも広い世間へ出かけられる利点はあるものの、農奴や「土地に所属した奴隷」の利 点はおそらくさらにこれを上まわるものがある。つまり不作とか病気とか、年をとって働けなくなれ ば、主人のほうがその面倒をみなければならなくなるからだ。だから、不作の年ともなれば、農奴にパ ンをくれてやる手だてをあれこれ考えて、主人のほうが眠れない一夜を輾転反側するのに、農奴自身は、 高枕で寝ていられるのだ。だからすでにメナンドロス(ストバイオス『抜粋』第二巻三八九頁、ガイス フォルト編)も言っている。 自由な身空で みすぼらしく みじめに暮らすより、 よい主人に身を寄せたほうが よっぽどよい。
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278 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:28:49.40 ID:9lXhHd9y - 自由人のもう一つの取りえは、なにがしかの才能によって、いくらかましな境遇に移れる可能性があ
ることだが、奴隷にもその可能性がまったくないわけではない。奴隷が比較的高級な種類の仕事をやり とげて、その主人にひけをとらないようになれば、やはり主人扱いを受けることになる。現にローマで は、手工業者・工場長・建築家、それどころか医者までがたいがい奴隷だったし、現代のロシアには農 奴で大銀行家になっている人もあるという話だ。またアメリカでよくあることだが、奴隷もその稼ぎで 自分を買いうけて自由になりうるのである。
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279 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:29:01.18 ID:9lXhHd9y - 貧困と奴隷とは同じ事態の二つの形式にすぎない。いや、ほとんど名前だけが違っているのだといい
たいくらいのものだ。その事態の本質がどこにあるかといえば、その人間の力が大部分は自分自身のた めには使われないで、他人のためにふりむけられるということだ。このことから、労働の荷重というこ とも起こってくるし、自分の欲求をみたすことが乏しいということにもなる。というのは、自然はよく したもので、自分にさずかった力を適当に働かせて、自分の食いぶちを大地からかちとるだけの力しか 人間にはあたえておらず、だれでもありあまる余力などもって生まれてはいないからである。ところで 人類の相当部分のものが、人類が食ってゆかねばならぬという共同の重荷をまぬかれれば、それだけほ かの人たちの荷が勝つことになり、悲惨になるわけだ。こうしてさしずめ、奴隷とかプロレタリアート といった名のもとで、いつでも人類の大多数の者に重荷がのしかかるというあの禍が起こってくる。 その遠因は贅沢だ。つまり二、三の少数の者がなくてもすむもの・余計なもの・洗練されたものをもつ ことができ、それどころか、ひとひねりしたような欲求を満たすことができるために、現在高がきまっ ている人力の大部分がそんなことにふりむけられ、したがって不可欠なものを生産するという肝心かな めの必要なことには手をぬくということになる。
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281 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:29:13.95 ID:9lXhHd9y - 何千という労働者が、自分の掘っ建て小屋も建てられ
ないのに豪荘な邸宅の建築に従事したり、自分や家族のために粗末な布地を織るかわりに、金持ちの ために精巧な絹のものやレースまで編むわけで、一般に彼らは富める者らを満足させるために、くさぐ さの贅沢品をつくっているのである。都会の人口の大部分は、こういう贅沢品の生産に従事する労働者 からなっており、百姓はためにこの都市労働者や、またこういう贅沢品を注文する連中の肩がわりをし て、耕作したり、種をまいたり、放牧したりしなければならず、けっきょく自然がもともと彼に課した 以上の仕事をもつことになる。そのうえ彼はその力と土地を、穀物・馬鈴薯・牧畜にふりむけるより は、むしろ葡萄・蚕糸・ホップ・たばこ・アスパラガスなどに割かねばならない。さらに、砂糖・コー ヒー・茶などを輸入するために造船業や航海に従事する要員をそろえる必要から、たくさんの人間が耕 作から引きぬかれてゆく。こういう余計な品物の生産は、何百万という黒人奴隷の悲惨の原因となる。 彼らがその生国から強引に拉し去られるのも、彼らの汗と苦役によってあの嗜好品を生産させるためな のだ。
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284 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:29:26.42 ID:9lXhHd9y - これを要するに、人類の力の大半は、少数の者のためにまったく余計でどうでもいいものを調達
するために、万人にとって必要欠くべからざるものの生産活動から引きぬかれてゆくのだ。したがって 一面において贅沢が行なわれているかぎり、他面においてはプロレタリアートの貧困という名のもとで あれ、奴隷制度の奴僕という名のもとであれ、必然的に過重労働と粗末な生活が存続せざるをえない。 奴隷とプロレタリアートの基本的違いは、奴隷のほうが暴力にその発生原因があるのに対して、貧乏人 は策略にその原因を帰さねばならぬということだ。社会のきわめて不自然な状態、悲惨をまぬかれよう とする一般的戦い、多数の人命を犠牲にする航海、錯雑した商業上の利害、最後に以上すべてのことが 機縁となって起こる戦争――これらすべての唯一の発生源は贅沢にある。しかも贅沢は、これを享受す る人を絶対に幸福にするどころか、むしろ病的に不機嫌にするのである。したがって人間の悲惨を軽減 する最も有効な手段は、贅沢をへらすか、さらには贅沢をやめることであろう。
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291 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:29:57.46 ID:9lXhHd9y - こういう考え方全体に真実な点が多々あすことは議論の余地がない。それにもかかわらず、この考え
