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名無しさん@京都板じゃないよ
【法類不仲】臨済宗妙心寺派28【噂話大好】 [転載禁止]©2ch.net

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【法類不仲】臨済宗妙心寺派28【噂話大好】 [転載禁止]©2ch.net
989 :名無しさん@京都板じゃないよ[sage]:2017/03/07(火) 00:12:53.48 ID:suT+9L/50
八木先生の覚え書き/14 「水平社宣言」95年 /京都
http://mainichi.jp/articles/20170301/ddl/k26/070/530000c

人の世に熱あれ、人間に光あれ

 この国での初の人権宣言といえる「水平社宣言」が採択されたのは、今から95年前の1922(大正11)年3月3日、
京都・岡崎公会堂(現・京都市美術館別館=左京区岡崎最勝寺町)で開かれた全国水平社創立大会の場でした。
全国の被差別部落から参集した3000人が、差別を跳ね返し被差別者として誇りをもって生きていくという理想を共有、
“自主解放”の雄たけびをあげつつ感涙にむせんだと伝えられています。

 社会学には「社会問題の構築主義」という立場があり、筆者も基本的にはこれに賛同しています。
要するに、社会問題とはクレーム(異議)申し立て運動それ自体であるとする考え方です。
逆にいえば、クレームの申し立てがなければそこに社会問題は存在しないということになります。
つまり水平社の結成によって差別に対する異議申し立て運動が組織化され、
ここに部落問題がこの国の社会問題として初めて構築されたことになるわけです。
【法類不仲】臨済宗妙心寺派28【噂話大好】 [転載禁止]©2ch.net
990 :名無しさん@京都板じゃないよ[sage]:2017/03/07(火) 00:13:46.69 ID:suT+9L/50
 水平社宣言の書きだしは「全国に散在するわが特殊部落民よ、団結せよ」です。
“特殊部落”はいうまでもなく差別語ですが、宣言では部落の人びとが自ら“特殊部落民”を名乗り、
それゆえにこそ解放の主体であることを高らかに宣言したのです。
類似の意味で筆者が注目する水平社宣言の文言は「吾々(われわれ)がエタであることを誇りうる時がきたのだ」です。
“エタ”もまた残虐無比な差別語であって、先の“特殊部落”と同様、何の注釈もなしに安易に用いるべき言葉ではありません。
しかし、初期水平社の人びとはあえてこの無残な言葉を前面に打ち出すことによって、
人間解放の栄光ある未来を担う存在として自らをアイデンティファイ(同定)したのだと筆者はとらえています。

 身元を隠すのでもなければ、他者を差別して自らを上位に置こうとするのでもなく、
いわば居直り的ともいえる新たなアイデンティティー管理に進んだ水平社の人びとは、
後のアメリカ黒人公民権運動における有名なスローガン「ブラック イズ ビューティフル(黒は美しい)」や、
同性愛(者)差別に反対するスローガン「ゲイ イズ ザ ウェイ(ゲイこそわが生きざまである)」などと
共通する思想性の高みに到達していたのではないでしょうか。

 むろん、水平社が創立される前から政府や自治体による融和的な施策も多少は実施されてはいましたが、
宣言ではそれらの施策が「人間を勦(いたわ)るかのごとき運動」、
つまり上から目線で同情するだけの取り組みでしかなく、かえって部落の人びとを堕落させたと批判、
「此際吾等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集団運動を起せるは、
寧(むし)ろ必然である」と、被差別者自身が自主的な運動で解放を勝ち取ることを宣言したのです。
以来、95年の歳月が経過しました。
【法類不仲】臨済宗妙心寺派28【噂話大好】 [転載禁止]©2ch.net
991 :名無しさん@京都板じゃないよ[sage]:2017/03/07(火) 00:14:44.14 ID:suT+9L/50
 筆者は大学の2年生当時から部落問題にかかわり、卒論のテーマも部落問題でした。
その後の新聞記者生活、大学教員生活においても、つかず離れずの形ながら、
部落問題を考え続けることができたのは、この水平社宣言への感動がおおきく作用したからだと思います。
部落問題の解決を「国の責務であり、同時に国民的課題である」とした同和対策審議会答申(1965年)、
この答申をうけた同和対策事業特別措置法(1969〜2002年)によって
被差別部落のかつての悲惨劣悪な生活実態はおおいに改善されましたが、
残念ながら差別が全面的に撤廃・解決されたとはいえないのが目下の現実です。

