- 【七回落ちても】東洋大学【あきらめないで】 [転載禁止]©2ch.net
461 :大学への名無しさん[]:2016/03/05(土) 20:32:26.21 ID:60Bm3PxR0 - ×早稲田の政治、三田の理財、駿河台の法学、白山の哲学
(東洋工作員の妄想) ○福沢の慶応、新島の同志社、クラークの北大、大隈の早稲田 (『早稲田大学百年史』) 木村毅『都の西北―早慶野球戦史を中心に』ベースボール・マガジン社、1978年 http://www.bookservice.jp/bs/ItemDetail?cmId=3309502 安部磯雄は、わが野球界最大の恩人だが、その人物を知るために、 野球以外の彼の活躍についても、すこし述べておく必要を感ずる。 彼が同志社の出身であり、母校の教授であったことは、だれでも知っている。 そのまま京都にいたら、かれは牧師兼教授で、後年の安部磯雄とは、 全くちがう人物になっていたかも知れない。 ところが彼の先輩で、やはり同志社の教授だった浮田和民が、さきに招かれて 早稲田にきたのである。なんでも、瀬戸内海の船旅をしていたとき、偶然、 東京専門学校の学生とのり合わせた。そしてその学生が大隈の学校について語る話をきいて、 「日本にも、そういう自由な学風の学校があるか。教師である以上、そんな学校で教えてみたい」 と思ったのが、早稲田にくるきっかけになったと、その学校の歴史にかいてある。 そうかも知れないが、同志社から東大の哲学科にまなび、学才抜群のため、 大御所の井上哲次郎に煙たがられて、東大講師になれず。早稲田にきて坪内逍遥を 助けて文科の設立にあたり、両柱としての功を立てた大西操山が、恐らく浮田和民を 招いたのに、ちがいない。操山は明治年間における最も風格の高い哲学者であった。 浮田和民が安部磯雄、岸本能武太、杉山重義などの同志社教授を招き、 ここに従来、早稲田に全くみられなかった新学風が入ってきたのである。
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462 :大学への名無しさん[]:2016/03/05(土) 20:33:06.46 ID:60Bm3PxR0 - 早稲田は、大隈重信の政治的アンビションからうまれて、西郷の私学校なみの、
謀叛人の養成所と見られていたのが学校カラーの地肌だが、大隈は福沢諭吉と 終生かわらぬ親交があり、したがって学校の設立も慶応を――手本としたとか、 福沢に相談したとかという確証はないとしても、慶応義塾を顧慮においたことは否定できない。 慶応義塾の標語は「独立自尊」である。これはむしろ処世一般の指針だ。 そこで早稲田では、それを研学一点の上に集約して「学の独立」とした。 ところで大隈の政治方面の片腕となったのは、尾崎行雄、犬養毅、箕浦勝人など 三田出の秀才だったが、しかし大隈の教育方面をたすけて早稲田を大学にまで 育てあげたのは、官学の東大出の高田早苗、天野為之、坪内逍遥の若き三学士であった。 こうして早稲田には官学東大の伝統もつよく流れこんできている。
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463 :大学への名無しさん[]:2016/03/05(土) 20:33:50.94 ID:60Bm3PxR0 - くりかえしていうと早稲田は、地肌の反逆的な武骨さが五割、慶応からの自由主義的
影響が一割、東大から持ちこんだアカデミズム式伝統が二割ぐらいだったところへ、 同志社からの移入の新学風が二割ぐらい混入して、後の新学風が出来あがった。 特に、浮田、安部両教授の影響は大きく、政治学という学問は、日本では浮田が初めて 早稲田で講じたのである。東大は日露戦争の前後、小野塚喜平次が洋行から帰って、 初めて政治学の講座を独立させたので、早稲田よりはるかにおそい。 安部磯雄の都市行政法がまた、日本ではじめての学問で、東大がこれに関心を向けたのは、 大正中期に後藤新平が東京市長になって、アメリカから有名なベアード博士をよび、 その講演をきいてからである。また安部の社会問題論は、そのころ大学を出たての 河上肇が千山万水楼の仮面にかくれて、この方面の学者に撫でぎり的な評論を加えた時 「官学の諸学者も安部氏の前に顔色ありや」と言ったほど、高名なものだった。 そこで、浮田、安部の教えた学生の中からは、従来の早稲田では到底みられなかったような毛並の 卒業生が出た。たとえば永井柳太郎や大山郁夫である。中野正剛は今までの早稲田でも育て得た タイプだが、永井や大山は、同志社学風が入って、はじめてうまれる城北の新タイプであった。 ついでに言っておくが、慶応学風に、こういう外からの輸血をしたのは福田徳三だ。 東京高商を巣立った秀才として、あそこの教授中、最も重きをなした福田は、学生総会で 校長の松崎蔵之助をぶんなぐった。当時有名な事件で、小杉天外の「コブシ」という 小説にまで、この挿話が、つかってある。福田博士はただちに免職になったのを、 その経済学に対する学識を尊重して、慶応が迎えたので、この輸血がなかったら 高橋誠一郎、小泉信三、野村兼太郎などの新学風は、おこらなかったであろう。 ※東洋は早稲田の姉妹校ではありません。
