- 日顕死亡 その2
498 :桃太郎[]:2019/11/01(金) 09:06:19.75 ID:oqn5ogSk - >>495
君ね、その論法はおかしいよ。頭悪いの? 正しいと言う証拠を一切何も出さないで、「デタラメじゃ無い証拠を示せ」と言ってんだから。(笑 どーしようもないバカだね君は。 デタラメは何処まで行ってもデタラメでしか無いだろ。 >>496 あのねぇ、その本はアンチ創価学会のライターが極めて偏見に満ちた視点で書いた本だろ。 全く公平さに欠く内容であることは見なくても分かる。 そんなものを持ち出して、さも真実であるかのように、創価批判をしてもまったく説得力がないだろ。 こちらは、明確な宗門の史実であったり、歴代法主の言葉であったり、宗門誌であったり、 なかんずく日蓮大聖人の御聖訓を基に現宗門の邪宗化を指弾してんのに、 君たちはぐだらん根も葉もないねつ造記事を根拠にしてんだから、噴飯物だ!と言ってるんだよ! まったく話にもならない。
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505 :桃太郎[]:2019/11/01(金) 12:43:56.29 ID:oqn5ogSk - >>502
ふーん。だから何? 無駄にお疲れ様。好きなだけホザいていれば良い。 結局、何一つ根拠を示せてないんだから、議論にもならない。 ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ… DQNちゃんが沈黙したかと思えば、へんな奴がわらわら出てくるなぁ〜。
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506 :桃太郎[]:2019/11/01(金) 12:54:06.56 ID:oqn5ogSk - >>503
Good job ! (^_^)v どうせ、そんな事だろうと思っていたよ。(笑
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511 :桃太郎[]:2019/11/01(金) 16:06:18.24 ID:oqn5ogSk - >今創価学会が自戒や自浄ができなければ、オウムと同じ道を突き進んでしまうぞ。
ここを見てよく勉強しなさい! https://www.sokanet.jp/hbk/heiwa.html 君たちは創価学会以上の平和運動をやっているの?
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513 :桃太郎[]:2019/11/01(金) 17:12:27.25 ID:oqn5ogSk - 価大学創立者 池田大作、特別文化公演「革命作家 魯迅先生を語る」より
魯迅先生の人生は、激しい論争また論争であった。何と戦ったのか。魯迅先生は言う。 「いろんな事について、私はやはり真実を語りたい。そのためには他人の『デマ』を抹殺する外はないのだ」 「平和を愛すると自称する人民にも、人を殺して血もみせない武器がある。それはデマを製造することだ」とも喝破されている。 デマが人間を不幸にする。社会を暗黒にする。だからこそ魯迅先生は戦った。言論を武器に戦い抜いた。 「デマをとばしたやつの化けの皮をひんむいてやる」と。 こうした悪辣なデマとの闘争のなかから生まれたのが、「雑感文」といわれる魯迅先生の批評文である。 <反撃精神こそ魂> 一般によく「低俗な批判には取り合うな。自分を相手と同じレベルに下げてしまうから」と言われる。 しかし、魯迅先生は違った。もしも黙っていれば、デマを流す人間の思うつぼであると。 汚物のように人をうんざりさせるデマをばらまく人間に対して、魯迅先生は言い放った。 「賤しい奴らの中には、汚物を人に投げつけては、「向うはきっと相手になるまい、手を出せば、自分のほうが人格をおとすことになるのだから」と考えているのもいる。 だが、私は元通りに投げかえしてやる。もし、向うが投げてよこすならば」 相手の言葉を逆手にとって、何倍にもして、投げ返す。「一」言われたら、「十」言い返す。この烈々たる反撃精神こそ魯迅先生の魂であった。 「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」という。 悪人が人を陥れるためにつくるデマや中傷は、じつは、悪人自身が陰でやってきたこと、本心から望んでいることである場合が多い。 これがデマをデマと見抜くポイントであると魯迅先生は言っている。
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514 :桃太郎[]:2019/11/01(金) 17:13:09.19 ID:oqn5ogSk - デマとの戦いについて、もう一点、述べておきたい。