方は、経験によって確かめられる別の考え方によって、結果的に反駁されるのである。すなわちあの贅 沢に営々と奉仕する労働によって、人類はその必要欠くべからざる目的にふりむける筋力(刺激性)の 点では失うところがあるのだが、そのかわりに、まさにそういう機会に(化学的意味で)遊離してくる 神経力(感受性、知性)によって、その穴埋めが徐々にではあるがいろいろなされるということであ る。というのは、神経力のほうが高級な力であるから、その仕事もまた筋力の仕事にはるかにまさって いるからだ。 一つのよき献策はしばしば多くの手にまさる。 (エウリピデス『アンティオペ』)
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293 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:30:17.91 ID:9lXhHd9y - >>290
だから三浦は辻元清美の変装だってば
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296 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:30:29.96 ID:9lXhHd9y - 百姓だけ集まっても、発見や発明はできぬ。手が遊んでいると、頭が働くようになるのだ。芸術や科学
はそもそも贅沢の子供であり、贅沢という金主に借金を返してゆくのだ。科学は、機械工学・物理学・ 化学などのすべての部門において、テクノロジーを完成した。それは現代において機械を昔では想像も できなかった水準にもちあげ、とりわけ蒸気機関や電気によって、昔の人なら悪魔のせいにしたと思わ れるほどのことをやっている。今日ではあらゆる種類の工場や手工業において、ときに農耕において も、機械のはたす仕事はたいへんなもので、いま遊んでいる裕福な連中・インテリ・頭脳労働者の総力 を結集しても、したがってまたあらゆる贅沢をやめて、すべての人が百姓の生活を送ることにしても、 とうてい問題にはならぬのだ。こうした企業の製品は金持ちにだけ役立つわけではなくて、すべての人 が恩恵を受けるのである。
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299 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:30:50.91 ID:9lXhHd9y - 昔ならほとんど手のとどかぬような品物が、今日では安く大量に手にはいる
し、最下層階級の生活もいちだんと快適さを増してきている。中世期ではイギリス王も、フランス大使 に謁見を給うさいに、貴族のひとりから絹の靴下を借りたものだ。エリザベス女王でさえ、一五六〇年 のお年玉に絹の靴下を一組はじめてもらったときには、びっくりしてひどく喜んだものだ(ディズレー リ、第一巻三三二頁)。ところが今日ではそれくらいのものはどんな売り子でも持っている。五十年前 に貴婦人の着た更紗の服は、いまでは女中が着ている。この調子で機械がいましばらく進歩すれば、人 間が力を労することはほとんど完全にまぬかれるところまで行きつけるであろう。現に馬力の大部分は すでにそうなっているのだ。そうなればもちろん、人類全体に精神文化が及ぶことも考えられよう。人 類の大部分の者が肉体的重労働に従わねばならぬかぎり、そういうことは不可能な話である。というの は、つねにどのような場合にも、一般的にも個別的にも、刺激性の筋力と感受性の神経力は敵対関係に あるからだ。つまり両者の根底にある生命力は一定しているためだ。さらに「芸術のわざは風習をやわ らげる」と言われるとおり、やがて大にしては戦争、小にしてはなぐりあいや決闘も、おそらく完全に この世から姿を消すっであろう。あと二つはすでに今日、はるかに珍しくなっている。しかしここでユ ートピアを描きだすことが、わたしの目的ではないのである。――
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301 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:31:06.76 ID:9lXhHd9y - しかしこれらの理由を別としても、贅沢を廃してあらゆる肉体労働を均等に分けるべきだという右に
述べたあの論拠に対して一考すべきことは、人類という大集団は、いついかなる場合にも、それぞれの 問題に応じて、さまざまな姿で、指導者、指揮者、助言者をかならず必要とするということだ。裁判 官・統治者・将軍・官吏・牧師・医者・学者・哲学者といった人たちがこれにあたる。こうした人たち はすべて、大多数の、まったく能力のない、倒錯した連中を人生の迷路をつきぬけて案内する使命をお びている。したがってこうした人たちは、めいめいそれぞれその地位と能力に応じて、その視野に広い 狭いはあっても、人生の見通しをもっているのである。こういう指導者が肉体労働から解放されるとと もに、卑俗なことの欠乏や不便にわずらわされないということ、それどころか、その大きな仕事の程度 に応じて、普通の人より所有や享受の点でまさるものがなければならないということは、当然・至当の ことである。大商人でさえも、彼らが国民の需要の見通しをつけてこれに応じるかぎり、労働を免除さ れるあの指導者階級に数えいれるべきである。
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303 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:31:26.53 ID:9lXhHd9y - 第一二六節
