- 創価学会はコロナでどうなってしまうのか?4
769 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2020/08/29(土) 07:05:59.18 ID:cdWqnIoJ - >>712
確かに悟りや宗教を机上の空論と思う人が殆どでしょうね。 まぁ、それはそれが当たり前だし、そこが各聖者が存命中は気違いや狂人扱いされてきた理由でもあるんだけど。 キリストは磔にされて殺されたし。 これはいい講義でもなんでもないよ。 仏教の解説書読めば、どこにでも書いてあるごく当たり前の内容。 もったいなことだから追加で述べておきますね。 なぜ人間が宗教や悟りを机上の空論と感じてしまうかの根本理由。 そして、これはだから一般人や創価が悪いとか良いとか批判するわけでもなく称賛するわけでもない。 善悪とは全く無関係で人間の認識に関すること。 ここから書くことは一般慣れていないことだから、難しく感じたら読む必要はない。 難しく感じたら、読んでも尚更机上の空論と感じるだけ。 ただ、宗教や悟りを机上の空論と感じてしまうのはもったいない話なので、駄目元で話を続けます。 それは、一般的な思考や創価などの外面宗教がなぜ、悟りや宗教を机上の空論と感じてしまうのかという理由。 もし少しでも悟りを身近にできれば、新興宗教の限界を知ってステップアップするためのきっかけになるかもしれない。 哲学や心理学に触れている人なら入り込みやすい話。
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770 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2020/08/29(土) 07:06:56.21 ID:cdWqnIoJ - 結論から先に述べると、人間の悟りの理解や悟りを妨げる根本理由は、意識が対象にしか向かっていないことにある。
キリストや釈迦はここに気づいて認識の転換を果たした人達。 分かりづらいかもしれないが、人間の認識とは、常に意識する自分と、意識される対象に分かれている。 端的に言うならば、意識する自分と意識される対象が分かれて別々に感じているわけだ。 願望に例えるならば、車が欲しい自分と、欲しがられる車という対象。 そしてこの二つは当然別々に感じる。 だから人は常に、自分と分離している願望対象を追い求める。 自分とは別なものは、獲得して所有しないと一緒になれないんだから。 そんなの当たり前だと思うのがごく普通の人間の認識。 こっからは信じられないだろうが、認識の転換、つまり悟りを果たした人達の洞察。 実際は対象は人間と別物のリアルとしては存在しない。 対象は人間の意識内にある。 対象とは、人間が自分の主観をイメージとして外部に投影して作り出したスクリーン画像みたいなもの。 言い換えれば、夢みたいなもんだ。 自分の想念エネルギーが作り出したホログラフィック物語。 仏教ではこの仕組みを唯識思想で解き明かしている。 これは信じろとは言わないが、哲学者のように自分の認識と徹底的に向き合えば向き合うほど明らかになる。 瞑想修行とは、このような人間が対象を自分と別物の現実と感じてしまう心の傾向に気づくためのもの。
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771 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2020/08/29(土) 07:08:21.71 ID:cdWqnIoJ - 結局何が言いたいかというと、人間が対象を自分と別物と勘違いする認識が悟りを妨げている。
意識を外面に向かわせることをやめて、意識を内面に向けると、対象は自分の心がイメージとして作り出していることに気づく。 そうすれば、自分と対象は別物と感じる境界が外れる。 意識を心の内面に向かわせて自分と対象が実は別物でないと気づくと、そこから認識の変化が始まる。 映画で例えれば、光を投影する映写機とスクリーンは別物と最初は感じる。 その感覚から、フィルムを分析すればスクリーンの内容は映写機のフィルムと同じであると段々と気づいていく感覚。 映写機とは、例えるならば人間の意識、フィルムとは人間の心、スクリーンとは人間の心の内容が意識を通じて投影された対象。 最終的には、映写機とフィルムとスクリーンは同一であることが理解される。 それゆえに、人間の意識と心と対象は同一であることが洞察される。 そうなると、対象全ては自分の心の中にある。 欲しかった車は自分がイメージで作り上げている概念が投影されたもの。 車は心の中に収まっているとは言わないが、人間が車を概念としてイメージ出来なければ車は存在しない。 人間の心が何かを概念として作り上げるゆえに、概念対象として何かが現れる。 これは鉄で出来た立派な車、これは速い車、これは燃費がいい車、全ては概念。 車でもなんでもいいが、物質の根本は色即是空空即是色であり、単なる素粒子の戯れ。 実態を持たない素粒子の戯れを、人間は概念化を通して、車と呼び、椅子と呼び、本尊と呼び、功徳と呼ぶ。
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772 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2020/08/29(土) 07:14:13.49 ID:cdWqnIoJ - 無理に信じろとは言いませんが、対象と人間は実際は境界はない。
映写機とフィルムとスクリーン画像は、一見分かれています。 ただ、それらが実は同体であることに気づいてしまえば、そこにあった映写機とフィルムとスクリーンの境界が一体化して感じるように。 意識を外面に向ける行為は、映写機とフィルムとスクリーン画像を別物と感じ続ける行為。 意識を内面に向ける行為は、映写機とフィルムとスクリーン画像を一つのものとして感じ続ける行為。 最終的に全てが同化すると、これらの全ての統合がどうやら仏なり神と呼ばれてきた代物らしく、個人個人の人生とは仏の手の上で行われてきた自作自演と感じるようになる。 悟りはこれがさらに推し進められた境地なのでしょう。 ここら辺は、仏教の唯識思想だったり最近ではノンデュアリティ思想が私の戯れ言などより更に追究がなされている。 創価や正宗は内面探求を行わない宗教なので、祈りの方法はあらゆるものを外面に対象化する。 唯一無二の本尊、現世利益、世界平和といったものは、意識が外に作り出して追い求めている対象。 結局、外面対象を追い求める限り、自分と対象の分離は埋まらない。 外面対象を追い求める限り、自分と対象の間には必ず境界があり、その境界はどんなに努力しようが無くならない。 よって、境界発生による正邪の区分けと正邪間の争いがなくなることは永久にない。 自分と外面の分離の解消、それが本来の宗教の役割。 宗教に限るものでは無いけど、意識の方向性を内面に転換して内面に潜り続けた人物から、悟をひらいたと見なされる覚者が定期的に現れる。
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