- 日蓮ってver.57
323 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2021/01/14(木) 13:04:34.76 ID:3mLJCxZV - 法華経って、仏教経典の中の神智学だと思う。
神智学って、ヨーロッパでは初めて体系的に霊的な進化論を提唱した学問。 キリスト教に霊的な進化論は含まれていないわけじゃないけど、キリスト教は宗派によって解釈が違いすぎるのでそこら辺は主観的な解釈しか出来なかった。 なので、神智学が登場するとキリスト教から神智学に乗り換える信者が多数出現。 霊的進化教義ってすごい分かりやすい。 人類は低次から高次に進むという考えは、勉強でいえば勉強すればするほど偏差値が下から上に上がるようなイメージなので、教義の実践に明確に取り組むことが出来る。 仏教は霊的な進化など説かない。 凡夫から悟りに至るという進化イメージはあるけど、それは低次から高次へという感じじゃない。 自分は低次や高次ではなく元から全く同じままで、ただ煩悩を取り除く前と後という煩悩があるか無いかの違いのみがあるという、進化とは異なったイメージ。 しかし、法華経はそのような仏教の中にあって、迹門と本門という高低的な捉え方があって、低い迹から高い本に進化するという誤ったイメージを作り出す。 発迹顕本ってやつがそれで、法華経は他の経典と違って釈迦の境地を最も深く理解したもの、つまり本の境地という他の経典では得られない高次な境地を会得出来るものとのイメージを作り出す。 よってもし仏教経典を偏差値順に並べるならば、一番高いところに来るのが法華経というイメージが作り出されやすい。 これを実際やったのが中国の天台大師。 天台のやったことは、実際は教えに高低など存在しない仏教を誤解させる愚行だと思う。 霊的進化論を説いた神智学は、ルドルフシュタイナーを始めとして様々なフォロワーを生み出していった。 そのほとんどがカルト化していく。 何故ならば霊的進化論は、オウム真理教のように人類の進化と退化の理論を両方作り出すことが出来る。 この教えを信じれば人類は進化して救われるが、この教えを信じなければ人類のレベルが下がってハルマゲドンが生じるなどに象徴される、人類の進化・退化理論を作り出す。 この人類の進化・退化の教えは、人類に希望と恐怖という飴と鞭を使って、特定の教えに従わせる特徴を作り出す。
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324 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2021/01/14(木) 13:04:46.06 ID:3mLJCxZV - 法華経はどうだろうか。
法華経を採用した日蓮は、オウム同様に人類の進化・退化理論を作った人だ。 法華経を信じる日蓮に衆生が従えば、末法を免れるという人類進化を生み出すことが出来る。 法華経を信じる日蓮を誹謗すれば、日本は邪宗の蔓延により末法の症状が酷くなるという退化が生じると。 この日蓮の法華経進化論は、神智学と同じでカルト思想を生じさせやすい。 この教えを信じれば人類は進化、信じなければ人類は退化。 よって、信じる者が正義であり、信じない者は人類を退化させる邪悪だと。 この正邪理論は人間をコントロールするにはうってつけだ。 お前は進化したければこの正しい教えに従え、従わなければお前は邪となり退化するぞと。 この日蓮による、法華経を利用した霊的進化・退化論の側面を最も色濃く採用したのが、弟子では日興のように思える。 その日興の系譜宗教はどのような行動を起こしたか? この教えを信じなければ地獄に落ちるといった強引な折伏に象徴されるカルト行動を行った。 その縁源は、法華経の発迹顕本に進化思想を見てとりたい、自分を高次だとか正義だとかに見なしたい人間の醜い欲望にある。
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327 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2021/01/14(木) 14:08:14.95 ID:3mLJCxZV - 理解ってのは、実際は存在しないと思います。
解釈、あるいは理解したつもりなら分かりますけど。 全て人間は、あらゆるものごとを主観的に解釈することしかできない。 それは法華経であっても赤子の表情であっても全てが対象。 私がやっていることは当然解釈です。 まぁ、理解したつもりというのが一番やばいですね。 理解=正しいや正義という概念をつくりやすい。 法華経を一番理解しているのが仏教を正しく理解していることであり、法華経を理解していないのは仏教を理解していないことであるといったように。 このように思い込みたい人間の欲望が、宗教を始めとしてあらゆる物事に正邪を生み出していく。 私が言いたいことは、学問や宗教の内容は一見客観的に見えるが、実際は人間が「こうありたい」という欲望を反映させてつくられているということです。 多分に客観的に見える科学であったとしても、実際はパラダイムという人間の思考の枠組みやその時代特有の観測方法に束縛されている。 このような宗教や学問に対して、空の概念に象徴されるように、あらゆる物事の恣意性、無意味性に気づいていたのが仏教の徒であったように思います。 どうも残念ながら、日蓮に限っては物事の恣意性や無意味性に全く気づいていないというか、仏教徒としては明後日の方向、つまり空とは真逆の、正邪や優劣といった確定判断基準を求めて確実なものごとを追い求める人生だった。 日蓮がそのように確実を追い求めた先が、法華経の発迹顕本解釈であるように私は思います。 確実を欲しがる日蓮、正しい理解を欲しがる日蓮。 空の概念を把握できないゆえに、人間の欲求行動にあからさまに左右されているような気がします。 それゆえに、自分の欲求行動を肯定したい人達が仏教を求めると、日蓮教義に必然的にシンパシーを感じて日蓮教義を選択するように感じます。 これは敵味方を表現しているのではなく、人間の傾向性を表現しています。
