- 【覚醒】2世3世が学会のおかしさに気がついたこと78
842 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/08/14(火) 06:37:34.87 ID:s72IAqP/ - 創価学会の集団ストーカー被害を訴える者が、このスレにストーカー行為を繰り返し、加害者になっている矛盾。
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142 :ニサルガダッタ[]:2018/08/14(火) 11:33:42.23 ID:s72IAqP/ - >>141
ご質問ありがとうございます。 相手に媚びず、率直に疑問や意見をぶつけて来るところがいいですね。 まぁ、私も妥協する気はありませんが。 また、自分がわからない部分ははっきりと分からないと申し上げます。 神や仏の可能性というのは無限であり、それゆえに神や仏から生じる想念は無限であり、その想念から生じる生命現象は無限であり、生命現象から生じる物理的事象も無限であり、人間はそういった無限の可能性の中で無限の営みを創造しています。 無限なる神や仏の有限に見える分身として。 ノンデュアリティは基本的なことだとは見なしていますが、ノンデュアリティ理論を使って説明できる部分や範囲にはどうしても制限が生じてしまいます。 それゆえに、更なる多角的なものの見方や説明が複数必要になります。 それを試みるつもりでいます。 日中は時間をとりづらいので、待っていただければ夜に具体的に説明したいと考えています。 お付き合いいただければ、日を分けて回答できたらと思います。 まぁ、人間は最終的に苦しむことは出来なくなるというか、神や仏の本質は至福なんで、神や仏に復帰するほど至福に至らざるを得ないんです。 失敗や努力とは、分離世界にのみ生じる特徴です。 こういった分離という幻想上に生じる人生ゲームを、神のリーラというヒンズー教の概念を使って説明を試みる予定です。 苦しみから逃れようとするあらゆる努力は、神や仏の忘却から生じています。 このような努力から生じる一時的な成功に伴う喜びは、楽しめるものではありますが、恒久的なものではありません。 一時的な喜びを楽しむのもよし、一時的な喜びの繰り返しに空しさを感じて苦しむのもよし。 一時的な喜びに空しさを感じてその繰り返しの苦しさに耐えられなくなると、人間は外的事象から得られる満足を棄てて本当の自分の探求を始めます。
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143 :ニサルガダッタ[]:2018/08/14(火) 11:47:55.15 ID:s72IAqP/ - なんか創価ネタから離れつつある内容にになってしまうので、次から強引に創価ネタを混ぜて説明するようにします。
創価を批判することは好きではありませんが、というのは、あらゆる現象は幻なんで批判する対象も存在しない。 まぁ、創価学会は宗教の中で、最も幻想に囚われている宗教という切り口での批判になると思います。
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147 :ニサルガダッタ[]:2018/08/14(火) 16:40:42.29 ID:s72IAqP/ - >>146
神との対話をお読みですか。 今晩お話ししたいと思っている内容は、神との対話に出てくる話と似ています。 一巻だったかな。 人間の人生を、CD-ROMゲームに例える話が出てきます。 私は、そのゲーム理論に私なりの価値観を肉付けしようと思っています。 神との対話では、神が人間を作った理由は、「神という一体性では経験できない怒り悲しみ、高い低いなどのあらゆる相対経験を、人間を通じて経験するため」としています。 私はここに異議があります。 その異議の内容など、おいおい明らかにしたいと思います。
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150 :ニサルガダッタ[]:2018/08/14(火) 20:19:38.10 ID:s72IAqP/ - 私が書くことは絶対ではありませんし、正しいとも思っていません。
人に〜〜べきという押し付けるものではありません。 人は、何を思おうが何をしようが勝手だと思っています。 私は書き貯めなどせずその場で思い付いたことを書いていくタイプなので、文章がまとまっていなかったり、途中で止まってしまうかもしれません。 私は、この世の原理だと思うことを書いていきます。 この原理は、人をこの世という幻想の夢から醒ます原理だと思っています。 常住である神や仏は創造を望んだ。 なぜなら、神や仏の特徴は己自身を経験することだから。 神や仏はそのままで完璧、それゆえ愛であり調和であり無制限。 それゆえに、神や仏が自身を経験することは栄光を経験することになる。 しかし、神や仏はそのままでは経験が出来ない。 神や仏とは姿や形を持たず、ただ気づいている無限の可能性。 神や仏は、自分を経験するために、この気付きを己から解放して拡張する必要があった。 そして、無制限の可能性を有する神や仏は、自己の拡張を試み、自分を入れる器を無数に無限に創造した。 その神の器が、神に似せて作られた無数の物質や生命。 生命は拡張を続け、その一部として人間が生じ、人間は神や仏の分身として気付きという意識を有し、産めや増やせという神や仏の拡張という特徴を受け継いだ。 人間は神の気付きを体現する生き物。 しかし、肉体を身に纏うとその事実を忘れてしまう。 神や仏というのは、極めて細かい微粒子というか繊細な表現というか、大本であるゆえに、あらゆる可能性が凝縮されている。 神や仏はこの可能性の凝縮を解放するんだけど、解放されて拡張されれば、その凝縮は広がって行くにしたがって粒子は荒くなる。 散弾銃の弾は、発射直前は塊だけど、発射直後から弾が無数に散らばって弾が四方に荒く広がってゆくと表現すればいいだろうか。
