- 日蓮ってver.45
863 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2018/11/25(日) 08:29:23.22 ID:q2wApsTd - 先週、吾妻鑑が…とかで、思わず年表見てみたら、
安国論を幕府に提出した文応元年には、こんな一行が。 1260年正元二年(四月から文応元年)3月25日 ・・陰陽道の輩、勘文を和泉前司行方に付す。 安国論を「勘文」と称してるけど、これはもともと、 平安時代の朝廷が安倍晴明みたいな陰陽師に 御下問をして、この世の在り方を吉凶占いさせて、 その結果を上奏させるわりと格式ばったものなんだけど、 吾妻鑑の一行見ただけで、安国論が鎌倉当時の 「勘文」としての形式を間違えているのがわかる。 1. 提出先の和泉前司行方は、将軍付きの雑事奉行なんで、 勘文は、鎌倉将軍に提出するものだとわかる。 2. 勘文を提出する身分は、陰陽師である。 3. この時期の将軍は、実質京都の公家を呼び寄せていて、 眉毛を剃って、お歯黒を塗った肖像画がある。 勘文は朝廷の風習なので、武士社会の間では、 上奏文はもっと簡易な呼び方をされる。 4. 上奏文を将軍ではなく、影の実力者である しかも引退して身分のない、元執権に提出するならば、 勘文という格式は必要なく、上申書で足りるはず。 ※※格式ぶって世間をダマす、余計なことをしてる感じで、 でも、ディテールの詰めが甘くて嘘がバレバレ…。
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