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330 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2021/01/14(木) 15:28:04.91 ID:3mLJCxZV - ポストモダン表現を誰でも理解できると思っていたら大間違いですよ。
ここは哲学スレじゃないんだから。 自分の本音で言えば、全てはドゥルーズでいうところの差異であり、人間は反復される差異の中に自分の好き勝手に意味を投影して、その自分の投影した意味を実体と勘違いしたり理解したと思っているつもりってことだけです。 世の中の物事というのは、全ては欲望の連鎖が作り出す網の目の結接点、つまり関係性、縁起性。 法華経も何もかも、この結接点という一時的に現れた関係性、縁起につけた名称でしかない。 人間は自分が見たいものを、その関係性に投影して見ているだけ。 その一時的に現れる関係性の結接を、人間は恒久的な物事として記憶する。それが物事。 しかし、仏教はこの人間の錯視を破壊する。本来全ては無常で、恒久的なものなどないと。 この人間の物事の認識、つまり錯覚の仕方を仏教では唯識と表現していますね。 ただ、錯覚というか、人間の心、あるいは九識こそがあらゆる物事を生み出す映写機のようなものですが。 自分が腹が立つのは、仏教はこのように現代学問が解明しつつある人間の認識形態をすでに高度に解明済みというのに、日蓮は仏教の唯識や縁起や空を悉く外した探求方法をとっているということです。 外したというか、ただ単に日蓮に把握能力がないだけなんだけど。 法華経という経典は、そんな仏教が解明した人間の認識の底にあるもの、つまり人間を空の世界に誘う仏教の導きを理解しない人が行き着きやすい。 なぜなら法華経は、仏陀との約束とか、これが本当の仏陀の言いたかったこととか、人間のセンチメンタリズムに訴える内容が強すぎる。 空や縁起を学んだ上で法華経を読むならば誤解は少ないと思います。 しかし、仏教の基礎概念を把握せずに法華経を読むと、日蓮のようなセンチメンタリズム仏教徒が生まれやすいと思います。 「法華経を弘める私が迫害されるのは、法華経に書かれている通りに私が正しい証拠」などの自己憐憫症状に浸る中二病を僧侶を、私は日本を代表する仏教僧侶とは見なしたくない。 それでも、イギリス経験論のように人は自分の経験が全てだから、誰にとってであっても各人が法華経を読んだ感想が、その人にとっての絶対的な真実なんでしょうけど。
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332 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2021/01/14(木) 17:14:53.29 ID:3mLJCxZV - 仏教が用いる沈黙というのは、私にとって言い換えれば言葉が発生する以前というか、言葉が世界を作り出す前のポテンシャルというか、それは九識論で言うならば阿頼耶識、あるいは不生禅で言うところ不生の状態、あるいは西田哲学の主客未分なんだけど、これはとにかく難しい。
座禅でもしたことがある人ならば想像がつくかもしれないが、深い瞑想に入ったことがなければ絶対に想像すらつかない。 なぜならば、この沈黙というのは決して無ではなくダイナミズム。 まるで、爆発を待つ沈黙したマグマのようなもの。 ここら辺は絶対に言葉では表現できないから、仏教では、沈黙とか、麻三斤とかワケわからん表現をせざるを得ない。 そこが仏教の欠点と言えば欠点かな。 仏教以外の宗教だと、ここら辺をヤハウェとか、三位一体とか、創造・維持・破壊とか、プルシャ・プラクリティとか、陰陽とか、上手く沈黙との表裏一体のダイナミズムを表現できている。 このダイナミズムの強調として表されているのが怒れる神なんだけど。 ただ、人間はどうしても沈黙よりもダイナミズムの方が分かりやすいので、神偏重の教えがウケて、仏教が沈黙で表現する部分が見失われてしまう。 日蓮さんを少しでも弁護するならば、日蓮は空が内包する沈黙と爆発の両面において、爆発のみを感じた人かな。 こういう意味では、日蓮は西洋の一神教徒の感覚が強い人。 某宗教団体は、日蓮思想は一神教ではなく法(ダルマ)だと必死に反論するだろうけど。 しかし、本来はダルマでさえも存在しない。 某宗教団体が説くダルマは、西田哲学で表現するならば、主客が分化した後の状態。 我々は主体と客体との関係を当たり前に思っている。 しかし、これは錯覚というか、これは爆弾で例えるならば爆弾が爆発した後の残骸だけ見ているみたいなもん。 その爆弾の爆発や残骸は事実と言えば事実なんだけど、基本は爆発前の沈黙の状態が真実というか、全てはそこに戻るというか、実際は爆発しているようで本当は爆発していない。 爆発というのは、言葉が表現されて世界が現れる、つまりシニフィアンが登場すると同時にシニフィエが世界を紡ぎだし、シーニュという意味世界が完成する。 これが世界の誕生、細かく言うと言語阿頼耶識が爆発して登場した記号によって表現された表象世界。 でも、言語なんてものは発せられればすぐに消える代物であり、よって言語によって現れたように見える世界は一時的な戯れに過ぎない。 発せられた言語は、言語阿頼耶識に常に帰るというか、そこにはあらゆるものを生み出す言語マグマが、実際は決してなにも生み出さずにダイナミックに眠っているという感じかな。 爆発なんてものは瞬間ですぐ消える。 爆発は恒久的なものではなく、爆発を起こすマグマの可能性を表現したもの。 これが私なりの、仏教が例える沈黙の解釈・表現。 物事の爆発面という表象しか見れず、その一時的な爆発を恒久的なダルマなどと勘違いしている日蓮は瞑想が足りんと言えばそれまでだが、日蓮は阿頼耶識の沈黙部分に到達できなかった人。 この日蓮の性質が一神教と傾向が同じゆえに、主客が分かれたあとという表象世界部分のみに注目強調する。 この表象世界は正邪や優劣で成り立っているから、日蓮の教えは表象に生きる人達にとって分かりやすいんだけどね。
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