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151 :ニサルガダッタ[]:2018/08/14(火) 20:41:44.74 ID:s72IAqP/ - 人間は神や仏と同じ性質を持ち、神や仏が人間という器を通して気付いているんだが、人間の無数の生命は散弾銃の弾のように広がりすぎて、神の性質が薄くなって、私はバラバラの断片、つまり個人的生き物だと思い込むようになる。
こっから人間は自分は神の子だというこという意識が極限まで弱まり、個人としての生の冒険が始まる。 この個人としての冒険には常に次のような心理が付きまとっている「神は我を見捨てた」あるいは「我は神の元から離れた」。 これが人間の原罪の意識を作り出す。「我は神から捨てられた」あるいは「我は神の元から離れた」だから自分は駄目で救われなければいけないという根本的な罪悪感、あるいは神への敵意を。 しかし、これは事実ではない。 神の記憶が薄くなっただけで、神は人間という器に常駐して、常に気づき続けて自分である人間を通して常に自分自身を経験している。 しかし、人間はそんなことには気づかない。 神から見捨てられ分離したんだったら、人間という独立存在として逞しく生きていかねばならない。 それゆえに闘争が始まる。 生きていくためには弱肉強食が必要だ。 人生なんて一度きりだ。 あるいは生まれ変わるかもしれないが、生まれ変わるんだったらとにかくカルマを作らないように良いことをしなければ駄目だ。 こんな感じで、人間は獲得という利益を得て、勝ち残るために勝負に勝つという、生存本能に根差した生き物になっていく。 この独立的な生き方が、神や仏と同一という意識から完全に離れた分離意識、つまり自我を誕生させた。 人間は、ここから自我を発達させて生きていくことを主眼とするようになる。
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152 :ニサルガダッタ[]:2018/08/14(火) 21:10:11.85 ID:s72IAqP/ - 人間は自我を発達させながらも神の性質を受け継いでいるので、自我の発達様相は自ずと神の性質と似たものになる。
それゆえに、人間は神と同様の栄光を望んで自我を拡張・拡大させていく。 これが、人間の自我による征服欲や名誉欲。 そして、征服や名誉の頂点を極めれば、自分は神のような偉大な存在になれると自我は勘違いしている。 これらの記述内容は人間と人間の自我におけるごくありふれた光景。 なのでこれだけでは当たり前で面白くない。 ノンデュアリティ的に表現するには目先を変える必要がある。 ちょっと目先を変えて、これから神と人との関係や人間の人生をゲームに例えていきます。 人間は神や仏と全く同じ性質を持っているので、自ずと好きなものも同じです。 神や仏が好きなものはゲーム。 なぜなら、ゲームとは己の栄光を経験するために格好の形態だからです。 不謹慎に感じるでしょうが、この世とは神が作り出したゲームといっても過言ではない。 神が自身の栄光を知るためには、一人では知ることが出来ません。ロールプレイやそのロールプレイをするためのフィールドが必要になります。 なので自ずと、神はロールプレイを生じさせるための要員として自身を人間として分割したり、宇宙というフィールドを創る必要がありました。 実は、人間もこれと同じことをしています。 人間はゲーム好きです。スポーツゲーム、コンピューターゲーム、マネーゲーム等々。 人間は、ロールプレイを通して栄光を得る為に頂点を目指します。 ここではノンデュアリティの説明を容易にするために、コンピューターゲームに絞って説明を進めます。
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153 :ニサルガダッタ[]:2018/08/14(火) 21:44:29.43 ID:s72IAqP/ - 人間は自分を拡張したがります。
神が、人間を通して無数の生命に己を拡張したように。 人間は、普段の生活において自己を表現するという拡張では満足できず、様々な自己表現の場を求めます。 舞台、演劇、カラオケ等々。 その中でも最も世に普及して、人間が深くはまってしまうのがコンピューターゲーム。 なぜなら、コンピューターゲームは旧来のゲームと違って人間のイマジネーションを様々に深く表現することを可能にするからです。 それゆえに、神の子人間が作り出したコンピューターゲームは、神が作り出したこの世における輪廻転生というゲームにかなり内容が酷似したものになります。 神のゲームの目的は、自己の栄光を経験・拡張するため。 人間の作ったコンピューターゲームは、人間が日常では味わえない様々な興奮や体験をさせる。 そのために人間は、ゲーム中に様々な登場人物や物語やアイテムを作り出します。 ゲームでありながら、現実世界と何ら変わらないか現実以上のリアルな世界やリアルな活動の場が画面上に登場します。 人間は、コンピューターゲームのスタートボタンを押します。 そうすると、人間は普段の生活の誰々ではなくなり、ゲーム上のキャラクターに自己を同一化します。 つまりコンピューターゲーム世界では、ゲームプレイヤーはゲームのキャラクターと同化し、キャラクターを自分の思い通りに動かす神になるわけです。