主権在民の問題はつきつめたところ、およそだれかが根源的に、ある国民をその意志に反して支配す る権利をもちうるかどうかという点に帰着する。そういうことが筋を通して主張できるとはわたしは思 わない。ともかく国民に主権はある。しかしこの主権者は永遠に未成年の主権者を、いつまでたっても 後見を受ける必要があり、自分で自分の権利を行使すれば、かならず無限の危険をまねく。とりわけこ の主権者は、すべての未成年者と同様、扇動政治家とよばれる術策にとんだぺてん師に簡単に乗じられ るのである。―― ヴォルテールは言う、「最初の王は運のいい兵隊だった」と。 もともとすべての君主はなるほど常勝の将軍であった。そしてこの特性を生かして長いあいだ支配し てきたのである。常備軍をもつようになると、彼らは国民を、自分ならびにその兵士たちを養ってゆく 手段とみた。つまり面倒をみるのは、毛や乳や肉をださせるためといった一種の畜群と見ていたわけ だ。これは(次の第一二七節で詳論するように)もともと、つまり本性上、この世で幅をきかすのは正 義ではなくて暴力的権力ということ、第一占有者の特権はあらゆる正義に優先するということに もとづく。
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307 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:31:51.14 ID:9lXhHd9y - したがってこの権力は絶対に破棄できず、この世から片づけるわけにはいかないもので、い
つでもこれを代表する者がなくてはならない。権力が正義の側に立って、これと結びつくというような ことは、ただ要望できるだけである。そこで君主はこう言うのだ。「わたしはおまえたちを支配する。権 力によってだ。わたしの権力は他のすべての権力を排除する。なぜならわたしは、わたしの権力となら ぶいかなる権力にもがまんできないからだ。外からやってくる権力であろうと、国内において甲が乙に 対して有する権力であろうと、わたしは甘受できない。おまえたちは権力をこういうものとして納得せ よ」と。こういう仕上げができてしまうと、時の進むにつれて、王権はまったく別のものになってしま い、暴力的権力といった概念は背景にしりぞいてしまって、たまにそれがちらつくと亡霊のように見ら れるまでになる。暴君といったイメージに取ってかわって、国君、すなわち国の父という概念があらわ れる。かくて国王は、あらゆる法的秩序、したがってまたすべての人の権利がそれに支えられることに よってのみ存続できるといった、確固としてゆるぎない大黒柱になってしまう。さてこういうことがで きるというのも、国王には生得の特権があるからにほかならない。この特権は、いかなる権威も匹敵で きないような権威を、国王に、しかも国王にのみあたえる。この権威を疑ったり攻撃したりすることは できない。
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308 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:32:06.69 ID:9lXhHd9y - いやそれ以上に、すべての人が本能的にこれに従うのだ。さてこそ君主が神の恵みを受けて
「天佑を保全する」とよばれるのは当然であり、つねに国家において最も役立つ人物であり、どんな無 鉄砲な王室費を計上しようとも、その功績にむくいるにはじゅうぶんではないということになるのだ。 ところでマッキャヴェッリは最初に述べたあの中世期的概念の君主から断固としてその論を展開して おり、自明のこととしてこれを説明することなく、暗黙の前提として、その上に彼特有のさまざまな助 言を基礎づけている。一般に彼の本は、当時まだ幅をきかせていた実践を理論に遡及し、体系的に首尾 一貫して論述したもので、まさにその理論的形式と完成によってきわめて辛辣な趣を呈することになっ たのだ。――ついでに言えば、ラ・ロシュフコーの不滅の書についても、辛辣ということは言えるが、 その主題は公の生活ではなく私的生活であり、その内容は献策ではなく感想である。いずれにしてもこ のすばらしい本の表題には文句をつけることができよう。それは大部分「箴言」でもなければ「反省」 でもなく、ただの「落想」だからだ。したがって「アペルシュー」とでも題すべきところだろう。 ――それはそうと、マッキャヴェッリにも私的生活に応用できるものはいくらでもある。
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310 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:32:18.22 ID:9lXhHd9y - 第一二七節
正義自体は無力である。本来のさばるのは暴力的権力なのだ。ところでこの権力を正義に導き、権力 手段によって正義が行なわれるようにすること、これこそ統治術、すなわち政治の問題なのである。そ してこれはたしかにむずかしい問題だ。ほとんどすべての人の胸のうちに無限の利己主義が巣くってい ることを考えれば、これが難問題であることがわかろう。しかも、たいがい利己主義に加わってくるの は、たまりにたまった憎悪と悪意のたくわえで、「憎しみ」のほうがもともと「愛」をはるかに凌駕す るのだ。さらに考えられることは、こういう性質をもった何百万という個人を、秩序・平和・安寧・合 法といった枠のなかにおさえようというのである。ところが各人は、もともとどんな人にむかっても 「おたがいさまじゃないか!」という権利をもっているのだ。こうしたことをじゅうぶん頭においてみ れば、現に見られるように、世の中がともかく全体として平静・平和に、正しくまともに動いているこ とに驚かざるをえない。しかもこのことは、なんといっても国家というからくりひとつで達成されてい ることなのだ。――
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312 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:32:34.37 ID:9lXhHd9y - というのは、直接に効果的なのはいつでも肉体的暴力というやつだ。普通の人間が
