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583 :名無しさん@京都板じゃないよ (JP 0H9b-QErU)[sage]:2018/09/17(月) 02:01:02.52 ID:SQ7koTcZH - 聖徳寺 浦上キリシタンの檀家寺(銭座町)
http://www.asahi-net.or.jp/~yj9m-nkmr/syoutokuji.htm 1626(寛永3)年、稲佐の悟真寺の開租聖誉の弟子、 専誉が建てた浄土宗の寺院で長崎港と浦上との間に突き出たでた丘陵の先端に位置し、 むかしは浦上平野の奥深くまで海水がはいっていたので、港湾一帯を見わたす絶景の地でした。 この寺は山里村・渕村一帯を管轄し、浦上キリンタンの檀家寺でもあり、 “浦上四番崩れ“はこの寺との関係をやめようとしたところからはじまったのでした。 この寺は原爆で焼失、いまの建物は昭和46年再建されたものです。 ■浦上村自葬事件 元来、彼杵郡浦上村山里の地は本原郷、中野郷、家野郷、里郷、馬込郷の五集落から成っていた。 その中の四郷では秘かにキリシタンの信仰が受け継がれていた。 そのため元治元年(1865)以来、本原郷、中野郷、家野郷には四ヶ所の秘密礼拝堂があり居留地から宣教師が巡回していた。 慶応三年(1867)3月、茂吉、久蔵、たかなどの死により檀那寺である馬込郷の聖徳寺に頼まず自葬してしまった。 そこでキリシタンが発覚して信徒代表7人が長崎代官所に呼ばれ取り調べを受けたが更に6月13日長崎奉行は捕吏170人を遣わし 四郷の中心人物68人を桜町の奉行所牢に入れてしまった。 浦上四番崩れの端を発していく(聖母の騎士2001.4月号から転記) 浄土宗天王山法輪院聖徳寺 http://nagasaki-r.seesaa.net/article/125070764.html 聖徳太子作と伝えられている阿弥陀如来像を安置したことにちなんで聖徳寺と命名されたといわれている。 以来、幕末維新までキリスト教徒を摘発するために1村1カ寺制によって維持されたが、浦上四番崩れでは檀家600余戸を失う。 本堂以下の建物はすべて昭和20年(1945)8月9日の原爆によって焼失。現在の建物は戦後再建された。
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584 :名無しさん@京都板じゃないよ (JP 0H9b-QErU)[sage]:2018/09/17(月) 02:08:18.20 ID:SQ7koTcZH - トリイホール館長・弘昌寺住職鳥居弘昌氏に聞く
https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/016.html 道頓堀の歴史を調べてみるとさまざまな発見があると、鳥居氏は語る。 大坂の陣の後に千日前に建立された竹林寺の当時の過去帳に記された名前には、元キリシタンであることを示す記述が多くあったという。 多くのキリシタンが大坂城に入城し豊臣方に味方した可能性がある。 また、西洋の土木技術を持つ隠れキリシタンたちが、道頓堀開削などの難工事に活躍したかもしれないと鳥居氏は推測している。 https://ja-jp.facebook.com/notes/813280882075779/ 淀殿はキリシタンに寛容だったため、大阪にキリシタンが集まった。 徳川時代に禁教令が出されると、キリシタンは改宗を迫られ、改宗したものは竹林寺が檀那寺として引き受け非人とされた。 なので、道頓堀開削にキリシタンが多数従事したと考えられる 塚田孝「大坂の非人ー乞食・四天王寺・転びキリシタン」 https://rondpoint.exblog.jp/20453636/ 17世紀初頭、大阪の非人集団は、これらの地域の周辺に住まされることになった。 集団化した彼らは「垣外(かいと)仲間」と呼ばれ、次第に天王寺・鳶田・道頓堀・天満の四カ所に集約され、 それぞれの垣外に集住していったのだが、その集団の中核には転びキリシタンとその子孫がいた。 キリシタンには武士も商人も農民もいたと思うが彼らは棄教したからといってすんなりともとの生活に戻れたわけではなかったようだ。 大坂では一気に階級下降して貧民と一緒に非人として整理されるのである。まとめて把握するために垣外へ入れられ、そこで定着する。 中にはキリシタンとして近隣の国から大坂に流入し貧民として垣外に入り暮らしているうちに、そこで行われた詮議により棄教した者もいた。 そして、こうした様々な経緯で非人となった転びキリシタンの中から、長吏(垣外仲間の統括者)になるものが出てくるのである。 そこで彼らは新たに生み出される乞食・貧民の統制と救済の担い手となっていく。 転びキリシタンの中には長吏や小頭として仕事を獲得し、資産を形成しながらその地位を子孫が代々継承していくというケースもあった。 これは天王寺や道頓堀の垣外などで共通してみられるという。
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585 :名無しさん@京都板じゃないよ (JP 0H9b-QErU)[sage]:2018/09/17(月) 02:17:57.86 ID:SQ7koTcZH - 阿免寺
http://otera.jodo.or.jp/temple/32-347/ 文禄元(1592)年に発令された禁教令から3年後に開創された。 当寺開山上人の光阿浄林上人は、キリシタンをかくまい、 当寺の宗派である浄土宗の「他力本願」の教えにより万人平等救済をし、 「宗教は違っても、あつく信仰に生きる同朋」の思いで温かく迎えた。 当時の本堂は床が高く、床下にマリア像をまつり、密かに参拝出来るようにしたといわれていた。 昭和20(1945)年7月の堺大空襲で当時の総檜づくりの本堂、庫裏はすべて全焼し、戦災時、 親戚の寺に預けられていた小さな阿弥陀如来を本尊として昭和35年頃「隠れキリシタン」の思いに答えようと、 隆阿昌元上人が光背部分に十字架を取り付けられたものである。現在の本堂は、昭和51年に再建された。 潜伏キリシタンを助けた報恩寺 http://hiroshima.catholic.jp/jn/100704.html 本堂でご住職から説明を受け、(写真@)ご本尊の阿弥陀如来像の真後ろにある秘密の空間(写真B)を見せていただきました。 大人が頭を下げて入れるほどの高さ、5,6人くらいでいっぱいになるでしょう。そこでひそかに祈り(オラショ)の集会が行われていました。 床板を開けると外の畑に通じる通路があります。昔からその言い伝えがあったのですが、ご住職のご母堂が、 そこを掃除中に偶然、携帯用祭壇(写真A)を見つけられ、その言い伝えが真実であることが分かったのです。
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