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155 :ニサルガダッタ[]:2018/08/14(火) 22:14:25.36 ID:s72IAqP/ - 人間は、コンピューターゲームのキャラクターに自己を同一化します。
そして、自分はどこどこの誰々という地上における個人情報を忘却し、ゲームの世界に没入していきます。 そうして人間は、ゲーム上のキャラクターに自己同一化して、ゲームの進行に呼応して泣いたり笑ったり怒ったりします。 それらは全て、画面上の電磁気的変化にしか過ぎないにも関わらず。 地上で生じていることも同じことです。 地上の全ての物質、生命は神の電磁気的変体と呼べるようなもの。 神の意志が映写機の光として、映画のスクリーンに投影されているようなものです。 我々神の子は、神の光でできたスクリーン上の映像をリアルと勘違いして自己同一化して映画を現実と勘違いしているに過ぎません。 コンピューターゲーム上では、キャラクターが殺されることがあります。 でも、キャラクターを動かしているあなたは死にません。死ねません。 なぜなら、あなたは本当はキャラクターではないからです。 あえて、自分はゲーム上のキャラクターだと思い込んでいただけでした。 コンピューターゲームでは笑えるお話ですが、地上では笑えません。 誰もが自分を自分自身だと思い込んでいるからです。 これが、悟りという本当の自分に目覚める体験を、極めて少数しか成し遂げられない理由です。 コンピューターゲームは中々やめられない。 コンピューターゲームの中で、キャラクターは育って生きます。 ゲームプレイヤーはゲームキャラクターに自分を同一化させて、キャラクターを自己として自己の好みに作り上げていきます。
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158 :ニサルガダッタ[]:2018/08/14(火) 22:37:25.03 ID:s72IAqP/ - そのお好みのキャラクターがゲーム上で死んでも、キャラクターへの愛着からプレイヤーは諦められない。
プレイヤーは、死んだキャラクターを再度蘇らせたり、また、キャラクターを替えてそのゲームをクリア出来るまで敗者復活的に何度もゲームを繰り返します。 この、キャラクターが死んでもキャラクターを蘇らせるゲームの繰り返しや、別のキャラクターに替えて再度ゲームを繰り返すのは地上における輪廻転生に似ています。 輪廻転生とは、元々避けられない因果の法則というよりも、人間が繰り返し生きることを望んであえて自分達で再度生まれ変わることを選択している法則と言えます。 この輪廻転生の繰り返しは、仏教では六道輪廻と呼ばれて嫌われています。 クリア出来ないコンピューターゲームの繰り返しのような、永遠の終わりなき苦しみだからです。 この六道輪廻から逃れるにはどうしたらいいか? その為に、各宗教はゲーム内においてゲームのクリアを目指します。 ゲームのクリアの為に、正しい教義を学んでゲーム内で正しく生きる。 ゲームのクリアの為に、ゲーム内の悪をやっつける。 ゲームのクリアの為に、ゲーム内に平和世界を築く。 全て違う。 これらは、全て自分が神や仏自身だということを忘れていることから生じている喜劇。 自分がゲームのキャラクターだと思い込んでいる間は、プレイヤー自身は現れない。 自分はゲームのキャラクターだという勘違いが消えれば、ゲームプレイヤーが現れます。 神や仏は、あなたが人間だという思い込みが消えたときに現れることができる。
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159 :ニサルガダッタ[]:2018/08/14(火) 23:00:47.65 ID:s72IAqP/ - 神や仏が我々に現れない原因というのは二元です。
二元とは、主体と客体。 こことあそこ、私とあなた、見る者と見られるもの。 この二元とは、意識が生じさせているものです。 本当は神しかいません、仏しかいません、あなたしかいません。 そこに意識が生じると対象が現れます。 意識しなければ対象はない。 意識とは、自分とは別のものを探しだそうとする目的を持った方向性。 意識が何かを捉えると、それは対象となり、自分とは別のものとしてリアル化されます。 この意識行為の繰り返しとは、自己を個人として認識している人間の通常行動。 この意識行為の絶え間ない繰り返しが、無限に様々な対象を作り出して、自分とそれ以外を分割し続けます。 これが、宇宙や地球という自分と離れた対象世界が登場しているように見える理由です。 世界は自分が作り出しています。 コンピューター画面上にゲームを映し出してプレイしているように。 世界とは主観的対象です。 あなたが意識した対象は事実となり、あなたが意識しないものは対象化されない。 だから、あなたが意識しないものはこの世に存在しないことになります。 あなたが意識したものだけ、この世に存在します。 あなたは世界と呼ばれる場で不思議がります。 何で努力しているのに、世界は変わらないのだ? 何で努力しているのに、世界は平和にならないのだ? 何で努力しているのに、自分は悟らないのだ?