受けいれて考慮を払うのは、これだけなのである。このことを経験によって確かめてみたければ、いっ さい強制しないという条件で、利害に反してでも理性や正義や公平を守るべきだなどと、口をすっぱく して普通の人間に説いてみることだ。返事に帰ってくるのは嘲笑くらいであろう。ただの道徳力だけで は無力なことが、いやというほどわかるだろう。つまり考慮が払われるのは肉体的暴力だけなのだ。と ころがこの力はもともと大衆のものだ。そもうえそのお相手をつとめているのが、無知・愚鈍・無法と 三拍子そろっている。したがってさしずめ統治術の課題は、こういう困難な事情のもとで、それにもか かわらずこの肉体的暴力を精神的優越性である知性に従わせ、これに役立てることである。しかしこ の精神的優越性が正義ならびによき意図と組んでいない場合には、それがうまく運んだとすると、そう いう仕組みの国家はあざむく者とあざむかれる者とからなる、という結果になる。しかしこのことは、 どれだけ大衆の知性化を妨害しようとしても、大衆の頭が進んでくれば、しだいに明るみに出てくるこ とで、結局は革命に行きつくわけである。これに反し正義ならびによき意図が知性の側についている場 合には、人間の世界の尺度からは、完全な国家ができることになる。
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318 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:32:59.24 ID:9lXhHd9y - この場合、非常に役立つことは、
正義ならびによき意図が事実としてあるというだけでなく、これを公表・周知せしめ、公の批判と検討 にまかせることである。しかしこのさい、多数の者が参画することによって、国家が内外に対して働き かける必要な権力の中心点が、その集中と力の点でマイナスにならぬよう、用心しなければならな い。現にこのことは、共和国においてほとんどつねにみられることなのだ。以上すべての要請に国家の 形式をとおしてこたえることが、したがって統治術の最高の課題であろう。しかし現実においては、統 治術は、その素材としてそれぞれの国民的特性をそなえた所与の国民を念頭におかねばならぬのであっ て、この仕事が完全にはこぶかどうかには、この素材の性質がつねに大きな影響力をもつだろう。 国家共同体に不正の残存することができるだけ少なくなるていどに、統治術が以上の課題を解決する ならば、それだけでもつねにたいしたことであろう。なぜなら、不正が影も姿もなくなるなどというこ とは、ただ近似的にしか達成できない理想的目標にとどまるからだ。というのも、一方で不正を片づけ れば、他方からまたしのびこんでくるからで、不法ということは深く人間の本性にひそんでいるからに ほかならぬ。われわれは憲法の人為的形式と法の完備によって、あの目標に到達しようと努めているの であるが、これはしかし百パーセントには近づかぬ一種の漸近線にとどまるのである。
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319 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:33:17.05 ID:9lXhHd9y - というのも、法律の条項の概念をどんなに確定してみても、個々の場合すべてをつくすことはできず、ひとりひとりの
個人的場合に及ぶことは不可能であって、それはいわばモザイクの石ていどに近づけられるものの、と うてい絵筆のニュアンスまでは出すことができないからである。そのうえ、政治においては、すべて実 験は危険である。なにぶん相手はいちばん扱いにくい素材、すなわち人間であり、その取扱いは爆発す る雷金の扱いとほとんど同じくらいに危険だからだ。この点で、出版の自由が国家機関に対してもつ意 味は、安全弁が蒸気機関に対するのと同様である。というのは、どういう不平・不満も、出版の自由が ありさえすれば、ただちに言葉で発散させることができ、それどころか、材料があまりない場合には、 言葉だけで種切れになるからだ。しかし種が多い場合には、機を失せずそれを看破し、はけ口をつけ てやるがよい。不平をむりやり閉じこめ、それが卵をかえし、発酵し、煮えたぎり、伸びほうだいに伸 びて、ついには爆発するよりも、このほうがはるかにうまくいくのだ。――他方、出版の自由は毒物販売 の許可のようなものとみるべきだ。毒物といっても精神と気分に対する毒物だ。というのは、知識も判 断ももたない大衆の頭にどんなことが浮かぶか、わからないではないか。とりわけ目先に利益や儲けと いったことをちらつかせる場合、なにを考えだすかわかったものではないからだ。
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322 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:33:28.72 ID:9lXhHd9y - いったんなにかをこの頭に吹きこんでしまえば、どんな非行・犯罪もできないことはないではないか。
だからわたしは、出版の自由は危険のほうがその利点をうわまわることになりはしまいかと、非常におそ れるものである。とりわけどんな苦情でも法的に訴える道が開かれているから、なおさらである。いずれ にしても出版の自由は、いっさいの匿名を厳に禁止することを条件にすべきであろう。―― 一般的に次のような仮説を立てることができよう。つまり法は、純粋に遊離して析出することのでき ないある種の化学的物質と似た性質をもっている。この物質は、担体の役割をはたしたり、あるいは必 要な濃度をあたえてくれるごく微量の混ぜものを要するのだ。たとえば弗素、アルコール、青酸のたぐ いだ。法もこれと同じことで、現実の世界に根をおろして支配しようとするからには、気まぐれや暴力 といったものをほんの少しつけ加えることがどうしても必要だ。法本来の性質は、純粋に理想的な、つ まりエーテルのようなものだが、この現実の物質的世界に存立して作用を及ぼし、ヘシオドスに見られ るように気化してこの世から天上へ飛んでいかないためには、その必要がある。すべての生得権・相続 特権・国教そのほか多くのものは、こういうやむをえない化学的塩基もしくは合金とみなすべきであろ う。この種の恣意的にきめられた基礎のうえに立ってはじめて、法も流通し、矛盾なく施行できるであ ろう。いってみれば、こういう基礎は法の「立つべき場所」であろう。
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327 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:33:54.74 ID:9lXhHd9y - リンネの人為的な恣意的に選ばれた植物体系を自然の体系でとりかえることはできない。たとえ自然
