- 【新学期】偏差値70以上の猛者専用スレ7
459 :大学への名無しさん[sage]:2010/06/23(水) 20:32:41 ID:zbUqghdZ0 - >>449
学歴コンプのおっさんに荒らされている中、レスをいただきありがとうございます。 なるほど、それはかなり使えそうですね…とても参考になります。 またのレスを楽しみにしています。
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- 【月刊大学への数学】学力コンテスト・宿題6
167 :大学への名無しさん[sage]:2010/06/23(水) 20:45:20 ID:zbUqghdZ0 - 4が1番難しかった。
途中で気づいたから修正できて良かったけど、ひっかかる人多そう。 (1)1/2 (2)2 とかね。
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- 【月刊大学への数学】学力コンテスト・宿題6
170 :大学への名無しさん[sage]:2010/06/23(水) 23:52:46 ID:zbUqghdZ0 - 17才は自我が膨らむ年ごろである。したがって、家族や社会の束縛とか規範とか規則から
自由になりたいと願う年ごろである。またそのためにも、知識欲が旺盛になる年ごろである。 また、世俗でない悲しみを抱ける年ごろである。 16才で上の学校へ進んだわたしは、その年の後期になると、学校での講義が虚しくなっていった。 スローテンポの口述の講義を延々と筆記していくのは時間の浪費と映じた。そんな講義の1年分も、 本にしてくれたら3日くらいで読み終えるのにとおもわれたからである。教室へ向かう足どりは重く そして遠のき、図書館に籠る時間が多くなっていった。 そこには、読みたい本がいくらでもあった。そこでは、知識欲がつぎつぎに満たされ、幸せに浸っていた。 一方、学業がしだいに遅れるにつれ、人並に学生生活が送れないことへの劣等感に苛まれた。 そのころは学生寮にいた。同室のほかの7名の人たちは皆善良な紳士で和気藹々と共同生活を 送っていたのだが、わたしは自我を抑制するなにかが欠けていたのか、どうしても共同生活には 馴染めなかった。夜になるとよく寮を抜け出して、校舎の屋上で独り星を眺めて過していた。 ある夜、宇宙とは何だろうなぜ宇宙があるのだろう、それは『誰』が作ったのだろう、造物主が天と地を 創造したというなら、造物主とは何だろう、『誰』が造物主を造ったのだろう、と思うと、突然悲しくなって、 涙がとめどなく流れてきた。そう思う自分自身、流す涙すら、宇宙のとるに足らぬゴミのような 物質であることが切ないのである。そのような悲しみは固定観念として心に深くつきささる。
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- 【月刊大学への数学】学力コンテスト・宿題6
171 :大学への名無しさん[sage]:2010/06/23(水) 23:53:57 ID:zbUqghdZ0 - 世俗の地位とか名誉とか財産とか宇宙の前にどれほどの意味をもつだろう。世俗は宇宙の存在を
忘れたところに息づいている。 寮生活のはじめての年が明けるとまもなく、デパート勤めの娘さんと老衰したお婆さんの住む家の 一間を見つけて寮を去った。 自由!その気になればいつでも1日24時間はわたしのものだ。そこで、猛烈な読書が始まった。 毎日のように古本屋を尋ね歩いては、文芸書をはじめ、自然科学、哲学、倫理、宗教にいたるまで、 知識欲を満たしてくれるものを探し求めては時間を無視して読み耽った。 楽しみは、下宿の温和な娘さんとすこしばかりお話をすること、マルクス・ボーイであった親友と 裏町の喫茶店で、1本ずつお銚子をとりながら、唯物論について議論をすることであった。 彼は、ときどき咳込んでいて、後年わたしが瀕死の苦しみを味わうことになる肺結核を感染させて、 まもなく亡くなった。そのうち、下宿のお婆さんの老衰がひどくなり、とうとう寝たきりになって 衰弱していった。娘さんはわたしとひそひそと話しあっては、死んでいくお婆さんを見守りつづけていた。 お婆さんが亡くなると、娘さんは涙をいっぱい浮かべて、「さようなら」とその姉にひきとられていった。 わたしは3畳1間の下宿に移り住んだ。 孤独だった。もうほとんど登校することもなく、ひたすら書物に耽溺し、読書に疲れると孤影悄然と 街を徘徊した。孤独には詩が似合う。歩きながら好きな詩をよく口遊んだ。 ”夏の逞しき足音は消え、山はまた大古の夢に還らんとする秋風の暮、 耳を澄ませば落葉松のタクトは鳴り、鱗雲には淋しき少女の牧歌が映る、 ああ 今宵 アルペンのあかき灯がまたひとつ減る” わたしは、生きることに最早未練はなかった。わたしは、睡眠剤を多量に飲んでこの世に別れを 告げた。しかし、わたしは死から見放され、2日後に意識を取り戻すと、わたしを待っていたのは 精神病院であった。
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172 :大学への名無しさん[sage]:2010/06/23(水) 23:56:52 ID:zbUqghdZ0 - 明治36年(1903) 一高(現東大教養)の学生 藤村操は、つぎの言葉を残して、日光の
華厳の滝に身を投げた。17才であった。 厳頭の感 悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、 五尺の小躯を以て此大をはからむとす、 ホレーショの哲学意に何等のオーソリチーに 価するものぞ、万有の真相は唯一言にして 悉くす、曰く「不可解」、我、この恨を懐て 煩悶終に死を決す、既に厳頭に立つに及んで 胸中何等の不安あるなし、始めて知る、 大なる悲観は大なる楽観に一致するを。 黒木正憲
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