 にもかかわらず、部落解放運動は、筆者のみるところ、かなり停滞しています。
ただし、沈滞している社会運動はひとり部落解放運動だけではなく、
反原発や反戦平和の市民運動を除けば、労働運動も学生運動もほとんど不在にちかい状態です。
それぞれにはそれぞれの課題があるのですが、部落解放運動に関していえば、
答申と法律を武器にした行政闘争が一定成功したあとの、
新しい次元の“社会問題の構築”のための理論と運動が前進していないところに問題があるように思われるのです。
哲学者イヴァン・イリッチは、制度に依存することによる民衆の無力化の動向を“
貧困の近代化”と呼びました(東洋ほか訳『脱学校の社会』東京創元社、17ページ)。
制度依存による無力化という隘路(あいろ)を抜け出す道筋は、
やはり水平社宣言にある「自ら解放せんとする者の集団運動」を
現在の状況に適合した形で再構築すること以外にないのではないかと筆者は考えます。

 全国水平社創立大会が開かれた岡崎公会堂(現・京都市美術館別館)の前には京都市が建立した
「全国水平社創立の地」の碑があり、95年前のあの熱い感動を今に伝えています。

(八木晃介花園大学名誉教授・元毎日新聞記者=社会学)
【法類不仲】臨済宗妙心寺派28【噂話大好】 [転載禁止]©2ch.net
992 :名無しさん@京都板じゃないよ[sage]:2017/03/07(火) 00:16:58.19 ID:suT+9L/50
栗原宗務総長を再任 臨済宗妙心寺派
http://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20170224000147

 臨済宗妙心寺派(大本山・妙心寺、京都市右京区)は24日、栗原正雄(しょうゆう)宗務総長(60)の再任を決めた。
任期は5月26日から4年間。

 栗原氏は1956年生まれ、花園大卒。
同大学非常勤講師や同派教学部長などを経て2013年から現職。自坊は広島県福山市の正法寺。

 栗原氏は「宗門を取り巻く状況は厳しいが、まずは一人の禅僧をしっかり育てていきたい」と2期目の抱負を述べた。

栗原正雄氏
http://www.kyoto-np.co.jp/picture/2017/02/20170224194239kurihara.jpg
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993 :名無しさん@京都板じゃないよ[sage]:2017/03/07(火) 00:19:33.94 ID:suT+9L/50
山林違法開発で住職懲戒、愛知 妙心寺派の定光寺
http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20170223000133

 臨済宗妙心寺派(本山・妙心寺、京都市右京区)は23日、
定光寺(愛知県瀬戸市)が違法に国定公園内の山林を開発したとして宮田全勝住職(72)に対し、
住職を辞めさせる「剥職」の懲戒処分にしたと発表した。16日付。定光寺は尾張徳川家の菩提寺とされる。

 妙心寺派によると宮田氏は2008年、国定公園に指定された寺周辺の山林を、愛知県の許可を得ずに開発。
10年には、許可された0・9ヘクタールの約3倍に当たる2・8ヘクタールを開発した。
県によると宮田氏は「カエデを植えるため」と説明していた。

定光寺住職の処分を発表する臨済宗妙心寺派=23日午後、京都市
http://www.kyoto-np.co.jp/picture/2017/02/PN2017022301001434.-.-.CI0003.jpg
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994 :名無しさん@京都板じゃないよ[sage]:2017/03/07(火) 00:28:26.16 ID:suT+9L/50
「戦国最強ブレーン」太原雪斎を失った今川家の悲劇
http://ironna.jp/article/5920

渡邊大門(歴史学者)