の体系がどれだけ理性にかなっていようとも、またじつにしばしばそういう体系がこころみられたにし ても、それはできないのである。というのは、自然の体系には、恣意的・人為的体系のそなえているあ の概念規定のしっかりした確実さがないからである。同様に、右に示唆したような憲法の人為的・恣意 的基礎を純粋に自然的な基礎でとりかえることはできない。自然的基礎は上述の諸制約を非難して、生 得の特権のかわりに人格的価値こそ特権をもつべきだとし、国教のかわりに理性的探究の成果をすえよ うなどとするものだ。こうした言いぶんがどんなに理性にかなっていようとも、そこには国家共同体の 安定性を確保する、あの諸規定の確実さが欠けているのである。たんに抽象的な法だけが具体化されて いるような憲法は、立派は立派でも、なにか人間以外の存在のためのものであろう。というのは人間の 大多数は、きわめて利己主義的で不正であり、思いやりもなければ嘘もつき、ときには邪悪でさえあ り、知性などろくにそなえていないからだ。さてこそ一身に権力を集中した人間、法や規則に超然とし てなんの責任ももたぬ権威、すべてのものがそれに屈服する権力、いちだんと高い存在とみなされる、 いわゆる天佑を保全せる支配者が必要になってくるわけだ。こうしてはじめて、人類は長期にわたって 制御・支配されうるのである。
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330 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:34:05.94 ID:9lXhHd9y - これに反して、北アメリカの合衆国では、こうした恣意的基礎をすべて完全に排除して処理しようと
する試み、すなわちまったく混ぜもののない、純粋・抽象的な法を施行しようとする試みがなされてい る。しかしその成果はかんばしくないのだ。というのは、この国は物質的に繁栄しているにもかかわら ず、低劣な功利主義が支配的志操としてのさばっており、これにはかならずつきまとう相棒の無知が、英 国教会的な偏狭な頑信、おろかなうぬぼれ、ばかばかしい女性崇拝と組んだ残忍な粗暴さといったもの のお先棒をかついでいるのである。さらにもっと始末のわるいことが一般的に行なわれている。すなわ ち、罰あたりな黒人奴隷制、奴隷に対する極端な残酷、自由な黒人に対する不法な抑圧、リンチ法、頻 発するにもかかわらずしばしば処罰されないで終わる暗殺、ひどく残忍な決闘、ときには公然たる法の 無視、公債の支払い拒絶、詐欺同然の腹立たしいくらいの隣接した州の政治的接収、その結果として起 こる富める隣国への貪欲な掠奪行、それをまた最高の筋が、その国のだれもが嘘と知っていて笑ってい るような出まかせで弁護すること、いよいよ高まってゆく衆愚政治、右に述べたような上層部の法の無 視が一般の道徳性に及ぼす結果としての堕落といったことどもである。
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333 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:34:23.32 ID:9lXhHd9y - そういうわけで、この地球の裏側における純粋な法形態の見本は、共和国の肩をもつものでなく、いわ
んやこれを模倣したメキシコ、グァテマラ、コロンビア、ペルーにとってはさらに黒星である。共和国と いうものにつきまとうまったく特別な、いわば逆説的な不利のひとつは、共和国においては卓越した頭脳 の持ち主が高い地位につい直接政治力を及ぼすようになることが、君主国におけるよりは困難であるとい う点だ。というのも、偏狭・薄弱・平凡な頭のやつらが、それこそ断然、いつもあらゆる場合に、そして あらゆる関係において、卓越した頭脳に対して天敵同然に謀反をおこし、あるいは本能的に結託し、すぐ れた人物に対するその共通した恐怖によって大同団結をむすぶからである。このつねに多数を占める馬鹿 者どもの集団には、共和体制の場合、卓越した人物たちを抑圧し閉めだし、これらすぐれたものたちに凌 駕されまいとすることは、容易に成功するであろう。なにぶんここではもともと同権で、しかもつねに五十 対一となるからだ。これに反し、君主政体では、どういう場合にも当然おこるこの団結、すなわち愚かな者 がすぐれた者に対して徒党を組むということが、あることはあるけれども、それはたんに一方的に、下から 起こるだけで、上からは理性と才能が自然なとりなしと保護者を見いだすのである。
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336 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:34:51.26 ID:9lXhHd9y - というのは、まっさきに君主そのひとの地位はあまりに高くかつ堅固であるから、およそだれかと競争しなければならな
いといった心配はいささかもいらない。そのうえ君主自身は国家に奉仕するにあたって、自分の頭だけ ではじつに多方面にわたる要請にとうていこたえることはできぬから、その頭脳よりもむしろその意志 を働かせるのである。すなわち君主はつねにひとの頭を使わねばならない。そして当然のことながら、 自分の利害が国の利害としっかりからみあい、不可分・一体となるように顧慮して、自分にとっていち ばん役に立つ道具である最上の頭脳を優先的にえらび、これに目をかけることになる。ただしそれは人 材を見つける能力あっての話であるが、誠実にさがせば、これはたいして困難なことではない。 同様に大臣たちも声望のある為政家たちをいちだんと抜いているゆえ、これを嫉視するはずもなく、君主 の場合と同様の理由から、すすんですぐれた頭脳を抜擢し、その力を利用するために活躍させるであろう。 このようにして君主政体では、悟性が、いたるところにいるその仇敵、すなわち愚昧さをおさえる好機を、 共和政体よりも見つけやすいのである。これはしかし大きな長所だ。
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339 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:35:02.96 ID:9lXhHd9y - 一般に君主政体のほうが人間には自然な政治形態だ。蜜蜂や蟻・空を渡る鶴・移動する象・掠奪のた
