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名無しさん@お腹いっぱい。
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創価三世だけど質問ある?
靖国神社のみたま祭りに、創価学会が提灯を奉納?
公文書の偽造と本尊の偽造

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帰ってきた築山 [無断転載禁止]©2ch.net
466 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/31(火) 18:07:49.38 ID:EtQ4Xqdt
日蓮正宗大石寺59世法主であった堀日亨自身が、「日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない」
と断言しているのである。

堀日亨は、自らの著書「富士日興上人詳伝」において、
次のようなことを書いている。
「すでに原殿抄(原殿御返事のこと)の末文にあるごとく、
延山(身延山久遠寺のこと)の常住物は何一つ持ち出していない。
涅槃経の中の二巻を御使用のまま持ち出されたので、
十二月十六日に返還せられてあるくらいで、
したがって日尊実録の中にも『身延沢御退出の刻、公方、聖教、世事雑具等、
皆悉く御墓所に之を置くべきの由、衆徒に触れられし時、面々供奉の人々、
一紙半銭も持ち出ることなし』と書いておる。とうぜんのことである」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書「富士日興上人詳伝」p280〜281より)

つまり、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は、「日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない」と、自ら断言しているのである。

そして「日尊実録」の文の意味も、まさにこの意味であり、とうぜんのことである、とまで言い切っているのである。

にもかかわらず、日蓮正宗や創価学会は、信者に「日興は身延離山の時に、すべての重宝を持ち出した」と教えている。そういうことにでもしないと、
日興が日蓮の遺骨やら「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を持ち出したことの説明ができなくなってしまう。
しかし、堀日亨が言うように、「日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない」ということになると、
大石寺にある「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊も、日蓮の遺骨も、御肉牙も、最初仏も、なにもかもニセモノということになる。
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469 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/31(火) 20:22:27.59 ID:EtQ4Xqdt
偽物同士の争いだからw 日蓮正宗と創価はww

大石寺の大御本尊が偽物・贋作と知っていたのは堀日亨法主
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470 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/31(火) 20:24:11.98 ID:EtQ4Xqdt
大石寺59世堀日亨が、1922(大正11)年12月20日に出した「熱原法難史」という著書の中で

「然れば当時何事か宗祖(日蓮)の本懐満足と云ふ史実が有ったらうかと考えてみると、
先師が曾て直に此文(『聖人御難事』の『余は二十七年なり』の文のこと)を以て
戒壇本尊顕彰の依文と為れたやうだが、直接の文便は無いやうである」

(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書『熱原法難史』p72)

と、述べていることと軌を一にしている。 「余は二十七年なり」の文が、
「戒壇の大御本尊」なる板本尊が熱原法難のときに造立された証拠であるとする説は、
日蓮正宗大石寺の法主自らがかつては否定していたことなのである。
そういう人物が「戒壇の大御本尊」なる板本尊と「聖人御難事」の文について「直接の文便は無い」と言っているのを、
日蓮正宗はどう説明するのか。 
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471 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/31(火) 20:27:10.78 ID:EtQ4Xqdt
本門戒壇の大御本尊は、黒漆を塗り金箔を張った御本尊だが
この脇書だけは金箔加工していない。
次に戒壇の大御本尊の写真は2枚だけ公開されているが
2枚とも脇書が墨で黒くぬり潰してある。
なにか知られられると都合の悪いことでもあるのだろうか?
実は、本尊の筆跡とは脇書の筆跡は違うということである。
この点について日達は「日蓮大聖人と日興上人の合作である」と説明したという。
鑑定してみればわかることだが、日蓮正宗はさせないのだ。

日蓮正宗は、熱原の法難を縁として弘安2年10月12日
大聖人が大御本尊を建立あそばされたと教える(法華講員の基礎知識)
しかし弘安2年10月12日、神四郎達はまだ生きていた。
「神四郎等兄弟3人の斬首及び17名の追放は、
弘安3年4月8日と定めるのが当然」(第59世日亨・富士日興上人詳伝)
に見られる通りである。これは動かしがたい事実であり
日連正宗でも創価学会でも疑うものはいない。知らないの信者だけである。
冒頭の基礎知識では、ほとんどの信者は「神四郎達が処刑されたのを見て、
大聖人が戒壇の大御本尊を書示した」と受けとる。
事実ほとんどの信者は、そう信じている。
なぜ日蓮正宗は、このような作為的作文するのだろうか?