 戦国大名と僧侶とは、切っても切れない深い関係にある。
なかでも禅宗の一派である臨済宗は室町幕府の庇護を受け、その教えが地方に伝播すると大名たちから熱烈な支持を受けた。
やがて臨済禅は、積極的に政治権力とかかわりを持つようになる。

 僧侶の役割は、実に多岐にわたる。その一つは、教育者としての役割である。
僧侶は仏教だけでなく、儒学などにも通じた知識人であった。
儒学は個々人の道徳的修養と徳治主義的政治を重視し、まさしく帝王学と呼ぶにふさわしい学問である。
大名にとって、必須の教養であった。兵法書として知られる、中国の古典『六韜』『三略』も読まれた。

 もう一つは軍配者として、出陣の日取り、戦勝祈願など呪術的な役割を担ったことだ。
それは戦闘方法を指示するというよりも、宗教的な役割により戦争に貢献したといえよう。
また、陣僧は従軍して、戦死者を弔う役割を担っている。
なお、「軍師」という言葉は戦国時代には存在せず、近世以降に用いられたものである。

 僧侶は大名間の交渉において、和睦交渉などの役割を担当した。
世俗に無縁の僧侶なるがゆえ、果たせる役割であった。
その交渉の範囲は国内に止まらず、語学力を生かして、中国や朝鮮との外交文書の執筆を担当したほどである。

 なかでも、武田信玄と岐秀元伯、快川紹喜、上杉謙信と天室光育、伊勢宗瑞(北条早雲)と以天宗清、
徳川家康と南光坊天海、金地院崇伝、毛利輝元と安国寺恵瓊などの例が非常に有名である。

 こうして僧侶は戦国大名のブレーンとなり、陰で大名権力を支えていたのであるが、それは今川氏の場合も同じであった。
次に、今川義元を支えた太原崇孚雪斎を取り上げることにしよう。
【法類不仲】臨済宗妙心寺派28【噂話大好】 [転載禁止]©2ch.net
995 :名無しさん@京都板じゃないよ[sage]:2017/03/07(火) 00:29:39.42 ID:suT+9L/50
 享禄3年(1530)、雪斎は京都建仁寺の常庵龍崇から得度を受け、そのもとで修行を積んだ。
さらに京都妙心寺などで研鑽を重ねた。学僧としての道を着々と歩んだといえよう。
今川氏親は雪斎の有能さを知り、今川家に迎えようとした。しかし、雪斎は二度もこれを断ったという逸話が残っているほどだ。

 やがて、雪斎は今川氏親からその子息・梅岳承芳(のちの義元)の養育を依頼され、駿河へ帰国した。
のちに雪斎は承芳とともに、善得寺の舜琴渓門下で修行を重ねた。
さらに承芳を伴って上洛し、建仁寺の常庵龍崇、そして妙心寺の大休宗休のもとで教えを受けている。
妙心寺で修行をしていた頃、太原崇孚と改名したという。

 ところが、こうした雪斎の修行時代に暗雲が立ち込めることになる。

 大永6年(1526)に氏親が亡くなると、嫡男・氏輝が跡を継いだ。
しかし、氏輝は病弱でもあり、母・寿桂尼の後見を受けていた。その氏輝は、天文5年(1536)に突如として亡くなった。
氏親には梅岳承芳と異母兄の玄広恵探という二人の子息がおり、後継をめぐって争うことになる(花倉の乱)。
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997 :名無しさん@京都板じゃないよ[sage]:2017/03/07(火) 19:18:03.11 ID:suT+9L/50
 雪斎は義元の兄・氏輝の死の直前に帰国し、承芳の味方になった。
これまでの経緯からすれば、当然のことになろう。寿桂尼と雪斎は承芳を還俗させ、義元と名乗らせた。
ところが、義元の家督相続については、恵探と今川氏の重臣・福島氏の反対にあい、実現しなかった。
そこで、両者は戦いを繰り広げることになる。
 
