トップページ > 創価・公明 > 2018年08月31日 > GZbNvvAs

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名字の碧言
【寸哲】シャーリー・プトラの寸哲

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【寸哲】シャーリー・プトラの寸哲
51 :名字の碧言[]:2018/08/31(金) 13:51:49.42 ID:GZbNvvAs
現在では稀にしか見られない「嗜眠性脳炎」という意識障害に苦しむ人達がいた。
映画「レナードの朝」を思い出す人もいるだろう。コレは実話でオリバー・サックス医師のドキュメンタリーがTVで放送された。
そこに映される当時の8mmには意識を失った(眠り続けている)患者たちが車椅子に明後日の方を向いて座っている。
サックス医師が彼らにボールを投げる。嗜眠性脳炎の患者は何としっかりとボールをキャッチする。
あの映画の描写が事実であった事に視聴者は驚いた。フィクションとしてのシークエンスだと思っていたからだ。
「体を動かす意思」は「ボールの意思」なのだとサックス医師は哲学的な言葉を残した。多くの人は理解出来なかった。
私達は「言葉の意味」や「言葉の力」への考察から身を自ら隔てる事に慣らされ過ぎてしまった。
ソシュールやチョムスキーやデリダなどによって、「言葉」は私達に時に近づき、時に離れる物になってしまった。
いや、それは以前から存在していた。唯それに気づかされただけだ。アインシュタインが生まれる以前からE=mc2の数式が宇宙に存在したように。
音声言語、文字言語、視覚言語など広義に考えると、「ボールの存在」と「投げるという行為」も言葉の一形態である。
サックス医師は言う「行動の自由意思と思考の自由意思は別物である」
「言葉」は友を励ますアイテムにもなりはするが、意図せず「友の心を殺す凶器」にもなり兼ねない。
「善かれと思って行動したのに、想定外の結果になり失敗し後悔する事」は誰でも経験したであろう。
「善きサマリア人の喩え」を否定は出来ない。しかし誰もがその「想定外という不可知性」の前で悩む。それは過去の客観的事実として悩む。
友の為に法華経を説いて寄り添うにしても、まず自分が法華経の中に釈尊の「唯識」を読み込こめなければならない。
咀嚼出来なければならない。「自身の言葉に還元」出来なければならない。
友を励まし、動かす「言葉」は、このようにして力を付けていく。
そえれが蘇生への大いなる「現実」となる。


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