なお『富士日興上人詳伝』には、
神四郎等兄弟三人の斬首および他の十七人の追放は、弘安三年四月八日と定むるのが当然であらねばならぬことを主張する。(同書九一頁)
とあり、日亨上人は弘安三年四月としている。
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472 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/31(火) 20:28:18.38 ID:EtQ4Xqdt
日蓮正宗要義 再読。

ここでは「頼綱は十月十五日、遂に指導者と目された
神四郎、弥五郎、弥六郎び三人の首を切る」(P202)と記されています。
斬首は戒壇之漫荼羅の日付の3日前(因師の記述では2日前となる)であることを暗に認めています。

この本の記述で滑稽なのは「大聖人の大曼荼羅本尊…一には・個人の
場合はほとんどの本尊に受者の名前が書かれている。
二には特別な意義と目的の下に顕されるか、またその時々の境地より
顕発される本尊で授与書が示されていない…本門戒壇の大御本尊は唯一究竟の大目的の下に“大聖人境界中の弥四郎国重の願いによって顕され”」(P205)たというのです。

何を混乱しているのかわかりませんが、特別な意義を目的の下に顕された
漫荼羅は受者の名はがないけれど、唯一究竟の大目的の下に顕されると弥四郎国重の名前が書かれ、さらに本門戒壇とも書かれるというのは一体全体、何を言っているのでしょうか。

ここで注視すべきは日精・日量が波木井嫡男とし、それを翻して、
昭和31年布教会として日達が神四郎とした弥四郎国重は、
今度は「大聖人境界中」の人物とされてしまっている点です。
境界中の人物と言うことは実在の人物ではないと言う意味になるでしょうか。
よくまあ、コロコロ変わるものであると呆れます。

こんな文章を要義などと言って読まされ、疑うことを否定された
法華講信者は実に気の毒であると思うばかりです。

戒壇之漫荼羅に「仏滅後二千二百廿余年等と云云、御端書、
右為現当二世造立如件、本門戒壇之、願主弥四郎国重敬白、法華講衆当、
弘安二年十月十三日」と書いたのは“日蓮正宗大石寺第31世日因上人”であるわけです。いまでいう「御法主上人猊下様」の記述であるわけです。
その弥四郎国重が、日蓮境界中の人物…言葉を換えれば架空の人物…なので、
受者の名でもないも同様と言っているのか、あまりの迷文に意味が取れません。

10月15日の斬首によって10月12日(13日)に本門戒壇の大御本尊を建立という矛盾を慌ててもみ消した狼狽が今度は「弥四郎国重は架空の人物、名前は書かれていないも同様」と記すことになったのかと揶揄の一つも投げつけたくなります。
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473 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/31(火) 20:29:01.05 ID:EtQ4Xqdt
布教師会代表大石寺法主六十六世の細井日達は「板本尊は日蓮と日興の合作である」と、とぼけて逃げをうっているが、
日興上人は弘安二年十月十二日には身延にはいなかった。
日蓮聖人は弘安二年十月十二日「伯者殿等御返事」に、熱原方面で活躍している日興、日秀、日弁等に対して「熱原の法難」に
関する前後策をあれこれと指示しているのである。
弘安二年十月十二日という日は、板本尊の製作どころではなく、「熱原の法難」の対策に追われていた日であった。

法主細井日達は無視して「板本尊は日蓮と日興の合作である」と詭弁を弄しているが、「伯者殿等御返事」を読んだことがないのであろう。
 脇書に「本門戒壇願主弥四郎国重」とあるが、この「弥四郎国重」について、一生涯造仏読誦を繰り返した大石寺十七代日精は、
頭が狂っているのか「地頭は南部六郎光行の次男実長なり、その嫡子弥四郎国重と申す。是即本門戒壇の願主なり」と嘯いている。