めに群をなして集まった狼・そのほかすべてなにか事をなす場合に、一匹だけを先頭に立てる動物に、 この形態が多く見られるのとほとんど同じといってよい。そのうえ人間の場合も、すべて危険を伴う企 図、たとえば行軍とか船舶はかならず一人の指導者に従うのである。どのような場合も、指導する意志 は一つに限られねばならない。動物のからだでさえ、独裁君主的体制をもっている。つまり頭脳だけが すべてを牛耳る支配者、ヘゲモニーを握る指導者なのである。たとえ、からだ全体が存立してゆくには 心臓・肺臓・胃がはるかに寄与するところ多いとはいえ、これら俗人どもに比すべき器官は、なんら指 揮・指導することはできぬのである。それは頭脳だけの問題であり、すべて指揮はただ一つの点から出 発しなければならぬ。太陽系でさえ独裁体制をもっている。これに対し共和体制は人間にとって自然に もとるものであり、いちだんと高い精神生活、つまり芸術や科学にとっても不都合なものである。以上 すべてのことに応じて、古今東西、全地球上において、文明が進んでいようと野蛮であろうと、あるい はまたその中間段階にあろうと、いろいろな民族がいつでも君主体制で支配されているのが見いだされ るのである。
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343 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:35:23.13 ID:9lXhHd9y - 多頭政治は便利なものではない。唯一の支配者、
ただひとりの王があるべきだ。 (ホメロス『イリアス』二の二〇四) 君主体制的本能が人間にもともとあって、ただひとりの人を自分たちにふさわしいものとして君主に 祭りあげるということは、もしなかったとしたら、何百万、いな億という人たちが、あらゆる時代に、 いたるところの国で、たったひとりの男に服従し、ときにはたったひとりの女性、暫定的にはたったひ とりの子供にさえ唯々諾々として従うなどということが、どうしてありえようか。なぜなら、これは考 えてできたことではないからだ。どこでも王はひとりときまっており、しかも普通は王位は世襲的に継 承される。王はいわば全国民の人格化、あるいは頭文字であり、王において国民は個性をもつようにな るのだ。この意味で王は「国家、それはわたしである」と言って当然なのである。だからこそシェーク スピアの歴史劇においても、イギリス王とフランス王はたがいにたんに「フランス」あるいは「イギリ ス」と呼びかけ、(『ジョン王』第三幕・第一場では)オーストリア公に「オーストリア」の一語で話し かけているのが見られるのであって、いわばたがいに自分をその国民性の権化と見ているのである。こ うして君主制はまさに人間の本性に適しているのだ。だからこそ世襲君主は、自己とその家族の安全を 国家の安寧と不可分なものと見るのである。
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345 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:35:43.06 ID:9lXhHd9y - これに反し選挙による首長の場合は、たいがい二つが分か
れるのである――教会国家を見よ。シナ人は君主制しか知らず、共和制がどんなものであるか、ぜんぜ ん理解できないのだ。一六五八年、オランダ公使がシナに赴任したとき、オランイェ公をオランダ王と して説明せざるをえない破目になったものだ。そうしないとシナ人は、オランダなど首長をいただかな いで生活している海賊の巣とでも思いかねなかったからだ。(ジャン・ニュホフ著『シナ帝国派遣諸国 連合東洋商会の使節』ジャン・ル・シャルパンティエ訳、一六六五年ライデン発行、第四五章参照。) ――ストバイオスは「君主政体が最上のものであること」という見出しをつけた独特の一章で、古代人 が君主政体の長所を説明した最上の個所をいろいろと集めている。共和政体はまさに反自然的であり、 人為的にこしらえたもの、反省に由来するもので、したがって全世界史をつうじてまれな例外とし て出現するだけである。すなわちギリシアの小型共和国、ローマおよびカルタゴがそれで、これらはす べてその人口の六分の五、ひょっとすれば八分の七までが奴隷だったという特殊事情がつけ加わる。共 和国アメリカ合衆国も一八四〇年に一千六百万の人口に対し、三百万からの奴隷をかかえていたではな いか。そのうえ、古代の共和国の存続期間は、王政のそれにくらべれば、非常に短かったのである。 一般に共和政体は打ち建てるのはやさしいが、維持するのは困難であり、君主政体にはまさに逆のこと があてはまるのだ。
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348 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:35:55.17 ID:9lXhHd9y - ユートピア的計画を求められるなら、わたしはこう言おう。この問題の唯一の解決は、最も志操の高
い男性たちを最も賢明にして才気煥発の女性たちと結婚させ、生殖の方法によって生みだされた真のア リストクラシー、生粋の貴族に属する聡明で高貴な人たちが専制政治を行なうことであろう、と。この 提案はわたしの「理想郷」であり、プラトンのそれに相当するわたしの「国家」である。 立憲君主はエピクロスの神々にひどく似ている。すなわち人間界のことには口ばしをはさまず、なん ら煩わされることのない平安と至福のうちに、上のほうの天国に鎮座ましますのだ。ところが断然これ がいまや流行となって、ドイツのほうぼうの小粒の君主国に、英国型憲法の真似事が上演され、上院・ 下院から人身保護令・陪審制度まですっかりそろえるしまつだ。こうした形式は、イギリスの国民性な らびにイギリスの事情に由来し、またそれを前提としてはじめて、イギリスの国民には適当なものであ り、また自然である。それはちょうどドイツ民族には多くの部族に分かれていることが自然なのと同様 だ。ドイツの諸部族は、まことに数の多い、実施に政務をみる王侯のもとにあり、頭には皇帝をいただ いて、この皇帝は内には平和を保ち、外にはドイツ帝国の統一を代表している。こういう形式がドイツ 民族にとって自然だというのも、それがドイツの国民性とドイツの事情に由来しているからだ。ドイツ がイタリアの二の舞いを演じたくなかったら、仇敵ナポレオン・ボナパルトによって廃された帝位をで きるだけ効果的に復権すべきだというのがわたしの意見である。
