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967 :名無しさん@京都板じゃないよ (ワッチョイ 1712-OAki)[sage]:2018/03/08(木) 15:17:14.47 ID:i8yiEjFx0 - 末代念仏授手印と一枚起請文の邪義をめぐって〔論文〕
http://archive.fo/E1p0V 以上、「邪義」を巡る二つの資料を提示したが、確認をしておきたい事は、 聖光房は、三門(行門、観門、弘願)について「西山証空の邪義」と決めつけていることである。 法然の行実はどうかというと、流罪から帰って勝尾寺に滞在中、 飛躍的な思想進化を遂げ(日蓮の佐前、佐後の思想進化と酷似)、 『選択集』で到達した「異類の助成・同類の助成・念仏一行」の教判論を更に発展させて、 「自力行門・仏力観門・願力之念仏」という弘願他力理論を樹立した。 すなわち法然は念仏三昧の証果を深め、勝尾寺で再度の廻心を遂げたのである。 この思想が『醍醐本法然上人伝記』三心料簡、『述成』、 私の発見した『輪円草』や『歎異抄』における全分他力を表明した「口伝」などに記されてある。 「三門」は流罪赦免後、法然が大阪箕面市の勝尾寺で、 これ迄表明する事の無かった「他力信仰の真髄」を初めて、側近の弟子に残した「口伝」の一つであった。 証空が講じ実信房が記載した『述成』にのこる「口伝」と勝尾寺でなされた「口伝」(勝尾寺の法門)は 同じ内容であると『中外日報』に報道して久しいが未だに反論はない。 また論文「証空の三門(行門、観門、弘願)は法然晩年の教説|法然が駆使した与奪門|」に 対する反論も六年近くを経過した現在皆無である。 ということは、認められたと判断してもよいのではなかろうか。 聖光房弁長が「三門は西山証空の邪義」と『末代念仏授手印』裏書で自から書いたことは、 彼の師匠・法然上人の最晩年の法門を知らずに難じたことになると云い得るのである。
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968 :名無しさん@京都板じゃないよ (ワッチョイ 1712-OAki)[sage]:2018/03/08(木) 15:19:03.98 ID:i8yiEjFx0 - 【一】聖光房弁長の誤解
九州に於ける聖光が、以上述べて来たように「三門」が法然の教義であることを理解せず、 証空が新しく創った教義と勘違いし、「法然上人ハ仰セ候ハザリシコト」と憤慨したのは、 このような京都に於ける新しい動きが全く掴めていなかった為に起きてしまったのであろう。 大本山善導寺前執事長故花田玄道著『鎮西教学成立の歴史的背景』によれば、 聖光は、太宰府、原山の無量寺で教線を張っていた証空の上足・聖達から情報を得ていたとされている。 しかし、受け入れていないどころか、全く理解しようとした努力の跡が見えない。 法然の『選択集』撰述の時代に受け継いだ法門が、唯一と固く信じ込み、法然と別れて以後、 法然の信仰が進み発展したことなど全く眼中になく、また流罪から帰った法然のもとに面会した形跡もない。 したがって不幸なことに、聖光房弁長には法然晩年の教説が伝わらなかったのである。 聖冏は南北朝時代の大学者である。 禅僧・虎関師錬が『元亨釈書』の中で浄土宗を「寓宗」「附庸宗」と呼んだり、 天竜寺の夢窓疎石が『夢中問答』の中で浄土宗は小乗で大乗ではないと過小に評価したので、 切瑳琢磨して天台、真言、倶舎、唯識、禅、神道、和歌、など広範に学び、 聖光房弁長、良忠から「はみだし」たとの謗りを受けつつ、勇壮な「聖冏教学」を完成させた。 後世、檀林教学の教科書『釈浄土二蔵義』三十巻など多数の著書を著し、浄土宗が諸宗超過法門であることを誇示した。 注目すべきは、聖冏が「五重相伝」を編み出したことである。 「五重相伝」は、証空の三門、(行門、観門、弘願)を邪義と扱い、これに対抗して造られた「伝法」である。 聖光房弁長の西山邪義思考にかこつけ「滅後の邪義」と嘆いて、此を法然に仮託した人師である。 だから聖冏あるいはその周辺が「添書」の作者であるかも知れない。
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969 :名無しさん@京都板じゃないよ (ワッチョイ 1712-OAki)[sage]:2018/03/08(木) 15:20:21.37 ID:i8yiEjFx0 - まとめ