日精は「弥四郎国重」は身延の地頭波木井実長の長男であるといっている。

波木井実長が日蓮の大檀那であることは、日蓮正宗の信者であれば知らない者はいない。日精は、この波木井実長を、さしおいて長男の「弥四郎国重」を「本門戒壇の願主」に筆先一本で仕立てあげたが、「弥四郎国重」なる人物は波木井実長の実子にはいない。
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474 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/31(火) 20:29:47.00 ID:EtQ4Xqdt
また日蓮聖人の遺文のどこにも、また日興の「弟子分帳」のどこにも見当たらない、造仏読誦日精の空想の長男なのである。

細井日達は、これでは困るので「弥四郎国重は神四郎のことである」と、老人ぼけなのか奇妙なことをいいだしたのである。

達氏は「弥四郎国重」は、熱原の法難の所謂三烈士(神四郎、弥五郎、弥六郎という百姓の三兄弟)の神四郎のことであると。

また、「大聖人は『熱原の法難』の時、百姓達の不退転の姿に『御感あって』板本尊を建立した」といっているが、
「熱原の法難」で百姓達の不退転の姿が日興上人から日蓮聖人に報告されたのは「聖人等御返事」
に弘安二年十月十七日のことである。

この五日前に板本尊を建立したという弘安二年十月十二日には、日蓮はまだ「御感あって」どころではない。
達氏のいう神四郎には弘安二年十月十二日の板本尊の願主となる時間的条件が成立なしに、
神四郎と「弥四郎国重」という異名を結びつける証拠はどこにあるのか!
何処にも無いのである。
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476 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/31(火) 20:31:34.62 ID:EtQ4Xqdt
大石寺の貫主が、本門寺の本堂に安置する本尊は万年救護本尊で、今は房州妙本寺にある、と記録している(是9)

 堀上人が編纂された富士宗学大全100巻(現在は宗門の富士学林の教科書「研究教学書30巻」にまとめられている)の中に、
17世日精が法主を降りてから書いた「家中抄」という長編の退席寺派とその周辺の歴史書がある。その書の
「富士門家中見聞稿本零編」(日精の1657年の花押入りの直筆文書。法主になったのは1632年なので25年後の文書)において、
広布の時に本門寺が建立されるとされているが、その本堂に安置する本尊について、

「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書き給うなり。日興が身に宛て給わる所等とは是
万年救護本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」
(通解:日興が身に宛てて給わられた日蓮一期の弘法とは、万年救護本尊のことであり、今は千葉の妙本寺にある。)

と記載されていて、これに誰かが二本線を引いて訂正を加えて、

「板本尊の事也、今当山に在る也」

と改竄している記録が残されているのです。
 しかも堀上人はこの個所に注釈を加えておられて、

「亨云板の字は精師に似たるも当山の二字は全く因師なり、又二所の消し方精師の例にあらず、
又師に万年救護の説あること年譜には弘安二年に懸とかけたり、常在寺には万年救護板本尊を本堂に安したり」
(通解:日亨が言うには、(書き加えられた「板本尊」の)板の字は、日精の字に似ているが、「当山」の二字は全く日因(31世)の字である。
また、二か所の消し方は日精の例には無い。また、日精には万年救護本尊が本門寺本堂に安置する本尊だとの主張があった。
日精が死ぬ数年前に書いた日蓮聖人年譜には弘安2年に(建立ではなく)懸けた、と書いているし、日精が住職をしていた常在寺には万年救護本尊の板本尊を本堂に安置していた。)

と、極めて緻密な分析をされています。要するに、堀上人はすべてを知っておられたのです
創価三世だけど質問ある?
31 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/31(火) 21:09:15.07 ID:EtQ4Xqdt
日蓮正宗法華講員が立てたスレw
靖国神社のみたま祭りに、創価学会が提灯を奉納?
26 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/31(火) 22:32:57.30 ID:EtQ4Xqdt
創価と日蓮正宗の違いなんてどうでもいいわw
一般人からしたらどっちもカルト教団なんだから、神社や伝統寺院には関わらないで
公文書の偽造と本尊の偽造
7 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/31(火) 22:42:47.28 ID:EtQ4Xqdt
大御本尊を作った日有


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