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350 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:36:12.58 ID:9lXhHd9y - なぜならドイツの統一はこの帝位にか
かっているのであり、これなしには統一といってもただ名ばかりであるか、あるいはおぼつかないと思 うからだ。といってもわれわれは、皇帝の選挙に真剣にとりくんだギュンター・フォン・シュヴァルツ ブルクの時代に生きているわけではもはやないから、帝位の冠は一代かぎりの条件でオーストリアとプ ロイセンに交互に渡すべきであろう。小国家群の絶対主権などというものは、いずれの場合も、絵にか いた餅だ。ナポレオン一世がドイツに対してやったことは、オットー大帝がイタリアに対してやったこ と(『略奪されたバケツ』の註解を参照)とまったく同じで、つまり「分割して統御せよ」の原則にも とづいて、独立した多数の小国に分けたのだ。――
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352 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:36:25.80 ID:9lXhHd9y - イギリス人が昔からの制度・風習・慣習を神聖なものとして変えず、そのねばり強さを極端に押しす
すめて笑いものになるのも辞さないという点に、彼らの頭のよさが示されている。というのは、こうし たものはのんびりした頭のなかで孵化されたものではなくて、徐々に周囲の力と生活の知恵から生いたっ てきたもので、したがって国民としての彼らにうってつけのものだからだ。ところが愚直なドイツ人は 先生から「英国式燕尾服など一着に及んで闊歩しなくちゃだめさ。断然、似合うよ」などと吹きこま れると、親父の反対を押しきって手にいれたはよいが、まことにぎこちなく、ぎくしゃくとして、その かっこうは笑止千万なのだ。ところでこの燕尾服というのが田舎者のドイツ人には窮屈きわまるものだ が、その最たるものが陪審制度だ。これは読み書きができれば死刑も免除されたような未開のイギリス の中世紀、アルフレッド大王時代からあるもので、刑事裁判で最もやっかいなしろものだ。というの は、こそどろ・人殺し・ぺてん師がたくらんだ罠や仕掛けを日夜解くことで頭も白くなり、こうして事 件の手がかりをつかむことを覚えた腕ききの学問もある判事にとってかわって、仕立て屋や手袋屋と いった面々が裁きの席にすわり、その遅鈍・粗野・とんまで不慣れな頭をひねり、それどころか小一時 注意を集中する習慣さえないのに、知恵をしぼって、欺瞞と見せかけの目もくらむような織物のなかか ら真実を見つけだそうというのだからだ。
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355 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:36:37.28 ID:9lXhHd9y - おまけにそうしているあいだにも、商売の布地や革のことも
考えねばならず、家へ帰りたくてうずうずしており、いわんや蓋然性と確実性の区別などちんぷんかん ぷんで、むしろ一種の確率をそのにぶい頭に打ち建て、それによって平然としてひとさまのいのちを断 つのである。彼らにあてはまるのはサムエル・ジョンソンの言葉だ。彼はある重要な問題でひらかれた 軍法会議にあまり信を置かず、こう言っているのだ。すなわち、この軍法会議に陪席した者のうち、お そらく、ただのひとりも、その生涯において、蓋然性をつらつら考えることでただの一時間も送った者 はあるまい、と(ボズウェル『ジョンソン伝』一七八〇年の記事。ジョンソンの年齢は時に七十一歳)。 しかしこういう連中こそ不偏不党だ、と言う意見もないではない。――あそこにいるあの「あさまし い民衆」がそうだというのか。まるで一方に偏する執念は、被告と身分の同じ者の場合よりも、被告と 完全に縁のない、まったく別の領域で暮らしている判事、職務の名誉を自覚している解任できない刑事 事件の裁判官のほうがひどいような話ではないか。ところで国家ならびにその首長に対する犯罪や出版 法違反の罪まで陪審制度でさばくなどということは、文字どおり猫に鰹節の番をさせるものだ。
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356 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:36:53.39 ID:9lXhHd9y - 第一二八節
いたるところ、あらゆる時代に、政府や法律や公の機構に対する不満が絶えたことはない。しかしそ れは大部分、人間の生活に不可分離にくっついてくる悲惨、神話的にいえば、アダムが受けた呪いであ り、アダムとともに人類全体が受けた呪いともいうべき悲惨を、いつでも政府や法律などのせいにする からにほかならぬ。しかしそういう誤ったなすりつけを「いまどき」の民衆煽動家以上に、嘘っぱち の鉄面皮なやりかたでやったものはない。彼らはキリスト教の敵としての楽天主義者なのだ。 世界は彼らにとって「自己目的」であり、したがってそれ自体において、すなわちその自然な性質のうえ で、完全にすばらしくできあがっているのであり、至福の棲み家である。これを打ち消すような世界の巨 大な禍を、彼らはすべて政府の責任に帰するのだ。政府がその責任さえはたしておれば、地上に楽園が出 現し、万人がなんら苦労しないでもたらふく食い、鯨飲し、おたがいに宣伝しあったうえ、くたばること ができるというのだ。じつはこれは彼らの称する「自己目的」をわたし流に言いかえたもので、彼らが はなやかなきまり文句で倦むこともなく唱えている「人類の無限の進歩」の目的とするところなのだ。
