トップページ > 神社・仏閣 > 2017年04月06日 > OXZAYxQl0

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名無しさん@京都板じゃないよ
伏見稲荷 その19 [無断転載禁止]©2ch.net

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伏見稲荷 その19 [無断転載禁止]©2ch.net
410 :名無しさん@京都板じゃないよ[sage]:2017/04/06(木) 23:26:31.03 ID:OXZAYxQl0
>>328
居ざる「を」得なく
伏見稲荷 その19 [無断転載禁止]©2ch.net
420 :名無しさん@京都板じゃないよ[sage]:2017/04/06(木) 23:35:25.27 ID:OXZAYxQl0
7世紀の朝鮮半島における百済、新羅、高句麗の三国時代。
日本(倭国=邪馬台国)は百済を保護国としていていたが、新羅、高句麗とも交流があった。
これら三国と、南部には倭国の一部「任那」、倭国の従属管理下にある小国、伽耶(加羅)があった。
三国はお互いを牽制する為に、唐や日本に貢ぎ物を贈って「イザッて時によろしくね」保険をかけていた。
韓国が言う「半島が日本に文化を伝えた」と言う根拠の元は、この日本への貢ぎ物の事である。
そしてついに百済と高句麗が滅亡と言うイザって時が来たので、日本は両国の難民を王族ごと保護した。
新羅により百済と高句麗が滅ぼされ半島は統一された。
百済人は西日本、高句麗人は東日本にそれぞれ千人単位の集落を作らせて三年間生活保護費を無償で与えた。
だから西日本には百済の痕跡が、東日本には高句麗の痕跡が残されている。
高麗は新羅を滅ぼして作られた国なので亡命高句麗人と直接の関係は無い。
高麗は亡命しなかった高句麗人の国で、200年以上の開きがある。
高麗が建国された頃には、亡命百済人も高句麗人も日本人になっていた。
元々朝鮮半島では中国と同じく新しい国が建国されると、前の国を完全否定し
人は殺し建物は壊し書物は焼くので、何も残っていない。
また現代の韓国人は新羅との関連性も無く、中国シベリア地域のエヴェンキ族をルーツとする。
だから、韓国国内で歴史探索は出来ない。
ちなみに伽耶勢力(天孫族第一派)が出雲(韓国ゴミの漂着ルート)・近畿に先着していた
新羅勢力(オオクニヌシ・ニギハヤヒ)を服属させたのが国譲り神話の始まり。
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425 :名無しさん@京都板じゃないよ[sage]:2017/04/06(木) 23:39:25.56 ID:OXZAYxQl0
日本の歴史上に登場する秦氏だが、彼らは原始キリスト教徒だったと考えられている。
つまり、ザビエルより以前に本当のキリスト教を持ち込んでいたことになる。
キリスト教は本来偶像崇拝を禁じていて、ザビエルの持ち込んだキリスト教はパウロ教になっており偶像を崇拝する別物である。
ヤハウェの神殿は礼拝所であり、偶像である神像は無いのと同様に、日本の神社にも本来偶像は無く、鏡なりを通して神に礼拝する。
秦氏は天皇家に寄り添うことで自分達の存在を歴史に残してきた。
日本各地に神社を創建し、この頃からよく見慣れた常設の社が一般的となった。
なお秦氏系神社と異なる建築技術を持つ出雲大社は、太古からの言い伝えでは
三十二丈(96.8メートル)もの高さがあったとされ、その後一時高さは十六丈(48.4メートル)になったとも言われている。
秦氏は、秦(ペルシャ)の始皇帝の血を汲む氏族で朝鮮経由で日本に渡来したと自称していた。
少なくとも3・4世紀まで遡り、数万人規模とされている。
大和王朝誕生の時期とも重なる。
六世紀半ばに加羅は新羅に吸収されるが、その前から新羅人が多く住んでいた。
秦氏もそういう一族で新羅系加羅人である。
それ以前の大陸での秦氏は、長い間移動し続け文明の痕跡を残すものの、飽くまで裏方に徹してきたのでここでも謎のままである。
伏見稲荷 その19 [無断転載禁止]©2ch.net
430 :名無しさん@京都板じゃないよ[sage]:2017/04/06(木) 23:45:54.68 ID:OXZAYxQl0
秦氏が発祥とされている稲荷神社の発祥は伏見稲荷だが、この稲荷というワードがキリストが磔にされた時の罪状INRIであるという説がある。
兵庫県赤穂の大避神社と教徒太秦の大酒神社。どちらも読みは「おおさけ」だが、
「避ける」という字は昔は門構えの中にあり、大闢神社だった。
『闢』という字は「びゃく」と発音し大闢=だいびゃく=ダビデを表している。
中国語でも大闢はダビデを意味する。
大酒神社祭神は始皇帝・弓月王・秦酒公。
しかしこの神社という形態、秦氏が発祥というより元は出雲のものを乗っ取ったと考えている。
その証拠に、神社の域内には必ず縄文の痕跡、注連縄で結ばれた磐座(いわくら)が存在する。さざれ石である。
神話の中で、オオヤマツミは娘のコノハナサクヤ姫とその姉イワナガ姫をニニギノミコトに嫁として差し出すが、
ニニギはイワナガ姫を岩のように醜い顔として追い返してしまう。
これによりニニギ(新和)は岩のようにビクともしない永遠の命を授かるチャンスを失ったと、
父オオヤマツミ(旧倭)は残念に思い、ニニギを呪った。
このイワナガ姫は浅間神社に祀られているが、別名が九州の神社で伝わっており、苔むす姫という。
君が代は、この福岡・志賀海神社で山誉め祭の神楽歌として古くから伝わっているものがルーツだ。
また、このイワナガ姫は磐長・岩永姫とも書かれ、同じく縄文の水の女神、瀬織津姫と同一ではないかと思いがちだが、
実はこの父とされているオオヤマツミが、瀬織津姫を別人に置き換えたものである。
天照大神の正妃であり、稲荷に封印された豊穣の神、豊受大神の正体で、伊勢伊雑宮に本宮がある。
醜い→「見にくい」、つまり目に見えない部分を司るから、わかりにくいというだけで除け者にされ、人間の寿命は短くなったのだ。


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