- 【覚醒】2世3世が学会のおかしさに気がついたこと95
607 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2019/09/06(金) 06:51:53.16 ID:9a6+tKdJ - 日蓮は悟ってないし、悟りを理解していないよ。
日蓮が悟っていると自分自身を思い込んでいたり、周囲もそう思うならそれは誤解。 そもそも悟りに深いも浅いもない。 大局から見れば全ては一つの生命であり、部分から見れば全ては多数の生命に映る。 大局から見れば主体のみであり世界はない。 あらゆる多様という幻想を生み出す一つのポテンシャルがあるのみ。 その多様幻想の部分的局面から見れば、主体とは分離した対象という客観世界があるように見える。 我々は、自分を総体とは分離した個別の自我と思い込む。 それゆえに、自身を独立した人間だと思い込む。 これが輪廻や悲惨の始まり。 なぜなら、自分を肉体と同一化するために、肉体の束縛に縛られて生きなければならないから。 これが、自分を独立存在と思い込むことの代償であり、元々悟っているのに悟りを求めなければいけない人間が誕生するパラドックス。 悟りとは、自分が元々総体であることを思い出すこと。 輪廻や肉体は、人間という分離存在を作り出す錯覚発生装置であったことに気づくこと。 しかし、人間は悟りを得るためにアベコベの方向を求めてしまう。 仏界を得るためとか言って、心身的な努力を始める。 信心しなければ、ご利益を得なければ、祈らなければ、勝たなければ、一人立たなければ、成果を出さなければ、布教しなければ、新聞を啓蒙しなければ、投票を依頼しなければ・・・・
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608 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2019/09/06(金) 07:03:42.65 ID:9a6+tKdJ - 何かをしなければいけないことや、何にならなければいけないことなど何もない。
元々我々が総体であれば、努力することなど何もないし、努力が出来ない。 全ては諸行無常に勝手にあるがままに生じる。 それは、大局から見れば大河のような一者の無限の生命の流出であり、部分から見れば抗わなければならない流れの多様な波という格闘対象に映る。 我々は、そもそも、波であり、流れであり、その流れを生み出す源流であり、また、その一連の全てであり、その全の事象という幻想を生み出す一者。 肉体は、この一者にフォーカスを当てることが出来ない。 肉体がフォーカスを当てることが出来るのはもっとも可視化が可能な荒いエネルギーである波だけだ。 よって、肉体に執着している者は波しか感知することが出来ずに、波頭という個別の人間の人生と格闘を始める。 そしてカルト宗教やカルト教祖は、この格闘を信仰の勝利や宿命転換等と呼ぶ。 我々がフォーカスすべきは、総体。 あらゆる流れの全体。 そこに辿るべき流れの源は無い。 源もまた無常であり、幻想。
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609 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2019/09/06(金) 07:21:21.24 ID:9a6+tKdJ - 我々は努力が出来ない。
元々我々が総体であれば何を努力するのであろうか。 ただ、それはものの見方の問題。 我々は価値判断を行う。 あれは赤、あれは青、あれは高い、あれは低い、あれは正しい、あれは間違い。 これが、本来まっさらな流れの総体に波頭という多様を生み出す根本原因。 価値判断を行わなければ、全ては流れそのもの。 そこに正義や悪や宇宙のリズムなど存在しない。 それは光そのもの。 赤や青は、光のスペクトルを分割させてそのスペクトルを特定の認識機関を通すとそれが分割して存在してるように感じるだけ。 価値判断や価値創造も同じこと。 価値判断や価値創造は、ただの光に優劣や正邪を持ち込んで、光を様々な色に分割し、どの色が悪でどの色が正義だと決めつけているようなもの。 様々な色は、一者内に可能性の形で全て存在している。 我々は光の子だ。 光はその性質として無限に輝く。 その光を遮ったり、曲げたり、視覚を通したりすると、多様な色や暗闇が生じる。 価値判断が、それらの多様を実在と勘違いし、それゆえに多様を分割と受け取った人間世界を作り出す。 我々が悟りの努力をすることがあるならば、価値判断、価値創造を捨てること。 価値判断が、無限に無常の流れに、波頭という分割を生み出す原因であったことを自覚すること。 そして、元々は一つの流れであるはずの波頭どうしに正邪や優劣のレッテルはりを行って、争いを生み出していたことを知ること。 肉体生存に基づく価値判断が無常の流れに色や波頭という分割や固形を実在化し、それゆえに肉体に基づく生存競争を正当化してしまう。
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610 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2019/09/06(金) 07:29:30.35 ID:9a6+tKdJ - 肉体に基づくあらゆる価値判断の放棄。
それが、自分は他とは分離している個人だという幻想の雲を徐々に払ってくれる。 光そのものである我々は、自分が光る努力は出来ない。 ただ、自分を覆い隠す分別という雲は払うことが出来る。 肉体の制限された視野という分別を捨てるための方法、それは様々な宗教が様々なメソッドとして編み出してきた。 自分にあった方法を選ぶのが好ましい。 その方法に浅深や高低はない。 宗教の浅深や高低を説くものがあれば、それは分別に囚われ、光を見ずに色のみに囚われている宗教。
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