今回の研究とこれまでの研究を個条書きにまとめて、『一枚起請文』に「添書」が付加された経緯を概観してみる。 1. 法然は『選択集』で末代の衆生が実践できる唯一の行として、 あらゆる仏道修行の中から、阿弥陀如来から衆生に与えられた「念仏一行」を抽出した。 『選択集』では、念仏は仏から与えられたものであっても、衆生の側から行う「行」であることに変わりはなかった。 2. 勝尾寺で法然(七八歳)は善導の『観念法門』の「示観縁」に関する「願力三念仏」を契機として、 「念仏」から衆生の側の計らいの意義を否定(奪釈)した。そのことによって必然的に、 『選択集』の「異類助成・同類助成・念仏一行」という教判は「自力行門・仏力観門・願力三念仏」へと発展した。 3. 法然の勝尾寺の法門を知ることができた門弟は安心派となった。 それを知ることができなかった門弟は「起行派」に留まった。 証空の教義は法然の勝尾寺の法門そのものである。 4. 『選択集』を付属されて早く九州に帰り、晩年の法然に逢わず、 勝尾寺の法門を信じることができなかった聖光房弁長は安貞二年、 『末代念仏授手印』を著して、安心派の教義を法然の教説ではないと批難した。 だから弁長が法然の晩年の教義である証空の三門「行門・観門・弘願」を批判したことは、 法然の『選択集』時代の教義でもって法然の晩年の教義である「勝尾寺の法門」を批判したことになる。 5. 聖光弁長の誤解に基づく批判を正当化するために、 鎮西義の系統の人師によって『一枚起請文』に「添書」が付加された。 その人の名を敢えて挙げるならば、聖冏がもっとも疑わしい。 【筆者】稲吉 満了(いなよし まんりょう) 昭和15年生まれ、崇福寺・萬福寺住職、浄土宗西山深草派の宗学院長、 平成25年曼荼羅相承会の助講を拝命、法然上人念仏の真実を追究している。
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971 :名無しさん@京都板じゃないよ (ワッチョイ 1712-OAki)[sage]:2018/03/08(木) 15:51:21.32 ID:i8yiEjFx0 - 知恩院と西山浄土宗の違い
http://blog.livedoor.jp/library9016590115/archives/66185456.html 一方の証空上人は、流罪に遭うことを逃れ、そのまま京に留まることになりました。 実は、証空上人と弁長上人の違いが、その後に影響を残します。 それは、「勝尾寺の法門」という法然上人の2度目の回心と呼ばれるものであります。 法然上人は1年足らずで流罪を解かれますが、入洛がなかなか許されず、 摂津の国で留まることになりましたが、その中で思想的変革を迎えるのです。 これが「勝尾寺の法門」というものでありますが、法然上人のこの2度目の回心は、 西山義において相当な影響を及ぼしたみたいであります。 詳しいことについては、割愛しますが、親鸞聖人の浄土真宗の教学に類似しているのです。 というのも、真宗の側では触れられていないのですが、親鸞聖人と証空上人は交流が深く、 証空上人が関東に赴いた際、「勝尾寺の法門」について親鸞聖人に伝えたという伝承が残っているのです。 一方、弁長上人は、法然上人の言葉を深く心に留め、九州で積極的な布教活動をし続けます。 当然、「勝尾寺の法門」について知る由もありませんし、「選択本願念仏集」の正当な伝承者と自負していましたので、 後世に西山義や真宗の教学が確立されていくことが、宗祖門弟による背私自立の異議続出と見られたのでしょう。 そのため、弁長上人の教学も著述も「選択本願念仏集」への回帰というべき方向性で進んでいきます。 http://blogs.yahoo.co.jp/namoamidabutsu18/53395020.html そして、証空は師匠・法然のことについても、重大な“情報”を親鸞に提供した。それが「勝尾寺の法門」であるというのだ。 「勝尾寺の法門」とは、法然2度目の「回心」のことである。 法然は流罪が解かれた後、再び京都を目指したが、入洛が許されずに摂津国(現在の大阪府と兵庫県東南部)の勝尾寺に長らく逗留した。 法然はそこで改めて他力本願の真髄について、今一度「思想的変革」があったというのである。 この「勝尾寺の法門」は、流罪という波乱を経た後の出来事であり、これを親しく聞いた弟子は極めて少数に過ぎなかった。 親鸞は証空から、師匠のそんな一大変革を聞かされ、我が身を振るわせながら証空の語るところにを聞き入ったのかも知れない・・・。
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