 結局、義元は勝利を得て、今川家の家督を継承した。以後、義元は雪斎を厚く信頼し、ブレーンとして重用する。
いわば雪斎は政治顧問のような存在であり、権力基盤の確立に必要な人材であった。
それは、今川氏の発展と機を一にしていた。つまり、雪斎の存在なくして、義元はなかったといえるかもしれない。

 雪斎は優れた外交手腕をもって、近隣諸国との交渉に臨んだ。
当時、今川氏は甲斐国・武田氏との関係が悪化しており、長年の懸案事項であった。
問題を収束すべく、雪斎は動いている。雪斎が手を付けたのは、婚姻による関係の改善と強化であった。
 
 天文6年、義元は正室に武田信虎の娘・定恵院を迎え入れた。
代わりに信虎の長男・晴信(のちの信玄)は、三条公頼の娘・三条の方を妻とした。
当時、婚姻関係を結ぶことは、同盟関係を構築することを意味した。これは甲駿同盟と呼ばれている。 
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998 :名無しさん@京都板じゃないよ[sage]:2017/03/07(火) 19:18:59.31 ID:suT+9L/50
 天文14年、今川氏は北条氏との関係が悪化し、交戦状態になるが(河東の乱)、武田氏と連携して対処している。まさしく同盟の効果であった。
この間、雪斎は多くの戦いに出陣し、今川家に貢献した。
天文17年には小豆坂の戦いで織田氏と交戦し、優位に戦いを進めている。

 翌年には三河国安祥城(三河安城市)を攻撃し、織田信長の庶兄・信広を捕縛した。
その後、織田氏に捕らわれていた松平竹千代(のちの徳川家康)と信広を交換し、今川家に取り戻すことに成功した。

 天文19年に不測の事態が起こった。義元の正室・定恵院が亡くなったのである。
婚姻関係が途絶えることは、同盟を結ぶ以上は好ましいことではない。
天文21年、晴信の嫡男・義信に義元の娘・嶺松院を嫁がせることにより、何とか事態を収拾した。
こうして両家の同盟関係は、再び結ばれたのである。

 天文22年には、今川氏の武家家法『今川仮名目録』の追加分二十一カ条が義元により制定された。
室町幕府の後ろ盾を必要とせず、自らの力だけで支配を展開することを謳った点で非常に重要な戦国家法である。
この追加分制定についても、雪斎が大いに貢献したという。
その学識を生かした助言は、まさしくブレーンという立場にふさわしいものであったといえよう。
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999 :名無しさん@京都板じゃないよ[sage]:2017/03/07(火) 19:19:48.23 ID:suT+9L/50
 雪斎の名を高めたのは、いわゆる「善得寺の会盟」であろう。
雪斎はかねてから今川義元、北条氏康、武田晴信の同盟締結を目論んでおり、3人を善得寺に招いて会合を開き、「甲相駿同盟」を結んだという。
三者の間では互いに婚姻関係を結び、同盟をより強固なものにした。

 ただ、現在では「甲相駿同盟」が結ばれたのは事実であるが、
「善得寺の会盟」はたしかな史料で確認できないことから、単なる創作に過ぎないと考えられている。
そもそも3人の大名が1カ所に集まり、同盟について話し合うこと自体が、当時の常識からして疑わしいと指摘されている。

 一方、雪斎は天文19年に妙心寺35世に就任した。
雪斎は東海地方の臨済宗妙心寺派の拡大に寄与し、駿府に氏輝の菩提寺である臨済寺を建立し自ら住持となる。
加えて、興津の清見寺、富士の善得寺の住持も兼ねるところとなった。

 こうして今川家の繁栄に尽力した雪斎は、弘治元年閏10月10日に亡くなった。享年60。
義元が桶狭間で横死したのは、5年後の永禄3年(1560)のことである。
以後、今川家の家督は子息の氏真が継いだものの、坂道を転がるように転落した。
もし雪斎が生きていれば、その後の今川家は違った歩みをしたのかもしれない。
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1000 :名無しさん@京都板じゃないよ[sage]:2017/03/07(火) 19:21:01.58 ID:suT+9L/50
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