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358 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:37:09.05 ID:9lXhHd9y - 第一二九節
昔は王冠を支えるおもなつっかい棒は信仰だったが、いまは信用だ。教皇ご自身でさえ、彼の債権者 が自分を信用してくれることよりも、彼の信者が自分を信頼してくれることのほうがよけい気にかかる などということは、ほとんどあるまい。昔は世の咎(シュルト)を嘆いていたものだが、いまは世の借金 に目をそそいで、おじけづくのだ。昔は世界最終審判という予言があったが、いまは大がかりな債務の 免除、一般的な国家財政の破綻といった予言がなされる。しかし、自分だけはそういう目に会うまいと あてにしていることは、まえの場合と同様だ。 第一三〇節 所有権(占有権)は倫理的にも合理的にも生得権とは比較にならないくらいうまく基礎づけられるに しても、じつはこの二つは親類筋のもので癒着している点がある。だからこれを切り離すと、所有権が あやしくなる可能性がある。というのは、たいがいの所有は親ゆずりのもので、つまり一種の生得権だ からだ。現に昔の貴族はその世襲地の名を名乗っていたが、つまり名前でその所有をあらわしていたわ けだ。――だからすべて有産者は、生得権をもっている人を羨んだりしないで、少し頭を働かせて、生 得権支持にまわるべきだろう。
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360 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:37:19.69 ID:9lXhHd9y - 一面には王の所有権を、他面では王の生得権を支持する助けになっているというのが、貴族がはたし
ている二重の効用である。というのは、王はその国における貴族の筆頭で、したがってまた普通は貴族 たちを身分の低い親戚として扱うのであり、どんなに信任が厚かろうとも、ただの平民とはぜんぜん別 の扱いをするのだ。その祖先がたいがい自分の祖先の第一の奉仕者であり、つねに側近であった者たち に対して、王がより多く信頼を示すことは、これまた当然・自然な話である。だから貴族がなにか疑い をかけられて、自分の忠誠と帰依は変わらないと王に誓うような場合に、自分の名を引き合いにだすこ とも当然である。わたしの読者にはおなじみのことだが、たしかに性格というものは父親ゆずりのもの だ。その息子であるくせに、そのことを見ようとしないのは、愚かで笑止なことだ。
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363 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:37:39.77 ID:9lXhHd9y - 第一三一節
まれな例外はあるにしても、女はすべて浪費癖がある。だから、彼女らが自分で稼いだといった珍し い場合は例外として、すべて手もとにある財産は彼女たちの愚かさから守る必要がある。だからこそわ たしは、女というものは完全に成年に達することなく、いつでも男の監督を受けるべきだという意見 である。現にインドではそうなのだが、その男は父でも夫でも息子でも、あるいはまた国家でもいいの だ。したがって女は自分で稼いだものでないような財産については、絶対に自分の一存で処理しては ならぬという考えをわたしはもっている。父親がその子供たちに残した財産の管理役・後見役に母親を あてるようなことは、わたしはゆるすべからざる破滅的愚行とみなすものだ。父親が子供たちのことを 考えて一生営々と働いて稼いだものを、たいがいの場合、母はその情人といっしょになって使いはたし てしまうであろう。その情人と結婚してもしなくても、同じことだ。こういう警告はすでにホメロス爺 さんも発していることである。 女心とはどんなものかそなたにはわかっている。 自分をめとったその人の家を富ませたがり、 まえの子供や愛する夫のことは、 死ねばもう思わず、尋ねもしない。 (『オデュッセイア』一五の二〇)
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367 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age]:2015/12/08(火) 20:37:55.72 ID:9lXhHd9y - ほんとうの生みの母親であるのに、夫が死んでしまうと継母根性になるひとがよくある。「継父のよう
な」という言葉は絶対に使われないが、「継母のような」という言葉があるように、愛情のない継母は 昔から評判がわるいのだ。しかしヘロドトス(四の一五四)の時代には、母親にも信用があって、掛け で取引ができたものだ。いずれにしても、女はつねに後見を必要とし、自分が後見役になることは絶対 ゆるせない。一般に夫を愛していなかったような女性は、その子供をも愛さなくなるものだ。つまりた んに本能的な、精神的に自分のものでないような母性愛の時が過ぎてしまうと、そういうことになるの だ。――さらに、裁判に対しては、女の証言は、それ以外の状況が同じ場合には、男の証言ほど重んず べきでなく、たとえば男の証言が二つもあれば、女の証言の三ないし四ぐらいに当たるという意見をわ たしはもっている。というのは、わたしの見るところでは、女は、ひっくるめて言うと、毎日、男の三 倍ぐらいの嘘をつき、しかもそれが男の場合にはどうしてもうまくゆかないのに、いかにも正直な真実ら しい趣を呈するからである。回教徒はわたしとはまた違った側で極端だ。教養のある若いトルコ人がい つかわたしにこう言ったことがある。「わたしたちは女を精子をまく土壌とみています。だから女がど ういう宗教をもとうと、かまわないのです。わたしたちはキリスト教徒の女のひとと結婚できますし、 しかもべつに改宗を求めることはいたしません」と。回教の托鉢僧も結婚するのか、とわたしが尋ねる と、彼は答えた。「もちろんですよ。だって預言者マホメットも結婚したじゃありませんか。連中がマ ホメット以上に神聖になろうなどと望むことは、ゆるされませんよ」と。――
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