こうした魯迅先生の論争の渦中で、ある雑誌の一派から、「もう論争は止めろ」という声があがった。 「青年を指導する立場にありながら、互いに罵りあいをつづけるならば、劣悪な社会が出現するだろう」こう、もっともらしく言うのである。 だが事の真実は、その一派が、仲裁を装って、魯迅先生を口封じしょうとしたわけである。 「私はまだ『止める』わけにはいかぬ」。こう毅然と魯迅先生は宣言する。中途半端は相手を利するだけだからである。 最後に 自分が人を傷つけておきながら、いざ自分が責められると、平然と「寛容」を説く。そういう人間がいる。 それは自分の悪事をごまかすための「寛容」だ。そんな連中に、絶対に、だまされてはならない。 「他人の歯や眼を傷つけておきながら、報復に反対し、寛容を主張する人には、決して近づくな」 魯迅先生が、死に臨んで書き残した遺言の一つである。
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517 :桃太郎[]:2019/11/01(金) 17:47:50.78 ID:oqn5ogSk - >>516
じゃ、君は日蓮仏法や創価学会の思想や理念をどれだけ学んで知ってるのかな? 所詮、ネットの知識だけだろ。 >そんなところに、創価の宗教としての浅さ... じゃ逆に聞くけど、君は創価以外でどの宗教がベストだと思ってんの? まさか「幸福の科学」とか言うんじゃないだろうね?(笑 >病と死をどう扱うかという哲学 まさに、日蓮仏法だろ。
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519 :桃太郎[]:2019/11/01(金) 17:56:44.90 ID:oqn5ogSk - 「日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく人の寿命は無常なり、出る気は入る気を待つ事なし・風の前の露尚譬えにあらず、
かしこきもはかなきも老いたるも若きも定め無き習いなり、されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて —- 」(同)と。 <通解> 〈日蓮は幼少の時から仏法を学んできたが、念願したことなのだが「人の寿命は無常である。出る息は入る息を待つことがない。 風の前の露は譬えもなお及ばない。賢い者も愚かな者も、老いた者も若い者も、いつどうなるか分からないのが世の常である。 それゆえ、まず臨終のことを習って、後に他のことを習おう」と思って —- 〉 「臨終」とは、「山頂」に譬えられるかもしれない。人生という山登りを終えた、その地点から振り返って、はじめて自分の一生が見渡せる。 自分は、この一生で何をしたのか。何を残したのか。どれだけの善をなしたのか。悪をなしたか。人に親切にしたのか。人を傷つけたのか。どちらが多かったのか。 自分にとって、一体何が一番、大切だったのか —- それらが痛切に、いな嵐のような激しさで胸に迫ってくる。それが「臨終」の一側面かもしれない。 法華経の智慧より抜粋
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520 :桃太郎[]:2019/11/01(金) 18:08:14.63 ID:oqn5ogSk - >>518
なに上から目線で偉そうな事いってんだろうね。 「こうした魯迅先生の論争の渦中で、ある雑誌の一派から、「もう論争は止めろ」という声があがった。 「青年を指導する立場にありながら、互いに罵りあいをつづけるならば、劣悪な社会が出現するだろう」こう、もっともらしく言うのである。 だが事の真実は、その一派が、仲裁を装って、魯迅先生を口封じしょうとしたわけである。」 よくよく読んで下さい。 極悪日顯宗は、叩き潰すまで容赦はしないよ。 日蓮大聖人の御聖訓に曰く 「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし。 (中略)謗法を責めずして成仏を願はば、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなしはかなし」 ろくに御書も読んでいない君には理解出来ないかもしれんが。 ちゃんと信心すれば分かる。 凡夫ゆえに多少感情的にもなるが、結果として謗法を責めることは相手を救う事になる。 君にはその理屈がまだ分からないと思う。
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