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168 :大学への名無しさん[]:2016/03/05(土) 20:36:06.73 ID:60Bm3PxR0 - ×早稲田の政治、三田の理財、駿河台の法学、白山の哲学
(東洋工作員の妄想) ○福沢の慶応、新島の同志社、クラークの北大、大隈の早稲田 (『早稲田大学百年史』) 木村毅『都の西北―早慶野球戦史を中心に』ベースボール・マガジン社、1978年 http://www.bookservice.jp/bs/ItemDetail?cmId=3309502 安部磯雄は、わが野球界最大の恩人だが、その人物を知るために、 野球以外の彼の活躍についても、すこし述べておく必要を感ずる。 彼が同志社の出身であり、母校の教授であったことは、だれでも知っている。 そのまま京都にいたら、かれは牧師兼教授で、後年の安部磯雄とは、 全くちがう人物になっていたかも知れない。 ところが彼の先輩で、やはり同志社の教授だった浮田和民が、さきに招かれて 早稲田にきたのである。なんでも、瀬戸内海の船旅をしていたとき、偶然、 東京専門学校の学生とのり合わせた。そしてその学生が大隈の学校について語る話をきいて、 「日本にも、そういう自由な学風の学校があるか。教師である以上、そんな学校で教えてみたい」 と思ったのが、早稲田にくるきっかけになったと、その学校の歴史にかいてある。 そうかも知れないが、同志社から東大の哲学科にまなび、学才抜群のため、 大御所の井上哲次郎に煙たがられて、東大講師になれず。早稲田にきて坪内逍遥を 助けて文科の設立にあたり、両柱としての功を立てた大西操山が、恐らく浮田和民を 招いたのに、ちがいない。操山は明治年間における最も風格の高い哲学者であった。 浮田和民が安部磯雄、岸本能武太、杉山重義などの同志社教授を招き、 ここに従来、早稲田に全くみられなかった新学風が入ってきたのである。
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169 :大学への名無しさん[]:2016/03/05(土) 20:36:29.70 ID:60Bm3PxR0 - 早稲田は、大隈重信の政治的アンビションからうまれて、西郷の私学校なみの、
謀叛人の養成所と見られていたのが学校カラーの地肌だが、大隈は福沢諭吉と 終生かわらぬ親交があり、したがって学校の設立も慶応を――手本としたとか、 福沢に相談したとかという確証はないとしても、慶応義塾を顧慮においたことは否定できない。 慶応義塾の標語は「独立自尊」である。これはむしろ処世一般の指針だ。 そこで早稲田では、それを研学一点の上に集約して「学の独立」とした。 ところで大隈の政治方面の片腕となったのは、尾崎行雄、犬養毅、箕浦勝人など 三田出の秀才だったが、しかし大隈の教育方面をたすけて早稲田を大学にまで 育てあげたのは、官学の東大出の高田早苗、天野為之、坪内逍遥の若き三学士であった。 こうして早稲田には官学東大の伝統もつよく流れこんできている。
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170 :大学への名無しさん[]:2016/03/05(土) 20:36:58.56 ID:60Bm3PxR0 - くりかえしていうと早稲田は、地肌の反逆的な武骨さが五割、慶応からの自由主義的
影響が一割、東大から持ちこんだアカデミズム式伝統が二割ぐらいだったところへ、 同志社からの移入の新学風が二割ぐらい混入して、後の新学風が出来あがった。 特に、浮田、安部両教授の影響は大きく、政治学という学問は、日本では浮田が初めて 早稲田で講じたのである。東大は日露戦争の前後、小野塚喜平次が洋行から帰って、 初めて政治学の講座を独立させたので、早稲田よりはるかにおそい。 安部磯雄の都市行政法がまた、日本ではじめての学問で、東大がこれに関心を向けたのは、 大正中期に後藤新平が東京市長になって、アメリカから有名なベアード博士をよび、 その講演をきいてからである。また安部の社会問題論は、そのころ大学を出たての 河上肇が千山万水楼の仮面にかくれて、この方面の学者に撫でぎり的な評論を加えた時 「官学の諸学者も安部氏の前に顔色ありや」と言ったほど、高名なものだった。 そこで、浮田、安部の教えた学生の中からは、従来の早稲田では到底みられなかったような毛並の 卒業生が出た。たとえば永井柳太郎や大山郁夫である。中野正剛は今までの早稲田でも育て得た タイプだが、永井や大山は、同志社学風が入って、はじめてうまれる城北の新タイプであった。 ついでに言っておくが、慶応学風に、こういう外からの輸血をしたのは福田徳三だ。 東京高商を巣立った秀才として、あそこの教授中、最も重きをなした福田は、学生総会で 校長の松崎蔵之助をぶんなぐった。当時有名な事件で、小杉天外の「コブシ」という 小説にまで、この挿話が、つかってある。福田博士はただちに免職になったのを、 その経済学に対する学識を尊重して、慶応が迎えたので、この輸血がなかったら 高橋誠一郎、小泉信三、野村兼太郎などの新学風は、おこらなかったであろう。 ※東洋は早稲田の姉妹校ではありません。
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