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160 :ニサルガダッタ[]:2018/08/14(火) 23:27:02.84 ID:s72IAqP/ - あなたの思いが強ければ、対象が変化することもあります。
なぜなら、意識とは光のようなもので、光の強さにより対象の見え方、現れ方が変わるからです。 これらの対象を変化させる試みは、宗教であれば「依正不二」といった教義で表現されます。 一時的に意識を変えれば、対象は変化します。 しかし、根本的な解決ではありません。 根本的な解決とは、ゲームのキャラクターから、ゲームプレイヤーである本当の自分に復帰すること。 ゲームという対象そのものを消すこと。 根本的な解決とは、ゲームを工夫して上手くクリアすることではありません。 悟りとは、意識という対象作成行為、つまり、二元作成行為をやめることです。 それは、意識をしっかりと見つめ、意識の働きを止めることです。 そうすると、主体と客体という分離は終わります。 つまり、主体のみになり対象は消え去ります。 厳密には対象は残り続けますが、対象は蜃気楼のような幻想としてしか感じなくなります。 見る者と見られるものは、見られるものが消えて見る者のみになります。 この事は、言い換えれば純粋な気づきになることです。 神や仏の本質とは、対象を持たない気付きです。 人間が、意識を止めて対象を作り出すことをやめると、気づきのみになります。 人間は、自分意思を持たない、神の気付きを受け止める器であったことにこの瞬間になってやっと気づきます。 ゲームのキャラクターは、ゲーム画面という幻想の世界から消えました。 そして、ゲームそのものも全て消えて、ゲームプレイヤーのみが現れました。 そしてあなたは、あらゆるゲームを生み出していた創造主に復帰しました。
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162 :ニサルガダッタ[]:2018/08/14(火) 23:59:57.77 ID:s72IAqP/ - >>154
死後も生前もありません。 基本的に、神や仏は生まれもしないし死んだこともない常住だから。 人間による輪廻転生というのは、あるように見えて実はありません。 人間が肉体を離れて死んだように見えるだけで、新たな肉体に生まれ変わったように見えるだけ。 生命は生まれず死なず、魂は耐用年数の限られた肉体という乗り物を乗り変えているだけ。 ただ、ここでは輪廻転生という幻想をリアルと勘違いしてあるものとして考えます。 生前は、今度はどんな乗り物(肉体)に乗ろうか、どんなお母さんから生まれようか思案しています。 それらはソウルグループという仲のいい魂間で最善なパターンを協力しあって決めることが多いようです。 死後は、光の存在、あるいは阿弥陀仏のような位の高いというか、人間よりも神に近いというか、エネルギーレベルが高い存在に迎え入れられ、地球時代に疲労した心を光で洗い流してもらい、地球時代に経験した対人関係を軸に、己の人生を再体験します。 その再体験とは、己の振る舞いを人間間の縁起において相手の立場から体験するというもので、己の人生を自分の立場からではなく、接した全ての人の立場から体験するという、人生をあらゆる角度から総括します。 これらの生前、死後の儀式から察するに、人間とは何かを体験しようとする生き物ではなく、何かを知ろうとする生き物といった方が正確なような気がします。 その何を知るとは、本当の自分自身。 人生体験とは、己を知るための手段。 そして、己を本当に知る結果とは、自分とは神自身。 神は己の無限なあらゆる可能性を知りたがり、あらゆる可能性を試されています。 自分の分身である人間を、己を経験するための器として利用されています。 そして人間は新たな己を知るというこの上ない共同作業を、神と共に続けます。 こっからは推測にすぎませんが、その結果、地球における輪廻の繰り返しにおいて、魂的に一定レベルを経験し、それゆえに最早地球経験を必要としなくなるレベルに達すると、解脱という輪廻の鎖からの解放行為が起こると思っています。
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